ロバートは、幸せな気分だった。 潮風が頬を撫で、髪を揺さぶっていく。規則的に打ち寄せる波が、砂浜を濡らしては後退し、また打ち寄せた。 目前に広がる海の水平線は、凪いでいた。白い雲の散らばっている空と海が、果てで溶けるように交わっている。 波打ち際で、幼女が波と戯れていた。薄紅色のワンピースの裾を翻し、歓声を上げて砂浜を駆け回っている。 くるりと回った幼女の背には、竜の翼が生えていた。肩辺りで切り揃えられた真っ直ぐな髪も、深い濃緑だった。 白く泡立った海水から逃げながら、幼女は笑みを浮かべていた。立ち止まって一回転し、父親へと振り返る。 「父上、母上! 海とは面白いのだな!」 フィフィリアンヌは舌足らずな声を上げ、砂を蹴り上げながら走る。足元はおぼつかなく、転んでしまいそうだ。 ロバートは妻に良く似た娘を目で追いながら、笑った。ここまで喜んでくれると、連れてきた方も嬉しくなる。 傍らには、簡素な服装のアンジェリーナが立っていた。白いワンピースの長い裾が、ふわりと風を孕んでいる。 長い緑髪が、しなやかに広がる。切り揃えられた前髪の間から覗く目は深紅で、瞳孔は爬虫類じみた縦長だった。 はしゃぎながら砂浜を駆けるフィフィリアンヌを目で追いながら、アンジェリーナは白い帽子の広い鍔を上げた。 「あの子、世間知らずの箱入りになっちゃってるものねぇ。喜ぶのも当然だわ」 「まるでお前みたいだな」 「なんでそうなるのよ」 嫌そうな顔をしたアンジェリーナに、ロバートはにっと笑った。 「だってそうだろ。オレと会うまで、ろくなこと知ってなかったじゃねぇか」 「あれはお父様の方針だったのよ。魔導を極めるには邪念となる他の情報を除せよ、ってのがね」 アンジェリーナは、ぷいっと顔を背けた。妻の整った横顔を見下ろし、ロバートは言う。 「にしたって、あれはひどいぞ。リンゴの皮ぐらい、オレでも剥けるってのに。ナイフ持たせたら、ずばずば手ぇ切るんだもんなぁ」 「やり方が解らなかったんだもの」 「今度からは、少しは練習しとけよ。フィフィリアンヌに喰わせる料理ぐらい、作れるようにならなきゃな」 「解ってるわよ、そのぐらい」 頭一つ背の高いロバートを上目に見、アンジェリーナは返した。竜族の赤い瞳が、ロバートの黒い瞳を見据えた。 遠くから、幼い娘の声が聞こえてくる。片手にサンダルを持ってもう一方の手でスカートを持ち、波と遊んでいた。 足に纏わり付く白い泡を蹴散らし、海に入っていく。膝まで海に浸かると、水の冷たさにちょっと目を丸くした。 だがすぐに、また駆け出した。水の中はかなり走りづらそうだったが、フィフィリアンヌは転ばずに走っていく。 ロバートはフィフィリアンヌを眺めながら、砂浜に座った。腰に提げた剣ががしゃりと鳴り、鞘の先が砂に埋まる。 彼は妻を見上げると、上から下まで入念に眺めた。アンジェリーナは、彼の目から逃れるように数歩後退する。 「に、似合わないって言いたいんでしょ! イケイケでギラギラな格好ばっかりしてる私が、いかにも清純ーって感じの格好するのは違和感まみれに決まってるもの!」 「いや」 ロバートは気恥ずかしげなアンジェリーナに、笑ってみせる。 「よく似合うぞ。元がいいから、余計にな」 「もっ、持ち上げたって何も出ないから!」 「出なくともいいさ。期待はしてねぇ。それよりも」 「なによぅ!」 赤面したアンジェリーナは、苛立ち混じりの声を張った。ロバートは、自分の隣を指す。 「いい加減、座ったらどうだ」 アンジェリーナは少し躊躇したが、スカートを押さえて座った。色素の薄い頬は、すっかり血色が良くなっていた。 照れ隠しに顔をしかめたアンジェリーナは、ロバートへ目を向ける。夫の横顔を見上げ、ぽつりと言った。 「後悔、してない?」 「何を」 ロバートが聞き返すと、アンジェリーナは途端に表情を曇らせた。 「色々とよ」 潮を含んだ風が、彼女の髪を散らした。手入れの行き届いた髪が広がり、下に隠れていた首が露わになる。 簡単に切り落とせてしまいそうなほど細く、白い喉は鎖骨に繋がっていた。ロバートは、思わず彼女に見入った。 髪の間から覗く耳は長く尖っていたが、飾りは付いていなかった。ばさり、と薄い背から生えた翼が折り畳まれる。 砂を握る彼女の手に、ロバートは己の手を乗せた。皮の厚い骨張った手に色白の手が隠され、軽く握られた。 アンジェリーナは、ロバートの胸に額を当てた。薄い唇が歪められ、その隙間からは鋭い牙が覗いている。 ロバートは、彼女をなだめるように肩を抱いた。アンジェリーナは奥歯を噛み締め、ぐしゃりと力一杯砂を掴んだ。 彼女の苦悩は、痛いほど解った。華奢な体を腕に納めてから、ロバートは遊び続ける愛娘に目をやった。 輝くような笑顔を振りまき、フィフィリアンヌは無邪気に遊んでいる。娘の心からの笑顔を見るのは、久々だった。 娘がロバートに向ける笑顔は、物悲しげなものばかりだった。その原因は、母親が、常に傍にいないせいだ。 フィフィリアンヌは、いつもロバートに問い掛けてくる。なぜ母は同じ家にいないのか、なぜ母に会えないのか。 ロバートは、その問いに答えられず、いつもはぐらかしていた。真実を言える覚悟が、出来ていなかったのだ。 父親が何も言わないから、娘の不安を増長させているとは知っている。だが、真実を知らせるには早すぎるのだ。 それにロバートは、フィフィリアンヌにはまだ何も言わないでいてくれ、とアンジェリーナから言われている。 何も言わないままでいるのが正しいとは思えないが、彼女には彼女の考えがあるのだ、と彼は思って了承した。 そのアンジェリーナが、家族と共に暮らすことは決してない。人の世界に行かないことが、結婚を許す条件だった。 ドラグーン家は、ロバートを微塵も受け入れていない。アンジェリーナとの婚礼も、未だに理解されていなかった。 竜王家も同様で、守護魔導師である彼女が外に出ることを許さなかった。そして両者は、二人の娘を盾にした。 家を捨てて役割を続け、娘から離れて娘を生かすか。それとも、竜が人を受け入れる代わりに、娘を屠るか。 ロバートとしては、どちらも愚かな選択肢だと思った。結果として、竜族の了見の狭さを示しただけに過ぎない。 だがアンジェリーナは、それを受け入れた。そして、フィフィリアンヌを生かすために、人の世界に背を向けた。 相当に苦しみ抜いて、決断をしたのだろう。胸に顔を埋めている妻を抱き締めながら、ロバートは顔を伏せた。 手の中にある妻の肩は、以前よりも頼りなかった。アンジェリーナは元々華奢だが、ここ数年で痩せてしまった。 ロバートはアンジェリーナを腕の中に納め、きつく抱き締めた。声を落とし、なるべく明るい調子で言った。 「してねぇよ。なぁんにもな」 そう、と小さく答えがあった。アンジェリーナは嬉しそうに口元を綻ばせると、夫の胸に体重を預けてきた。 人間よりも体温が若干低めの彼女の肌は、手触りがひやりとしていた。それすらも、愛おしくて溜まらない。 腕の中の重みで、ロバートは妻との出会いを思い出した。王国と帝国の戦いの最中、戦場の上空に現れたのだ。 緑竜の姿だったアンジェリーナは、すぐに魔導師部隊の的となった。彼女は雷撃で応戦していたが、撃墜された。 森に落ちた竜を兵士達と探したロバートは、森の奥の湖畔で彼女を見つけた。その時、彼女は人に擬態していた。 傷付いた体で戦おうとした竜の女を、ロバートは諌めた。敵意は沸かず、むしろ、その美しさに心を奪われた。 何度も魔法を放ってきた彼女を素手で倒し、落ち着かせた。それでも、彼女はロバートの喉元へ爪を当ててきた。 ロバートが何も言わずにいると、アンジェリーナは猛った。どうしてあんたら人間はそんなに単純なのよ、と。 聞けば、アンジェリーナが戦場へと現れたのは偶然に過ぎなかった。風に乗って飛んでいたら、出ただけだった。 それを両軍が攻撃したので、仕方なく応戦したのだ、と。彼女は、誰も殺したくなかったのに、と苦々しげにした。 ロバートは、彼女の前に座った。敵意がないことを示すために、武装を外してからアンジェリーナに向かい合った。 アンジェリーナは意外そうにしたが、顔は硬かった。あんた正気なの。私は竜よ、武器は持っておくべきでしょ。 ロバートは、赤い瞳を見返した。そして笑い、言った。オレはあんたに敵意がないんだから、武器はいらないんだ。 それでも、アンジェリーナは警戒していた。ロバートが兵士達を帰らせても、まだ気を緩めてはくれなかった。 その夜、ロバートは彼女と共にいた。戦況も一段落していたこともあるし、なにより竜の女が気掛かりだった。 アンジェリーナは平気だと言ったが、覇気がなく、魔法を放つ様子もなかった。弱っていたのは、明らかだった。 ロバートは、一晩中彼女の傍にいた。夜明け近くなって、アンジェリーナはようやく僅かに心を開いてくれた。 朝焼けの中、彼女は名乗り、話してくれた。男との接し方が解らないことや、魔法以外は無知であることなど。 ロバートが、これから教えてやろうか、と言って手を伸ばすと彼女は顔を背けた。だが、手だけは伸ばしてきた。 顔を逸らし、アンジェリーナは返した。そんなに言うなら、少しぐらいだったら話を聞いてやってもいいわよ、と。 握り締めた手を引き寄せると、アンジェリーナは腕の中に入ってきた。悔しげな顔をしていたが、頬は赤かった。 ロバートは、それが嬉しかった。惹かれていたのは互いに同じだったのだ、と解って、かなり気分が良かった。 それから二人は、王都近くの森の奥で逢瀬を重ねた。人家から遠くなければ、アンジェリーナは気を許さなかった。 何度も会ううちに、彼女の真意を知った。相当な意地っ張りで捻くれており、嫌味は照れの裏返しだということも。 そして、自然と婚礼を望んだ。二人だけで密やかに婚礼を果たしたあとから、苦しみと葛藤の日々が始まった。 娘が生まれてからは、それは更に激しくなった。忠誠と愛情の間に挟まれて、アンジェリーナは何度も泣いた。 竜王は裏切れない、けれど、夫と娘は愛おしい、と。気が強く気位の高い彼女が、乱れ、泣きじゃくっていた。 ロバートはアンジェリーナを助けたかったが、娘と共に王国に戻されていた。何も、出来なくさせられていた。 現在も、アンジェリーナを助けることは出来ない。竜王都に入れば死する呪いを、竜王軍の魔導師に掛けられた。 魂に食い込む呪詛は、じわじわと体を蝕んでくる。近頃は反射神経が落ちてきて、剣の腕が鈍り始めていた。 竜王都に入ることはなくとも、自然に死ぬように算段したのだろう。腐った女々しいやり方だ、と内心で毒づいた。 そのことはアンジェリーナにもフィフィリアンヌにも話していないが、妻の方は、薄々感付いているはずだ。 だが、後悔は一切していない。アンジェリーナを愛し妻にしたことも、フィフィリアンヌを生み出したことも。 今日、彼女と会えたのは、守護魔導師達のおかげだった。せめて娘の誕生日ぐらいは、と竜王に進言してくれた。 ロバートはアンジェリーナの額へ唇を当ててから、空を見上げた。視界の端を、竜と思しき巨大な影が過ぎる。 彼女は自由ではない。ここにいても縛られている。ロバートは悔しくなったが、何も出来ない自分が歯痒かった。 アンジェリーナは顔を上げ、微笑んだ。夫の頬に手を添えて互いの目線を合わさせ、潤んでいる目を細めた。 「あんな兵士なんて、気にしないの。あんたが見るのは、私とあの子だけでいいじゃない」 「そりゃそうだが」 ロバートは、眉根をしかめた。アンジェリーナは、しなやかな指を夫の顎へ滑らせる。 「それとも、他になんか気掛かりなことでもあるっての?」 「ねぇよ」 「あらそう。ま、あんたのことだし、この私がいるってのに他の女に手ぇ出すような度胸はないもんねぇ」 にんまりとしたアンジェリーナに、ロバートは苦笑する。 「それ、度胸とかそういう問題か?」 「そういう問題よ。まぁでも、もしもあんたが私以外の女を見たら、問答無用で頭から噛み砕いてやるわよ」 「アニー。お前にそんなこと出来るのか?」 ロバートは妻の肩から手を放し、両手で顔を挟んでやる。アンジェリーナは細い眉を吊り上げ、むっとする。 「出来るに決まってんでしょ。他に渡すぐらいなら、喰ってやった方がマシってもんよ!」 「お前を喰ったのはオレの方だぞ」 ロバートの指先が、アンジェリーナの唇をなぞる。途端にアンジェリーナは身を引いたが、固まってしまった。 手の下で、どんどん頬の温度が上がるのが解った。真っ赤になった妻に、ロバートは少し呆れてしまう。 「いい加減に慣れろよ」 「無理言わないでよ」 消え入りそうな声で呟き、アンジェリーナは彼の手に自分の手を重ねた。困っているのか、眉が下がっている。 うぅ、と唸った彼女は目を伏せた。ロバートは彼女の頬から手を放してやると、アンジェリーナは肩を落とした。 照れくさくてどうしようもないのか、片手で顔を覆ってしまった。ロバートはアンジェリーナから目を外し、娘を探した。 波の傍で、フィフィリアンヌは遊んでいる。足に絡む波がくすぐったいらしく、少し困ったような表情をしている。 今日で、娘は五歳になる。外で遊ぶことが少ないせいか、一般的な子供よりも体格が小さく背も若干低めだった。 体も弱いので、よく熱を出してしまう。これだけ遊び回っていれば、明日辺り、また熱が出てしまうことだろう。 竜なのだから成長すれば脆弱さも消えるだろう、と思いながら、ロバートは海水と遊ぶフィフィリアンヌを眺めた。 不意に、駆けていたフィフィリアンヌの姿が消えた。波打ち際に勢い良く転び、ばっしゃん、と水が跳ね上がった。 ロバートが立ち上がると、フィフィリアンヌはすぐに起き上がった。頭からずぶ濡れで、服が体に張り付いている。 アンジェリーナも立ち上がり、夫に続く。駆け寄ってきた両親を見上げ、フィフィリアンヌはきょとんとしている。 ロバートは、すぐさま娘を抱き上げた。父の手により高々と掲げられたフィフィリアンヌは目を丸くしたが、笑う。 「海とは味がするのだな!」 「フィフィーナリリアンヌ。お前、顔面からずっこけたのによく平気だなぁ」 ロバートは感心しながら、海水の滴る娘を見上げた。フィフィリアンヌは、背中の翼をぱたぱたと動かす。 「父上が言うではないか。滅多なことでは泣いてはいけないぞー、と。母上も前に言ったではないか、竜の子は強いのだー、と」 「んじゃ、あんたにとっての滅多なことって何?」 ロバートの足元に降ろされた娘に、アンジェリーナが尋ねた。フィフィリアンヌは即答する。 「わんこだ」 「わんこ?」 アンジェリーナが変な顔をすると、フィフィリアンヌは嫌そうにする。 「あれは尻尾を噛むのだ。おまけに追ってくるのだ。怖いではないか」 「そんなもん、喰っちゃいなさいよ」 「喰っちゃったけど、怖かったのだ」 しゅんとしたように翼を下げ、フィフィリアンヌは目に涙を溜める。ロバートは、隣に立つ妻に顔を向ける。 「思い出させてどうすんだよ。ほら、泣いちゃったじゃねぇか」 「知らなかったんだもの、そんなこと」 アンジェリーナは、困ってしまった。フィフィリアンヌはぐしぐしと目元を擦っていたが、しゃくり上げている。 そして、娘は泣き始めてしまった。ロバートが必死に宥めても、フィフィリアンヌは声を上げて泣きじゃくった。 わんこがわんこが、と父親に縋る娘に、アンジェリーナは罪悪感と同時に悔しさを覚え、居たたまれなくなった。 傍にいないせいで、娘のことは何も知らない。血を分けただけで、母親としての役割は少しも果たせてはいない。 それを痛烈に感じ、アンジェリーナは顔を背けた。フィフィリアンヌは父の足にしがみ付いていたが、母を見上げる。 「ははうえ?」 「なんでもないわよ」 素っ気無く言い返したアンジェリーナに、フィフィリアンヌは肩を縮めた。 「母上は、私が嫌いなのか?」 「なんでそう思うのよ?」 アンジェリーナは、娘を見下ろした。フィフィリアンヌは、悲しげに顔を歪めた。 「だって、母上、楽しそうではないではないか。私がいるからか?」 「そんなわけないでしょうが。どうしてそう思うのよ」 アンジェリーナはしゃがみ、フィフィリアンヌと目線を合わせた。幼い娘は、母に顔を寄せる。 「だって、母上は少しも笑わないではないか。私といるのが、そんなに嫌か?」 「馬鹿ねぇ」 アンジェリーナは、フィフィリアンヌの頭にぽんと手を置いた。短いツノが生えた頭を、そっと撫でてやる。 母の手の下から、フィフィリアンヌは目を上げた。アンジェリーナは笑ったが、情けない笑顔にしかならなかった。 「そんなこと、あるわけないじゃない」 アンジェリーナは、おもむろにフィフィリアンヌの両頬を掴んだ。柔らかな頬を、ぐいっと横に引っ張って伸ばした。 うー、と妙な声を出してフィフィリアンヌは母を見上げた。アンジェリーナは、不思議そうにしながら尋ねた。 「ねぇ、フィフィーナリリアンヌ。あんた、どうしてそんな言葉遣いするのよ? ぶっちゃけ、変よ」 「ふぃふぃうえが」 フィフィリアンヌがロバートを指すと、アンジェリーナはそちらへ目を向けた。ロバートは、にやりとする。 「いいじゃねぇか、軟弱じゃなくって。オレはこういう方が好きなんでな」 「何それぇ。ていうか、そんなの理由にすらなってないじゃない」 思い切り変な顔をしたアンジェリーナは、娘の頬を横に引っ張りながら、ロバートを見上げる。 「そんなしょーもない理由でこの子に軍人喋りの教育したってのー?」 「おう、そうだ。悪いかー?」 「悪いに決まってんでしょうが! せっかく可愛い名前付けたのに、こんな口調じゃ台無しじゃないの!」 ああんもう、とアンジェリーナは悔しげに首を振る。頬を引っ張られたまま、フィフィリアンヌは両親を見比べた。 「わたひはふきだぞ」 「あらそう? 私は滅茶苦茶気に喰わないし不愉快だけど、あんたがそう言うんなら仕方ないわねぇ」 不満げにむくれ、アンジェリーナは娘を見下ろす。フィフィリアンヌは、困り果てたように眉を下げた。 「ふぁふぁうえ」 「何よ」 「いはい」 「ああ、忘れてたわ」 アンジェリーナは、ようやくフィフィリアンヌの頬から手を放した。フィフィリアンヌは、両頬をごしごしと擦る。 「やっぱり、母上は私が嫌いなのだな」 「だからなんでそうなるのよ」 少しうんざりしたように、アンジェリーナは眉を下げる。フィフィリアンヌは、再度父親の足に縋った。 「嫌いだから、私に意地悪をするのだな!」 「意地悪じゃないわよ。ただ、なんか面白そうだったからあんたをいじって、そのままにしちゃっただけじゃない」 「それを意地悪っつーんだよ」 ロバートが苦笑いすると、あらそう、とアンジェリーナは悪気なさそうに返した。フィフィリアンヌは、母親を睨む。 フィフィリアンヌの背後に身を屈めたロバートは、ぽんぽんと何度かフィフィリアンヌの頭を叩き、笑った。 「慣れてきたら、フィフィーナリリアンヌにも解るようになるさ。アニーは、本当に素直じゃねぇからなぁ」 「そうなのか、父上?」 「余計なこと言うんじゃないわよ!」 噛み付きそうな勢いで、アンジェリーナは言い返す。その声に驚いたフィフィリアンヌは、じわっと目を潤ませた。 母を怒らせてしまった、と思ったフィフィリアンヌは、また泣き始めた。アンジェリーナは、慌てて娘を宥める。 「ああほら泣かない泣かない、フィフィーナリリアンヌの滅多なことはわんこだけなんでしょ?」 「ふぇ」 ぐしゃりと顔を歪ませたフィフィリアンヌは、堪えようとした。だが、一度泣いてしまうと、止められなかった。 フィフィリアンヌは、声を抑えて泣き出してしまった。ロバートは足にしがみ付いてくる娘を撫で、妻へ目をやった。 アンジェリーナは、苦々しい思いで二人を見ていた。泣かせるつもりなどなかったし、娘を嫌っているわけがない。 愛情表現に慣れていないからとはいえ、これはないだろう。アンジェリーナは、自己嫌悪に胸がずきりと痛んだ。 ロバートは、俯いた妻を見上げた。唇を噛み締めたアンジェリーナは、一度ロバートを見たが、目を逸らした。 娘の泣き声を聞きながら、ロバートは空を見上げた。竜王軍兵士と思しき竜の姿が、視界の端をくるりと過ぎった。 潮のざわめきと風の音が、騒がしかった。 夕方近くなっても、空気は険悪だった。 元気を失ったフィフィリアンヌは押し黙ってしまい、アンジェリーナもなるべく娘と目を合わせようとはしなかった。 三人は砂浜に座っていたが、ロバートは妻と娘の間に挟まれていた。多少居づらかったが、動けなかった。 両方の手を、二人に握られていたからだ。下手に動こうとすると引っ張られてしまうので、仕方なく座り込んでいた。 泣き疲れたフィフィリアンヌは、ロバートの手を掴んで眠り込んでいた。涙に濡れた頬が、しっとりと光っている。 フィフィリアンヌは濡れた服を着替え、若草色のローブを着ていた。アンジェリーナが、誕生日祝いに贈ったものだ。 ざあ、と前方で波が砕けた。泡立ちながら打ち寄せた海水は、三人の足元までやってきたが、下がっていった。 ロバートは、左側に座るアンジェリーナに目をやった。水平線をぼんやりと見つめる彼女の横顔は、美しかった。 朱色の西日が、白い頬を染めていた。ゆったりと海へと向かっていく太陽が海面に反射し、かなり眩しかった。 潮風が、アンジェリーナの長い髪を乱していく。左手でそれを掻き上げたアンジェリーナは、夫に目を向ける。 「なーにやってんのかしらねぇ、私」 憂いを帯びた赤い瞳が、屈強な夫を映した。鍛え上げられた太い腕に、小さな娘がぴったりと寄り添っている。 フィフィリアンヌの五歳の誕生日を祝うためにやってきたのに、無理をして竜王都から出てきたのに、この様だ。 素直になろうとすればするほど、意地を張ってしまう。愛してやろうと思えば思うほど、愛し方が解らなくなる。 嫌味の真意を理解してくれたロバートとは、勝手が違う。フィフィリアンヌは、まだ何も解っていないのだ。 だが、ついそれを失念してしまう。いつものクセで意地を張り、挙げ句に心にもないことを言ってしまう。 アンジェリーナは大きな翼を縮めると、深く長くため息を吐いた。体を傾けて、ロバートの肩に頭を預けた。 「ロバート。ごめんなさいね」 「珍しいな、アニー。お前に謝られるなんて」 少し笑い、ロバートはアンジェリーナに顔を向けた。アンジェリーナは、目を伏せる。 「だって、あんまりにもあんまりなんだもの」 「お前が素直になれないのは、今に始まったことじゃねぇ。そんなに気にするな」 「するわよ。せっかくあんたとフィフィーナリリアンヌと一緒にいられたってのに、またやっちゃったんだもの」 「これから直していけばいい。オレもいるんだし」 「だけど…」 アンジェリーナは、声を落とした。ロバートは、妻の髪に頬を寄せる。 「時間はいくらでもある。そりゃオレはお前らとは違って死ぬのは早いが、それでも結構あるんだからよ」 「でも」 ロバートの腕に寄り掛かる娘を見、アンジェリーナは唇を噛んだ。その間に、何度娘と会えるのだろうか。 今までも、数回しか会えていない。今後も、竜王朝の思想が劇的に変化でもしない限り、簡単には会えないだろう。 その間に、一度でも素直になれるだろうか。愛してやまないロバートの前でさえ、意地を緩められないというのに。 アンジェリーナは無性に情けなくなり、口元を歪めた。ロバートは妻に手を固く握り締められながら、呟いた。 「大丈夫だ。いつか必ず、素直になれる。だから、そんな顔すんな」 「その根拠は?」 「フィフィーナリリアンヌがいるじゃねぇか。オレらの間にこの子がいるのが、何よりの証拠と根拠だろ」 ロバートは、右腕に体を預けている娘を見下ろした。フィフィリアンヌの小さな胸は、呼吸に合わせて上下している。 「オレに対して出来たことが、自分の子に対して出来ないわけはないだろ。そうじゃねぇか?」 「そう?」 「そうに決まってる。それになぁ、自信のないアニーは見ていて変な気分になっちまう」 「何それ」 アンジェリーナが変な顔をすると、ロバートは彼女に振り向いた。 「だってそうじゃねぇか」 「まぁ、ねぇ」 アンジェリーナが返すと、小さく声がした。フィフィリアンヌは薄く目を開け、瞬きをしていたが、顔を上げた。 大きく欠伸をしてから、フィフィリアンヌはロバートの腕を放した。首をかしげて、父親越しに母親を見上げた。 くりんとした赤い瞳と、アンジェリーナの目が合った。西日を受けて赤みを増した幼い瞳が、真っ直ぐに母を捉える。 アンジェリーナは目を逸らしてしまいたくなったが、堪えた。フィフィリアンヌは母を見上げていたが、言った。 「母上」 「何よ」 「母上は、また、竜の王様のところに帰ってしまうのか?」 「ええ、帰るのよ。竜王陛下は私の主君だもの。忠誠を誓った相手に従うのは、当然のことなのよ」 「ならば、私と父上は、母上の何なのだ? どうして、母上は滅多に来てくれないのだ? やはり、私が」 「嫌いじゃないわよ。嫌ってなんかいないわ」 「じゃあ」 「色々とあるのよ、色々と」 「では、その色々がなくなったらもっと来てくれるのだな?」 期待するように、フィフィリアンヌは身を乗り出した。アンジェリーナは少し躊躇したが、頷いた。 「ええ」 「なら次は、別の場所が良い! 海も面白いのだが、私は泳ぐのが上手くないのだ。それに、転んでしまうのだ」 「じゃ、フィフィリアンヌはどこがいいんだ?」 ロバートが尋ねると、フィフィリアンヌは唸った。しばらくしてから、ぱっと表情を明るくさせる。 「うちが良い! うちの中なら、たぶん転ばんだろうしわんこも来んぞ!」 「そりゃあいいな。んで、アニーはどう思う?」 ロバートに問われ、アンジェリーナは笑った。 「いいんじゃないの。王都に近いから状況としては相当やばい気がしないでもないけど、なんとかなるでしょ」 「ならば次は、母上はうちに来てくれるのだな!」 「ええ、行ってやろうじゃないの」 アンジェリーナが頷くと、フィフィリアンヌは立ち上がって飛び跳ねた。動きに合わせて、背中の翼も動く。 わぁい、と声を上げたフィフィリアンヌは心底嬉しそうだった。本当に本当なのだな、と何度も繰り返して言う。 ロバートは立ち上がり、腰のベルトに剣の鞘を押し込んだ。妻を見下ろすと、座ったままの彼女は顔を向けてくる。 「帰るの?」 「長居をすると、あれがうるさそうだしな」 ロバートは、上空に留まっている竜の影を示した。くるりと巡って高度を下げ、ばさり、と羽ばたいている。 大きな羽ばたきの音に、フィフィリアンヌは不安げに空を見上げた。アンジェリーナは、竜の影を一瞥した。 「この私に楯突いて来たら、一撃で吹っ飛ばしてやるわよ。それにあれはただの兵士だし、進言は出来ても命令は出来ないわ」 「だが、気は抜けないからな」 ロバートは、フィフィリアンヌの前にしゃがんだ。フィフィリアンヌは父親の大きな背によじ登り、負ぶさる。 娘を背負ったロバートは立ち上がると、妻に背を向けた。アンジェリーナは立ち上がり、夫と娘に背を向ける。 「それはお互い様よ。家に帰り着くまで、あんたは返り血を浴びずに済むかしら」 「それはどうかな。だが、そうならないことを祈るさ」 ロバートは背を向けたまま手を振り、歩き出した。フィフィリアンヌは横目に母を見たが、父の背に顔を埋めた。 二人の姿は、影を伸ばして遠ざかっていく。アンジェリーナはそれを見ていたが、表情を固めて上空を見上げた。 高度を下げた黒竜は、アンジェリーナの頭上を回った。影が縮まり、人に酷似した姿となって舞い降りてきた。 がしゃり、と重たい装備が擦れて鳴った。目つきの悪い褐色の肌の青年は、翼を折り畳んで姿勢を正した。 「ご帰還の時間です、アンジェリーナ様」 「解ってるわよ。帰ればいいんでしょ、帰れば。日没したら竜王都に帰るって約束だものね」 肩を竦めたアンジェリーナは、ばさり、と緑の翼を大きく広げた。兵士に目を向けたが、すぐに逸らす。 「ガルム少尉。あんた、あの人のこと、どう思う?」 「あの男のことですか」 黒竜族の兵士は、ロバートの足跡を目で追っていった。だがその先には、もう影はなかった。 「人にしては、竜に理解があると察します。ですがあれは、交わらざるべきものを交えた男です」 「要するに、危険だって言いたいわけね」 アンジェリーナの目に射竦められ、兵士は一瞬臆した。だがすぐに、表情を固める。 「…はい」 「ガルム。あんたの考えも間違っちゃいないし、ある意味じゃ正しいわ。でもね、それは竜の理論であって私の理論じゃないの」 帽子を外したアンジェリーナは、ツノを露わにした。指を弾いて帽子を消すと、大きく羽ばたいて飛び上がった。 スカートを翻した彼女は上昇しながら服を消え失せさせ、しなやかな肢体を浮かばせた。薄い背が、翼に隠れる。 もう一度羽ばたいたときには、濃緑のウロコが白い肌を覆い尽くし、体も骨張って強固なものへと変わり始めた。 尾が伸び、鼻先が突き出、力強い顎が出る。野性の中に知性を宿した赤い瞳の中心で、縦長の瞳孔が細くなる。 巨大な緑竜が、砂浜に影を落として浮かんでいた。風を孕んだ翼を羽ばたかせてから、ぐるぅ、と喉を鳴らした。 「だから、これ以上私らの邪魔をしないで欲しいのよね。私が正しいと思ったから、私はこうしているのよ」 「ですが」 「ええ、解ってるわよ。それが竜族にとって正しくないってだけで、こんなことになっちゃってるのよ」 全くいかれてるわ、とアンジェリーナは吐き捨て、高度を上げた。兵士は翼を広げ、続いて飛び上がった。 元の黒竜の姿へと戻ると、アンジェリーナの前方に滑り出た。兵士は後ろを窺ったが、東南へと鼻先を向けた。 黒竜の兵士を追いながら、彼女は目線を下に向けた。海岸線に沿って栄えた港町が、薄暗い夜に沈んでいる。 背後の太陽は、水平線に没していった。朱色の日光も力を弱め、空は朱と藍が入り混じった色合いになっている。 街の上を羽音を消して飛びながら、アンジェリーナは夫子の姿を探した。だが、見つけることは出来なかった。 聞こえているのは、騒がしい波の音だけだった。 薄暗い夜道を歩く父の背に、フィフィリアンヌは乗っていた。 夜空を横切る星の運河を二つの影が遮り、通り過ぎていった。後ろにいるのお母さんだぞ、と父は言った。 どうして解るのか、と尋ねたら父は、勘だ、とだけ答えた。それは本当なのだろう、と幼い娘は理由もなく確信した。 人通りのない道を進みながら、フィフィリアンヌは王都を囲む城壁を探していた。それが見えれば、家は近い。 だが、辺りは暗く、何も見えなかった。それを残念に思いながらも、フィフィリアンヌは内心で浮かれていた。 次に母に会えるのは、いつになるのだろう。それが近いうちならいいな、と願いながら、父の背に寄り掛かった。 心地良い体温を感じているうちに、眠気が起きてきた。フィフィリアンヌは父親の服を握り締めると、瞼を閉じる。 潮のざわめきが、耳の奥にいつまでも残っていた。 幼き日の、淡い記憶。父がいて、その傍らに母がいた情景。 その頃の彼女は、幸せであり穏やかであったが、歪んだ世界の中にいた。 だが、それでも。幼子であった彼女が幸せであったことは、変わりのないこと。 そしてその父も、幸せだったのである。 05 8/26 |