家の中は、妙に静かだった。 それが、無性に不安を掻き立てる、イグニスはケーブルを指の間に広げたまま身を傾げて、リビングを覗いた。 先程、ハルが誰かと通話していたことは感知している。その相手がマサヨシとヤブキであることは把握している。 だが、その直後からハルは大人しくなった。活発なハルが、寝起きに大人しくしていることはあまりないことだった。 ミイムを起こさないように一人遊びでもしているのだろうか、と思い、イグニスは視線を動かして家の中を探った。 トニルトスもイグニスの視線を辿り、掃き出し窓から家の中を見やる。すると、ハルの姿はキッチンの奥にあった。 ハルは小さな手を目一杯伸ばし、食器棚から物を何かを取ろうとしている。だが、手は届かず、掠っただけだ。 その拍子によろけたハルは踏み台から足を踏み外し、床に転げ落ちたので、イグニスは思わず腰を浮かせた。 ハルは涙目になりながら起き上がり、再度台に乗って食器棚に手を伸ばしているが、やはり手は届きそうにない。 そのうちに諦めたのか、下の段から皿を取った。ハルは子供の腕には余る大きさの皿を、シンクの傍に運んだ。 踏み台も動かしてシンクの前に置き、乗ったところでイグニスとトニルトスの視線に気付いて、二人に手を振った。 「やっほー」 「何やってんだ、ハル?」 イグニスは心配になりながら、リビングに近寄った。ハルはリビングの掃き出し窓に駆け寄り、得意げに笑う。 「お料理!」 「ならば、それはこの小動物を覚醒させてからの方が良いのではないか? 貴様らが摂取する有機物の加工方法を最も多く知り得ているのは、こいつだからな」 と、トニルトスはソファーで眠り込んでいるミイムを指し示すが、ハルは首を横に振る。 「ママのためなんだから、ママに手伝ってもらっちゃダメなの!」 「でもよ…」 イグニスは、先程の不安が一気に倍に膨れ上がった。ハルはキッチンに戻ると、冷蔵庫のドアを開けた。 「大丈夫だよおー。さっき、お兄ちゃんからちゃんと作り方を教えてもらったし、道具の使い方だっていつもママのを見てたから解るもん」 「ヤブキが情報源だと…? 尚不安だ…」 イグニスが戦慄すると、トニルトスはもっともらしく頷いた。 「あれはあらゆる状況下に置いて戦力外だからな」 「んーとぉ、えーっとぉ」 ハルは冷蔵庫の中身を見回していたが、ドアのポケットに並んでいる卵を見つけると、手を伸ばした。 「あった」 だが、やはり手が届かない。ハルは何度かジャンプしたが、これでもまだ届かないので踏み台を運んできた。 踏み台に乗ったハルは冷蔵庫のドアに手を掛けたが、ハルの体重を受けてドアはくるりと大きく動いてしまった。 「きゃう!」 ハルは踏み台から足が外れたが、ドアに手を掛けていたので落ちずに済んだ。だが、これでは卵を取れない。 仕方ないので床に飛び降り、踏み台をドアの前に持ってきてからもう一度乗って、ようやく卵を取ることが出来た。 その卵をシンクの隣の調理台に置いてから、今度は牛乳の入ったボトルを取ろうとしたが満量なので重かった。 なんとかドアのポケットから抜いて、肩に担ぐようにして調理台に置いた。次は、ホットケーキを作るための粉だ。 トースターやコーヒーメーカーが載せてある棚の下の扉の中にある、とヤブキは言っていたので、そこを開けた。 だが、中には粉が入った袋が複数入っていた。薄力粉、強力粉、天ぷら粉、片栗粉、ベーキングパウダーなど。 ホットケーキミックスもちゃんとあるのだが、ハルの目に付く場所にはなく、一番手前にあったのは片栗粉だった。 「これでも出来るよね! 粉は粉だもん!」 ハルは迷わず片栗粉の入った袋を取ると、棚の扉を閉めてから調理台に戻った。 「後はー、フライパンとー、ボウルとー、泡立て器とー」 シンクの下からそれらを取り出したハルは、床に置いた。一度に持ち上げられないので、一つずつ上に置いた。 「あ、冷蔵庫!」 ハルは冷蔵庫の扉を閉めようとしたが、ふと思い出した。ミイムの作るお菓子には、フルーツが多く入っている。 その時、ハルの目線にあった器に入っていたものは、ヤブキが丹誠込めて育て上げ、遂に収穫したスイカだった。 今朝もデザートとして食べたが、甘くて瑞々しくておいしかった。それを入れれば、もっとおいしくなるのではないか。 「入れちゃおっと」 ハルはカットしたスイカの入った器を抱え、冷蔵庫の扉を閉めた。それを調理台に置き、踏み台の上に昇った。 「んで、最初は何を入れるんだっけ?」 ハルはヤブキから説明されたホットケーキの作り方を思い出し、片栗粉を全てボウルの中に開けた。 「そうそう、粉だよね! それで、次は卵でー」 生卵をボウルの端にぶつけ、割った。だが、力を入れすぎたせいで、卵は砕け散って殻も一緒に入ってしまった。 「ま、いいや」 ハルはその砕け散った卵を殻ごと投入すると、泡立て器を突っ込み、ぐりぐりと混ぜた。 「あれ?」 だが、混ざらなかった。片栗粉と卵は分離したままで、以前ミイムが作ったようなホットケーキの種にはならない。 牛乳が足りないのだと思ったハルはボトルの蓋を開け、傾けたが、幼児の腕ではその重量を支え切れなかった。 ハルの小さな手から滑り落ちたボトルはボウルに突っ込み、混ざりかけの片栗粉に飛び込んで粉を散らした。 どぼどぼと溢れ出した白い瀑布が調理台からシンクから電磁コンロにも広がり、床に滴り落ちて水域が拡大する。 ハルは慌ててボトルを起こしたが、既に手遅れだった。ハルは白い液体に覆われたキッチンを見回して、唸った。 「うぅ…」 これは、絶対怒られる。だが、おいしいホットケーキを作ったなら、ミイムも怒らずに褒めてくれるかもしれない。 そう思ったハルは、気を取り直して牛乳のボトルの蓋を閉め、並々と牛乳が入ったボウルの中にスイカを入れた。 「あれをどう思う、トニルトス」 イグニスがハルが掻き混ぜている薄ピンク色の不気味な液体を指すと、トニルトスは顔を背けた。 「どうもこうもない。あんなもの、触れることすら穢らわしい」 「俺は喰えるぞ! この体が有機物を摂取出来たら、間違いなく全部平らげてみせるぜ! だって、ハルが初めて作った料理なんだぜ、これを喰わずに死ねるかってんだよ! あの小さくって可愛い手で一生懸命作ったかと思うと、それだけでもう愛が止まらないぜ!」 イグニスは気合い充分に、拳を固めた。トニルトスはその手からあやとりのケーブルを奪い、手の間に広げた。 「相変わらずの小児性愛者め、一刻も早く滅び去らんか。しかし、あの液体を超える混沌を造り出さなければ、私はギャラクシーを進化させることが敵わぬ」 「いやだからもう忘れろよギャラクシーを」 イグニスはトニルトスのギャラクシーに対する執着の強さに辟易し、これ以上付き合いきれないと目線を外した。 そもそも、ギャラクシーとは何なのだ。ヤブキからあやとりの究極だと聞かされただけであって、実物は知らない。 あやとりを教えられる時にヤブキから一通りのやり方を教えてもらったが、ギャラクシーだけは名前だけだった。 イグニスも気にならないことはないが、執着するほどではない。トニルトスはやけに真剣に、あやとりを操っている。 あまりの真剣さに、もしかしたらトニルトスはギャラクシーの作り方を見つけ出すかもしれない、と思ってしまった。 見つけ出してくれたら面白いかもな、という軽い期待を抱きつつ、イグニスはホットケーキを焼くハルを見守った。 フライパンの中では、ぐぶぐぶと混沌の液体が煮え立っていた。 買い出しから帰宅した二人が見たのは、惨状と化したキッチンだった。 リビングではミイムに叱られたらしいハルがすんすんと泣いていて、ミイムは仏頂面でキッチンを掃除している。 換気扇が勢い良く回されているが、蛋白質が焦げた苦い匂いに混じって、傷んだ牛乳の饐えた匂いも感じ取れた。 ゴミ箱の中には、白濁した粘液に赤っぽい物体や黒い焦げが張り付いている、異様な物体が突っ込まれていた。 微笑ましい結末を予想していたマサヨシとヤブキは、買い込んできた食材を抱えたまま、廊下に突っ立っていた。 怒り顔のミイムはひどく焦げ付いたフライパンを金属タワシで強く擦っていたが、泡の付いた手で冷蔵庫を示した。 「冷蔵庫に入れるものはさっさと入れるですぅ、でないと痛んじゃうですぅ」 「何がどうしてこうなったんだ?」 マサヨシが恐る恐る問うと、ミイムは眉根を寄せた。 「片栗粉とスイカのホットケーキなんて成功するわけがないんですぅ」 「いや、でも…」 まともな作り方を教えたはずなのに、とヤブキが言いかけたところで、ミイムはヤブキに詰め寄った。 「あんたがハルちゃんにいい加減なことを教えたんでしょうがっ! あんた以外の誰がいますかヤブキぃ!」 「それは違うっすよ、ビッチョビチョの濡れ衣っすよ! ねえ、そうっすよね、マサ兄貴! 隣にいたんすからちゃんと聞いていたっすよね、オイラの作り方!」 ヤブキが助けを求めてきたので、マサヨシは証言した。 「俺の知る限りでは、ヤブキは常識的な作り方を教えていたぞ」 「じゃあ、どうしてこうなるんですぅ! 片栗粉とスイカなんていうデタラメな発想、ヤブキ以外の誰が出ますかぁ!」 ミイムがヤブキに怒鳴ると、リビングで泣いていたハルが大声を上げた。 「だってぇ、おいしくできるとおもったんだもん!」 ぼろぼろと涙を流して泣きじゃくるハルに、マサヨシは近付いた。 「ハルはミイムに喜んでほしかっただけなんだよな?」 「うん」 ハルは頷き、涙を拭った。 「でもね、でもね、ぜんぶうまくいかなかくて、やいたらへんなどろどろしたのになっちゃって、そしたらね、ママがおきちゃって、そしたらね、すっごくおこられちゃって…」 「そうっすよそうっすよ。でもまぁ、ちゃんと指導しきれなかったオイラにも非はあるっすけどね」 ヤブキはハルを抱き上げ、背中をとんとんと叩いて宥めてやった。 「でも、一人で勝手にお料理するのは危ないからダメなんですぅ。そりゃ、長々とお昼寝しちゃったボクにもちょっぴりは問題はありますけどぉ」 ミイムがつんと顔を逸らしたので、不安に駆られたハルはヤブキに縋った。 「だってぇ、だってぇ」 ミイムが怒るのも尤もだが、ハルの気持ちも尊重したい。マサヨシは冷蔵庫に食料を入れつつ、考え込んだ。 どちらにも味方してやりたいが、ハルには既にヤブキが味方している。となれば、ミイムの側に付くべきだろう。 「料理をするのは構わないが、ハルはまだそれが一人じゃ出来ないんだ。ミイムはハルが嫌いだから怒ったんじゃなくて、ハルにケガをしてほしくないから叱ったんだ。解るな」 マサヨシは、ヤブキの腕に抱かれたハルに近寄る。ハルは、涙に濡れた頬を歪める。 「でもぉ…」 「ママに喜んでほしかったら、今度はママと一緒に作ればいい。そうすれば、きっと上手く行くさ」 マサヨシはハンカチを取り出し、ハルの頬や目元を拭ってやった。ハルは赤らんだ目を動かし、ミイムに向ける。 「そうなの、ママ?」 「みゅうん、パパさんの言う通りですぅ。ボクもハルちゃんと一緒にお料理がしたいですけど、ハルちゃんはまだまだ小さいんですから、ボクがお手伝いしないと出来ないことが沢山ありますぅ。だから、次からはちゃんとボクを呼んで下さいですぅ。一緒に作った方が、もっともっと楽しいですしね」 ミイムに諫められ、ハルは俯いた。 「ごめんなさい、ママ。でもね、ハルね、ママによろこんでほしかったの」 「みゅんみゅん、解ってますぅ。さっきはボクも強く言い過ぎちゃいました、ボクの方もごめんなさいですぅ」 ミイムはハルを撫で、微笑みかけた。マサヨシはハルの頭を優しく撫で付けてやりながら、笑いかけた。 「和解したのならそれでいい」 マサヨシはハルを床に下ろそうとしたが、ハルは服をきつく握り締めてきて、マサヨシから離れようとしなかった。 まだ不安げなハルの顔を見ると、離してしまうのが忍びなく思えてきたので、そのまま抱っこしてやることにした。 「つうかそれ以前に、キッチンでドタバタやってんのに最終段階まで起きないってどんだけ深く寝てたんすか」 ダイニングテーブルに日用品を並べていたヤブキは、小さく肩を竦めた。ミイムは、すかさず言い返す。 「ママはとっても忙しいから眠くなるんですぅ!」 「どうせド深夜までムラサメのファンサイトをネットサーフィンしてたんじゃないっすか?」 「あんたと一緒にしないでほしいですぅ! そりゃ確かに、ネットサーフィンしてると時間が飛んじゃって深夜どころか明け方近くになっちゃうことが多々ありますけどぉ!」 ミイムはヤブキに食って掛かるが、ヤブキは軽い足取りでキッチンに入った。 「それはそれとして、今はさっさと掃除しちゃうっすよー。でないと、今夜の鶏の水炊きが作れないっすー」 「違いますぅ、今夜はさっぱりひんやりのトマトの冷製パスタなんですぅ! 暑苦しい鍋なんてごめんですぅ!」 ミイムはヤブキに言い返しながら、キッチンに駆け込んだ。二人は言い争いをしつつも、手際良く掃除を始めた。 マサヨシはハルと共に、他の荷物を整理するためにリビングを出た。気持ちだけではどうにもならないこともある。 ハルと暮らし始めた頃のマサヨシもそうだった。出来もしない料理をやろうとしては、ひどい失敗を繰り返した。 そのうちにハルの方が気を遣うようになってきて、マサヨシの作った塩辛くて焦げた料理を普通に食べてくれた。 それが心苦しかったので料理の腕をなんとかしようと練習を重ねたのだが、こればかりは一向に上達しなかった。 何事も最初から上手く行くわけがない。思い返してみれば、戦闘訓練を始めた頃のマサヨシも成績が悪かった。 神経伝達系に手を加えて反射神経と判断能力を引き上げた生体改造体であっても、訓練しなくては始まらない。 成功とは、失敗を無数に積み重ねた上に出来上がるものだ。ハルにもそれを知ってほしい、とマサヨシは思った。 今度、ハルがミイムと料理をする時は是非とも参加したい。マサヨシも、多少は料理を学ばなければならない。 出来る者がいるからといって、甘え切るのは良くない。良い機会だから、何か一つぐらいは作れるようになろう。 自分に出来ないこと、持っていないもの、知らないことを補い合うのが家族だが、頼りすぎて溺れてはいけない。 適度な依存と自立こそが、共存関係を成り立たせるのだ。 08 7/2 |