十年目の、変化。 寝覚めは、最悪だった。 正弘はぼんやりした頭をなんとか動かしたが、倦怠感が先に立ってしまい、出来れば何も考えたくなかった。 あのまま、リビングで眠ってしまった。正弘は関節を軋ませながら体を起こして頭を振り、リビングを見渡した。 ベランダに面した掃き出し窓のレースカーテンから、朝日が差し込んでいて、気温も徐々に上がりつつあった。 壁掛けのデジタルクロックを見上げると、午前八時を過ぎていた。今日がお盆休みの最中で、本当に良かった。 正弘は頭を押さえながら立ち上がり、ソファーを見下ろした。そこには、半裸の静香がだらしなく眠っている。 タオルケットを被っているが、蹴り飛ばしている。艶やかな太股と黒レースのショーツが、目に飛び込んできた。 正弘が思わず後退ると、その物音に気付いたのか、静香が目を覚ました。気怠げに瞬きしながら、起き上がる。 「何よ」 「あ、いえ」 正弘が少々声を上擦らせると、静香はちょっと顔をしかめながらタオルケットを剥いだ。 「結構、痛かったんだけど」 「あ、え、その…」 正弘は、言葉に詰まってしまう。素肌にTシャツを着てショーツを履いただけの格好の静香は、胡座を掻いた。 「そっちから来たくせに」 静香は拗ねたように、唇を尖らせた。正弘は、びくっと肩を震わせる。 「すいませんでしたあ!」 「…いいわよ、別に」 静香は、正弘を正視しようとしなかった。正弘はますます後退り、壁に背を付ける。 「えっと、なんていうか、我慢、出来なくなった、というか…。その、とにかく、すいません」 「それは昨日も聞いたわよ。で、どうだった?」 「えっと」 正弘は昨夜の記憶を反芻したが、至極正直に感嘆した。 「良かった、です」 「なら、いいけど」 静香は、突き放した言い方をした。正弘は多少の罪悪感と達成感と高揚感を持て余しながら、リビングを出た。 自室に入って扉を閉め、安堵した。正弘は鼓動が高ぶっているような錯覚に陥りながら、着替えを取り出した。 昨夜。いつも通りの夜のはずだった。残業明けで帰ってきた静香は、愚痴をこぼしながら酒を飲んでいた。 正弘はそれに付き合う気はなかったのだが、一人で部屋にいる気もしなかったので、リビングにいることにした。 そこまでは普通だ。どこで何をどう間違えたのかは解らないが、正弘は、静香に対して強い情欲を抱いてしまった。 結果、事に及んでしまったというわけである。その最中はとにかく夢中で、訳が解らないうちに終わってしまった。 自分でも、どうかしたのではと思うくらいに感情のままに突っ走っていた。正弘は、ずるずるとへたり込んだ。 扉に背を当てて、項垂れる。軽い頭痛にも似た感覚があるのは、様々な欲望と共に感情が迸りすぎたせいだろう。 正弘は強烈な自己嫌悪に襲われたが、唸るしかなかった。やってしまったものは、もうどうしようもないのだから。 機械で出来た体の中で、唯一まともに触覚と言えるものがある股間の部分には、熱くぬめった感触が残っている。 本当に、どうかしてしまった。正弘は力の入らない足に何とか力を入れて立ち上がると、着替えることにした。 とりあえず、日常に戻ろう。 タバコの味が、いつもよりも染みた。 静香は怠さの残る体をソファーに預けながら、タバコをふかしていた。後悔はないが、顔を合わせづらかった。 リビングの床を見下ろすと、昨夜の名残の服が散らばっていた。その全てが静香のもので、正弘のものはない。 正弘は、体が体なので服をあまり脱ぐ必要がない。だから、最初から最後まで、着たままで事を終えてしまった。 事を終えた直後に眠ってしまうなんて、久々だ。それから朝まで目覚めなかったなんて、余程疲れていたのだろう。 タオルケットを持ってきた覚えはないので、きっとこれは正弘が掛けてくれたに違いない。いちいち気の利く男だ。 「全く」 静香はソファーから立ち上がると、乱れた長い髪に指を通した。 「したいならしたいって、言ってくれりゃいいのに」 正弘にされるがままになってしまったため、風呂にも入れなかった。汗の滲んだ肌がべたついて、気色悪い。 長い間、正弘との関係は平行線だった。微睡みのように生温く、曖昧で、それがいつまでも続くような気がした。 友人でもなく、姉と弟でもなく、保護者と被保護者でもなく、大人と子供でもなく、そして、恋人同士でもなかった。 解りやすいようでいて、不思議な関係だった。微妙な均衡が破れる日は、永遠に来ないのだと思ってすらいた。 いつか、正弘は他に好きな子が出来る。いつか、静香も誰かと結婚する。だから、その時が来たら終わるのだと。 だが、その時が来る前に均衡が破られた。久々に酷使された女の部分がひりつき、異物感が重たく残っている。 「とりあえず、風呂だ」 汗を流して髪を洗わなければ、気色悪くてどうしようもない。静香はタオルケットを放ってから、自室へ向かった。 替えの下着と適当な服を手にして、浴室に入った。汗と体液でべとべとに汚れた下着を、洗濯カゴに放り込む。 熱めにしたシャワーを頭から浴びて、昨夜のことを頭の中からも洗い流そうとしたが、一向に消えなかった。 湯気で視界が曇り、汗が湯に洗われていく。事を行いながら、しきりに謝る正弘の声が耳の奧に焼き付いている。 謝るぐらいなら、しなければいいのに。いっそ開き直ってしまえば楽になるだろうが、正弘の性格では無理だ。 長い髪を掻き上げて湯を弾き飛ばし、ため息を吐いた。拒絶しなかったのは、変化を望んでいたからなのか。 微睡みの時間が終わると知っていたから、終わらせたのだろうか。だが、あのままの方が、良かったと思う。 だが、体は彼を受け入れた。静香は痛みの残る部分を気にしながらも、髪を洗うためにシャンプーを取った。 一時だけ、昨夜のことを忘れられた。 正弘は朝食の準備をしつつも、気持ちは逸れていた。 リビングには、静香の服とタオルケットが散らばったままだった。片付けないと、と思うが触れられなかった。 普段であれば、だらしないという気持ちが先立って速効で片付けているのだが、昨夜の事が頭から離れない。 あの服の一つ一つを自分が剥いでいったのかと思うと、またもや罪悪感に苛まれてしまい、正弘は目を逸らした。 「何、やってんだろうな、オレ…」 油を引いたフライパンの中に卵を割り入れると、水気で油が激しく弾けた。 「本当に…」 興味があったのは確かだ。年頃の少年ならば、誰でも抱くような想像と理想を持っていたが、それだけだった。 たまに迫り上がってくる欲望も処理出来る程度のものだったし、静香の存在も関係も、以前と変わらなかった。 日に日に仲の深まっていく鋼太郎と百合子のことは、友人として嬉しく、また少し羨ましいと思ったこともある。 だが、思っただけだ。実行しようなどと、増してや静香をその相手にしようなどとは、微塵も考えたことはない。 気付くと、目玉焼きの端がキツネ色になっていた。正弘はフライ返しで目玉焼きを取り、二枚の皿に載せた。 「好きなことは、好きだけど」 静香のことを異性として認識したのは、割と最近の事だ。高校生になってから、ようやく彼女が女だと思った。 それまでは、歳の離れた大人だとしか思っていなかった。切っ掛けは忘れたが、とりあえず静香は女になった。 けれど、それもまた、それだけだった。正弘にとっての静香は静香でしかなく、決して、一人の女ではなかった。 フライパンの中にベーコンを四枚入れて、時折ひっくり返しながら焼いた。自分で自分が、解らなくなりそうだ。 昨夜、正弘は静香と何を話していたのだろう。これといった変化のない、いつも通りのどうでもいい会話だった。 静香の仕事の愚痴と、正弘の高校生活の報告と、後は些細な出来事を教え合うぐらいで特別なものは何もない。 ただ、話題が少しだけ違っていた。高校を卒業した後に配置される駐屯地はどこになるのか、というものだった。 正弘に機械の体を与え、命を繋げさせてくれたのは自衛隊だ。だから、将来は自衛官になると決まっている。 本当なら、中学卒業と同時にこの部屋を出ていくはずだったのだが、正弘の意思でその時期を三年遅らせた。 つまり、高校卒業まで先延ばしにしたというわけだ。今年が終われば、この部屋から出ていくことになるのだ。 どこに行かされるのか、また、どのようなことをするだろうか。漠然とした不安と共に、淡い期待を抱えている。 初めて話題にしたというわけではない。だが、お互いにあまり触れたくないことだから、口に出さないだけだ。 口に出せば出すほど、別れる日が現実となって近付いてくるような気がするから、敢えて奧に押さえ込んでいる。 そして、思い出した。夢中であったとはいえ、衝動的だったとはいえ、静香を抱いた理由は明確なものがある。 「別れたくないんだ、オレは」 独り言を呟いた正弘は、端が黒く焦げつつあるベーコンを取り出すと、目玉焼きの傍に二枚ずつ載せた。 「だから」 だから、静香を求めてしまった。この人と別れてしまうと思ったら、無性に悲しくて腹立たしくなって高ぶった。 我ながら、方法が極端だ。別れたくないなら口でそう言えばいいのに、なぜ、体の方が先に動いてしまったのだ。 浴室の扉が開く音がして、静香が正弘を呼ぶ声が聞こえた。正弘が顔を出すと、静香は当然のように指示した。 「ブラジャー忘れたんだけど、取ってきてくれる?」 「あー、はいはい…」 正弘は今し方まで感じていたしんみりした気分が、一気に吹っ飛んでしまった。やはり、静香は相変わらずだ。 「黒のシームレスのやつね」 静香は浴室の扉から腕だけを出し、自室を指した。静香の態度があまりに普通で、正弘は妙に情けなくなった。 「真剣に悩んでいたオレが馬鹿みたいです」 「そりゃお互い様よ」 静香は腕を引っ込めて、浴室の中に戻ってしまった。正弘は、ちょっと言い返してやりたくなった。 「静香さんも人並みに悩むんですか」 「あんた、あたしをなんだと思ってるのよ」 失礼しちゃうわね、と静香の反論が浴室から聞こえたが、正弘は気にしないことにして静香の部屋に入った。 整理整頓など全くされておらず、ベッドの上もテーブルの上も床にも物が散乱していて、ぐちゃぐちゃだった。 昨夜、眠ってしまった静香に掛けるために持ってきたタオルケットは自分のものなので、昨夜は入らなかった。 洗濯物を取り込んで畳んだものが、ベッドの上にそのまま置いてある。せめて片付けて欲しいなぁ、と思った。 正弘は下着類が寄り集められた山の中から、静香の要求したブラジャーを出すと、浴室に戻って彼女に渡した。 「部屋の中、片付けて下さいよ」 「いいじゃないの。あたしが解るんだから」 ブラジャーを受け取った静香は、ぴしゃっと浴室の扉を閉めた。正弘は、扉越しに朝食のことを報告した。 「朝ご飯、出来てますから」 「解ってるわよ」 静香の答えを背に受けながら、正弘はキッチンに戻った。トースターの中では、良い具合にパンが焼けている。 冷蔵庫から、昨夜の残りのマカロニサラダを出して目玉焼きの皿と一緒にテーブルに並べ、牛乳のパックも出す。 少し硬めに焼き上がった食パンを二枚ずつ載せ、その皿をテーブルに置きながら、正弘は首をかしげてしまった。 「普通、立場は逆だよな?」 少女漫画だけでなく大抵の漫画では、男女が一夜を明かした後のシチュエーションはパターンが決まっている。 いわゆる朝チュンなのだが、普通は女が先に起きて何かしらの準備をしているが、男は寝ていることが多い。 日常生活もどちらかと言えば通常の逆なのだが、今までは多少の疑問を感じても、まぁいいかと受け流していた。 だが、今回ばかりは疑問を拭えない。正弘が柔らかな湯気が立ち上るトーストを睨んでいると、静香が出てきた。 「今日はパンなの?」 「静香さん」 正弘は静香に向き直ると、やけに強く言った。 「朝チュンは、ヒロインの方が先に起きるものなんですよ! ついでに言えば、朝ご飯の支度だって!」 「マサがしちゃったものはどうしようもないでしょ。変なことにこだわらないでよ」 静香は訳が解らなくなり、呆れた。正弘は、妙に意地になっている。 「なんか納得出来ません」 「馬鹿じゃないの?」 静香は心底どうでもよくなって、言い捨てた。正弘はまだ何かを言いたげにしていたが、テーブルに座った。 納得行かない、と繰り返しながら、正弘は自分のマグカップに牛乳を注いで静香のものにも注ぎ入れている。 こんな子供のことで、あんなに悩んでいた自分が馬鹿みたいだ。静香は、冷たい牛乳を一口含んで飲み下した。 好きでなければ、抱かれるわけがない。正弘のことを一人の男だと思っていたからこそ、体は反応していた。 だが、心中ではそうではない。やはり、正弘はただの子供でしかない。だから、男として意識していないはずだ。 けれど、受け入れてしまった。シャワーを浴びながらその矛盾を考え込んでいたのだが、答えは出なかった。 正弘の態度も、あまり変わらない。起きた当初はお互いに意識していたが、日常に戻ってしまえば気にならない。 昨夜のことは正弘にとってそれだけでしかないのか、と思うと、安堵するのと同時に変に腹立たしくなってきた。 どっちなんだと自分でも思わないでもないが、そう思ってしまうのだから仕方ない。静香は、トーストを囓った。 「マサ」 静香はトーストの欠片を飲み下してから、目玉焼きをフォークで貫いた。 「出掛ける」 「夕飯前には帰ってきて下さいね」 正弘は自分のトーストに丁寧にバターを塗り、耳の端まで塗り尽くしていた。 「あんたもよ」 静香は目玉焼きの白身を切ると、口の中に押し込んだ。正弘は、バターナイフをバターの器に戻した。 「それで、どこに行く気ですか」 「恋人岬」 静香の言葉に、正弘は呆気に取られた。 「…はい?」 「いいから行くの。これ食べ終わったら、さっさと出るからね」 静香はバターナイフでバターを削り取ると、囓りかけのトーストに力任せに塗り付けた。正弘は、渋々頷いた。 「まぁ、いいですけど。どうせ、今日は暇ですから。ていうか、ずっと暇ですから」 静香はまだらにバターを塗りたくったトーストを頬張りながら、不可解げな正弘を横目に見たが、目を逸らした。 行き先は、どこでも良かった。このまま正弘と同じ空間に居続けると、悩みすぎて頭が痛くなりそうだったのだ。 塩とコショウを掛けた目玉焼きの黄身をフォークで切ると、半分だけ火が通っていて、とろりと黄身が流れ出した。 黄身の固まっていない部分を白身に付けてから、口に入れた。ベーコンは端が冷めているが、まだ温かかった。 昨夜、正弘の何かしらの感情を刺激したのは間違いなく自衛隊の話題だろう。それぐらいしか、思い当たらない。 静香が時折話す、合コンのメンバーだの、女子社員に人気のある後輩だの上司だのは、正弘は全く気にしない。 ほんの少しぐらいは妬いてくれてもいいだろう、と思わないでもない。だが、正弘の琴線には触れないようだった。 何を話しても全然妬かれないのは、女として少々悔しい。その点、自衛隊の話題は、正弘の心を直接揺さぶれる。 正弘の傍にいれば、正弘が何を危惧し、何を不安に思っているのかなど解る。彼は、一人になりたくないのだ。 十一年前の事件で家族を全て失っている正弘は、普段はあまり表には出さないが、重たい孤独を抱えている。 自衛隊の話題は、正弘の心にある生涯消えない傷に触れる。自衛隊という存在は、彼にとっては複雑な相手だ。 事件で家族だけでなく体も失った正弘を生かしたのは自衛隊だが、また、正弘の全てを壊したのも自衛隊なのだ。 だから、自衛隊は正弘の味方である上に敵でもある。そして、正弘はその自衛隊に入ることが決定されている。 フルサイボーグ化して生き続けていくための支援と、成人するまでの生活の援助を受けるための、交換条件だ。 だが、自衛隊に入隊してしまえば正弘はこの鮎野町を離れることになり、三人の友人達とも別れることになる。 そのこともあるので、普段は出来るだけ話題に出さないようにして、正弘の心の傷に触れないようにしていた。 しかし、昨夜は敢えて話していた。正弘を煽るために。何のために。何をさせるために。何を、どうさせるために。 静香はトーストを食べ終えたので、ベーコンをフォークに刺した。正弘を窺うと、黙り込んでひたすら食べている。 なぜだろう。なぜ煽ってしまったのだろう。煽らないままだったら、正弘との関係が変わることはなかったのに。 変わらない方が楽だ。だが、いつか必ず変化が訪れる。正弘は、静香の知らない女と愛し合うことになる。 そうなることは必然だ。正弘は十八歳の少年なのだから、静香のように遙かに歳の離れた女に興味など持たない。 だが、それが無性に許せなかった。そうなってしまうことを少しでも考えてしまうと、どうしようもないほど苛立つ。 だから、変化が訪れる前に自分の味を教えてやろうと、静香も女であることを正弘に思い知らせてやろうと思った。 目が冴えてくると、次第に色々なことを思い出してくる。昨夜、酒に浮かされた頭で正弘を煽りに煽ってしまった。 派遣される駐屯地が遠ければせいせいする、近いと逆にやりづらい、十年も一緒だったんだからもう充分、などと。 有り体に言えば、誘っていたのだ。女の部分を見せ付けながら、正弘を駆り立て、自分の元に来させるようにした。 なんて情けない女だ。まだ現れてもいない正弘の未来の恋人に嫉妬して、あまつさえ体を差し出してしまうとは。 重症だ。そして手遅れだ。 07 2/7 |