たまには、素直になろう。 我ながら、趣味が悪いと思った。 静香は目の前に並べた二枚の下着を見つめていたが、目を逸らした。冷静になると、妙に空しくなってきた。 艶のある黒地に紫のレースが縁取りされて両サイドが紐になっているショーツと、それと同色のブラジャーだった。 なんでこんなものを買ってしまったんだろう、と静香は頭を悩ませていたが、手にしたのも買ったのも自分なのだ。 値札も外してしまったし、レシートはゴミ箱の底に押し込んだ。それに、こんなものを返品するのは恥ずかしすぎる。 悩みすぎて痛みすら感じる頭を押さえながら、静香はベッドに寝転がった。深く息を吸い、大きくため息を吐いた。 「どうかしてるわ、本当に」 明日がバレンタインデーだというだけで、無駄な出費を重ねてしまう。 「ていうか、何よ、今更…」 ベッド脇のテーブルを見やると、どれか一つを選べなかったために買いすぎたチョコレートが山になっていた。 トリュフ、生チョコ、パウンドケーキ、ウィスキーボンボン、ごく普通の板チョコ、など、明らかに買いすぎている。 買わなければ良かったのに、ついつい買ってしまった。だが、買った傍から後悔して別のものを買ってしまうのだ。 そして、この有様である。静香は自己嫌悪に次ぐ自己嫌悪で心底うんざりしながら、チョコレートを睨み付けた。 「あたし、馬鹿だわ」 何がしたいのかさっぱり解らない。そして、何をすれば喜んでくれるのかさっぱり解らない。 「バレンタインに振り回されるのって、男だけだと思ってたのになぁ…」 静香は独り言を呟きながらベッドから体を起こすと、やたらと派手な下着を布団の下に隠してから立ち上がった。 少し乱れた髪を撫で付けてから、チョコレートの山に手を伸ばした。一番上にあった生チョコは、賞味期限が近い。 これはとりあえず食べるべきだろう、と思い、静香は開封しようとしたが、いざ開けようとすると躊躇してしまう。 もしかしたら彼はこれが好きかもしれない、と少しでも思ってしまうと身動き出来なくなって、結局開封しなかった。 再びチョコレートの山に戻された生チョコを見下ろして、静香は嘆息した。自分で自分に、呆れ果ててしまった。 正弘と男女の関係になってから、それなりに時間が過ぎた。愛の言葉は少ないが、お互いに思い合っている。 また、正弘がそれほど積極的ではないので体を重ねることもなく、キスをすること自体が滅多にないほどだった。 最初の抱かれ方こそ少々強引だったものの、それきりだ。静香も、自分から迫るのは情けないので迫らなかった。 だが、溜まるものは溜まる。性欲と共に別の欲望が体の奥底に蓄積してしまい、苛立ってしまうほどになっていた。 丁度バレンタインデーも近かったので、それに合わせて行動すれば正弘から来てくれるのでは、と静香は考えた。 そこで色々と買い込んでみたのだが、物があるからと言って素直になれるわけでもなく、無駄遣いしただけだった。 やたらと派手な下着も、着て見せなければ意味はない。だが、着て見せたところで、欲情してくれるとは限らない。 それに、チョコレートだってどんなものが好きなのかすらも解っていないのだから、当てずっぽうもいいところだ。 だが、どんなものが好きか、と正弘に聞くのは本末転倒だ。だから、どれか一つが当たればいいと思って買った。 しかし、当たっているとは思えない。喜んでくれるならなんでもいい、と思おうとするが、それでいいとも思えない。 どうせ贈るなら一番喜ぶものを、と思うが、正弘がどんなものが好きか知らないので決めようがないのが現実だ。 ここ数日間、そんな堂々巡りが続いていた。何日過ぎても吹っ切れず、同じようなことをぐるぐると考え込んだ。 これが二十九歳の女がすることか。もうすぐ三十路に手が届こうという年齢なのに、子供っぽくて仕方なかった。 素直になるのは元々得意ではないが、ここまで来ると嫌になる。苛立ち紛れにタバコを取り出したが、切れていた。 「仕方ない、買ってくるか」 静香はタバコのケースを握り潰し、ゴミが山盛りのゴミ箱に放り投げてから、コートを羽織ってバッグを取った。 「マサ、タバコ切れたから買ってくるわ」 廊下に出た静香がダイニングキッチンに声を掛けると、夕食の洗い物をしていた正弘が顔を出した。 「待って下さい、オレも行きます」 「何よ、珍しいわね」 静香は訝りながら振り返ると、正弘はエプロンで濡れた手を拭いながら廊下に出てきた。 「今し方、食器洗いの洗剤が切れたんですよ」 「それこそ珍しいわね、あんたが買い置きし忘れるなんて」 「最近、自衛隊絡みのことでゴタゴタしていたせいですよ。オレだって、忘れることぐらいありますよ」 正弘は小さく肩を竦めると、エプロンを外してから自室に戻った。静香は玄関前に立ち、腕を組んだ。 「早くしなさいよ」 程なくして、正弘は部屋から出てきた。コートを羽織ってショルダーバッグを提げ、玄関にやってきた。 「じゃ、行きますか」 静香は先にブーツを履き、玄関から出た。フルサイボーグで体格の大きい正弘が傍にいると、靴も履きづらい。 正弘はスノートレッキングシューズを履き、出てきた。玄関にあるコンソールで、リビングの暖房や明かりを消す。 途端に部屋の中が真っ暗になり、玄関の足元に備えられているダウンライトのオレンジ色の光しか見えなくなった。 正弘は玄関の扉に鍵を掛けてから、歩き出した。静香もそれに続いて歩きながら、雪に覆われた駅を見下ろした。 分厚い雪に包まれている木々や駅舎は、街灯を浴びて白く光り輝いている。朝から降っていた雪は、止んでいた。 エレベーターに乗って一階に下りた二人は、町営住宅から出た。駐車場は除雪されているが、歩きづらかった。 車庫に入っていない車にはたっぷりと雪が積もっており、フロントガラスをついっと雪の固まりが滑り落ちていった。 一歩歩くたびに、足の下でぎしぎしと雪が軋む。正弘の足音は静香のそれよりも重々しく、足跡も歩幅も広かった。 歩道にも雪が積もっていて、人の足跡にも新雪が重なって幾分柔らかな輪郭となった足跡が所々に付いていた。 しばらく、二人は無言で歩いていた。正弘の歩幅が大きいので静香は自然と取り残されてしまい、追いかけた。 正弘もそれに気付いて歩調を緩めるが、二メートル越えのサイボーグと百六十五センチの女性では差が大きい。 歩けば歩くほど間隔が広がり、二人の距離も広がってしまう。静香は急ごうとするが、雪に足を取られてしまう。 「あの」 見るに見かねた正弘が立ち止まったので、静香はむっとした。 「あんたが速いんじゃないのよ、雪があるから歩きづらいだけなのよ!」 「どっちにしたって、静香さんが遅れていることには変わりありませんよ」 「うるっさい!」 静香はむきになって大股に歩き、正弘の隣に追い付いた。正弘はまた歩き出したが、静香に手を伸ばした。 「何よ、その手は」 静香が正弘の銀色の大きな手を見据えると、正弘はばつが悪そうに手を下げた。 「いえ…なんでもありません」 「なんでもないなら何もするんじゃないわよ」 静香は言い返してから、後悔した。正弘の意図するところは解っているはずなのに、なぜ怒ってしまうのだろう。 静香が転ばないためにも距離を開かないためにも手を繋いだ方がいいし、静香もそうしたいと思わないでもない。 だが、その手を取れなかった。正弘の手を取ってしまえば何かに負けたような気がするから、手を伸ばせなかった。 下らない意地だと自分でも解っているが、どうにも出来なかった。吹き付ける夜風も、頭を冷やしてくれなかった。 正弘はちらちらとこちらを窺うも、声を掛ける機会を得られないでいる。静香が苛立っているから、なのだろう。 あの焦燥が、顔に出てしまっているのだ。堪えようとは思ったが、寒さで強張った頬や唇は上手く動かなかった。 そして二人は、無言で雪道を歩き続けた。 買い物を終えて帰る道も、黙ったままだった。 正弘は目当ての食器洗い洗剤と雑品が入った買い物袋を下げて歩き、静香は後ろでタバコを蒸かしていた。 帰ってから吸おうと思ったのだが、間が持たなかった。正弘を蔑ろにしてしまった自分が、嫌でたまらないのだ。 だから、気晴らしに吸ってしまった。手持ち無沙汰だからといって、すぐにタバコに手を出すのは悪いクセだ。 白い吐息と共に吐き出されたメンソール混じりの煙が、凍えた空気に広がる。静香は、正弘の背を見つめていた。 元々大きな背だったが、近頃はもっと大きいと感じるようになった。恋人同士になって、求婚されたからだろう。 だが、まだ十八歳の少年なのだ。いくら体格が良くて人が出来ていて何事にも器用でも、九歳も年下の子供だ。 しかし、付き合っていると正弘の方が静香よりも年上のように感じる時はしばしばある。今も、そんな感じだった。 そんな正弘のことだ、バレンタインデーのプレゼントはどんなに下らないものだとしても喜んでくれるはずだ。 正弘はあまり幸福な人生を送っていないためか、静香の不器用でぎこちない愛情表現も素直に受け取ってくれる。 けれど、素直過ぎてしまう節もある。静香の作る不味い弁当も平らげてしまうし、ケンカをしても先に折れてくる。 正弘に甘えるのはとても楽だが、それではいけない。それでなくても、静香は正弘に頼り切った生活をしている。 彼がいてくれなければ、とっくの昔に静香は身を持ち崩していただろう。なんだかんだ言って、一番頼りになる。 だから、恋愛も正弘に頼り切っていた。言動は多少捻くれているものの、真っ向から好意を示してくれるのだから。 静香が言えないことや出来ないことも、正弘がしてくれる。好きだと言えないけれど、好きだと言ってきてくれる。 だが、過度な甘えは恋でもなければ愛でもなくただの依存に過ぎない。そんな関係は静香も正弘も望んでいない。 けれど、つい甘えてしまう。心地良いから、楽だから、苦しくないから、正弘の好意にどっぷり浸かり切ってしまう。 ますます自己嫌悪が膨らみ、静香はフィルターを噛んだ。半分以上吸い終えたタバコを、携帯灰皿で押し潰した。 携帯灰皿をコートのポケットに押し込んでから、静香は目を伏せた。正弘と目を合わせることすら、憚られてしまう。 「静香さん」 正弘が立ち止まったので、静香も立ち止まった。 「何よ」 「指輪のサイズ、いくつですか」 「どこの?」 「そりゃ決まっています、左手の薬指です」 「前に計った時は八号だったけど、それがどうかしたの」 「卒業式までは暇ですし、明日はバレンタインですから、一ヶ谷の駅ビル辺りで適当なのを探そうと思いまして」 「何を」 「何ってそりゃ、あれですよ。婚約指輪です」 「けど、それは自分の稼ぎで買うって言ってなかった?」 「それは結婚指輪です。結婚指輪と婚約指輪は別物なんですから」 「でも、バレンタインってのは女から男に贈るもんよ」 「オレのは欧米式ですから」 正弘は照れくさいのか、多少声が上擦っていた。静香は頬が紅潮するのを感じたが、顔を背けた。 「勝手なこと、するんじゃないわよ」 言おうとした言葉と全く逆の言葉が、口から出てしまった。静香は口を噤んだが、自分の声が耳に残留していた。 正弘は静香に向き直り、見下ろしてきていた。その視線が痛くてたまらなくて、静香は正弘に背を向けてしまった。 嬉しいと言えばいいのに、言えなかった。本当は、正弘の気持ちは舞い上がりそうなほど嬉しかったというのに。 雪を踏み締める足音が近付き、大きな影が被さった。静香の体に正弘の腕が回され、モーターの唸りが聞こえる。 「今までは散々静香さんが勝手なことをしてきたんですから、これからはオレがさせてもらいますよ」 冷え切った機械の手が静香の肩を抱き、広く硬い胸の中に引き寄せた。 「それぐらい、構いませんよね」 静香は正弘の腕を押し戻そうとしたが、力が入らなかった。訳もなく胸が詰まってしまって、頷くしかなかった。 甘えないようにしようと思っても、また甘えてしまった。バレンタインデーすらも、正弘に頼り切ってしまうなんて。 悩みに悩んで必死に選んで、それらしい準備をしたのに。やっぱり無駄だったんだ、と思うと無性に切なくなった。 「…嫌」 静香は正弘の腕を握り締めながら、呟いた。 「あんたなんかの勝手にされて、たまるもんですか」 まだ何もしていないのに、返してほしくない。好きなのはこちらも同じなのに、どうしてこうも違ってしまうのだろう。 背中越しに、正弘が首を振っているのが解った。落胆か、それとも諦観か。どちらにせよ、呆れられているのだ。 静香は正弘の腕の中から脱して、彼と向き直った。照れや苛立ちを隠しきれなくて、静香は顔を背けてしまった。 「そうですか」 正弘は残念そうに漏らし、空いている右手をコートのポケットに突っ込んだ。 「そんなに嫌なら、また別の機会にでも」 「だから、あたしは」 静香は力任せに顔を上げ、正弘を睨んだ。 「あんたのそういうところが嫌だっつってんのよ!」 「は?」 面食らったのか、正弘はきょとんとした。静香は怒りにも似た照れに苛まれながらも、言葉を並べる。 「ちょっとは期待しなさいよ、男なんだから! それとも何よ、あたしが何も寄越さないとでも思っていたの!?」 「だって、静香さんがオレに何か寄越してくれたことって、今まで一度もなかったじゃないですか」 「それはそれよ! あたしとあんたは、その、一応アレなんだから、少しは期待してくれないと、困るんだから…」 最初の勢いを失ってしまい、静香の語気は次第に弱くなった。かなり寒いはずなのに、頬だけがやたらと熱い。 「えっと…」 正弘は身を屈め、真っ赤になっている静香と目線を合わせた。 「期待、してもいいんですか?」 「しなさいよ!」 「じゃ、指輪はホワイトデーにでも」 「当たり前よ! 最初からそうすればいいのよ!」 「何も怒らなくても」 「怒ってなんかないわよ!」 静香は正弘のグリーンのゴーグルと睨み合っていたが、気恥ずかしくなって身を下げた。 「たぶん…」 「とりあえず、帰りましょうか。このまま外にいても、底冷えするだけですから」 正弘が歩き出そうとすると、左手が引っ張られた。見ると、静香は顔を伏せながら正弘の袖を掴んでいた。 「今度はなんですか」 正弘に問われ、静香はぐっと正弘の袖を引っ張った。 「後で、あたしの部屋に来なさい」 「そっちの方も、期待していいんですか?」 「…しなさいよ」 静香は小声で付け加えてから、正弘の袖から手を離した。そして正弘の隣を通り過ぎ、精一杯速く歩いた。 背後から正弘の声が聞こえるが、内容は解らなかった。自分が何を言ったのか自覚すると、物凄く恥ずかしい。 そうしたいと思っていたのは他でもない自分だが、いざ行動に移してみると胸が痛くなるほど動揺してしまった。 買ったものを無駄にしないためだ、と己に言い聞かせるが、素直になった照れ臭さが強すぎて誤魔化せない。 ここまで言ってしまったら、もう後戻りは出来ない。静香は町営住宅の正面玄関で立ち止まり、正弘を待った。 しばらくして正面玄関に入ってきた正弘は靴に付いた雪を落としてから、俯いている静香に歩み寄ってきた。 正弘は、再び手を差し伸べてきた。静香は正弘の手を取ったが、あまりの冷たさに手を引っ込めそうになった。 だが、強く握り締めた。静香は正弘の手を思い切り引いて近寄せ、彼のマスクを両手で挟み、かかとを上げた。 静香の唇に触れた正弘のマスクは、恐ろしく冷たかった。高鳴っている心臓がうるさく、耳障りなほどだった。 静香が唇を離すと、正弘はマスクを軽く押さえた。静香は正弘のコートの胸元を握り締めると、小さく呟いた。 「マサ」 「はい」 正弘は、いやに神妙に答えた。静香は正弘の胸元に顔を埋め、言った。 「好きなのは、あんただけじゃないんだから」 そこまで言うつもりはなかったのに、高揚した気分のまま言ってしまった。だが、不思議と後悔はしなかった。 正弘の腕が背に回されるのを感じ、静香は力を抜いた。バレンタインデーというものも、悪くないかもしれない。 本番は明日だが、前倒ししてしまったものは仕方ない。明日は明日で、別のことを頑張ればいいだけのことだ。 「解っていますよ、それぐらい」 正弘は静香の耳元で囁き、抱き締めた。静香は正弘に身を委ねる。 「続きは、あたしの部屋でして」 静香が言葉を返すと、正弘は静香を抱き締めていた腕を緩めた。そして二人は、エレベーターへと歩き出した。 自宅に向かう最中、二人は言葉を交わさなかった。二人きりになってから、話し込めばいいと思っていたからだ。 素直になるのは、なかなか難しいことだ。だが、一度でも素直になってしまえば、後は心を開くしかないのだ。 正弘の横顔を見つめながら、静香は頬に触れた。表面こそ夜風で冷え切っていたが、内側は熱く火照っていた。 今夜は、長い夜になりそうだ。 08 2/7 |