黒鉄家は、十年前と変わっていなかった。 平均的な二階建ての家屋で増築も改築もされておらず、地下の車庫には泥まみれのトラクターが入っていた。 頑強なタイヤには田畑の土が付着し、乾いて落ちている。春先に使った苗箱が、車庫の奥で積み重なっている。 家の前に作られた畑では丸々と肥えたナスやトマトが成っており、鮮やか日差しを受けて一際色鮮やかだった。 家の背後に広がる山の斜面は青々と茂り、葉が輝いていた。車両の車庫には、百合子のものと思しき車もある。 鋼太郎の車より一回り以上小さい軽自動車で、外装はピンクで、バックミラーにはぬいぐるみが下がっている。 農家に似つかわしくない少女趣味で、かなり浮いている。鋼太郎は器用に車を操り、大きな車体を車庫に入れた。 車を下りて車庫から出ると、容赦のない日差しに正弘は視界が白んだが、即座に補正されて光度が元に戻る。 透だけはそうもいかないのか、しばらく瞬きをして目を慣らしていた。百合子はポニーテールを解き、髪を流す。 「今日は銀ちゃんは丸一日バイトだし、亜留美ちゃんも部活だから、遠慮しないで上がってね」 「で、二人は今日はどこに泊まるんすか?」 鋼太郎はワンボックスカーのキーを手の中で弄びながら、正弘に尋ねた。 「オレは一ヶ谷にだが、透はどうしたんだ?」 正弘は透に続けて尋ねると、透は返した。 「私も、一ヶ谷に、宿を取ってありますから。一度に、二人もお邪魔しては、悪いですからね」 「うちが広かったら泊めてやりたかったんだが、見ての通り狭いからな。悪いな」 鋼太郎が肩を竦めると、透は首を横に振る。 「いいえ、気にしていませんから」 「オレはともかく、透は仕事もあるしな。一人になれる時間がないと、却って困るだろ」 正弘の言葉に、透はかすかに頬を染めた。 「いえ…。まだ、そんなに、忙しく、ないですから」 「その話は、うちでゆっくり聞こうじゃないの!」 さあさあ、と百合子は正弘と透の背を押してから、黒鉄家の玄関に向かった。 「オレらも、色々と話すことがあるっすからね」 鋼太郎は正弘と隣り合い、歩いた。透は、その後ろに続く。 「一日じゃ、足りないかも、しれませんね」 「ああ」 正弘は頷き、三人を呼んでいる百合子を見やった。中学生の頃と変わらない笑顔を浮かべ、手を振っている。 得も言われぬ安堵感に、正弘は心が解けていくようだった。日々の過酷な訓練と現実を、忘れられそうだった。 フルサイボーグとはいえ、自衛隊の訓練は辛い。中でもサイボーグ部隊は特殊なので、訓練がかなり厳しい。 生身の人間では扱えない銃器や作戦を行うために毎日鍛錬を繰り返し、機械の体を酷使し、己を鍛え上げる。 そして、有事には出動し、テロリストや犯罪者を排除する。サイボーグ部隊が出動する回数は、年々増えている。 科学技術の発展と人類の宇宙進出が躍進する影で、社会の格差は広がり、弱者は喰われるか武器を取るかだ。 日本国内に密入国してくるテロリストも数が増えるに連れて行動も段々派手になり、警察だけでは手に負えない。 中でも問題なのが、異星人の犯罪だった。国際宇宙法で定められた法規をかいくぐり、罪を犯す者が絶えない。 違法改造されたサイボーグも増えてきており、異星人の手で改造されたサイボーグは特に危険な犯罪者だった。 サイボーグ部隊の中で、正弘の位置付けは前衛だ。一番最初に切り込んで状況を判断し、仲間に指示を送る。 真っ先に攻撃される危険性も高いが、同時に高度な判断力も要求される立場で、神経が相当すり減ってしまう。 二十五歳の正弘はサイボーグ部隊の中でも年少だが、隊長や教官に才能を買われ、二年前に抜擢されたのだ。 自分としてはそれほど戦闘の才能があると思っていないのだが、どんなことでもそつなくこなすから、なのだろう。 長年サイボーグボディと付き合ってきた経験があるからか、反応も素早く、銃器の細かな扱いも上手かった。 何の因果か、部隊の教官は、正弘を死の淵から救ってサイボーグ化させた自衛官、レイチェル・宇田川だった。 レイチェル自身は正弘に目を掛けていないと言っていたし、生粋の軍人であるレイチェルは贔屓しないだろう。 だから、レイチェルに前衛に抜擢された時は戸惑った。訓練と実戦で、前衛がどれだけ大切か知っているからだ。 しかし、割り当てられたからには役割を全うするしかないので、特別訓練を受けて正弘は更に技術を身に付けた。 前衛になってからは、射殺人数も増えた。真っ先に突入して切り込むのだから、当たり前と言えば当たり前だ。 そのことを思い悩んだ時もあったが、今は気にしていられない。殺さなければ殺されるのだから、殺すだけだ。 機密上の理由と個人的な気持ちの問題で、仕事の内容は妻の静香にも息子の智和にも微塵も話していなかった。 それでいいと思う反面、後ろめたさもある。だが、血生臭い現実や残酷な犯罪と戦うと決めたのは自分自身だ。 後悔することは、決して許されない。 黒鉄家の居間は日陰になっており、風通しが良くて涼しかった。 百合子の運んできた麦茶とよく冷えたスイカがテーブルに並べられ、透のために扇風機が弱く回っている。 もちろんクーラーはあるのだが、透は冷え性だ。リニア新幹線や車中で冷えた体を、これ以上冷やさないためだ。 フルサイボーグである三人は、元より気温など関係ない。多少冷却水の消費は激しくなるが、その程度だった。 「黒鉄君の家って、やっぱり涼しいですね」 透は麦茶を飲みながら、心地良さそうに頬を緩めた。 「鋼ちゃんの家は、私の家よりもずっと風通しがいいからね。構造が古いからかな」 汚れた作業着からラフなワンピースに着替えた百合子は、居間の隣にある仏間から戻ってきた。 「ほら、これ」 百合子が正弘と透に差し出したのは、薄いアルバムだった。表紙には、黒鉄鋼太郎・百合子と印刷されている。 正弘が淡いピンクのアルバムを開くと、タキシード姿の鋼太郎とウエディングドレス姿の百合子の写真が現れた。 二枚目はお色直しをした百合子で、派手めなピンクのドレスを着ている。鋼太郎は、気恥ずかしげに顔を背ける。 「そんなもん、とっくの昔に見せただろうが」 「あれはメールの添付ファイルだもん、生写真に比べたらずっと画質が悪いんだい」 百合子は鋼太郎に言い返してから、正弘に身を乗り出した。 「もっとありますから二階から持ってきましょうか、ムラマサ先輩!」 「ああ、頼むよ。オレは見られなかったからな、鋼とゆっこの晴れ姿は」 正弘はアルバムを透に渡しつつ、苦笑した。透は受け取った写真を見つめながら、言う。 「仕方ありませんよ、ムラマサ先輩。お仕事を、外せなかったんですから」 「本当にすまなかったな、鋼、ゆっこ。オレに招待状をくれたのに、行けなくて」 正弘が謝ると、鋼太郎は正弘に向き直った。 「いや、もういいっすよ。電報ももらったし、ご祝儀も結婚祝いもちゃんと頂いたんすから、充分っすよ」 「そうですよムラマサ先輩、そんなに気にしないで下さい」 百合子は笑みを見せてから、足早に階段を上がった。正弘は飲用チューブを出し、冷たい麦茶を啜った。 「一昨年だったな、鋼とゆっこの結婚式は」 「ええ、そうです。ついこの間のことだと、思っていたのに、もう、そんなに経つんですね」 透はスイカを一切れ取り、囓った。 「だから、ムラマサ先輩と静香さんが、結婚したのは、七年も前になるんですね」 「ああ、ありゃ驚いたよ。ムラマサ先輩、高校出て自衛隊に入ったと思ったら橘さんと結婚しちまうんだもんなぁ」 出来たのかと思いました、と鋼太郎が茶化すと、正弘は笑う。 「忙しくなる前に、事を終わらせておきたかったんだよ」 「智和君は元気っすか?」 「呆れるくらい元気だよ。今年で六歳になったから、来年からは小学校だ。早いもんだな」 感慨深げな正弘に、鋼太郎はため息を吐くように肩を落とした。 「早いっすよねぇ、マジで。放っておいたら、すぐに大人になっちゃうんじゃないっすか?」 「たぶんな。本当はもっと遊んでやりたいんだが、毎日、訓練訓練で」 「静香さんは、大丈夫、ですか? 確か、二人目のお子さんが、出来たって」 透に問われ、正弘は返した。 「ああ、今年の春先にな。もう安定期に入ったから、心配ないと思う。今度は女の子だといいんだが」 「頑張ってるっすねー」 感心している鋼太郎に、正弘は首を横に振る。 「頑張っているのは、オレじゃなくて静香だよ。四十になる前に、やるだけやっておきたいって言っていたからな」 「でも、意外ですよねー。静香さんって、子供なんて産みそうにない人だとばかり思ってましたから」 二階から戻ってきた百合子は、結婚式のアルバムを抱えていた。 「はい、これ。鋼ちゃんの写真も一杯ありますよー、紋付き袴なんて格好良いんですから!」 「期待して見るとするよ」 アルバムを受け取った正弘に、鋼太郎が慌てて喚いた。 「いや、そんなにいいもんじゃないっすから! 白タキなんてマジで似合ってないんすから!」 かなり慌てている鋼太郎を横目に、正弘はアルバムを開いた。華やかな結婚式場で、二人は祝福されていた。 両家の両親や兄弟が揃い、親戚も列席している。正弘はそれを少しだけ羨みながら、分厚いページをめくった。 透も、横からアルバムを覗いている。弾けた笑顔の百合子が鋼太郎と写っている写真を見つめて、目を細めた。 「そういえば、透君って亘さんとは結婚しないの?」 スイカを食べながら百合子が問うと、透はアルバムから顔を上げた。 「今は、お兄ちゃんとは、別々に、暮らしています」 「え? なんで? あんなにラブラブだったし、義理の兄妹なんだし、すぐに結婚しちゃうとばっかり」 不思議そうな百合子に、透は向き直った。 「私も、お兄ちゃんも、最初は、そうなるとばかり思っていました。でも、時間が経ってくると、本当にそれでいいのかどうか、考えるようになったんです。お兄ちゃんが就職して、私が大学に進学して、二人とも、視野が広がったからなんでしょうね。それに、お父さんは、私とお兄ちゃんの関係を、あまりよく思っていませんでしたから。いくら義理とは言っても、兄妹は、やっぱり兄妹なんです。お父さんは、私とお兄ちゃんのことを、怒りませんでしたけど、諭してくれました。それでいいのか、よく考えてみなさい、って。それに、お兄ちゃんも、一線を越えるのは躊躇しているみたいで、だから、まだ…」 気恥ずかしげに言葉を濁した透に、百合子は申し訳なさそうに眉を下げた。 「ごめん、透君。私、言い過ぎちゃったね」 「いえ、大丈夫です」 透は、首を横に振る。 「私には、お兄ちゃんを、縛り付ける権利なんて、ありませんから。このまま、私がお兄ちゃんと一緒になってしまうと、お兄ちゃんは、私しか、女を知らないことになりますから。それって、良くないことだと、思うんです。それに、やっぱり、私にとって、お兄ちゃんはお兄ちゃんなんです。今でも、亘さん、って上手く呼べないから」 透の整った横顔には、切なげな笑みが浮かんだ。 「だから、皆が、羨ましいです。私に、一線を越える勇気が、ないだけなのかもしれませんけど」 「透がそう思うなら、それでいいんじゃねぇのか」 透の話を聞き終えた鋼太郎は、呟いた。透は、鋼太郎に目を向ける。 「そう、でしょうか」 「透と亘さんは、オレと静香とは違うんだ。家族みたいに思っているのと、本当の家族ってのはかなり違うからな」 正弘が言うと、百合子は頷いた。 「うん。透君は透君で、やりたいようにやればいいんだよ」 「でも、まだ、私は、お兄ちゃんに好きな人が出来ても、素直に祝福出来ないと思います」 メガネの奥で目を伏せ、透は膝の上で両手を握り締める。 「お兄ちゃんとは、一緒にはなれないって思うのに、やっぱり、好きなんです。私、凄く、変ですよね」 「大事に思うのと好きだって思うのとは、似ているけど違う気持ちだもんね」 ね、と百合子は鋼太郎に目配せした。鋼太郎は頬杖を付き、顔を逸らす。 「まあ、な」 「人ってのは、いずれ変わるものだ。その変化の中で多少なりとも矛盾が起きるのは、仕方ないことなんだ」 正弘は麦茶を半分ほど啜り上げ、グラスを揺らしてからからと氷を回した。 「問題は、その矛盾を受け入れて消化出来るかどうかなんだ」 「ゆっくり、考えますよ。私も、お兄ちゃんも」 透はスイカの残りを囓り、手に付いた汁を舐めた。 「おいしいですね、このスイカ。甘くて、瑞々しくて」 「でしょ? 頑張って育てたんだから! 他にもトウモロコシとかトマトとかもあるから、一杯食べてね!」 百合子は嬉しそうににこにこしながら、食べかけのスイカを囓った。正弘もスイカに手を伸ばし、皿から取った。 マスクを開いて食べてみると、確かに甘い。だが、それ以外の風味や青臭さが感じられないのが物足りなかった。 だが、記憶の中のスイカに比べれば遙かに甘い。百合子は、スイカを作る過程や苦労を楽しそうに語っている。 正弘はスイカを食べ終え、皮を皿に置いた。べたついた汁で汚れた手を拭きながら、百合子の話に聞き入った。 「ムラマサ先輩」 すると、鋼太郎に呼ばれた。正弘が振り向くと、鋼太郎はスイカを食べるでもなく、腕を組んでいた。 「息子さん、可愛いっすか?」 「もちろん。智和は、ガキの頃のオレにそっくりなんだよ。それがなんだか小憎らしいんだが、嬉しくもある」 「そうっすか」 鋼太郎の短い返事には、様々な感情が込められていた。彼の視線は、明るい笑顔で話す妻に向いている。 その気持ちは、おのずと正弘も察しが付いた。正弘は静香が生身だったから、子供が作れたようなものだ。 正弘の父親の精子が凍結保存されていたので、それを使って人工授精を行った結果、二人目まで授かった。 だが、鋼太郎と百合子はそうもいかない。鋼太郎はともかく、百合子は初潮が訪れないまま肉体が死んだ。 たとえ卵子が出来ていたとしても、末期ガンに冒されていた百合子から生み出された卵子が正常とは思えない。 かといって、二人の遺伝子からクローン体を造り出すのは、民間人である二人には辛く、そして難しいことだ。 正弘は鋼太郎と百合子に対して複雑な感情を感じながらも、二切れ目のスイカを取って口に運び、咀嚼した。 けれど、後ろめたく思うことはない。家族を取り戻すことは正弘の悲願であり、また夢とも言えることだった。 七歳の頃に家族を殺され、フルサイボーグとなった正弘は、鋼太郎らに出会うまでは暗い日々を過ごしていた。 そして、かつては保護者であった静香と結婚するまでは、正弘に家族と呼べる人間はこの世に存在しなかった。 だから、今はとても幸せだ。血生臭く泥臭い仕事をしていても、家に帰れば、愛しい妻と我が子が待っている。 大人になれないまま死んでしまった正弘の姉の名を受け継いだ息子、智和は、サイボーグの父親を好いている。 他の子供の父親とは姿こそ違っているが、中身は誰よりも自分を愛している人間だと解ってくれているからだ。 また、静香も子を産んでから大分変わった。奔放で身勝手で金遣いの荒かった彼女も、すっかり毒気が抜けた。 子供なんて嫌いだ、と言っていたのに、今となっては智和を優先して自分の服や化粧品をあまり買わなくなった。 正弘の幸せは、静香にとっても幸せなのだ。そして、掛け替えのない息子、智和の幸せが何よりの幸せなのだ。 だから、何一つ、悔やむことはない。 08 2/9 |