「透は」 正弘は急須を傾けて二杯目の緑茶を自分のティーカップに注ぎ、透のティーカップにも注ぎ足した。 「好きな奴は、いるのか?」 途端に、透の肩がびくっと動いた。 「あ、あの、それ、絶対に、い、言わなきゃ、ダメ、です、か?」 「いや。言わなくてもいい。でも、いるんだな」 正弘は急須を置いてから、顔を上げる。透は真っ赤になり、薄い耳朶まで赤らめている。 「…はい」 空気の漏れるような音で、声というには儚すぎる囁きだった。正弘は、緑茶の湯気越しに透を見据える。 「オレもだ」 え、と透の目が大きく見開かれた。正弘はないはずの心臓が跳ね、胸が締め付けられるような感覚に苛まれた。 事実を肯定するだけの言葉とはいえ、恥ずかしいものは恥ずかしい。体が火照ってくるような、錯覚も覚えた。 透は正弘をちらちらと見ているが、正視しようとはしなかった。正弘も照れているが、透まで照れているのだ。 いつのまにか、二人のティーカップから湯気が消えていた。正弘は、すっかり冷めてしまった緑茶を少し啜った。 「誰だか、予想は付くよな?」 「えと、その、あの、えっと。たぶん、ムラマサ先輩が、好きなのは」 緊張で僅かに潤んだ透の目が、正弘を捉える。 「ゆっこさん、です、よね?」 ティーカップを置き、正弘は頬杖を付いた。 「どの辺で気付いた?」 「この間の、保健室の、時に…」 透は淡いグリーンのパーカーの裾を、ぎゅっと両手で握り締める。 「だって、充電って言っても、全部脱ぐ、必要は、ないじゃないですか。だから、きっと、何か、あったんだなって」 ゆっこさんと、と透は遠慮がちに付け加えた。正弘は、一笑する。 「ああ。あったと言えばあった。何があったのかは、説明しないでおくよ。オレも、思い出すと恥ずかしいから」 保健室で何があったか想像してしまいそうになったが、邪推するのは良くない、と透は思い直して自制した。 透は、鋼太郎とのことを言おうかどうしようかと迷っていた。だが、この気を逃したら誰にも言えなくなってしまう。 正弘は、内に抱えていた秘密を明かしてくれた。だからこちらも明かすべきだ、と透は意を決して話を始めた。 「それと、最近、黒鉄君が」 「鋼がどうした」 正弘の声色が、急に強張った。透は、表情の見えない彼の顔を見つめる。 「この間、保健室から帰る時に、私に、言ったんです。鋼ちゃんでいい、って」 「そう呼んだことがあるのか」 「本当に、少しですけど。それに、最近、黒鉄君は、ゆっこさんを、あんまり、見ていないんです。その代わり、よく、私と、目が合うんです。だから、何か、不思議だなって、思っていて」 「そうか…」 正弘は、ひどく重苦しげに漏らした。透は、一呼吸置いた。 「そんなこと、ないかもしれないけど、でも、もしかしたらって、思って。本当に、本当に、もしかしたら、黒鉄君は」 「鋼は、透のことが好きなんだ」 透の次の言葉を待たずに、正弘が言い切った。透が、浅く息を吸い込む。 「あ…」 正弘は、努めて平静を装った。 「ゆっこも、それに気付いている。鋼はゆっこを侮っているからな、気付かれていることに気付いていなかったんだ。まぁ、でも、この間、気付かせてしまったみたいだけどな。あんなこと、言わなきゃ良かったな。いや、言わなくても、事態は変わらないか。ただ、変化が起きるのが遅くなるか早くなるかだけだ」 たとえ、変化を望んでいなくても、現状を連ねることを願っていたとしても、人間同士なのだから変化は発生する。 心は、自在に形を変えるものだ。最初の形を長く保つことがあるかと思えば、些細なことで大きく違えたりもする。 一度起きた変化は、修正出来るはずがない。表面上は元通りになったとしても、完全に戻ることは有り得ない。 居心地の良い、サイボーグ同好会という友人関係が変わってしまう。仲の良い四人では、なくなってしまう。 正弘は、敢えてその均衡を破る役割を背負おうというのだ。皆に起きた変化を、表へと引き摺り出すつもりだ。 だが、そうなれば正弘が選ぶ選択肢は限られている。透は正弘の様子を窺っていたが、ごく小さく呟いた。 「あの…」 「透」 すかさず、正弘が遮った。だが、透も精一杯の勇気を出して続けた。 「ムラマサ先輩は、ゆっこさんを、諦めるつもりなんですね?」 「まぁ、な」 自嘲気味に、正弘はかすかに笑った。 「それが、一番いいんだ。ゆっこは鋼が好きなんだ、だから、オレが横から入って邪魔をするべきじゃない」 「でも」 それでは、正弘の心が蔑ろにされている。透が眉を下げると、正弘は上体を逸らしてソファーに沈めた。 「大体、オレのは勘違いみたいなもんなんだ」 「勘違い、ですか?」 「そうだ。勘違いなんだよ、最初から」 正弘は、無理矢理口調を明るくしていたが、苦しげだった。泣き出すのを、堪えているかのようだ。 「凄く嬉しかったんだ。鋼がオレの相手をしてくれて、ゆっこがオレに話し掛けてくれて、友達になってくれたことが。下手な同情なんじゃかない、オレをちゃんと人間として見てくれて、昔のことを聞かないでいてくれて。他人と喋るのがこんなにも楽しいんだって、明日が来るのはこんなにも気持ちいいんだって、学校も悪いもんじゃないって、一人きりなんかじゃないってことを、教えてくれたからさ。本当に、好きなんだ、鋼もゆっこも」 その声は、上擦りながらも詰まっていく。 「だから、ゆっこからちょっと優しくされただけで勘違いしたんだ。鋼には出来ないことを相談しに来てくれたってだけで、オレはゆっこの中で特別なんだって思い上がった。手を握られただけで、舞い上がった。気を許されていることを、頼りにされているんだと間違えて認識した。だから、それだけなんだよ。オレが勝手に、その気になっていただけなんだ。間違いなんだ、全部」 正弘の大きな肩が、小刻みに震えている。透は弾かれるように立ち上がり、突然、声を張った。 「まっ、間違いなんか、ないと思います!」 透は興奮で頬を赤らめ、両腕をぴんと突っ張っている。 「勘違いなんかじゃないです! 思い上がりでもなんでもないです! だって全部本当のことじゃないですか!」 透は、いつものどもりがちな喋り方から懸け離れた、発音のはっきりとした言葉を張り上げた。 「ゆっこさんが優しいのはムラマサ先輩のことが好きだからで、ムラマサ先輩に相談してきたのはムラマサ先輩なら頼れるって思ったからで、ムラマサ先輩がゆっこさんを好きなのも本当のことじゃないですか! それぐらい、私にだって解ります! だって、友達なんですから!」 その叫びが落ち着くと、荒らげた息を整える音だけがリビングに響いた。透は、目元に涙すら浮かべている。 「だから、そんなこと、言わないで下さい」 透は張り詰めていた緊張が途切れたのか、崩れ落ちるようにソファーに座った。正弘は、ただ呆然としていた。 まさか、透に怒鳴られるとは思ってもみなかった。驚きすぎて、先程までの陰鬱とした感情が吹っ飛んでいた。 正弘が落ち着こうと自分を宥めていると、透は、ごめんなさい、と小さく謝ってきた。メガネの下の、目元を拭う。 「私なんかが、こんなこと、言っちゃ、いけませんでしたよね」 「いや…」 正弘は戸惑いが残っていたが、首を横に振った。透からはっきりと怒られたおかげで、正気を取り戻していた。 百合子の気持ちの行く末を思い悩むあまり、いつのまにか自分自身の心を否定してしまい、卑下してすらいた。 そうすれば、結果として百合子は幸せな方向に向かうかもしれないが、自分自身は下へ下へと向かってしまう。 それでいいんだ、そうなっても仕方ないんだ、それが必然なんだ、と常日頃から頭の片隅で思ってしまっていた。 だから、その延長で自分を貶めてばかりいた。自分本位でいるよりもいいかもしれないが、決して良くはない。 「えっと、あの」 透は場を取り繕うためなのか、電気ポットを引き寄せて急須の中に新しいお湯を淹れた。 「お、お兄ちゃんが、前に言っていたんですけどね」 急須の八分目ほどまで湯を入れてから、二人のティーカップの中に注ぎ込んだ。 「悪いことは、いつまでも続かないって、終わるんだって、その代わり、とてもいいことが来るんだって」 「だと、いいんだけどな」 正弘は透の淹れた緑茶を、飲用チューブで吸い上げた。透も少し飲んだが、また熱さに顔をしかめている。 透は、百合子とは違った意味で弱い。正弘がそんなことを考えていると、透はティーカップをテーブルに置いた。 「それに」 透の眼差しが、冷たくなった。 「そうじゃないと、割に合わないじゃないですか」 彼女の右手が、左腕を掴んでいる。先程の叫びとも、普段のおどおどした口調とも違い、怒りを宿していた。 正弘は、そうだな、とだけ返した。話し込んでいたせいで表面が乾いてしまった栗羊羹を取り、口の中に入れた。 透も今になって思い出したのか、皿の上に残っていた一切れを囓った。少し不満げだったが、すぐに笑顔になる。 正弘はすっかり落ち着きを取り戻したが、透は正弘に叫んでしまったことが恥ずかしいのか、目を伏せている。 その仕草や表情からは、一瞬だけ見せた冷ややかなものは窺い知れない。だが、あれも透の一部分なのだ。 親密に付き合っているので、相手の全てを知り尽くしたかのような錯覚に陥るが、それこそが思い上がりだ。 サイボーグ同好会として、仲の良い友達として、校舎裏で言葉を交わしている時の表情は本物だが全てではない。 だが、これからはそういった部分も知っていきたい。全てを知って、受け止めてこそ、本物の友達になれる。 その後、正弘と透はお喋りに興じた。透が最近描き溜めたスケッチや水彩画を、見せてもらったりもした。 話題の中心は、学校のことだ。十月の文化祭や、正弘が十一月に行く修学旅行や、正弘の高校受験など。 正弘が静香との共同生活の大変さを嘆くと、透も兄の泥に汚れたユニホームの洗濯の面倒さを語ったりした。 他愛もない会話だけで時間は呆気なく過ぎ去り、透が帰る時間になってしまったので、彼女は帰宅した。 正弘は、町営住宅の外まで透を見送ってから考え込んだ。これからどうするか判断し、決めるために。 何をどうすればいい、どうやれば誰も傷付かずに関係を維持出来る、と思い悩んだが、出る答えは一つだ。 透の言葉は嬉しい。好きな気持ちは間違いでもなく、また示された好意も間違いではない、と言ってくれた。 自分でも、そうだとは知っている。紛い物なのは体だけであって、心は本物だ。だから、感じたものも本物だ。 しかし、そうだとでも思わなければ決断が鈍ってしまう。勘違いだったのだ、としなければ辛くなってしまう。 初めての恋だった。恋愛とは無縁だと思っていたのに、友人として好きだっただけなのに、女性として見ていた。 病弱さや闘病の辛さを一切表には出さず、四人の中で誰よりも元気で笑い声を転がしている、彼女が好きだ。 手渡してくれたスポーツドリンクの味が、忘れられない。握られた手の温かさと柔らかさが、忘れられない。 抱き締めてしまった体の弱々しさと、震えた泣き声と、それでも鋼太郎が好きだと笑む、表情の切なさが消えない。 これ以上好意を抱いたら辛くなると解っていても、好きになるのは止まらない。心の中が、彼女に支配されていく。 恋とは不思議だ。彼女が、百合子が幸せでさえあるなら、何を切り捨てても構わないと思えてしまうのだから。 病に、良く似ている。 06 12/20 |