手には、まだ感触が残っていた。 正弘は頭上に右手を翳し、見つめていた。角張った指が緩く曲がり、手のひらには泥の汚れが薄くある。 誰かとボールをやり取りしたのは、久々だ。会話したのも、相手をしてもらえたのも、しばらくぶりだった。 素直にそれを嬉しいと思いたかったが、思わなかった。どうせ一時のことだ、続きはしないんだ、と諦めた。 背中に感じるコンクリートが硬く、手の上に見える空は高い。囲いのない屋上を、冷たい春風が抜けていく。 ここは誰も来ない。冬には雪が多く降る地域なので、屋上は作られておらず、普段から解放されていない。 扉の鍵は閉まっているが、やろうと思えば開けられないこともないので、勝手に開けて入るようになっていた。 教師達はそれを知っているようだが、見て見ぬふりをしている。正弘を叱ろうとせず、ずっと放置している。 叱られれば、やめるつもりだ。だが、誰も叱らない。叱られた自分が怒ったりすることを、危惧しているからだ。 誰も彼も、正弘を普通の人間として扱わない。人間ではないから叱らないし、遊ばないし、話し掛けないのだ。 一時はそれでいい、と思ったこともあったが寂しいものは寂しい。泣きたくなる時もあるが、涙は一滴も出ない。 正弘は掲げていた右手を下ろし、寄り掛かっているコンクリートの壁に体重を預けた。関節が、ぎしりと軋む。 「外野のレフトか」 小学校にも中学校にも野球部がないので、恐らく少年野球チームに所属していた頃のポジションだろう。 彼の名は確か、黒鉄鋼太郎だ。全校集会で校長が、彼が事故に遭ってサイボーグと化した、と言っていた。 彼とは、小学校は一緒であるはずだ。鮎野町は全人口が少ないし規模が小さいので、小学校も一つだけだ。 だから、エスカレーター式にも似た状態となり、小学校にいた子供がそっくりそのまま中学校に進学している。 なので、彼の姿を一度は見たはずだがさっぱり覚えていない。いや、覚える必要などないのだと考えていた。 誰も友人ではないのだから、これからも友人になどならないのだから、覚えていたところで記憶容量の無駄だ。 鋼太郎もそうだ。どうせ彼も友人にはならない、忘れてしまおう。と思っても忘れる気になれなかった。 というよりも、なぜ話し掛けてしまったんだろう。自分らしくないな、と自嘲したが今更どうにもならなかった。 ネットを相手に投球練習を続ける鋼太郎の姿は、遠目に見ても楽しそうで、表情は解らないが生き生きしていた。 それが、無性に羨ましかった。球を投げることがそんなに楽しいのかと思ったが、やってみたら楽しかった。 あのまま続けたいとも思ったが、それでは鋼太郎に迷惑が掛かる。彼は自分とは違い、友人がいるのだから。 やけに体の小さい、だが目が大きくて可愛らしい少女と鋼太郎が、登下校を共にしているのを目にしている。 校内で二人が話しているのを見たこともあるし、傍目に見ても仲が良いのが解る。それを、邪魔してはいけない。 「やるんじゃ、なかったな」 鋼太郎に声を掛けなければ、ボールを投げてもらわなければ、投げ返さなければ、楽しいと思わなければ。 彼を、妬ましいと思うことはなかった。友人がいることを羨むことも、自分の寂しさを感じることもなかったはずだ。 友人なんて、いない方がいいんだ。いなければいないでどうにかなるものだし、いたらいたで煩わしいだけだ。 正弘は、そう思い直した。中学校を出たら高校には進学せずに自衛隊へ入るのだから、学校などどうでもいい。 それなのに、なぜこんなに空しいのだろう。正弘は複雑な感情を持て余してしまい、ただぼんやりしていた。 すると、声が聞こえてきた。背を預けている壁の右側にある扉の向こうから、鋼太郎のものと思しき低い声がした。 「おい、へばるなよ、これぐらいで」 誰かを咎める言葉。それに続き、少女の弱り切った声がする。 「だ、だってぇ、一階から三階までって遠いじゃんかー…。しかも、鋼ちゃん、早いー…」 「ぼやぼやしてたら、昼休みが終わっちまうだろうが」 「だ、だからってぇ、ほとんど、二段飛ばしで、昇らないでよぉー…」 荒い息の合間に、声も幼ければ口調も幼い声が混じる。そして、鋼太郎の声。 「たまに三段飛ばしてたぞ」 「えぇー…。有り得なぁーい…」 「さっさと来いよ、ゆっこ。置いていくぞ」 「でも、さっきの先輩がそっちにいるなんて限らないよお。扉、鍵が掛かってるはずだし」 「けど、他に場所があるか? グラウンドにも校舎裏にも体育館裏にも教室にも図書室にもいなかったんだから」 消去法だ、と鋼太郎が付け加えると、ゆっこと呼ばれた少女が言い返す。 「体育館と職員室と保健室と食堂とプール脇の倉庫と体育準備倉庫と焼却炉と、他の教室が入ってないよ?」 「いちいち突っ込むな」 「鋼ちゃんのそれ、消去法と違うよー。ただの当てずっぽうじゃんよー」 息を整えてから、少女はけらけらと笑う。鋼太郎は、ちょっとむきになっている。 「るせぇ!」 当たりゃいいんだよ、と言いながら鋼太郎が扉のノブに手を掛けた。がしゃり、と正弘の顔の脇でノブが回る。 回りきったが、開かなかった。扉の向こうで二人が、開いてたな、開いてたね、と驚いた様子で言い合っている。 しばしの沈黙の後、慎重に開かれた。扉を開けたのは鋼太郎ではなく、あの、小柄な二年生の少女だった。 扉を半分ほど開けた後、正弘を見ていたが、屋上を見渡した。わぁ、と物珍しそうに歓声を上げて屋上に出た。 「結構広いよー、ここ!」 「そりゃそうだろう、屋上だからな」 彼女に続いて、鋼太郎が屋上に出てきた。後ろ手に扉を閉めた鋼太郎は、正弘に気付き、扉を指した。 「あの」 「ん?」 正弘が鋼太郎を見上げると、鋼太郎は声を潜めた。 「ここ、開いてたんすけど、先輩が開けたんすか?」 正弘は、素っ気なく返す。 「まぁな。針金突っ込んでいじくってたら、開いたんだ」 「勝手に開けちゃって、いいんすか?」 鋼太郎が更に声を潜めたので、正弘は平坦に言った。 「いいわけがないだろう」 「そっすよね…」 どうしよう、と思いながら、鋼太郎は屋上に立つ百合子を見た。感心しながら、周囲の景色を眺めている。 二年生の教室よりも一階と少し高いので、見える景色は似ているが少し違い、遮るものがないので良く見える。 中学校の近くに広がる広い田園も、中学校の脇から伸びる道路も、それに沿った土手と川も、遠くの山脈も。 この町での唯一の鉄道手段、JR鮎野駅がある町の東側に繋がる橋が二つ、鮎野川の上に横たわっていた。 その手前の橋を、一両編成の電車が通っていく。ワンマン運転の車両なので、外観はバスのようにも見える。 町を囲んでいる山々の奧に見える越後山脈は、いずれも山頂が鋭く尖っていて、分厚い雪に覆われている。 吹き付ける風には、雪解けで露出した土と芽吹き始めた草木、川から運ばれた水の匂いが混ざり合っている。 「彼女は」 正弘がいきなり話し掛けてきたので、鋼太郎は少し慌てた。 「あ、はい」 「君の友達なのか?」 「ああ、まぁ、そうっすね」 鋼太郎は、百合子に顔を向けた。真上を見上げており、肩から落ちた黒髪が風に弄ばれて乱れている。 薄い唇を半開きにして空に見入っていたが、風で目が乾いたらしく、しきりに瞬きして長い睫毛を揺らしている。 「一応、そんなところっす」 「完全な生身なのか?」 「いや…その」 百合子の人造心臓のことを言おうとしたが、鋼太郎は言葉を濁した。こういうことは、易々と話すべきではない。 鋼太郎が言おうか言うまいか迷っていると、百合子がくるっと振り向いた。正弘に、柔らかな笑顔を見せる。 「心臓が機械です。だから私も、鋼ちゃんと同じサイボーグなんですよ。あ、私、白金百合子って言います」 百合子は、青いリボンを付けたセーラー服の胸元に手を当てた。 「生まれつき心臓がダメだったんで、それで、交換したんです」 「そうか」 正弘が呟くと、はい、と百合子は頷いた。鋼太郎は、正弘を見下ろす。 「ところで、なんで、さっきは帰っちゃったんすか?」 「君こそ、なんでオレなんか探していたんだ?」 正弘は訝しみながら、鋼太郎を見上げた。鋼太郎はその理由を答えようとしたが、考えてみれば理由などない。 キャッチボールの続きをやろうにも、もう昼休みは終わりに近い。それに、誘っても受けてくれるとは限らない。 自分でも、よく解らなかった。だが、グラウンドを立ち去った正弘がどこに行くのかが、無性に気になった。 そして、探し出した。正弘を見つけたのはいいものの、何を話そうかなど鋼太郎は全く考えていなかった。 答えるに答えられず、鋼太郎は唸った。何かしたいような気もするが、そのしたいことがまるで思い当たらない。 「なんでなんすかねぇ…」 「オレに聞かないでくれ」 「そっすよね…」 正弘にもっともなことを言い返されてしまい、鋼太郎は内心で苦笑した。オレ、何やってんだろう、と自嘲した。 追いかけてきてはいけなかったのかもしれない。この屋上は正弘の領域であり、彼の居場所かもしれないのに。 その場所に百合子と一緒に踏み込んでしまったのは、まずかったのではないか。今にして、そんなことを思った。 そうだとしたら正弘に悪いから、とりあえず謝っておこう。鋼太郎は正弘に向き直ると、深く頭を下げた。 「来ちゃ行けなかったんなら、すんません」 それを見、百合子はきょとんとする。 「なんで、鋼ちゃんが謝るの? 一緒に遊ぼうって誘いに来たんじゃないの?」 「お前と一緒にするな! まぁ、そりゃ、ちったぁそういうのがあったかもしれねぇけどさ」 百合子に言い返してから、鋼太郎は正弘に目を戻した。正弘は、驚いたようだった。 「オレと?」 「あー、まぁ、はい。なんつーか、久し振りだったんすよ、誰かと投げ合ったのって」 鋼太郎は少々照れくさくなり、照れ隠しにグローブを叩いた。 「体がこんなのになっちまったから、誰もオレと投げ合ってくれないんすよ。だから、なんてーか、嬉しかったんすよ、オレ。たったの一球だけでしたけどね」 「鋼ちゃんは野球馬鹿だからねー。野球絡みのことが出来れば、それで幸せなんだもんねー」 百合子がにやにやすると、鋼太郎はばすんとグローブを殴り付けた。 「いいじゃねぇかよ」 正弘は、鋼太郎の言葉が意外だった。たったあれだけのことが嬉しかったのは、自分だけではなかったのか。 だが、あれはただの気の迷いだ。鋼太郎の姿を見ていたのも、彼に声を掛けたのも、球を投げてもらったのも。 自分以外のサイボーグがいることが珍しかったから、ネットを相手に投げ込む鋼太郎が、楽しそうだったから。 そして、彼なら自分を相手してくれると、思ったから。彼となら友人になれる、と淡い期待を持ってしまったから。 鋼太郎と百合子は、何やら言い合っている。非常に下らないことだが、それでも二人は妙に必死になっている。 まだ真新しさを残している鋼太郎のマスクフェイスには、それに似た正弘のマスクフェイスが映り込んでいる。 彼の申し出は嬉しい。今の今までそんなことは一度もなかったから戸惑いもしたが、それを上回っている。 だが、それを認めてしまうのには躊躇いがあった。友人は必要ない、これからもずっとそうだ、と思っているから。 「オレは、別にどうも思っちゃいないさ」 正弘は立ち上がると、尻を払って砂を落とした。 「お前ら、あんまりオレには関わらない方がいいぞ。ろくなことにはならない」 引き留める声が聞こえたが、正弘は扉を開けて校舎の中に戻った。薄暗い階段を下りたが、足は進まない。 二人は同じサイボーグだ、人間じゃない。だから同情しているだけだ、解ったふりをして近付いてきただけだ。 嬉しい、だなんて嘘だ。遊びたい、だなんて有り得ない。こんな機械の固まりと、普通に遊べるものか。 馬鹿馬鹿しい、何を期待しているんだ。一球、投げ合ったぐらいで、何がどうなるというわけでもないのに。 正弘は階段を下りて三階に戻り、教室に向かおうとしたが足を止めた。なんとなく、屋上に振り返ってみた。 扉を開けて顔を出しているのは、またしても百合子だった。階段の下に正弘を見つけると、足早に下りてきた。 「あの」 「さっさと教室に行かないと、授業が始まるぞ」 正弘が立ち去ろうとすると、百合子は踊り場で立ち止まった。 「あの、本当に気が向いたらでいいんですけど、本当に本当にそれでいいんですけど」 緊張しているのか、百合子の表情は強張っていて声は上擦り気味だった。 「良かったら、鋼ちゃんの相手、してやって下さい」 「集団にとけ込めない子供の親みてぇなこと言うな」 鋼太郎は百合子の背後にやってくると、申し訳なさそうに頭を下げた。 「すんません」 「そりゃ私だって、出来るなら、鋼ちゃんとキャッチボールしたいけど、私は鋼ちゃんの球なんて捕れないんだもん。速いし重いし痛いし。だから、鋼ちゃんの球を捕れる人にお願いするしかないじゃんかー」 百合子は、不満げに唇を尖らせる。鋼太郎は、少し呆れたようだった。 「だからってなぁ」 正弘は二人を見上げていたが、背を向けた。 「早く授業に行けよ」 三年生の教室がある三階に降り、正弘は足早に歩いた。二人の声が聞こえないように、出来るだけ離れた。 三階の廊下には、昼休みの残り時間が少ないので戻ってきた生徒達がおり、気の合う仲間同士で喋っている。 彼らは教室にやってくる正弘を一瞥したが、また会話に戻った。正弘も、彼らを見ずに、教室の中に入った。 教室の一番後ろの、右から三番目の机が正弘の席だ。机も椅子も一回り大きいものなので、目立っている。 椅子を引いて腰掛け、息を吐くつもりで排気した。体の内に籠もっていた熱が、空気と共に外に出ていった。 男子生徒達が一つの机に固まって、大声で喋っている。何が可笑しいのか解らないが、時折笑いが爆発する。 窓際では、女子生徒達が高い声を上げていた。正弘はそれらを聞かないために、聴覚の感度を徐々に落とした。 視覚も弱めると、モニタリングされる映像の彩度が失せて輪郭も弱まる。眠りにも似た、穏やかな感覚だった。 普段は、そうしていれば気分は落ち着いた。波立った心も、苛立ちも、疎外感も、自分の内側に沈められる。 だが、今回ばかりは違っていた。感触など残っていないはずなのに、右手には未だにボールの感触があった。 黒鉄鋼太郎と白金百合子。他人とあんなに長く言葉を交わしたのは、一体どれくらいぶりになるだろう。 素直に嬉しいと言って、こちらも楽しかったと言って、百合子の頼みを聞いて鋼太郎と投げ合いたいと思った。 だが。自分はサイボーグだ。人工知能の代わりに生身の脳を持っているだけで、機械は機械に過ぎない。 人間じゃない。生き物でもない。生きているわけでもない。だから、楽しいなんて、思っても意味はない。 思っただけで終わらせよう。すぐに忘れてしまおう。二人のことも、キャッチボールのことも、切り捨てよう。 正弘は右手をきつく握り締めて、ボールの感触を消した。はずだったのに、まだ微かに名残が残っていた。 それが、ひどく情けないことだと思った。 06 8/25 |