ドラゴンは笑わない




廃屋の冒険



イノセンタスは、少々困っていた。


すぐ前を、少年が歩いていた。肩には手製の木刀を担ぎ、意気揚々とした足取りでどこかに向かっている。
イノセンタスは魔法の杖を握り締め、間を空けて後ろに続いていた。弟は、慣れた様子で荒れた道を進んでいる。
雑草が至るところに生えた道は、歩きづらかった。足を引っ掛けそうになりながらも、なんとか弟に付いて行く。
イノセンタスは小走りになると、ギルディオスに追いついた。楽しげな弟の横顔を睨み付け、声を荒げた。

「なあ!」

弟は答えずに、直進している。イノセンタスはその前に回り、後ろ向きになって歩く。

「なあったら!」

「イノ、転ぶぞー」

けらけらと笑うギルディオスに、イノセンタスはむっとした。

「そんなことより、どうして僕を外に連れ出したんだ。んでもって、どこに行くつもりなんだよ!」

「付いてくりゃ解るって、そんなもん」

「それに、なんで僕がお前に連れまわされなきゃならないんだ!」

「そりゃ、イノぐらいしか遊び相手がいなかったからさ」

「それだけで? それだけのことのために、僕を屋敷から引きずり出して勉強をさぼらせたわけ?」

「おうよ」

「馬鹿らしい。帰」

る、と言おうとした途端、イノセンタスのかかとが草に引っかかった。背中から転び、ごっ、と後頭部を打ち付けた。
唐突な衝撃と痛みの中、真上に晴れた空が見える。一瞬、何があったのか解らず、呆然としてしまっていた。
すると、視界に影が入ってきた。空を背にしたギルディオスが、にんまりしながらイノセンタスを見下ろしている。

「起こしてやろうか?」

「うるさい!」

イノセンタスは後頭部をさすりながら、体を起こした。杖を拾って立ち上がり、弟の隣を抜けた。

「帰るったら帰るんだよ!」

「ああそうかいそりゃ残念だ」

そうは言いつつも、ギルディオスの声はにやけていた。イノセンタスは引っかかるものを感じたので、振り向いた。
ギルディオスの視線の先を辿ると、建物があった。まばらな木の間から、今にも崩れ落ちそうな屋敷が見える。
廃屋となって、大分経っているようだった。壁には枯れたツタが這い回り、門は外れて正面の扉も開きかけていた。
薄暗く、陰気な空気が満ちていたが、不思議と好奇心が掻き立てられた。イノセンタスは、じっと廃屋を見つめた。
ギルディオスは、片割れを窺った。イノセンタスもあの屋敷が気になってきたようで、興味深げな顔をしている。
子供ならば、怪しげな場所に興味を持つのは当然だ。ギルディオスは更に煽ってやろうと、木刀で廃屋を示した。

「あの中なー、魔物が出るとか出ないとか、そんな話もあるんだぜ」

「どんな?」

イノセンタスがすぐさま聞き返してきたので、ギルディオスはにやりとする。

「さぁなぁ。どんなのか解らねぇけど、とにかくなんかがいるんじゃねぇのか?」

「なんかって…。そんないい加減な」

「でも面白そうじゃねぇか。行こうぜー、イノ」

歩き出そうとしたギルディオスの襟元を、イノセンタスが掴んだ。

「だっ、だけどさギルディオス!」

「んだよぅ」

ギルディオスが振り向くと、イノセンタスは言いづらそうに呟いた。

「その、魔物が出たら、どうするんだよ」

「戦うに決まってんだろー。オレとお前が」

「普通に考えてみろよ。無理に決まってるだろ、戦うなんて」

「無理じゃあねぇさ」

「無理だろ。まず、僕とお前の実年齢を考えてみろ」

「七だろ」

「そうだ僕らは七歳児だ! いくら僕が優秀とはいえ魔法の腕はまだまだなんだから、無茶にも程がある!」

「イノ」

「なんだ」

高々と杖を振り上げているイノセンタスに、ギルディオスは呆れた。

「そういうこと、自分で言うか?」

「言って悪いか!」

「悪ぃよ」

ギルディオスはイノセンタスに背を向けて進んだが、振り向き、挑発してやった。

「つーことは何か、怖ぇんだなぁ? イノの意気地なしぃ」

「なんだとぉ!」

イノセンタスが声を上げた途端、ギルディオスは駆け出していった。がさがさと草を掻き分け、門へ向かっていく。
ざあ、と冷たい風が森の木々をざわめかせた。イノセンタスは、後方に見える王都と朽ちた屋敷を見比べた。
次第に、意気地なし、と言われたことに腹が立ってきた。イノセンタスは杖を振り回し、廃屋に駆け出した。

「待てぇ!」

廃屋に突っ込んでいく少年の後ろ姿を、見ている影があった。草原に生えている、木の陰に座り込んでいた。
丸メガネに、廃屋が映る。胡坐を掻いた足の間に広げていた帳面をべらべらとめくっていたが、その手を止めた。
色白ながら大きな手が動き、指先が二つの名前で止まる。男はぺろりと唇を舐めてから、楽しげな笑みになる。
灰色の服を着た男に、幼女が飛びついた。桃色の髪をバネのように巻いた髪型の幼女は、男の肩に顎を乗せる。

「あれですねー、御主人様ー?」

「おう、あれだな」

灰色の男は目を上げて、廃屋へ向けた。黒髪の緩い三つ編みが、肩から垂れ下がっている。

「生まれてから七年も過ぎたが、弟の方に魔力の兆しは欠片もねぇみてぇだな。たまーにほんのちょびっと出るが、魔法が使えるほどじゃねぇな」

「でもー、お兄ちゃんはびしばしに魔力がありますねー。上手いことすればー、大人顔負けの魔法が使えますよー」

メイド服姿の幼女は、男の首に腕を回した。男はヴァトラス一族の家系図である帳面を閉じ、くるりと丸める。

「あんまり兄貴の方には興味は沸かねぇなぁ。オレはどちらかってーと、弟の方が好きだな」

「それでー、どうするんですかー? あの屋敷はー、ご主人様のせいで面白いことになっちゃってますけどー」

幼女は身を乗り出し、男に顔を寄せる。男は丸メガネを直してから、んー、と少し唸る。

「そうだなぁ。あいつはオレが来たことに気付いただろうから、ガキ共は間が悪いときに入っちまったもんだぜ」

「そうですねー。あの二人、御主人様の仕掛けの中に飛び込んじゃいましたけどー、無事に出られるでしょうかー」

「さぁどうだか。まぁでも、なんとかなるだろ」

「でもー、いっそのことー、今の段階で御主人様が手を出しておいた方が後々は楽じゃないですかー?」

「どうせ陥れて引っ掻き回すなら、成長してからの方が面白ぇだろ。それに、ガキの相手は嫌いなんでね」

「えぇー? 御主人様は、幼女趣味じゃなかったんですかー?」

幼女、レベッカが変な顔をすると、男、グレイスは眉根を歪める。

「小せぇ女の子は大好きだ! だが、野郎のガキは嫌いだ! やかましいし小賢しいし鬱陶しいしよぉ!」

「じゃあどうしてー、大きな男の人は好きなんですかー?」

「それとこれとは別だっ!」

グレイスは丸めた帳面を振り、声を上げた。レベッカは腑に落ちなかったが、これ以上問う必要もない、と思った。
ゆるやかな風が吹きぬけ、枯れ草を鳴らして過ぎた。グレイスは帳面を懐に納めると、木の幹に背を預けた。
朽ちた屋敷を辛うじて守っている塀を、長く伸びた草が囲んでいた。屋敷を見上げ、グレイスは過去を思い出した。
この屋敷は、五十年ほど前にグレイスが滅ぼした一族のものだった。その一族から魔導書を奪い、財産も奪った。
その際に、この家の長男に斬り付けられ、胸に傷を負った。同時に呪いも掛けられたが、それはすぐ解呪した。
最後の手段の呪いを破られて、唖然としていた長男の首を、レベッカに刈らせた瞬間を思い出してぞくりとした。
血に染まって崩れた傷口から覗く、異様に白い骨。天井まで吹き上がった血と、それを浴びて放心した家族の姿。
むせるような血の匂いが立ち込め、死の気配に満たされた、団欒の名残が残る居間。そして、その床に転がる骸。
グレイスは首に回されたレベッカの手を握り、囁くように言った。無性に、破壊と殺戮の快楽を味わいたくなった。

「なぁ、レベッカちゃん。王国での仕事、残ってたか?」

「あーりますよー。前にー、御主人様に楯突いてきた呪術師がいましたよねー。そいつに呪われた人からの、呪い返しと暗殺の依頼がありますよー」

「ああ、あれか。金になりそうで暇も潰せそうな仕事は、それしか残ってないんだな?」

「はいー。貴族同士のごたごたも引っ掻き回しましたしー、王族からの暗殺依頼も終わりましたしー」

「つまんねぇなぁ。どうせなら、フィフィリアンヌと真正面からやり合ってみたいもんだぜ」

「でもってー、叩きのめして打ちのめして罵倒して侮辱して蹂躙してー、支配してやりたいんですよねー?」

「おう、そうだ! ああいう女の鼻っ柱をへし折るのが楽しいんだが、手強くってしょーがねぇんだよなぁ、あの女は」

「そうですねー。この間もー、いいところまで行ったんですけどダメでしたもんねー」

「まぁでも、フィフィリアンヌとは遊んだばっかりだし、今はいいや。それよりも、仕事をやらねぇとな」

グレイスが立ち上がると、レベッカはその背から下りた。グレイスは、悪意の滲む笑みを作る。

「呪術師相手ってのはイマイチ面白みに欠けるが、暇ぐらいは潰せそうだからな。久し振りに、生温ーい血飛沫でも浴びてこようじゃねぇか」

「そうですねー。ああいう連中って自分の腕を過信してますからー、まずはその腕を切り落してやりましょー」

うふふふふ、とレベッカは笑みをこぼした。グレイスは草むらから細い道へ出ると、足取りも軽く歩き出した。
その背を追って、レベッカも小走りに続いた。意気揚々としながら、灰色の呪術師とその傀儡は王都へ向かった。
グレイスは遠くにそびえる王都の城壁を見つめながら、あと何年後に彼らを陥れようかと考え、浮かれていた。
灰色の男は、これから行う殺戮の快楽と策謀を巡らせる心地良さに浸っていた。




廃屋の正面玄関から屋内に入り、イノセンタスは足を止めた。
外と同様に荒れた広間に入ってから、外へと振り返った。外れかけた扉の隙間から、弱い光が差し込んでいる。
何かの気配を、感じたような気がした。強い力を持った者が近くにいた感覚があったが、正体は解らなかった。
先程の草むらに生えている、木の辺りにいた気がした。だが、木の周囲には誰もおらず、草が揺れているだけだ。
イノセンタスが首をかしげていると、ぐいっと襟元を引っ張られた。振り向くと、ギルディオスが立っていた。

「遅ぇぞイノー。そんなに怖かったのか?」

「怖くはない!」

「だったら一緒に来いよ。なんかがいたら、それはそれで面白ぇだろうし」

力任せに、ギルディオスはイノセンタスの襟元を引っ張った。イノセンタスは後ろ手に、弟を突く。

「いい加減に放せ! 僕はイヌやネコじゃないんだから!」

「捕まえておかないと、逃げちまうだろうが。魔法使いってのは、都合が悪くなると魔法で逃げられるんだからな」

「お前、魔法をなんだと思ってるんだよ」

イノセンタスが変な顔をすると、ギルディオスは兄の襟元を解放した。

「なんでも出来る便利な手段だろ?」

「違う! 魔法ってのは確かな知識と理解に裏付けられた、計算に基づいて人間にー、えと、潜在する能力を、発揮するための方法なんだよ!」

イノセンタスが言い返すと、ギルディオスは感心したような呆れたような曖昧な表情になった。

「お前ってさ、勉強してるっつーよりも本を丸々覚えてるだけだろ?」

「…悪いか」

「いや、悪かねぇけど。ていうかイノ、さっき自分で言った言葉、全部解って喋ってるのか?」

「んー、あー…。イマイチ」

「だろうなー」

笑いながら、ギルディオスは砂埃の積もった床を歩いていった。イノセンタスは、その背を睨み付けた。
先程から、ギルディオスは神経を逆撫ですることばかりを言ってくる。何をさせたいのか、見当は付いていた。
イノセンタスを煽り、廃屋探検に付き合わせたいのだ。無理矢理屋敷から連れ出した理由にしては、下らない。
このままでは、ギルディオスの思い通りになってしまう。イノセンタスは帰ろうと思い、玄関の方へ向き直った。
外に足を進めようとしたが、なぜか、その気が起きなかった。理由は解らないが、屋敷に戻りたくなくなっていた。
クモの巣の張った天井や、錆びの浮いた扉の取っ手にロウソクの残る燭台。赤黒い染みの残る、腐りかけた床。
ギルディオスの入っていった廊下を見ていると、その奥には何があるのか気になり、余計に帰る気が失せてきた。
本当に魔物がいるかもしれない。魔物はいなくとも、何かがあるかもしれない。興味は、次々に湧いてきた。
イノセンタスは、もう一度扉へ目をやった。外に出て、こんなに遠くに来たのはどれくらいぶりだろうか。
自然と足が奧へと向かい、踏み出していた。どうせ後で叱られるのだから、遊んでから叱られたほうがいい。
埃の積もった廊下を駆けていくうちに、迷いは吹っ切れていた。


廊下の右手奥にあった居間らしき部屋に、ギルディオスが待っていた。
イノセンタスは、恐る恐る足を踏み入れた。野犬や賊に荒らされたようで、部屋の調度品は壊れていた。
暖炉の前に立っていたギルディオスは、倒れているテーブルの影を木刀で指した。弟は、にやにやしている。
イノセンタスは床に散乱している食器などを踏まないように慎重に歩き、ギルディオスの背後に回った。
テーブルの影には、白骨化した遺体があった。その首は断ち切られていて、体と離れた位置に転がっている。
イノセンタスは、なんとか悲鳴を飲み込んだ。頭蓋骨には頭髪が残っていたが、黒い何かで固まっている。
首から下は、身なりの良い服装をしていた。だが、その服も黒く染まっており、布の色は解らなかった。
青紫の魔導鉱石が填った、細身の剣を握っていた。だが、それを使う前に殺されたようで、刃は綺麗だった。
頭蓋骨に空いた目の空洞の中を、何かが動いた。しばらく見つめていると、小さな虫が這い出、触覚を蠢かせた。

「うわぁ!」

イノセンタスが飛び退くと、ギルディオスは顔をしかめた。

「ただの虫じゃねぇか。そんなにびびることねぇだろ」

「…お前、よく、平気だな」

死体との距離を開けながら、イノセンタスは顔を強張らせた。ギルディオスは木刀の先で、死体が握る剣を突く。

「これ、腐ってねぇもん。大したことねぇじゃん」

「じゃあ、腐ってるのとか、見たことあるのか?」

「おう、あるある。王都の外で遊んでるとさぁ、たまーに魔物とか人間とかのがあって、それがまたもう」

「解ったからそれ以上はもうやめてくれ!」

イノセンタスは杖を突き出し、ギルディオスの言葉を遮った。ギルディオスは、つまらなさそうにする。

「そんなに言うなら、これ以上は言わねぇけどさ。あんまり細かく言うと、イノは夕飯が喰えなくなっちまうもんな」

「お前は喰えるのか、ギルディオス?」

「おう、喰える喰えるぅ」

ギルディオスはしゃがみ込むと、白骨と化した死体の腕を眺めていた。イノセンタスは、じりじりと後退していく。
片方だけ開いている両開きの扉まで戻ると、背後の廊下を見た。途端に、ぞわりと強い寒気が全身を襲った。
イノセンタスは、廊下を凝視した。ずちゃり、と水気のある足音が唐突に聞こえ、廊下の奥に人影が現れた。
一目見て、生きてはいない、と解った。透けた体の上半身は赤黒く染まり、腕にした剣は水面のように揺れている。
そして、その者の首はなかった。真新しく生々しい傷口の中心には、頸椎と思しき骨が、赤の中から覗いていた。
イノセンタスは、嘔吐感をぐっと飲み下した。ギルディオスへ向くと、弟は死体の手から剣を取り上げていた。
首のない亡霊を見つめていると、声のない声が感覚に直接聞こえてくる。イノセンタスは、無意識にそれを喋った。

「…そうか、お前達はあの男の手先か。我が一族を滅し、財を喰い尽くしたと言うのにまだ飽き足らないのか」

「何言ってんだ、イノ?」

剣を持ち上げたギルディオスは、廊下を見つめるイノセンタスに向いた。すると、兄の目の前に影が立った。
ギルディオスは、首のない亡霊と床に転がった死体を交互に見た。そのどちらも、着ている服が同じものだった。
ずちゃり、と足音が止まった。亡霊は肩を上下させていたが、片手を上げた。手袋を填めた手が、握られる。
突然、剣が浮かんだ。ギルディオスがぎょっとして手を放すと、剣は宙を飛び、首のない亡霊の手に収まった。
イノセンタスは、まずい、と本能的に察したが動けなかった。足に力を込め、立っているだけで精一杯だった。
首のない亡霊は、透けた手で剣を握った。剣の魔導鉱石がじわりと光を放ち、首のない亡霊の影が濃くなる。
イノセンタスはギルディオスの手前までずり下がると、杖を前に突き出した。何もしないより、良いと思った。
首のない亡霊は剣を握って構え、声を張り上げた。生者のように確かな響きのある声が、空気を震わせた。

「我が積年の恨み、身を持って知るが良い!」

「…なぁ、イノ」

木刀を構えながらずり下がったギルディオスは、顔をひきつらせた。

「幽霊って…喋れるんだな」

「じょっ、条件が揃ってるんだろ!」

イノセンタスが喚くと、首のない亡霊は踏み出てきた。徐々に間を詰めて、がしゃり、と足元の食器を踏み砕く。
剣に填まった魔導鉱石が、輝きを増した。居間に青い光が広がり、妖しげな空気の空間が出来上がっている。
首のない亡霊は、血が染みて袖の破れた腕を上げる。がちゃり、と剣を持ち上げた直後、踏み込んできた。
亡霊は無駄のない動きで、二人の頭上へ剣を振った。二人が反射的に屈むと、すぐ上の棚に剣先が埋まる。
どがっ、と古びた棚が抉られ、細かい木片が落ちてきた。イノセンタスが目を上げると、目の前に銀色があった。
滑らかな剣の側面に、青ざめた少年の顔が二つ映っていた。首のない亡霊は二人を見下ろし、声を荒げた。

「私とて、子供には手を掛けたくはない。だが、あの男の気配が、今し方までこの近くに存在していたのだ。貴様らがあの男の傀儡であることは確か!」

「なんだそりゃあ!」

ギルディオスは目を丸くし、首のない亡霊を指した。亡霊はギルディオスを見下ろすように、頭のない首を動かす。

「あの男は幼女のような姿をした魔導兵器を使う! 貴様らは、あれと同系統に違いないのだ!」

「まどうへいき?」

ギルディオスがオウム返しに言うと、イノセンタスは簡単に説明した。

「要するに、魔法で作られた機械だよ。普通の機械とは違って、構造も役割も何もかもが違うんだ」

首のない亡霊は、棚に突き刺さった剣を抜いた。ぱらぱらと木片が落ち、埃に覆われた床に小さな影が落ちた。
イノセンタスは、左右を窺った。右手に、別の部屋に繋がる扉がある。彼がそれを指すと、弟がその手首を掴む。

「あっちじゃねぇ!」

イノセンタスを引きずったギルディオスは、駆け出した。首のない亡霊の脇を抜け、閉じたままの扉の前に出た。
亡霊が振り向く前に扉を開けて出ると、乱暴に足音を立てて駆けていった。真っ直ぐに、廊下を進んでいく。
すぐ背後から、足音が追いかけてきた。イノセンタスは弟に引かれて走りながら、ちらりと後方を見、ぎょっとした。
剣を振り上げながら、首のない亡霊が追ってきていた。イノセンタスは叫ぼうとしたが、恐ろしさで声が出なかった。
ギルディオスに引かれ、二人は廊下を必死に走った。最初に入った広間を通り抜け、反対側へ続く廊下に入る。
その奧にあった階段を全速力で昇り、二階へと逃げる。二階に着くと足を止め、二人は荒い息を繰り返した。
肩で息をしながら、ギルディオスは階段の下を覗いた。首のない亡霊の姿はなく、音も声も聞こえてこなかった。
床に座り込んだイノセンタスは、額に滲んだ汗を拭った。動揺が収まらず、動悸で胸が痛くなってしまっていた。
ギルディオスはその隣に座ると、息を吐いた。あの亡霊が、ここまで凄まじい執念を持っていたとは知らなかった。
十も年上の幼馴染であるスミス・ガロルドから聞いた話は、嘘ではなかった。だが、最初は誇張だと思っていた。
死しても消えないほどの恨みを持った幽霊で、屋敷の侵入者を、全てその恨みの相手の手先だと思い込む。
そして侵入者を殺すために、幽霊が実体化して、更に武器を握って手当たり次第に襲ってくる。との話だった。
後者の話は信じたが、前者は信じていなかった。ギルディオスを怖がらせるために誇張したのだ、と思っていた。
事実、今までは、亡霊は現れるだけで何も起きなかった。剣を握らなかったし、追いかけて襲っても来なかった。
イノセンタスを引っ張り込んだのはある意味では正解だったかもな、と、ギルディオスは混乱した頭で考えていた。
生半可な剣術でも、何度も弱点を突けば大抵の人間は怯むが、幽霊にただの木刀が有効だとは思えない。
だが、魔法であれば別だ。知識ばかりを詰め込んでいる兄のこと、一つぐらいは有効な魔法を知っているはずだ。
ギルディオスはそれを聞こうと思い、へたり込んでいる兄に向いた。するとイノセンタスは、奥歯を噛み締めていた。
背を丸めて拳を握り、肩を震わせている。目には涙を溜めていて、一見して泣くのを堪えていると解る姿だった。
ギルディオスは埃にまみれた手で、がりがりと薄茶の髪を掻いた。木刀の先で兄の額を、とん、と軽く小突いた。

「お前なー。あれぐらいで泣くんじゃねぇよ、女じゃあるめぇし」

「うるさい! あんなのに追いかけられたってのに、びびりもしないお前の方が変だ!」

イノセンタスはぐいっと涙を拭い、ギルディオスに詰め寄った。

「どうして上になんて逃げたんだ! あの部屋には、隣の部屋に通じる扉があっただろう!」

「ありゃあダメなんだよ」

「どうしてそんなことが解るんだ!」

必死に喚きたてるイノセンタスに、ギルディオスはにまりとした。

「何度も来てんだよ。でもって、あの幽霊の行動も大分掴めてきたんだ。あいつな、なんでか知らないけど二階には上ってこないんだ」

「本当か?」

訝しげなイノセンタスに、ギルディオスは頷いた。

「おう。あれが喋ったのを聞いたのは初めてだけどさ」

「それじゃあ、あの居間の隣の部屋はどうなっているんだ?」

「客間みたいな部屋。でも、中はぐっちゃぐちゃなんだよ。だから、入っても無駄なんだ」

得意げなギルディオスに、イノセンタスは少し苛立った。自分より劣っているはずの弟が、優位に立っている。
いつも汚れて帰ってきては父親に叱られ、母親からは無能を責められ、勉強もせずに遊んでいるだけの人間だ。
そんなギルディオスに、少しだけだが上に立たれてしまった。それが腹立たしくて仕方なく、むかむかした。
イノセンタスは涙を全て拭ってから立ち、服を払った。階段の踊り場を見下ろすと、埃の下に二重の円が見えた。
二重の円の中心には、六芒星があった。魔法文字の並びや配置などで、これが呪術の魔法陣であると解った。
イノセンタスは階段を下りて踊り場までやってくると、足で埃を払い除け、床に描かれた魔法陣を露わにさせた。
その際、何かを蹴飛ばしてしまった。中心に据えてあった平たいものがころりと転がり、壁に当たって倒れた。
小さな丸い鏡が、転がっていた。イノセンタスはそれを拾うと、袖で鏡を磨いた。埃と油が取れ、きらりと光る。
ギルディオスも下りてくると、イノセンタスの肩越しに鏡を覗き込む。丸い鏡に、よく似た二人の顔が映った。
すると、激しい足音が廊下を走ってきた。階段の下に現れた亡霊は剣を振り上げ、どごん、と階段に足を乗せた。

「そこかぁ!」

首のない亡霊は、階段を上ってきた。イノセンタスは鏡を握り締め、背後のギルディオスに振り返る。

「なんだよ、さっきのは嘘じゃないか! あいつ、二階に上ってこようとしてるぞ!」

「嘘じゃねぇよ、この間はあいつ、二階に上ろうとしてその途中で消えちまったんだよ!」

ギルディオスは体を反転させ、階段を駆け上る。イノセンタスは弟に続き、転びそうになりながら二階に戻った。
首のない亡霊は踊り場にやってくると、一瞬、足を止めた。だがすぐに、段を踏み抜く勢いで駆けて来た。

「待てぇ魔導兵器め!」

「だぁからオレらは人間だっつの!」

ギルディオスが言い返すと、イノセンタスはその襟元を鷲掴み、弟の前を走った。力を込めて、襟元を引く。
ぐえっ、と背後からカエルの潰れたような声が聞こえたが、イノセンタスは気にせずに廊下を進んでいった。
一階ほどは荒れていない廊下を抜け、扉の開いていた部屋に飛び込む。すぐに、背中で扉を押して閉めた。
薄暗い部屋の中を見回してみると、ここは書斎だったようで、分厚い本の入った本棚が壁を埋め尽くしていた。
イノセンタスは、弟の襟元から手を放してやった。ギルディオスは喉元を押さえ、腹立たしげに兄に叫んだ。

「イノ、何しやがるんだよ!」

「お返しに決まってるだろ」

しれっと答えたイノセンタスに、ギルディオスは唸った。悔しげにしていたが、木刀で扉を指す。

「んで、これからどうすんだよ。あいつ、二階に上がって来ちまったぞ。原因は全部お前だろうけどな」

「僕もそう思うよ」

イノセンタスは、手に握り締めていた小さな鏡を掲げた。裏返してみると、うっすらと浅く魔法陣が刻まれていた。

「こいつは呪具だ。魔力が込められている感じもするし、たぶん、これがさっきの魔法陣を有効にしていたんだ」

「じゃあ、さっさと戻してこいよ」

「いや、戻しても同じさ。あの魔法陣を描いた人間は、かなり腕が立つね。だって、戻したところで呪いの効果は復活しないようにしてあるんだから」

イノセンタスは幼い声で、年齢に吊り合わない言葉を続ける。

「この呪い、かなりえげつないよ。相当に恨みが深いのか、物凄い冷血か、他人の不幸が楽しくて仕方ない奴か…そんな奴ぐらいしか、使わない呪いだね」

「そんなにえげつないのか?」

「えげつないんだよ。この呪いは反復の呪いって言って、一度した行動を際限なく繰り返させる呪いなんだ。だから、二階に上がろうとして失敗したことも忘れてしまうんだ」

「つまり、なんつーか、あれか? あの亡霊は自分が殺されたことも忘れちまって、来もしない恨みの相手を倒そうとしてんのか?」

「たぶんね。自分の死体があっても自分のだって解らないようにさせるのも、出来ないことはないよ」

えっげつないなぁ、とイノセンタスは眉根を曲げる。ギルディオスは、どがっ、と床を木刀で突いた。

「てことはー、なんだ。あいつ、割に可哀想なんだな」

「割に、じゃないよ。かなぁりね」

イノセンタスは杖を下ろし、埃まみれの床に先を滑らせた。二重の円と六芒星を描くと、魔法文字を書き始めた。
扉の向こうから、床板を踏む音が近付いてきた。二人を探しているのか、扉を開ける音も聞こえてきている。
イノセンタスは魔法文字を書き終えると、魔力を高めた。みしり、とすぐ近くで床が軋む音がし、気配も近い。
書斎の扉の前で足音は止まり、ぎちり、と錆び付いた取っ手が回される。ぎっ、と扉が押し開かれ、隙間が開く。
次の瞬間、杖が振り下ろされて魔法陣に突き立てられた。イノセンタスは、開いた扉の奧に立つ亡霊を睨む。

「冥府より来たれし亡者よ! 我が言葉を戒めとし、我が力を鎖とし、彷徨える魂に束の間の牢獄を与えたまえ!」

魔法陣の周囲の温度が下がり、冷たい風が起きた。ギルディオスは、舞い上がった埃と風に思わず目を閉じる。
目を擦ってから開くと、イノセンタスは魔法陣に突っ立っていた。両手で杖を握り、息も荒く、肩を怒らせていた。
逆光の中、首のない亡霊は凍り付いていた。部屋に踏み入ろうとした格好で、開いた扉の前で固まっている。
イノセンタスは後方にいるギルディオスに、多少上擦った声で怒鳴った。兄を取り巻く空気は、冷え切っている。

「早くしろ、ギルディオス!」

「何が?」

「だから、さっさとあいつの剣を奪うんだよ! でもって、その剣でこいつを割ってくれ!」

イノセンタスは、ギルディオスに丸い鏡を投げた。弟が受け取ったのを確かめてから、兄は亡霊を見上げる。

「あの亡霊が体を得ている理由は至って簡単だ、あの剣の魔導鉱石に結構な量の魔力が溜まっているからだ! その魔力を反復の呪いにぶち当てて相殺させれば、なんとかなるはずだ!」

「はずだ、って…。イノも結構いい加減だなー」

「ぐだぐだ言ってないでさっさと動けよ! こっちはしんどいんだから!」

魔力を乱さないようにしながら、兄は声を荒げた。なぜか魔力が高まらず、魔法を維持するので精一杯だった。
苛立つイノセンタスの態度に、ギルディオスは仕方なしに首のない亡霊に近付いた。戦意は、少しも湧かなかった。
動けない者と戦っても、面白みがない。ギルディオスはイノセンタスにそう言おうとしたが、兄の形相は必死だった。
相当力んで杖を握っているのか、顔は紅潮している。あまり持ちそうにない、と察し、弟は亡霊に向き直った。
首のない亡霊は、剣を振り上げていた。固まっていても意志が少しは働くのか、剣を持つ右手が震えている。
ギルディオスは木刀を握り、だん、と床を蹴った。高く跳躍して亡霊の頭上に出ると、真上から木刀を振り下ろす。

「だっ!」

ごしゃっ、と柔らかな音がした。首の中心に木刀を叩き付けると、意外に亡霊は固く、木刀はべきりと折れた。
渾身の打撃は、首の中心に露出している頚椎に丁度良く当たっていた。打撃と同時に、生温い血と肉片が散る。
ギルディオスは生々しい感触にぎょっとしたが、折れた木刀から手を放して着地した。亡霊は、ぐっと仰け反る。

「がっ…」

脊椎を直接殴られて痺れたのか、後退った。膝を折ると、剣を持っていた右腕を下ろし、がちゃりと剣を落とした。
床に膝を付いたギルディオスは、腕に付いた血飛沫を拭った。つんとした鉄臭さがあり、真新しいものだった。
ギルディオスは剣を拾うと、魔法陣に杖を突き立てている片割れに向いた。兄の顔色は、血の気が失せている。
こりゃやばいな、とギルディオスは思い、重たい剣を起こした。床に丸い鏡を置き、力を込めて剣を持ち上げる。
切っ先が、平らな鏡面に映った。ギルディオスは鏡の中心に切っ先を合わせると、呼吸を整え、一気に落とした。
剣が鏡面を貫き、ばきん、と硬い音が響いた。丸い鏡は中心から綺麗に半分に割れて、半月のようになった。
ギルディオスは、剣から手を放した。直後、剣に埋め込まれていた魔導鉱石にヒビが走り、ばん、と破裂した。
どん、とイノセンタスは膝から魔法陣に崩れ落ちた。顔色は真っ白くなっていたが、杖は握り締めていた。
木刀を叩き込まれたままの亡霊は、姿勢が揺らいだ。首に刺さっていた折れた木刀が、ごん、と床に落ちる。
二人は、一度目を合わせた。そして、首のない亡霊を見上げた。血に染まった上半身が、徐々に透けていく。
亡霊は己の両手を、顔があったであろう位置に差し出した。肩を落とすと、激情の失せた穏やかな声で呟いた。

「…私は」

「天上に行くんなら、さっさと行けよな」

ギルディオスがぐったりしながら言うと、首のない亡霊は少し笑ったような声を出した。

「ああ、そうさせて頂くよ。しかし、驚いた。この家の二階には、あの男の呪術に対抗するために、それなりに強力な魔法封じを施してあったのだが…。よく、君のような子供が魔法を放つことが出来たな」

「魔法封じねぇ。通りで、大したことない魔法を使っただけで馬鹿みたいに消耗するわけだ。そうか、だからあなたが来られないようになっていたのか。魔法封じの中だと、せっかくの呪いも効果が半減しちゃうからね」

あーもうめんどっちい、とイノセンタスは汗の滲んだ額を拭った。首のない亡霊は、半透明の手を胸に当てる。

「ああ。その上、あの踊り場に来るたびに呪詛を掛け直されてしまってね。全く、ひどい目にあったものだよ」

「ま、良かったじゃねぇか。これで、あんたは楽になったんだろ?」

ギルディオスが笑うと、首のない亡霊は頷くように根元だけの首を動かした。

「ああ」

死臭を含んだ風が、ゆらりと起きた。その風が通り抜けていくのと同時に、亡霊の姿は薄らぎ、消え失せた。
亡霊のいた場所には、血の滴る折れた木刀が落ちていた。床に刺さった剣の両脇に、半分の鏡が光っている。
ギルディオスは、割れた鏡を二つとも拾った。裏返すと、刻まれていたはずの呪詛の魔法陣が消えていた。
不思議そうにしているギルディオスに、イノセンタスはその手元を覗き込んだ。ああ、とやる気なく呟く。

「それね、簡単な芸当。魔法陣をちょっといじれば、使った後に消せるんだ。ま、そのちょっとが難しいんだけど」

「ほい」

ギルディオスは、割れた鏡の半分をイノセンタスに差し出した。イノセンタスは、顔をしかめる。

「なんでそんなもん、寄越すんだよ。呪具なんていらないよ」

「魔法陣が消えたんなら、ただの鏡じゃねぇか。だったらこれは、オレとイノの戦利品だろ?」

オレはこっちな、とギルディオスは片方をポケットに突っ込んだ。イノセンタスは、渋々半分の鏡を受け取った。

「まぁ…そうだけどさ」

「うちに帰ったら、まーた親父に怒られるんだろうなぁ」

「間違いなくね。お前に引き回されたせいで思いっ切り汚れたし、今日の分の勉強もさぼっちゃったしさぁ」

半分の鏡をポケットに入れてから、イノセンタスは立ち上がる。埃に汚れた服を払い、杖を肩に担いだ。

「あーあ。なんか、帰る気失せる」

「帰らなきゃいいんじゃねぇの? そしたら、もっと遊べるぞ」

あっけらかんと笑うギルディオスに、イノセンタスは背を向けた。亡霊の足跡の残る廊下を、どかどかと歩いていく。

「そんなわけにいかないだろ!」

「なぁイノ」

イノセンタスに追いついたギルディオスは、横から顔を出してきた。イノセンタスは、むっとする。

「なんだよ」

「外、面白ぇだろ」

「まぁ、ね」

イノセンタスは、少しだけ笑った。ギルディオスは、なら良かった、と嬉しそうに言って隣を通り過ぎていった。
屋敷を出た二人は、疲れてはいたが機嫌は良かった。王都への道を歩きながら、今日の出来事を話し続けた。
イノセンタスは、久々の開放感と冒険の興奮に酔っていた。だが同時に、両親や家庭教師への罪悪感を覚えた。
勉強から逃げ出した自分を見て、父親はどれほど落胆するだろう。母親は、どれほど幻滅してしまうだろうか。
その様子を想像し、イノセンタスは途端に気分が萎えた。外に出ることは楽しいが、その代償はあまりにも大きい。
明日は、今日の遅れを取り戻さなくてはならない。その勉強量と時間を思い、イノセンタスはげんなりした。
ギルディオスは隣を歩きながら、自身の活躍を喋っている。奔放な弟が羨ましく、そして妬ましくてならなかった。
イノセンタスはその思いを堪え、次第に近付いてきた王都の城壁を見上げた。外へは、もう出ないほうがいい。
外の世界と弟への羨望が、大きくなってしまうだけだ。そうなっては、勉強など手に付かなくなってしまうだろう。
イノセンタスは感情を殺すため、ポケットに手を入れて半分の鏡を握った。割れた部分が、手のひらに食い込む。
手の中の痛みは、冒険の代償だ。するべきことから逃れて遊び呆けてしまった自分への、戒めであり罰だった。
忌むべき存在である弟と、馴れ合ってはいけないと教えられたはずなのに。両親の言葉を、裏切ってしまった。
イノセンタスは、ポケットから鏡と手を出した。手のひらの皮が薄く切れていて、うっすらと血が滲んでいた。
鏡に映る顔は、ギルディオスと同じだった。傍らのギルディオスを見ると、ギルディオスは満足げに笑っていた。
これを、憎まなければならない。明日からはまた普段通り、弟を忌み嫌い、力のなさを責めなければならない。
ほんの少し疑問を感じたが、仕方のないことなんだ、それがヴァトラスなんだ、と兄は自分に言い聞かせた。
そうでなくてはならない。そうあるべきだから、そうするのが当然なのだ。そう思いながら、感情を押し込めた。
何が違う。何もかもが違う。鏡の表と裏のように、互いを映し合うことはないが、離れてしまうこともない。
イノセンタスは、鏡の半分を握り締めた。鋭い痛みはもう一つ生まれ、温かな血の感触が指の間を伝っていく。
痛みの中に、手の中の鏡に、兄は弟への思いを封じた。




兄と弟が、割れた鏡を手に入れた日。それは、束の間の冒険だった。
沿っていたはずの道は、並んでいたはずの目線は、交わっていたはずの心は、いつしか逸れていく。
片割れ同士は盤の上で踊らされ、憎み合い戦い合い、朽ち果てる道へと進むのである。

だが、幼子である今は、未来など知る由もないのである。






05 8/29