非武装田園地帯




第六話 アウト・フィールダー



 市立一ヶ谷病院は、一ヶ谷駅から離れている。
 一ヶ谷駅を出て一ヶ谷病院前行きの市営バスに乗り、十分程度走った先にある大きな建物が一ヶ谷病院だ。
田畑の広がる中にいきなり現れるので、遠目からでもすぐにそれだと解る。屋上には、ヘリポートまである。
大きさに比例して、最新鋭の設備と技術を備えた医師を揃えている病院だ。だからこそ、特殊外科がある。
 一ヶ谷病院前でバスを降りた正弘と百合子は、真っ直ぐ特殊外科に向かい、受付を済ませて待合室にいた。
待合室と言っても、診療室の前の廊下に長椅子を並べてあるだけだ。そこに、二人は隣り合って座っていた。
他にも診察を待っているサイボーグが数人いたが、正弘のようなフルサイボーグではなくセミサイボーグだった。
 病院といえど、やはり目立つものは目立つ。正弘は、意味もなく、パーカーの前のポケットに両手を入れた。
百合子は、待合室にある本棚に入っていた少女漫画の単行本を何冊も持ってきて、会話の合間に読んでいた。
 正弘は百合子をちらりと見てから、彼女の傍に積まれている単行本の一冊を取り、くたびれたページを広げた。
大分読み込まれていて、ページが折れている部分もある。正弘は、少女の淡い初恋の行方を追っていった。

「好きなんですか?」

 唐突に声を掛けられ、正弘は一瞬ぎくりとした。声の主が百合子だとは解ってはいるが、驚いてしまった。
正弘がちょっと身を引くと、百合子は顔を上げた。半分ほど読んだ本に手を添えて、閉じないようにしている。

「こういうの」

「何が」

 正弘が言葉を選びながら返事をすると、百合子は膝の上に広げた少女漫画に目を落とす。

「私は結構好きですけどねー」

「いや、暇、だから」

 若干声色を高くしながら、正弘は姿勢を戻した。なるべく動揺を表さないようにしよう、と気を張った。
本音を言えば、大好きだ。幼い頃から、どういうわけか少年漫画よりも少女漫画の方が気に入っている。
少年漫画も嫌いではないのだが、性分に合うというか、読んでいて楽しいと思うのは少女漫画なのである。
繊細で優しい絵柄、煌びやかな背景、少女達の可愛らしい恋や友情などが、好きで好きでたまらなかった。
 正弘は、ないはずの心臓が高ぶっている錯覚を感じながら、読んでいる途中の少女漫画に視線を落とした。
こういう時ばかりは、サイボーグであってありがたいと思う。顔に表情が出ないから、察されなくて済む。
 百合子はストーリーだけを追っているらしく、ぱらぱらと手早くめくって、早々に一冊目を読み終えている。
正弘は、それに対して色々と言いたくなった。ストーリーだけじゃなくてキャラクターも見ろ、と言いたい。
ついでに言えば、キラキラした背景や現実には有り得ない学園生活などもしっかり見てほしい、と思っていた。
 非現実的なのはどの類の漫画も同じだが、少女漫画の非現実さは飛び抜けている。その辺りも、また好きだ。
美形の転校生が同じクラスになったり、憧れの先輩が実は異星人だったり、捨てネコが美少年に変身したり。
それがいいんじゃないか、と正弘は力説したくなったが、堪えた。今、ここで大っぴらにして良い趣味ではない。
同居人に代わって家事を行っていることぐらいはばれても平気だが、少女漫画は、自分でもどうかと思っている。
 好きであることはどうにもならないし、今更嫌いになれるはずもないが、客観視すると相当におかしい趣味だ。
普通の中学三年生男子が好む系統ではない上に、自分はいかつい体のサイボーグだ。恐ろしく、似合わない。
それに、百合子達と仲良くなってまだ日が浅い。下手をすれば、変な趣味だ、と嘲笑されるかもしれない。
 正弘にとって最も恐ろしいのは、そうなることだ。だから、何がなんでもばれないようにしようと決意を固めた。
診察室から看護婦が顔を出し、患者を呼んだ。正弘と百合子は反射的に顔を上げたが、自分の名ではなかった。
まだまだ、先のようだ。百合子は読み終えた単行本を閉じると、トートバッグの上に置いた野球帽を取った。
それを指に引っ掛けて回しながら、にんまりしている。余程、鋼太郎から野球帽をもらったことが嬉しいのだろう。

「なんだかんだで優しいんだな、鋼は」

 百合子の表情に、正弘は内心で頬を緩めた。百合子は、野球帽を膝の上に載せる。

「鋼ちゃん、そういう人だから」

「だな」

 正弘は長椅子の背もたれに寄り掛かり、足を組んだ。その上に肘を置き、頬杖を付く。

「鋼は悪い奴じゃないし、どちらかっていえばいい奴なんだが、なんか捻くれているんだよなぁ」

「あ、そう思います? 私もねぇ、鋼ちゃんはそこんとこを直せば、もっともーっといい奴になると思うんですよ」

 百合子が身を乗り出して正弘を覗き込むと、肩口から艶の良い黒髪が落ちる。正弘は、少し笑う。

「だな」

「意地悪ばっかり言うし、あんまり優しくないし、野球のことしか頭にないし!」

「ああ、言えてる」

「そのくせノーコンだし、打率もめちゃめちゃ低いから、外野手ぐらいしか出来ないし!」

「そうなのか」

「そうなんですよ。鋼ちゃん、破滅的にぶきっちょだから、バッティングもダメダメで」

 百合子はバットを持つような恰好をし、振った。

「こー、振るんですけど、すかーっと抜けちゃうんです。上の方に。だから、当たらないんです」

「力の配分が下手なんだな」

 正弘は左手をボールを持つような形にして、上げてみせた。

「鋼は力はあるんだが、力任せな感じがするんだよな。ピッチングの時も」

「鋼ちゃんもその辺は自覚してるっぽいんですけど、どうにもならないんだそうです」

「またどうして」

「力を抜いたら気も抜けるからだ、だそうです」

 百合子は苦笑いしながら、ちょっと肩を竦めた。正弘は一瞬呆気に取られ、そして笑い出した。

「なんだそりゃあ」

「私も変だとは思いますよー、こればっかりは。でも、本当にそうらしいです」

 鋼ちゃんらしいって言えばらしいのかもしれないけど、と百合子は眉を下げた。正弘は、笑いを堪える。

「不器用にも程ってものがあるだろうが」

「ですよねぇー」

 うんうんと頷く百合子を横目に、正弘は上擦り気味の声を元に戻す。

「それだけ不器用なのに、よくもまぁ、サイボーグボディの操縦が出来るもんだな」

「その辺は、また別なんだそうです。私にはよく解りませんけど」

 そこで、百合子は不意に言葉を切った。笑顔が、陰っていく。

「…ごめんなさい」

「どうした?」

 正弘が訝ると、百合子は体を縮めた。

「私、鋼ちゃんのことしか話してない。ムラマサ先輩といるのに、鋼ちゃんばっかりで」

「いいさ、別に」

 正弘が首を横に振ると、百合子は薄い唇を曲げた。

「でも、ごめんなさい」

「ゆっこ…」

 なぜ、謝られなければならないのか、正弘には見当も付かなかった。百合子は顔を伏せ、背を丸めてしまう。

「私、昔っからそうだ。鋼ちゃんのことしか、解らないんだよなぁ」

 スニーカーのつま先を見つめ、百合子は声を落とした。

「だから、鋼ちゃんのことしか話せないんだ。他のことって言っても、病院の中ぐらいしか知らないんだもん」

 幼い子供がするように、百合子は足を軽く振っている。

「鋼ちゃんがいてくれる時はまだいいけど、鋼ちゃんが近くにいないと、なーんにも解らないんだ。学校のことだって、野球のことだって、なんだってそうなんだよ。他のことを話そうって思っても、なーんにも出てこなくて、で、結局また鋼ちゃんの話しか出来なくて…」

「そういうもんさ」

「うん。そうなんだけど、そうだから、なんか、情けないって言うか悔しいって言うかで」

 百合子は足を振るのを止め、長椅子の背もたれに寄り掛かった。正弘は、声色を和らげる。

「これから知ればいいだけのことじゃないか」

「でも、知りたいこととかやりたいこととか色々ありすぎて、どれから手を付けたらいいのか解らないんですよ」

 百合子は、小さく舌を出す。正弘は、内心で苦笑いした。

「オレもだ」

「ムラマサ先輩も?」

 百合子が不思議がると、正弘は頷いた。

「オレも、そんな具合なんだ。誰かと連むなんてこと、この間までやったことがなかったからさ」

 正弘は、照れ隠しに顔を押さえた。表情は出ないと解っていても、やはり、照れるものは照れる。

「だから、何からしたらいいのか、よく解らないんだ」

「私もです」

 百合子は、可笑しげにする。

「なんでしょーねー、この会話。付き合い始めたばっかりで、恋愛のれの字も知らないカップルみたいですねぇ」

「あ、確かに」

 正弘が納得すると、百合子は正弘を見上げる。

「でも、似たようなものですよね。私達も」

「何も知らない、ってのは同じだな。けど、方向性が違う。オレ達の場合は、恋愛じゃないからな」

「そうそう。清く正しくド健全で模範的な友情なんですから」

 百合子は、なぜか胸を張った。すると、看護婦が百合子の名を呼んだので、百合子は荷物を持って立った。

「私の番になったみたいなんで、診察にいってきまーす」

「いってらっしゃい」

 診察室に向かう百合子に、正弘は手を振った。百合子も手を振り返していたが、看護婦に案内されていった。
いってらっしゃい、などと言うのはどれくらいぶりだろう。正弘は手を下ろすと、長椅子に深く座り込んだ。
 同居人は朝早く出て夜遅く帰ってくる生活を送っているので、正弘と顔を合わせることは滅多になかった。
だから、当然、見送ったり見送られたりしない。たまに間が合う時があっても、見送られることはなかった。
それは単に、相手が非常に不精で面倒を嫌うからだ。表面上の付き合いだけで充分、と割り切っているのだ。
 正弘も、そう思わないわけではない。同居しているとはいえ、相手とは赤の他人であり何の縁もない。
無理に関係を深くしなくても良いだろう、とどちらも思っているから、まともに接しない日々が続いている。
 だが、それでも、たまに寂しくなる瞬間は来る。そういうときは、何かに没頭して気を紛らわしている。
大好きな少女漫画であったり、汚れきった部屋の掃除であったり、勉強であったり、色々なことをして。
今も、紛らわしたかった。百合子の気遣いや、久しく使っていなかった言葉を使ったことが物悲しかった。
 正弘は額を押さえるような気持ちで、頭部前面に付けられた外装を押さえると、息を抜いて肩を落とした。
どれだけ寂しくなっても、いくら悲しんでも、何一つ戻ってこない。解っているから、余計に苦しくなってしまう。
 もっと前にこうなっていれば、いや、そもそもこんな体でなかったら。何度となく思い、払拭した思いだった。
失ったものは、戻ってこない。新しく得るとしても、また失いそうで恐ろしい。だが、得たい気持ちは膨らむ。
話し相手になってくれる友人が、出来ただけでいいじゃないか。気の合う後輩が出来ただけで、満足しろ。
 正弘は、何度も自分に言い聞かせた。心中を落ち着けてから、読み掛けの少女漫画の単行本を手にした。
視覚からの情報があると、意識はそちらに向く。そうやって、ごちゃごちゃとした思考から気を逸らした。
 看護婦に名を呼ばれるまで、ずっとそうしていた。





 


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