悪夢とは、常に唐突だ。 救護戦艦リリアンヌ号は、個人所有船である。 全長一万五千メートルの超巨大宇宙船だが、分け隔てなく医療を行うために組織や政府には属していない。 それ故、患者も多種多様な惑星から受け入れて治療しているので、必然的に医師や看護師の種族もばらばらだ。 船内での活動に適した二足歩行型の種族が大半だが、それ以外の形状の種族もおり、言語も優に百を超える。 最近では宇宙連邦政府の細かな調査のおかげで翻訳機が対応出来る言語も増えたので、勤務に支障はない。 そんな中で、最も原始的でありながら最も要の職に就いている者こそ、艦長のゲルシュタイン・ヘドリッヒである。 管制業務を他の管制官と交代したフィオーネ・ドラグリオン管制官は、航路の入ったデータディスクを運んでいた。 従姉妹のリリアンヌと同じく方向音痴の気のあるフィオーネは、入念に通路を確かめながら、艦長室を目指した。 リリアンヌ号の艦長室は先端に設置されているブリッジよりも中央寄りなので、離れているが大した距離ではない。 しばらく歩くと、艦長室の扉が現れた。フィオーネがアラームを押してから呼び掛けると、扉のロックが解除された。 「失礼します、艦長。ドラグリオンです」 フィオーネは頭を下げてから艦長室に入ると、地味なパンプスの低いヒールが柔らかく厚い絨毯に埋まった。 艦長室は他の個室よりも広く内装も豪奢で、これまで回った星系から贈答された感謝の品も多く飾られている。 超強化パネルの窓際に重厚な机が横たわっており、その上に置かれたグラスの中に不定形生物が入っていた。 「我が輩に何か用かね、フィオーネ?」 大振りのワイングラスから溢れ出している赤紫色の粘液は、細長く伸ばした触手で管制官の少女を示した。 「今後の航路のプランを持って参りました」 フィオーネは机に歩み寄ると、手早くコンピューターを操って立体星図のホログラフィーを展開した。 「エネルギーは惑星ケレブルムで補給しましたから、大規模戦闘がなければ半年は持つはずです。ですが、物資は三ヶ月程度なので、いつも通りこまめな補給が欠かせません。惑星ケレブルムで得た情報に寄りますと、この宙域から約五光年先のノウム星系の惑星テネルから着艦要請が来ていますので、まずはそこを目指すべきかと」 「戦争か、或いは伝染病かね?」 「双方です。ですので、惑星テネルに至る前に充分な補給をしていくべきかと」 「ふむ、妥当である。上流階級の者共が寄越してくれる寄付金はふんだんにあるのであるからして、湯水の如く使うのである。金はいくらでも稼げるが、人命には代えられぬのである」 「承知しました」 フィオーネが再び頭を下げると、ゲルシュタインは触手の先端をしなやかに掲げた。 「ところで、フィオーネ。リリアンヌから我が輩に対しては何もないのかね?」 「だーから、ありませんってば。お二人が新婚旅行から帰ってきて、もう何日経ったと思っているんですか」 口調を崩したフィオーネが苦笑いすると、ゲルシュタインはずるりとグラスから這い上がった。 「ええい、冷血トカゲ女め! 我が輩が特別に目を掛けてやったからこそあのような外道が生き延びられておることも忘れ、我が輩の許可もなく結婚したばかりか土産すらないとは無礼にも程があるのである!」 「リリアンヌ姉様が冷たいのはいつものことじゃないですか」 「だが、従姉妹である貴君に対しての冷たさは冷蔵庫から出して数時間経過したドリンク程度なのであるからして、我が輩に対する冷たさは光届かぬ絶対零度の岩石惑星の如くなのであるぞ!」 「そりゃ確かに、私はリリアンヌ姉様からお土産の香水を頂きましたけど、私はリリアンヌ姉様にちょくちょく手作りのお菓子を贈っているので、どちらかと言えば私の方がマイナスなんですけど」 「だが、我が輩はあの女に給料を払い、充実した研究室と存分な資金を与えておるのであるからして!」 「艦長。私もまだまだ仕事があるので、もうよろしいですか?」 「いいや、まだまだなのであるぞ! あの女を屈させるために必要な策を練らねばならんのである!」 「御一人でどうぞー」 フィオーネは艦長室から退出すると、小走りに逃げた。ゲルシュタインは有能な艦長だが、性格に難がある。 リリアンヌとは惑星ドラコネムの大学内で知り合ったそうだが、二人の出会いはリリアンヌ号の中でも最大の謎だ。 他者との関係を嫌って研究に浸るリリアンヌと自尊心の固まりのゲルシュタインの接点は、未だに不明だった。 だが、二人は互いを嫌いだと言い張るわりにはちょくちょく顔を合わせているので、悪友のような関係なのだろう。 ゲルシュタインがこの艦の艦長に就任したのも、リリアンヌを引き抜いて研究させるためだと聞いたことがある。 リリアンヌが拒まなかったところを見ると、本当に仲が悪いわけではなさそうなのだが、傍目に見ると物凄く悪い。 そして今回は、ゲルシュタインはリリアンヌが新婚旅行のお土産を持ってこなかったことを根に持っているのだ。 フィオーネはリリアンヌが買ってきたお土産を見たが、その中にゲルシュタインのためのものがあったように思う。 だが、リリアンヌはそれを渡そうとしないのかはたまた忘れてしまったのか、ゲルシュタインの元に届いていない。 もしかすると二人の間に何かがあったのかもしれないが、リリアンヌの真意はフィオーネには察しが付かなかった。 なので、考えるのを止めることにした。デスクに事務仕事が残っているので、まずはそれを片付けに戻らなくては。 事務室に戻る途中で喫煙所に通りかかると、こちらも勤務を交代したらしいレオンハルトが休息を取っていた。 「何してんですかぁ、レオさーん」 フィオーネが声を掛けると、操舵士のレオンハルト・ヴァーグナーは吸い始めたばかりのタバコを唇から外した。 「お前こそ」 「ていうか、レオさんも事務仕事があるんですから、さっさと事務室に戻らないとダメですよ」 フィオーネが眉を吊り上げると、レオンハルトはフィルターを噛んで眉根を曲げた。 「ああいうのはどうも苦手だ、お前が代わりにやれ」 「だったら、きっちり残業代を下さいよ。払ってくれたら考えてあげます。レオさんは私が新人だった頃に山ほど押し付けてきたじゃないですか! その残業代もまだ払ってもらってないんですけど?」 フィオーネは下から覗き込むようにレオンハルトを睨んできたので、レオンハルトはやや後退った。 「あれはお前が言い返さなかったからだろうが!」 「目付きが悪くて態度がでかくて言葉の悪いレオさんが怖くて言い返せなかっただけです! 」 フィオーネは頬を張り、むくれた。レオンハルトはばつが悪そうに、視線を逸らす。 「いや…あれはな…」 年頃の少女の扱い方もろくに解らないくせに彼女と接点を持とうとしたために、態度が荒くなってしまったのだ。 リリアンヌ号に乗船したばかりの頃のフィオーネは、新人故に初々しくて危なっかしく、言動がやたらと可愛かった。 それを目で追っているうちにレオンハルトはフィオーネに心を奪われてしまい、気付けば本気で好きになっていた。 素行の悪いレオンハルトと正反対のフィオーネと接するためには、仕事以外の手段が見当たらなかったせいだ。 だが、それをフィオーネに言うと、こちらが先に惚れたと認めてしまうことになるので、どうしても言いたくなかった。 好きだと告白してきたのはフィオーネの方だし、ほだされたように振る舞っているので、認めるわけにはいかない。 「レオさんってばぁ」 フィオーネの不機嫌な声に呼ばれてレオンハルトが視線を戻すと、フィオーネは小さな唇を尖らせている。 「解ったよ、払えばいいんだろうが」 吸いかけのタバコをスタンド型灰皿に押し当てたレオンハルトが渋々答えると、フィオーネはにんまりした。 「じゃ、何をお願いしちゃいましょうか?」 「とりあえず、勤務が終わったら俺の部屋に来い」 戸惑いを振り払うためにレオンハルトが投げ遣りに言うと、フィオーネは途端に赤くなって逃げ腰になった。 「え、あ、う…」 「お前、今何を考えたんだ」 レオンハルトがぐいっとフィオーネのツノの生えた頭を押さえると、フィオーネは泣きそうになる。 「だってぇ、レオさん、この前…」 「あの状況で手ぇ出さない男がいるか」 「だから、やっぱり、その…」 尖った耳まで朱に染めたフィオーネに、レオンハルトはなんだか子供をいじめてしまったような気分に苛まれた。 だが、こちらとしては大したことをした記憶はない。先日の夜の出来事も、最後まで事に及んだわけではないのだ。 抱き寄せてキスをした程度で、まだ抱いていない。他の女なら別だが、フィオーネには踏み込む勇気が湧かない。 というより、踏み込むのが怖い。あまりにも幼すぎるので、一気に畳み掛けてしまうと嫌われてしまいそうなのだ。 これ以上傍にいると、ますます調子が狂ってしまう。仕事に戻るしかない、とレオンハルトは彼女に背を向けた。 すると、ジャケットの裾が引っ張られた。振り向くと、大きな目にうっすらと涙を浮かべたフィオーネが掴んでいた。 「でも、あの、その」 フィオーネは照れと羞恥で上擦った声を、かすかに絞り出した。 「嫌じゃ、ないですから」 それだけ言い残したフィオーネはレオンハルトに背を向け、二つに結った髪を揺らしながら通路を駆けていった。 余程焦っているのか、パンプスが脱げて転んでしまったが、レオンハルトが駆け寄るよりも先に逃げてしまった。 これだから、困ってしまう。いちいち面倒な女だとは思うがそれ以上に可愛らしいので、惹かれないわけがない。 ああ言ってしまった手前、レオンハルトの押し付けた仕事をこなしてくれた彼女に対価を払わなければならない。 だが、彼女が喜ぶものは何だろう。そこから考えなくてはならないので、事務仕事に集中するのは難しそうだった。 けれど、悪い気分ではない。 その日。ヤブキは、己の視覚センサーを疑った。 海の色が変わっている。いや、それどころか水自体が変質している。波打つ水面は、全て赤紫に染まっていた。 昨日までは人工の空の色を写し取った青だったはずが、赤が混じっている。その上、何やら動きがおかしかった。 シャベルを構えたヤブキは、恐る恐る海に近付いた。砂浜に押し寄せる波は泡立っていて、粘り気があるようだ。 どう見ても怪しい。ヤブキはシャベルの先で海面を突いてみると、土に汚れた先端が赤紫の海面に飲み込まれた。 その瞬間、妙な手応えが訪れた。水にしては重たく、粘っこい。シャベルを引き抜こうとするも、なかなか抜けない。 足を踏ん張ってシャベルは強引に引き抜いたが勢い余って尻もちを付いてしまい、ヤブキは内心で目を丸くした。 「なんすか…これ…?」 「どうしたんですぅ、ヤーブキィー」 ヤブキの収穫を手伝っていたミイムは、野菜を詰め込んだカゴを持って駆け寄ってきたが、海面を凝視した。 「なんですかこれ? ていうか、ゼリーみたいですぅ」 「そうっすよね、なんか旨そうっすよね。グレープ味、みたいな?」 ヤブキは粘液にまみれているシャベルで、つんつんと海面を小突いた。すると、ぶるりと海面が大きく震えた。 「うぎょあ!」 「みぎゃあっ!」 ヤブキが仰け反ると同時に、ミイムも飛び退いた。 「なんすかこれぇー!」 ヤブキが絶叫すると、ミイムはヤブキの背を蹴り倒した。 「とりあえずあんたが調べてきやがれですぅ!」 「えっちょっまっ!」 サイコキネシスを含んだ強烈な蹴りで吹き飛ばされたヤブキは、前のめりになって気色悪い海面に落下した。 受け身を取る間もなく海面に突っ込んだヤブキは、飲み込まれるかと思われたが、一拍置いて浮かび上がった。 サイボーグの重たい体を押し戻した粘液は膨れ上がると、反動を付けてヤブキの体を砂浜に投げ飛ばしてきた。 ミイムは慌てて野菜を抱えて回避すると、砂浜にヤブキは頭から突っ込み、乾いた砂埃が真っ白く舞い上がった。 「もーなんすかー…」 粘液まみれでドロドロに濡れた体に砂をたっぷり付着させたヤブキは、顔を拭いながら起き上がった。 「ていうか、あんたはあれにも嫌われるんですかぁ。さすがは底辺野郎ですぅ」 嘲笑を浮かべたミイムに、ヤブキはむくれた。 「オイラをあの中に突っ込んだのはミイムじゃないっすか」 ヤブキは砂を払いながら立ち上がると、うねうねと怪しげに波打つ海面を指し示した。 「じゃ、今度はミイムがやってみるっす。サイコクラッシャーでもニープレスナイトメアでもサイコバニッシュでもなんでもいいから、かましてみるっす」 「サイコはサイコでも歌って踊れて戦えるサイキックアイドルの方にしやがれってんだよコノヤロウですぅ。でも、攻撃してみないことには正体が掴めないのは確かですぅ」 ミイムは目を細めて紫色の海面を見据え、手刀と共にサイコキネシスを凝結した刃を振り下ろした。 「リリカル一刀両断ーっ!」 ミイムの妙な掛け声と共に振り下ろされた見えない刃が海面に飲み込まれると、一直線に割れて飛沫が散った。 同時に発生した衝撃波を受け、ヤブキは身構えた。だが、ミイムは動じることなく、その場に浮かび上がっている。 「まだまだですぅ!」 全長数十メートルに及ぶ傷口を塞ごうと粘液を寄せ集めている海面に、ミイムは念力の固まりを叩き込んだ。 「プリティバンカーバスターッ!」 傷口に抉り込むようにして落とされた念力による衝撃が海面の下に潜り込んだ途端、それは内側から爆砕した。 赤紫色の粘液が粉々に砕け散り、十数メートル以上も舞い上がり、ねばねばした破片が砂浜に降り注いできた。 ミイムはサイコキネシスで作った防御壁でそれらを浴びずに済んでいるが、ヤブキは放置されていたので浴びた。 ただでさえ粘液が染み込んだ作業服に新たな粘液の固まりが落ち、手で取ろうとしても掴めないので払えない。 ミイムはサイコキネシスによる攻撃が上手く行ったので機嫌が良いが、ヤブキはそれとは正反対の気分だった。 これでは、作業服を洗ってもまた使えるとは思えない。ヤブキは内心で顔をしかめつつ、ヌルヌルの服を脱いだ。 「んで、あれが何なのか解ったっすか?」 ヤブキは、汚れた作業服の袖を腰に回して縛った。ミイムはサイコキネシスで浮かんだまま、肩を竦める。 「さあ?」 「んじゃ、とりあえず帰るっすか。そろそろ昼ご飯の時間っすし」 ヤブキは心底うんざりしながら、海に背を向けた。ミイムは野菜の詰まったカゴを取ると、するりと軽く飛んだ。 「でも、ヤブキはその粘液プレイ後みたいな状態じゃお家に入れてあげないですぅ。外のホースで隅から隅まで綺麗にしないと二度と敷居を跨がせてやらないですぅ」 「これこれ待たぬか愚民共よ!」 唐突に、全く別の声が聞こえた。ミイムはぴたりと空中で止まると、目を据わらせて振り返った。 「誰が愚民だこのタクランケですぅ」 「えーと、音源からすると、この海の方っすけど」 ヤブキは振り返り、海を見渡した。すると、海そのものが膨れ上がり、ずにゅりと巨大な触手を伸ばしてきた。 「貴君らはこの矮小なる世界の住人なのであるからして、新世界の神たる我が輩に跪くべきなのである」 「あーはぁーん?」 ミイムは嫌悪感を丸出しにし、口元を歪めた。ヤブキは、うげ、と呻いて後退った。 「なんつー電波っすか。こういうのには関わらない方がいいっすよ、いやマジで」 「だから今は帰るですぅ」 ミイムは愚民だと言われたことが余程気に食わないのか、砂を巻き上げて粘液にぶちまけてから背を向けた。 ヤブキも、本当に関わりたくなかったのでそそくさとその場を離れた。帰る道すがら、ミイムはずっと不機嫌だった。 振り返ることもせず、途中から駆け出してしまうほどだった。それほどまでに、粘液が喋る様は気持ち悪かった。 だから、二人はあれの正体を考えることすらも嫌だったので、今日の昼食のメニューは何がいいかと話し合った。 その間、二人は揃って似たようなことを考えていた。一緒に畑に行くなどという珍しいことをするものではない、と。 妙なことをしたから、あんなものを見てしまったのだ。 08 7/4 |