二人、自転車に乗って。 春の柔らかい風が、頬をくすぐる。 足を止めて、弾んだ息を整える。家を出た頃は寒かったが、歩き始めると体温が上がって少し暑いくらいだ。 最低限の荷物を詰めたリュックを背負い直し、首筋に滲んだ汗を拭う。鼓動の高ぶった心臓の音が、うるさい。 川沿いには土手が続き、その手前の平地には綺麗に区分けされた田んぼが並んでいて、水面が輝いている。 植えられたばかりの小さな稲が、水と風に揺さぶられていた。晴れ渡った空を背負った山々は、色鮮やかだ。 透は、それだけで満足していた。早起きして家を出てきた甲斐があった、と心を浮き立たせて歩き出した。 今度は、歩調を緩めて進んでいく。田植えが終わったので人のいない田んぼの、間にある砂利道を行く。 スニーカーの靴底に踏まれた小石が、硬い音を立てる。舗装されたアスファルトとは違って、歩きづらい。 だが、悪いものではない。風に混じっている冷ややかな水と新しい土の匂いを感じ、胸一杯に吸い込んだ。 メガネの奧で、目を細めた。自然に沸き上がってくる嬉しさに口元を綻ばせ、うっすらと笑みを浮かべる。 やっぱり、こっちに来て良かった。透は砂利道を歩きながら、川に沿ったカーブを描いている土手に向かった。 東京は、色々な意味で好きではなかった。物と人が溢れていて身動きが取りづらいことも、理由の一つだ。 透は、元来の気の弱さも相まって人見知りしてしまう。人が多いところに行けば、人酔いして気分が悪くなる。 他人が嫌いというわけではないのだが、上手く同調することが出来ないため、友人を作ることが出来なかった。 話し掛けてきてくれても、何を言えばいいのか迷って返事が出来なかったり、誘われても躊躇ってしまったり。 終始そんな様子では、クラスメイトも近付かなくなる。いじめられなかったのは、幸運としか言いようがない。 自分のような人種は、疎まれこそすれ、好かれることは少ない。それぐらいのことは、さすがに自覚している。 だから、無理して前に出る必要はない。田んぼの間の砂利道には、軽トラックなどのタイヤ跡が残り、窪んでいる。 二本並んだ線状の窪みの間には、雑草が生い茂っている。透は、窪みの片方を辿るようにして、進んでいった。 土手までやってきたが、登る場所が見当たらない。だが、普通に登っていくには少々傾斜がきつすぎる。 どうしようかと辺りを見回していると、右手に、土手の斜面にコンクリート製の階段があるのが見えた。 その階段は、幅が細いが段は広かった。透はそれを登って土手に上がると、肩で息をし、景色を仰いだ。 「わ」 鮎野川が一望出来た。障害物がない分、普段通学路から見ているよりも良く見え、川の向こうも見えた。 透の背後、つまり、町の西側にある田んぼ沿いの県道は中学校の方向へ伸び、途中に橋が二つ架かっている。 手前の青い橋が車道で、後方の緑の橋が鉄道だ。その上を、のんびりとした速度で四両編成の電車が進む。 川に近付いたため、風が一層強さを増した。透は、日除けに被っている帽子を飛ばされないように押さえた。 もっと、近付いてみよう。透は土手を横切って川を見下ろしたが、水面に近い河原に自転車が留まっていた。 雑草が生い茂っているが、釣りをしに来る人間の車が止まるのか、自転車の周辺は草が千切れて均されていた。 銀色のフレームが眩しく光っている真新しい二十八インチの自転車で、前後のタイヤもそれ相応のサイズだ。 自転車があるということは、持ち主も近くにいるに違いない。どうしよう、と透が考えあぐねていると声がした。 「山下じゃねぇか」 その声にびくりとし、透は背筋を伸ばした。誰だろう、と困惑していると河原の左手にいた人影が振り向いた。 「何しに来たんだ、お前」 声がした先には、ブルーの繋ぎを着た鋼太郎がいた。所々に、泥と思しき黒ずんだ汚れが付いている。 「え、あ、黒鉄君」 透が小さく返すと、鋼太郎は自転車を指した。 「ああ。これ、オレんだよ」 「あ、そうなんですか」 知っている人間だったので、透は安堵した。鋼太郎は河原に横倒しになっていた自転車を、簡単に起こした。 ハンドルの中心を掴んで、片手で押しながら土手の斜面を一気に登ってくると、透の手前でスタンドを立てた。 鋼太郎は少々土に汚れた銀色の手を払い、透を見やった。着古されたトレーナーと、細いジーンズを着ている。 被っている帽子はメジャーリーグの球団のもので、透の趣味とは違うように思え、鋼太郎は違和感を感じた。 「デトロイトタイガース?」 「あ、これ、お兄ちゃんがくれたんです」 鋼太郎の視線に気付き、透は帽子を押さえた。兄がいることは事前に知っていたので、鋼太郎は納得した。 「そういうことなら、解らねぇでもねぇな」 鋼太郎は自転車に寄り掛かりながら、透を見据えた。ライトブルーのゴーグルに、彼女の姿が映る。 「で、山下は何しに来たんだ? まだ朝っぱらの六時だろ」 「ちょっと、景色を見に。そういう、黒鉄君こそ、どうして、あんなところに、いたんですか?」 「自転車を慣らしに来たんだ。この間、新しいのを買ってもらったからさ」 鋼太郎は、ハンドルを軽く叩く。 「前のは事故った時にぶっ壊れちまったし、この体だからうちにあるのには乗れねぇからさ」 「あ、道理で、ピカピカしてると思いました」 透は物珍しげに、鋼太郎の自転車を見下ろした。鋼太郎は透に倣い、自転車を見やった。 「この辺は、乗れるものが一つでもねぇとどうしようもねぇんだよ。歩きじゃ遠すぎるんだよ、駅も町も」 「それは、私も感じました。車がないと、ダメなんですね、こっちって」 透は、川の向こう側にある国道を見やった。朝早いので、車の数はまだ少ない。 「あっちは電車がすぐに来るけど、こっちは一時間おきぐらいにしかないし、バスも同じようなものだし」 「マジで不便なんだよ。だから、どこの家にも車が二台ぐらいあるんだよ」 軽トラも含めりゃもっと増えるけど、と鋼太郎は付け加えた。透は、体の前で手を組む。 「でも、私はこっちの方がいいです」 「そうか? オレは、都会の方が余程いいと思うけどな。鉄道は多いし、買い物は楽だろうし、遊びに出られる場所も多いしよ。田舎にいいところなんてあるか?」 「ありますよ、一杯」 透はメガネの大振りなレンズの下で、目を細めた。鋼太郎は、首を捻る。 「オレはそうは思えねぇけどな」 透はあることを口にしようとしたが、出来なかった。言おうと思っても喉で詰まってしまい、言えなかった。 言ってしまうべきなのだろうが、それをするだけの勇気が足りない。ほんの少しだけ、前に踏み出すだけなのに。 透は軽い自己嫌悪に陥りながら、鋼太郎を慎重に窺った。鋼太郎は体を起こすと、気の抜けた声を漏らした。 「今日で連休も終わりかぁ。短ぇなー、もう」 「えっと、黒鉄君は、何を?」 透が問うと、鋼太郎は逆手に自分の住んでいる集落の方向を指す。 「ずーっと田植え。まぁ、毎年のことだけどよ」 「はぁ」 透が相槌を打つと、鋼太郎は手を握ったり開いたりした。 「この体は疲れねぇのはいいんだが、整備がめんどっちいのが困るぜ。作業服着てゴム手填めてゴム長履いても、関節に砂とか土とかが詰まっちまうから、いちいち洗浄しねぇとじゃりじゃりうるせぇし、放っておくと作動不良起こしちまうしよー」 「やっぱり、大変なんですね、農作業って」 「まぁな。でも、オレは長男だし、こういうことは手伝わなきゃいけねぇから」 「そうなんですか。知りませんでした」 「言ってなかった、っつーか、タイミング逃しちまってただけだ。下に、小三の弟と小一の妹がいるんだ」 鋼太郎は言い終えてから、次に何を言うべきか困った。透も何を言おうか迷っているのか、俯いてしまっている。 相手が百合子なら、まだやりやすい。次から次へと喋ってくれるので、鋼太郎から喋らなくても会話が続いていく。 しかし、透は別だ。常に一歩引いていて、こちらから話を振らなければ口も開かず、放っておけば何も喋らない。 というより、喋れないらしい。様子を見ていると、話そうと口を開いたりするが、結局閉じてしまっていたりする。 ここに正弘でもいれば、透に話を振って喋らせるだろう。彼は、常に相手を見ていて、そつなく気を回す男だ。 百合子ならば、あのテンションの高さで透を引き摺ってくれるだろう。彼女は、良くも悪くもムードメーカーだ。 だが、鋼太郎はどちらでもない。百合子が話してくれるから、それに甘えて自分から話し掛けることは少ない。 正直、透とどう接していいか、解らなかった。友人なのだから話すべきだとは思うが、話題が思い付かない。 顔は動かさずにスコープだけを動かし、透を窺ってみた。透は、こちらに視線は向けたが逸らしてしまった。 両肩を縮めて足元を見つめ、ぎゅっと両手を握っている。見るからに緊張している。鋼太郎は、少し呆れた。 話題が見つけられない自分も自分だが、こんなことぐらいでいちいち緊張してしまう透も透だと思ってしまった。 接するほどに、その気の弱さが露見する。あまりにも脆弱なので、そのうち折れるのでは、と不安になるほどだ。 透は、おずおずと鋼太郎に目線を向けた。目一杯縮めていた肩を緩めると、小さな口元をほんの少し開いた。 「あの、えっと」 透は右手を上げて、左に見える長い坂を指した。意を決して、先程尋ねられなかったことを尋ねた。 「あの坂の向こうって、どんな景色なんですか?」 「坂って、あっちの坂か?」 鋼太郎は、透の指した方向を見た。先の曲がった長い坂があり、減速しながら降りてくる車の姿が見えている。 あの坂は、鋼太郎らの住む集落に向かうための橋に繋がる坂で、通学路だ。鋼太郎は、坂から透に視線を戻す。 「どうって、別になんてことねぇよ。川があって山が見えて、それぐらいだぜ」 「登るの、大変なんですか?」 「それなりに辛ぇけど、慣れりゃ平気だ。ゆっこはとろくせぇから、なかなか登れないんだけどよ」 オレらんちはあの先なんだよ、と鋼太郎は坂の方向を顎で示した。透は、長い坂をじっと見つめる。 「見晴らし、いいんでしょうね」 「悪くはねぇけどさ。なんだよ、行きてぇのか?」 鋼太郎は、透の言いたいことを察した。透はびくっとしたが、僅かに頷いた。 「興味…あります」 「なら、行きゃいいじゃねぇかよ。遠い場所じゃねぇんだし」 「でっ、でも。知らない場所だし、私、ここに来てそんなに日が経っていないし、それに…」 俯く透の声は、どんどん弱っていく。鋼太郎は次第にじれったくなってきて、語気を強めた。 「行きてぇなら行きゃいいじゃねぇかよ。怖いことなんてねぇぜ?」 「あっ、あの、ごめんなさい!」 透は、怯えたように身を引いた。鋼太郎は困ってしまい、肩を落とす。 「あのなぁ…。別に誰も怒っちゃいねぇよ」 「ごめんなさい…」 透は、蚊の鳴くような声で謝ってきた。鋼太郎は透に色々と言ってやりたくなったが、我慢しておいた。 あまりまくし立てると、本当に泣いてしまいそうだ。女子に泣かれてしまうのは、どんなことよりも始末が悪い。 世の中には、こんなに気の弱い人間がいるとは信じられなかった。ある意味、カルチャーショックである。 百合子のような、あっけらかんとした性格の女子しか知らない鋼太郎からしてみれば、新種の動物のようだった。 些細な意地悪やちょっかいでも過剰に反応してしまうのだろうと想像が付くが、それはしてはならないことだ。 透は坂と鋼太郎を見比べているが、目線を逸らしてしまった。何がそんなに恐ろしいのか、全く理解出来ない。 興味があるのなら、行動するべきだろうに。このまま自分が去ってしまったら、きっと透は動かないのだろう。 その様子を考えただけで、鋼太郎は無性に苛々してきた。そんなことでは、いつまでたっても何も変わらない。 「あーもうっ!」 苛立ちに任せ、鋼太郎は声を上げた。透は、それに驚いて目を見開く。 「いいから、乗れ!」 鋼太郎は自転車に跨るとスタンドを蹴り飛ばし、荷台を叩いた。透は、申し訳なさそうに眉を下げる。 「…でも」 「でももだっても言うな! あーもう、なんつーか、とにかく乗れ!」 鋼太郎はペダルの片方を踏み、チェーンを回した。透は荷台を見つめていたが、呟いた。 「いいんですか?」 「いいも悪いもあるか! 行きたくても行けねぇんだったら、いっそのことオレが連れてってやらぁ!」 あー苛々するっ、と鋼太郎はハンドルを握り締めた。透は、しばらく迷っていたが頷いた。 「じゃあ、その、お願いします」 透は荷台に跨り、鋼太郎の腰に腕を回した。だが、服を掴んできたのは右手だけで、左手は動かさなかった。 自転車の後輪が沈む感覚が、サドルに伝わってきた。鋼太郎はペダルを踏み込んで漕ぎ出し、土手を走った。 透の勇気のなさへの苛立ちと、背中に女子がいることを意識しないために、ひたすら自転車だけに集中した。 二人乗りをするのは久々だ。ずっと前、小学校低学年の頃に、後ろに百合子を乗せて走った時以来だ。 だから、勝手を忘れていそうで怖かったが、バランスも保てているし体が体なので体力は有り余っている。 走っている内に感覚も思い出してきたので、この分だと、透を後ろに乗せたままでもちゃんと走っていけるだろう。 土手の上の砂利道を通り抜け、車道へ入る。ギアを中速から高速に切り替えて、長い坂へと漕ぎ出していった。 背中の彼女が、小さく歓声を上げたのが解った。 06 10/29 |