四回表。一ヶ谷第二の攻撃。九対○。 スコアボードにチョークで点数を書き込みながら、百合子は唇を曲げた。解ってはいるが、実に不甲斐ない。 勝ち目がないとは知っていたが、ここまでいいようにされてしまうとは。せめて、一点だけでも、取り返したい。 だが、そのためには三振でスリーアウトになる事態を回避しなければ。一回裏だけでなく、三回裏もそうだった。 一ヶ谷市立には、制球力の優れたピッチャーはいない。器用な慎吾も、視野を広げればあまり大したことはない。 だから、一ヶ谷第二の精度の高いピッチングに翻弄されてしまい、次々とバットを振って三振になってしまうのだ。 相手は実戦経験が多いようだが、こちらはそうもいかない。練習試合の相手は、大抵強豪校に取られてしまう。 部の実力は、イコールで権力でもある。つまり、周辺の高校に比べると底辺レベルの一ヶ谷市立は、立場も弱い。 今回の練習試合も、一ヶ谷第二が県大会の準々決勝を敗退したから、セッティングされた試合に過ぎないのだ。 百合子はチョークの箱と椅子を持ってスコアボードの前から離れると、ベンチに戻り、グラウンドを見渡した。 塁には既にランナーが出ていて、一塁と三塁にいる。そしてバッターは、一回表でホームランを打った飯原だ。 一ヶ谷市立のピッチャーは慎吾ではなく、本来はファーストを守っている海斗だ。作戦変更、というわけである。 だが、その作戦は最初から通用していない。ピッチャーを変えても敵の勢いは弱まらず、二点も取られている。 そして、今、飯原に打たれればスリーランホームランになってしまう。どうにかして、それだけは阻止したかった。 百合子が難しい顔をしていると、藤井は組んでいた腕を解いた。ベンチの影の中から、暑い日差しの下に出る。 「次、クロでも使ってみるか…」 その口調には、諦めと妥協が混じっていた。百合子は、複雑な気持ちになる。 「え、使うんですか?」 鋼太郎がバッターボックスに立つのは嬉しいが、打率の低さは半端ではないので絶対にチームの足を引っ張る。 そうなることが予想出来るので百合子が眉を下げていると、藤井はユニホームの袖で額に滲んだ汗を拭った。 「クロは力馬鹿だからな。一発当てれば、でかいんだが…」 「当たらないんですよね、それが」 「そうなんだよなぁ…」 「バッティングセンターだって、私の方が打率が高かったぐらいですし」 百合子は、ライトを守っている鋼太郎に目を向けた。自動的にピントが合わされ、彼の姿が間近に見える。 「いっそお前が出てみるか、シロ」 「そりゃ無理っすよー。私はバットに当てることは出来るけど、打ち上げられないんですから」 全部ファウルです、と百合子は両手を上向けた。藤井は一瞬不満げな顔をしたが、深く息を吐いた。 「シロだもんなぁ」 その言い草に百合子はむっとしたが、言い返さなかった。運動神経が悪いことは、自分が一番理解している。 フルサイボーグ化する前は運動らしい運動はほとんどしたことがなかったので、運動する感覚が解らないのだ。 フルサイボーグといえど、中身は人間だ。運動神経の良い人間は良いが、悪い人間はいつまでも悪いままだ。 マウンドに立つ海斗は泥の付いた袖で汗を拭い、肩を上下する。振りかぶって右足を前に出し、踏み込んだ。 キャッチャーミットに向かうボールは、打者の手前ですっと落ちた。が、呆気なく当てられ、高く打ち上げられた。 スリーランホームランが、決定した。 正に、苦肉の策だった。 弱小野球部故に負け試合に慣れているとはいえ、五回に入る前に十二点も先制されると、さすがに腹が立つ。 一ヶ谷市立のエースで四番でもある綾瀬明良がいれば、ここまでひどいことにはならなかったかもしれない。 だが、今更そんなことを言ってもどうしようもない。今いる部員でなんとかしなければ、顧問の威信に関わる。 藤井はベンチの前に並ばせた部員達を見渡していたが、一歩踏み出した。半ば自棄になり、彼の肩を叩いた。 「出てみろ、クロ」 「あ、はい?」 鋼太郎は何を言われたのか一瞬理解しかねたようだったが、途端に飛び退いた。 「お、オレっすか!?」 「いくら二高とはいえ、サイボーグ相手の野球はしたことがないと思うんだ。たぶん」 「たぶん、って…そんなんでいいんすか?」 「いいも悪いもあるか。とにかく、やるだけやってみろ。但し、力むな。余計な力は抜いていけ」 藤井は、鋼太郎の日差しで熱した肩を何度も叩いた。鋼太郎はグラブを下ろし、曖昧に頷いた。 「はい」 人数分のタオルを持ってベンチの裏から戻ってきた百合子は、あからさまに不安げな部員達を見、苦笑した。 「気持ちはよぉーく解りますよお…」 部員達は鋼太郎を横目に見たり、顔を背けたり、嘆いている者もいる。それほどまでに、鋼太郎は下手だ。 外野なら充分使えるのだが、それ以外が本当にダメなのだ。ノッカーでさえも、まともに務まらない時がある。 三振、ファウルは当たり前、投球はストライクゾーンのド真ん中。敵に、いい食い物にされてしまうだけである。 意外性を求めた、と言えば少しは聞こえがいいが、この場合は自棄を起こしたと言った方が相応しい状態だ。 鋼太郎は部員達の様子が心外だったが、自分自身の下手さは嫌と言うほど理解しているので、黙っていた。 そして、無謀な四回裏が始まった。 百合子は一ヶ谷第二の面々の様子を、窺った。 彼らは、ネクストバッターズサークルでバットを振り回している大柄なフルサイボーグを、怪訝そうに見ている。 口々に、あんなのが出るのか、と囁き合っている。ピッチャーの船岡は明らかに警戒していて、表情が硬かった。 彼らは鋼太郎の下手さを知らないから、多少買い被っているのだろう。そうでもなければ、警戒などしないはずだ。 確かに、傍目から見れば鋼太郎はパワーのあるバッターに見えるだろうが、その打率は呆れるほど低いのだ。 ノック練習でさえも空ぶるほど、バットとの相性が悪い。今も昔も、鋼太郎は、バットに振り回されてしまっている。 体格で考えれば、そんなことにはならないはずなのだが、体重移動と姿勢制御が下手なので重心が動いてしまう。 百合子もそれを指摘したし、鋼太郎もそれを自覚しているのだが、何をどうやっても治ることのない悪癖だった。 つまり、筋金入りの下手くそなのだ。百合子は鉛のように苦く重たい不安を胸中に抱えながら、アナウンスをした。 「一番、上田君に代わりまして」 百合子はやや緊張しながら、鋼太郎の名を読み上げた。 「八番、ライト、黒鉄君」 ネクストバッターズサークルから出た鋼太郎は、なんともいえない嬉しさに満たされて、内心でにやけていた。 今まで、試合でバッターボックスに立てたことなど数えるほどしかない。名を読み上げられたのも、久々だった。 気合いが入らないわけがない。だが、余計な力は抜けと言われた。嬉しいのだが、浮かれるのだが、やりづらい。 バッターボックスに立って、金属バットを掲げる。マウンドに立っている船岡は、鋼太郎を射抜くように睨んでいる。 少年野球とは訳が違う。鋼太郎は足を広げて姿勢を安定させてから、振りかぶる船岡の姿を見据え、構えた。 船岡は息を詰め、踏み込み、投球した。真っ向から飛んできたボールから目を離さずにバットを振ると、当たった。 だが、真上に打ち上げてしまった。カーブを描きながらファウルラインを越えたボールは、とん、とバウンドした。 とりあえず、当てることだけは出来たようだ。鋼太郎はファウルの判定を聞きながら、左手でヘルメットを直した。 といっても、頭部装甲の形状の都合上、被ることが出来ないので、頭に軽く乗せているだけという状態だった。 鋼太郎の外装の強度は、ピッチング程度の威力であれば当たっても傷が付くぐらいで、最悪でも脳震盪だけだ。 だから、別に被らなくてもいいのだが、バッターである以上はヘルメットの着用は義務なので被らされている。 黒地に、I、とアルファベットが書かれたヘルメットの鍔を軽く持ち上げてから、鋼太郎はバットを構え直した。 力を抜くつもりで、ゆっくりと吸気と排気を繰り返す。思っていた通り、腰を据えられない悪いクセが出てしまう。 顧問の藤井や上級生からは腰を据えろと何度も注意されたが、腰が動いてしまうのは人工内耳のせいでもある。 人工内耳はいわばバランサーで、二足歩行式で姿勢制御の難しいフルサイボーグにとっては不可欠な機能だ。 その人工内耳がバランスを取るおかげで、通常の歩行だけでなく自転車並みの速度の走行も可能にしている。 下手に転倒してしまわないように、重心が動いたら自動的に慣性制御を行い、瞬時に両足の釣り合いを取らせる。 それはとても便利な機能なのだが、時として不便になってしまう時もある。その一つが、バッティングなのである。 バッティングは、体重を移動させて腰を捻って力を生み出し、その力の全てをバットに集中させて打ち上げる。 そのために体重移動を行うと、人工内耳が勝手に作動してしまい、倒れないようにするために腰がぶれてしまう。 全ての責任を機械に押し付けるつもりではないが、この微細な不具合のせいで、振ったバットが止まってしまう。 正弘の保護者でありサイボーグ関連の医療器具の会社に勤めている静香の話によれば、改良中、なのだそうだ。 サイボーグ技術が飛躍的に発達したとはいえ、そこはやはり発展途上なので人間に完全に追い付いてない。 今までは日常生活を順調に送るためだったり、過酷な戦闘を行うためだったりと、基本的な用途が固まっていた。 だが、サイボーグ人口が増えていくに連れ、人それぞれに体の使い道が異なるようになり、不具合が増えてきた。 鋼太郎のバッティングが、いつまでたってもファウル止まりになっている原因の一端にもなってしまったほどだ。 けれど、一端は一端だ。腰の動きが止まってしまうことだけが、ファウル製造器になってしまう理由ではない。 やはり、未だに力の配分が下手なのだ。だから、せっかくのストライクゾーンのボールも、芯に当てられない。 鋼太郎の傍のキャッチャーミットを目掛け、船岡が投球する。二球目はやや外角狙いで、少し逸れていった。 それでも、迷わず振り切った。かいん、とバットの先端にボールが掠めて跳ね、再びファウルラインを越えた。 惜しい。もう少し下を狙えば、当たるはずだ。鋼太郎は緊張のあまりに、背筋が逆立つような錯覚を感じていた。 もう、浮かれてなどはいなかった。野球はチームプレイだが、バッターボックスに立った以上、そこでは一人だ。 戦いに勝つのも負けるのも、自分だ。頼れるのも自分一人ならば、裏切るのも自分一人であり敵もまた自分だ。 三球目は、投げた右手の手首と肘に捻りが加わっていたので、シュートだと判断した。予想通り、横に曲がる。 ストライクゾーンよりもやや上で曲がったボールを打ち取ろうとしたが、バットは空しく虚空を切り裂くだけだった。 ストライク、と声が上がる。鋼太郎は内心で舌打ちしながら、バットを下ろした。一回だけでいい、芯に当てたい。 力なら有り余っている。芯にさえ当てて打ち上げてしまえば、ホームランとはいかなくてもヒットにはなるだろう。 せめて、一発でも打ち上げればチームの空気は変わる。勝ち目はないが、それでも、足掻けるだけ足掻くのだ。 下手なのは解っている。才能がないのも知っている。けれど、野球が好きだ。プレイ出来るだけで満足だ。 だが、これは試合だ。藤井の好意で臨時に抜擢されただけの仮初めのレギュラーであっても、レギュラーだ。 他の部員達や一ヶ谷第二の選手達に比べれば、ほんの小さな欠片程度かもしれないが、プライドぐらいはある。 船岡はキャッチャーから投げ返されたボールを右手で握り直してから、足を広げて構えると、四球目が放たれる。 腰が動いてしまうのなら、動かさなければいい。限界まで踏ん張って下半身を固定すれば、上半身はぶれない。 そうなるはずだ。いや、そう出来る。この機械の体は鋼太郎そのものであり、そして、掛け替えのない相棒なのだ。 言うことを聞かないわけがないのだ。鋼太郎は先程よりも大きく足を広げると、スパイクを地面に深く噛ませた。 船岡が振りかぶる。無駄のない動きで振り下ろされた右手から、彼の力が込められたボールが、飛んでくる。 球速は速い。だが、見えないわけではない。鋼太郎は腰を捻りながらバットを振り抜き、白球に、真っ直ぐ当てた。 「あ…」 かぁん。今までのどの音よりも澄んだ快音が響き、百合子は身を乗り出した。 「当たった」 百合子は、鋼太郎の打ち上げた球が伸びていく様を眺めていた。空の彼方を目指すかのように、飛んでいく。 バットを放り捨てた鋼太郎は、体格に合わせて幅の広い歩幅とバテない体を生かし、ダイヤモンドを駆ける。 一塁、二塁、三塁。レフトとセンターが鋼太郎の打ち上げたボールを追い掛けている間に、彼は走っていった。 白線を踏み消す勢いで駆け込んできた鋼太郎は、スパイクのかかとで、力一杯ホームベースを踏み付けた。 足の裏にホームベースがあることを何度も確かめてから、グラウンドに振り返ると、外野が捕球した頃だった。 どうやらホームランにはならず、ヒット止まりだったようだ。審判は呆気に取られていたが、両手を広げて叫んだ。 「セーフ!」 判定の後、両チームには妙な沈黙が広がっていたが、唐突に百合子が喚いた。 「雨が降るぅっ!」 その言葉に、鋼太郎はホームベースにつまづいて転びそうになった。 「…なんだよそりゃ」 「だって、鋼ちゃんがまともに打つなんて人類の歴史上初めてのことじゃんよ! 宇宙の歴史が変わっちゃうー!」 百合子は、いやにオーバーな動きで慌てている。鋼太郎は、手を横に振る。 「いや、前にも一度は打ったことあるだろ。小六ん時の秋の試合で」 「あれはピッチャーの子がすっごく下手っぴだったからだよお! でも今度は違うじゃん、何その超まぐれ!」 「人の努力をまぐれの三文字で片付けるな! いいからさっさとスコアボードを書いてこいよマネージャー!」 むっとして、鋼太郎は言い返した。百合子は釈然としていないようだったが、スコアボードに向かった。 「雨じゃなくて、落雷があるかもお…」 「うるっせぇ」 鋼太郎は、少しどころかかなり悔しげな船岡を見やってから、ベンチに戻った。だが、歓迎はされなかった。 部員達は誰一人として、鋼太郎が打つとは心の底から思っていなかったらしく、藤井までもがぽかんとしている。 「何すか、その、目の前にUFOが着陸するのを見たようなリアクションは」 「ああ、悪い」 藤井は鋼太郎に苦笑いしたが、先程の出来事が信じられないらしく、表情が不自然だった。 「クロ、なんかズルでもしたか?」 「してないっすよ! 普通に打って普通に走って普通に点取っただけっすよ! 大体、オレはそんなに器用じゃないっす! 器用だったらホームランにしてるっすよ!」 鋼太郎は、どかっとベンチに座った。その隣にいる辰也は、怪訝な顔をしている。 「鋼。お前、本当に鋼か? 頭の中身だけ、村田先輩なんじゃねぇの?」 「ムラマサ先輩だったら、最初からレギュラーに抜擢されてるよ。あの人はすっげぇ器用だからな」 鋼太郎は、子供のように拗ねた。まともに打ったのに誰も褒めてくれず、その上疑われてはやっていられない。 ヘルメットを外して傍らに置き、そっぽを向いた。スコアボードを書き換えてきた百合子は、マイクを取った。 かなりいじけている鋼太郎の姿に、ちょっと言い過ぎたかな、と思いつつ、次にバッターのアナウンスを行った。 「二番、キャッチャー、柳田君」 ネクストバッターズサークルから出てきた柳田は、拗ねている鋼太郎を見ていたが、バッターボックスに入った。 鋼太郎のヒットは、多少なりとも一ヶ谷第二の士気を乱したらしく、船岡の投球はほんの少しだけ崩れていた。 正確だった変化球にも、ごく僅かだが失敗が現れ、それがまた新たな失敗を呼んで船岡の精神は揺さぶられた。 どうやら、彼は意外に打たれ弱いらしかった。柳田は三振を恐れずに、だが当てに行くつもりで、バットを振った。 先程までは掠りもしなかったボールがバットに触れ、跳ね上がってファウルになった。変化球が崩れたからだ。 それから、一ヶ谷市立は懸命に戦った。だが、鋼太郎が辛うじて取った一点の後も、得点はまるで伸びなかった。 けれど、地道にファウルやヒットを重ねていき、盗塁や、相手のミスをチャンスに変えて、なんとか二点は取った。 しかし、三点を取れた頃には八回裏になり、点差は二十五対三にまで進み、勝ち目がないことは変わらなかった。 その得点の六割が、一ヶ谷第二の四番、奈良橋によるものだった。彼は、合計十二本もホームランを打っていた。 そして、九回裏。一ヶ谷第二は最後まで手を抜かず、スリーランホームランの後、二本のヒットをとどめに放った。 その結果。三十一対三で、一ヶ谷第二の圧勝に終わった。 07 2/3 |