初心、忘れるべからず。 どこまでも、白い。 正弘は漫画を描くために傾斜を付けてあるボードに向かい、その上に広げた原稿用紙をじっと睨んでいた。 漫画用原稿用紙なので、裁ち切り線などのラインが薄いグリーンで印刷されている。出したばかりの新品だ。 原稿用紙には蛍光灯を受けた自分の影が落ち、傍に置いてあるペン立てやデッサン人形が視界の隅に入る。 どれだけ睨んでみても、何も変わらない。正弘は組んでいた腕を解くと、体を傾けて本棚にもたれかかった。 「…思い付かない」 原稿用紙以上に、頭の中が真っ白だった。修正用ホワイトで塗り潰されてしまったかような、錯覚すらある。 描きたいものはまだまだある。中学時代から描き続けていた、すた☆ぷり! シリーズもようやく完結した。 入院中の百合子に渡したコピー誌の前中後編は、第一部である。その後も、ストーリー展開は続いていた。 第一部は、宇宙のどこかにある惑星キュートから地球にやってきたプリンセス、シャイニーの物語である。 シャイニーは惑星キュートの第一皇女であり、第一皇位継承者だ。行く行くは、母星を背負って立つ存在だ。 だが、プリンセスとしての自覚に欠けていて不真面目でだらしなく、とてもじゃないが皇帝になどさせられない。 そういうわけで、シャイニーは修業のために地球にやってきたのだが、唐突に地球に宇宙怪獣が飛来した。 シャイニーは戦う気などさらさらなかったのだが、お付きのウサギ状小動物、コメッティーにせっつかれた。 怒られて宥められてすかされて煽てられて、ようやくシャイニーは戦う気を起こし、宇宙怪獣に立ち向かった。 ちなみに、惑星キュートの皇族には代々超能力が備わっていて、魔法に似た事象を起こすことが出来るのだ。 変身もその辺りの力を使っているのだが、細かい設定は割愛する。少女漫画なので、深く考えてはいけない。 そして、宇宙怪獣を次から次へと倒す傍ら、シャイニーは通学もしている。私立流星学園の中等部二年生だ。 シャイニーの外見は金髪碧眼なので、留学生という名目だ。当然、その中で素敵な先輩や同級生に出会う。 そして、戦いの中でも出会っている。宇宙怪獣との戦闘中にピンチに陥ったシャイニーを、救った者がいた。 SF的なマスクとスーツに身を包んだ少年で、銀河を駆ける閃光の戦士、フラッシュという正義の味方である。 フラッシュは時折シャイニーを助けに来てくれたりするが、彼はやたらと毒舌な男で、いつもダメ出しをしてくる。 シャイニーはフラッシュに反発をしつつも、彼のアドバイスや援護を受けて、宇宙怪獣をますます倒していった。 そうこうしているうちに、宇宙怪獣を地球に送り込んでいたエージェントが二人の前に現れ、戦いは激化した。 戦いの中でシャイニーは成長し、二段変身どころか三段変身出来るようになり、フラッシュもパワーアップした。 敵はだんだん強くなり、宇宙怪獣のボスクラスをなんとか倒せたと思ったら、次は敵幹部が一気に登場した。 細かい伏線や恋愛パートを消化しながらストーリーは進み、ラスト手前の戦闘でフラッシュのマスクが割れた。 実は、彼の正体はクラスメイトの仲の良い少年であり、そして惑星キュートと敵対する惑星の王子だったのだ。 フラッシュはシャイニーの動向を探ると同時に、彼女の母星を攻略しようとしていたが、いつしか情が湧いた。 そして、シャイニーと恋仲になってしまったので、尚のこと言い出しづらくなったので言えずにいたのだった。 シャイニーは当初、ショックを受けて逃げてしまったが、一話分の一悶着の後に仲直りしてラブラブ度が増した。 そして、地球に宇宙怪獣を送り込んで侵略しようとしていた宇宙犯罪組織の戦艦で、ラストバトルになった。 そこで、宇宙犯罪組織のリーダーが素敵な先輩であることが判明するが、二人は何の躊躇もなく戦い抜いた。 最終話なので六十ページほども費やして、完結させた。ここまでが第一部であり、続編の第二部が始まった。 第二部は第一部の三年後で、シャイニーとフラッシュは高等部二年生になり、ケンカもするがラブラブだった。 夏休みに入ったので二人が母星に帰還したところ、二人の母星同士が緊張状態に陥っており、開戦寸前だった。 二人のいない間に、第一部で滅ぼした宇宙犯罪組織のエージェントが二人の母星を行き違わせてしまったのだ。 元からぎくしゃくしていたからということもあり、シャイニーとフラッシュの力は及ばず、結局は開戦してしまった。 激しい星間戦争の最中、シャイニーの父親である皇帝が暗殺され、その嫌疑がフラッシュに向けられてしまった。 実は、フラッシュの王位継承権を奪おうとする彼の兄の策略なのだ。だが、フラッシュ以外はそれに気付かない。 フラッシュに成り代わって玉座に収まった兄は、全軍の指揮権を手中に収め、惑星キュートへの侵攻を開始した。 シャイニーも新皇帝としての自覚を得、母星とそこに住まう民を守るために、全面戦争を始めることを決意した。 皇帝暗殺の真相をただ一人知るフラッシュは脱獄し、シャイニーの元に向かっていく。母星を、彼女を救うために。 壮絶な星間戦争の合間に宮廷の陰謀劇などもある少女漫画にしては重いストーリーで、結構書き応えもあった。 続く第三部の舞台は、再び地球だ。星間戦争や宮廷内のゴタゴタを解決させた二人は、地球に駆け落ちした。 イチャイチャでベタベタなラブコメが繰り広げられる中、二人の命を狙う暗殺者や怪しげな組織も登場する。 母星の未来を背負うか、自分達の自由な未来を得るか。その二つの間で、シャイニーもフラッシュも揺れ動く。 結局、二人は惑星を背負うことに決断するのだが、そこに至るまで様々な紆余曲折や激しい戦闘などがあった。 最終話はいつもの三倍以上のページ数を費やし、大ゴマや見開きを多数駆使して、構成もとにかく派手にした。 SFファンタジー変身魔法美少女プリンセスラブコメバトル漫画、すた☆ぷり! はこうして完結したのであった。 すた☆ぷり! の完結編を書いている時は、色々なアイディアや設定が浮かび、次のものを早く描きたかった。 だが、いざ終えてみると精も根も尽き果ててしまった。ラフ描きをしようと思っても、全く構図が浮かばなかった。 ノートの隅の落書き程度の絵もまともに出来ないのに、プロットや使いたいセリフばかりが脳内を渦巻いている。 しかし、プロットやセリフなどを書き出してもまともな形になることはなく、頭の中が完全に飽和してしまっている。 このままではいけないと、なんでもいいから描くべきだ、と焦りながら原稿用紙に向かったが状況は同じだった。 「マサ、いる?」 正弘の背後で、扉が開かれた。振り返ると、完璧に化粧をして派手な服に身を固めた静香が立っていた。 「なんですか、静香さん」 正弘は体をずらし、静香と向き直った。静香は、ブランドものの小綺麗なハンドバッグを振り回す。 「買い物に行くんだけど、ちょっと付き合ってくんない?」 「言わなくても解ります、荷物持ちですね。バーゲンでもあるんですか?」 「まぁね。それで、あんたはまた漫画? よく飽きないわね」 静香は正弘に近付くと、その肩に肘を置いて真っ白な原稿用紙を見下ろした。正弘は、静香を見上げる。 「あの」 「何よ」 「漫画の神様はどこにいると思いますか?」 正弘の突拍子もない言葉に、静香は呆れ笑いを浮かべた。 「宇宙からの怪しい電波でも受信した? それとも、少女漫画の毒がとうとう脳を冒したとか?」 「いるものなら、是非とも会いたいです」 「いるとしても、そういうもんはあんたみたいな同人作家に元には来ないわよ」 静香は付け爪を付けた指先で、正弘の顔を指した。 「そういうのはね、週間少年漫画雑誌で長期連載してる漫画家陣とか、どこをひっくり返しても凄すぎる漫画家とか、売れる理由が解らないけど大売れしてる漫画家とかの背後にべったり貼り付いてるもんなのよ。この世には、同人漫画家は掃いて捨てるほどいるんだから、マサに構ってやれる暇なんてないのよ」 「逃げたみたいです」 正弘は静香の艶やかな爪先を見ていたが、ふっと視線を上げて虚空を見つめた。 「オレの、漫画の神様は」 「今度のメンテナンスで、頭ん中もいじってもらったら? めちゃめちゃ電波入ってるわよ、あんた」 「だって、そうとでも思わなきゃやってらんないんですよ!」 正弘は急に声を荒げ、真っ白な原稿用紙を指した。 「ついこの間までは色んな構図とかシーンがさくさく描けたのに、今はさっぱりなんですよ! 一枚絵どころかバストアップ、いや、顔だけすらも描けないんですよこれが! ラフ絵すら仕上げられないんです!」 「そ、そんなにひどいの?」 正弘の剣幕に静香は気圧されてしまい、僅かに身を引いた。正弘は中腰になり、静香をじっと見据えている。 「はい。描けないんです」 「マサ。それ、スランプとかいうやつなんじゃないの?」 「そうなんでしょうか。でも、今まではそんなことは一度もなかったんですけど」 正弘は落ち着きを取り戻したのか、声色が元に戻った。静香は、正弘の机に重なるコピー誌の山を見上げた。 「あれだけ描けば、そりゃスランプにもなるわよ」 静香は姿勢を戻すと、ハンドバッグから携帯電話を取り出した。 「ちょっと待ってて」 静香は携帯電話を操作し、電話を掛けた。数秒後、静香は明るい声で喋り始めた。 「あ、ゆっこちゃん? おはよう。あのさ、今日って暇だったりする?」 うん、うん、と静香は頷いている。 「そう、ゆっこちゃんも鋼ちゃんもこれといった予定はないわけね。良かったら、うちに来てやってくれない? マサの奴がね、ちょっと調子悪くなっちゃったみたいで。ああ、違う違う、体のことじゃないのよ、漫画の方なの」 間を置いて、静香は笑みを零した。 「え、あたし? あたしは漫画のことなんてさっぱり解らないし、こういうことは友達に任せるのが一番いいと思うんだけどね。透君には、ゆっこちゃんが連絡してくれたらいいわ。その方が、あの子も気安いでしょうからね。じゃあね、また今度。マサと仲良くしてやってねー」 静香は電話を切ると、携帯電話で正弘の額を小突いた。 「てなわけだから、後はゆっこちゃん達に任せるわ。あたしはゆっくりブランド品を漁ってくるわ」 「あんまり無駄遣いしないで下さいよ。月末のカードの明細にビビってからじゃ、遅いんですからね?」 正弘は、静香を睨むように見上げた。静香は、気まずげに口元を引きつらせた。 「あれは、ただ、欲しいものの値段が高かっただけなのよ! それでも限度額以内なんだからいいじゃない!」 「いいえ、よくありません。世間の初任給みたいな値段のものを一ヶ月の間に三つも買うなんて、どうかしています」 「あたしのお金なんだから、あたしの自由じゃないのよ!」 「三ヶ月もしないうちに飽きてリサイクルショップに売り飛ばすぐらいだったら、買わないで下さい。物が可哀想です。もったいないオバケが静香さんの枕元で這いずり回って恨み辛みを語り出して知りませんからね」 「うるさい黙れ。何がもったいないオバケよ」 ごつっ、と静香はもう一度携帯電話で正弘の頭を小突いた。正弘は、その手を掴んで上げさせる。 「でも、この間テレビで放映したホラー映画に心底怯えて、一緒に寝ろと言ってきたのはどこの誰ですか」 「うっ、うるさい!」 静香は正弘の手を振り解いて飛び退くと、携帯電話を閉じた。羞恥からか、チークを載せた頬が赤らんでいる。 「あれは演出がいけないのよ! そうだったらそうなのよ!」 「静香さん、来年で三十路になるはずですよね?」 「だっ、黙らっしゃい! もう行く! さっさと行かないと、開店時間に間に合わないんだから!」 静香は扉を開けると、足早に正弘の部屋を出た。 「いってらっしゃい。夕飯は何がいいですか?」 部屋から体を出した正弘は、玄関に向かう静香の背に問い掛けた。静香は、振り返らずに叫んだ。 「オムライス! デミグラスソースの!」 そして、静香は勢い良く部屋を出ていった。ハイヒールの甲高い足音が、力強く廊下を歩いていく音が聞こえた。 それが遠のいてから、正弘は内心で笑った。やはり、可愛い人だ。だからこそ、からかい甲斐があるというものだ。 夕食のオムライスはいつも以上に手を掛けて作ろう、と思っているうちは、スランプのことは忘れることが出来た。 だが、気持ちが冷めると、焦燥感が蘇ってきた。描きたいのにまるで描けないやるせなさに、苛まれてしまう。 静香がサイボーグ同好会の三人を呼び出したとなれば、三人とも、三十分以内にはこの部屋にやってくるだろう。 それまでに準備をしなければ、と散らかったリビングの片付けを始めたが、ちっとも身が入らないために捗らない。 「ネタは思い付くんだよなぁ、ネタだけは…」 正弘は静香が脱ぎ散らかした服を畳みながら、独り言を呟いた。焦れば焦るほど、泥沼に填っていってしまう。 抜け出そうと思っても抜け出すための切っ掛けが見つからず、ずぶずぶと填り込んでしまう。底なし沼のようだ。 描きたいものは頭の中にあり、今すぐにでも描いてしまいたいのに、形に出来ないのはどうしようもなく悔しい。 正弘は洗うものと静香の部屋に戻すものを選り分けて、静香の部屋に入って彼女の服を置き、浴室に向かう。 洗濯機の傍の洗濯カゴに洗うものを入れてからキッチンに戻り、三人を持て成すための準備に取り掛かった。 透が来るのなら、紅茶よりも緑茶の方がいい。確か、静香が同僚の旅行の土産にもらった和菓子があるはずだ。 正弘は四人分の茶碗と和菓子を載せるための皿を出しながら、三人に相談するべきかどうか、悩んでいた。 こういったことは、自分一人の問題だ。三人には関係がない。こんなことで振り回してしまうのは、どうかと思う。 適当にはぐらかしてしまおうか、とも思ったが、それでは変に思われて三人は余計な心配をするかもしれない。 スランプを解決したいとは思うが、漫画は自分一人のことなので、三人の手を煩わせることに引け目を感じる。 だが、友人達を追い返してしまうわけにはいかない。そうこうしているうちに、三十分は呆気なく過ぎてしまった。 そして、玄関のチャイムが鳴らされた。 07 2/25 |