アステロイド家族




孵らぬ卵



 SACHIKO・MURATA。
 薄闇に横たわる銀色の保存容器に印された名に触れたが、その名の主である彼女の体温は欠片もなかった。
そして、その中には乾き切った彼女と娘がいる。顔を見たいとは思うが、彼女達の棺の蓋は絶対に開かないのだ。
通常空間とワープ空間が衝突した際に発生した衝撃により開いた全く別の空間から、流れ出した物質のせいだ。
 彼女達は放射能よりも強烈なその物質を全身に浴び、遺伝子を粉々に破壊され、生き物としての機能を失った。
遺伝子情報がなければ、肉体など単なる動物性蛋白質の固まりに過ぎない。けれど、それでも彼女は彼女だ。
妻と娘の死体は次元管理局の研究資料として残されたが、二次被害を防ぐためにこの保存容器に詰められた。
 残されたものは何一つない。あの時、何よりも愛する妻と娘が乗っていた宇宙連絡艇も、解体されて廃棄された。
その船内に積んであった彼女の私物も辺境宇宙の恒星に廃棄され、今となっては粒子の欠片も残されていない。
ワープドライブの事故自体は珍しいことではない。だが、それが次元震の影響で発生した事例はこれだけだった。

「一年振りだな、サチコ、ハル」

 マサヨシは金属の棺に、この上なく優しく微笑みかけた。

「元気だったか?」

 二人との距離が少しでも狭まるように、マサヨシは金属の棺に身を預けた。

「俺は相変わらずだ」

 マサヨシにとって本物の家族と呼べる存在は、十年前の事故で死んだ妻とその胎内で死んでしまった娘だけだ。
生きていたらサチコは三十二歳になり、ハルも十歳になるはずだった。だが、二人の未来は十年前に潰えていた。

「だが、連れ合いは増えた」

 マサヨシはジャケットを探ると、久しく吸っていなかったタバコを抜いて銜え、電磁ライターで火を点した。

「どう見ても少女だが実は少年の元皇太子の異星人に、元気だけは有り余っているサイボーグに、二人目の機械生命体だ。どいつもこいつも騒がしいが、一緒にいると結構楽しいぞ」

 肺を渋い煙で満たすと喉がひりつき、熱気を伴って訪れた煙の粒子が目に滲みた。

「いつになったら、俺はお前達の傍に逝けるんだろうな」

 逝けるものなら、すぐにでも逝きたかった。心から愛した女とその娘がいる世界に戻るためなら、何でも出来る。
少しでも寿命が縮まるなら、二人の苦しみを味わえるなら、と防護服を着ずに入るが、何事もない自分が疎ましい。
だが、その反面、死んではいけないとも思っている。自分が死んだら、サチコのことを記憶している者はいなくなる。
そして、その胎内で生まれ出でる日を待ち侘びていた愛娘、ハルのことを知る者は宇宙に存在しなくなってしまう。
それが恐ろしかったから、死ぬことが出来なかった。彼女達が生きた記録は、データバンクからも抹消されていた。
 十年前の次元震事故の真相は、当事者であるマサヨシも全てを把握しておらず、時が経つに連れて消去された。
その頃、マサヨシは宇宙軍の中佐に登り詰め、次元管理局の防衛部隊の指揮を執って次元の安全を守っていた。
次元管理局は太陽系から離れた宙域に浮かぶ施設だが、長年の研究による次元のデータは極めて重要だった。
万が一そのデータを奪われ、人為的に次元震を起こす手段を見つけ出されてしまったら、銀河全体の危機となる。
次元震の最も大きな問題点は、発生時の物理的な衝撃だけではなく、発生後に生じる三つの空間の歪みだった。
それらの歪みは次元震が起きるたびに拡張し、影響力こそ低いものの、現在ではこの銀河全体に広がっていた。
今はそれぞれの空間の自己修復能力で微妙な均衡を保っているが、それがいつ崩れるか誰にも解らなかった。
だから、次元管理局は、銀河に次々と発生する空間の歪みを発見し、補修し、修復するための研究を行っていた。
 彼女は、研究部に属する研究員の一人だった。サチコ・パーカーという名の天王星圏コロニー出身の女性だ。
初めて会った時、どちらもひどく印象が悪かった。サチコは刺々しい物言いの神経質そうな女にしか見えなかった。
マサヨシもその頃は寡黙な性格であったことと、軍人であるが故に威圧的だったので、怖い男だと思われていた。
 そんな二人に接点が生まれたのは、調査目的で定期航行させている次元探査船のメンバーを決めた時だった。
マサヨシは操舵士としての腕は人並み外れたものがあり、部下の信頼も厚かったので今回の船長に命じられた。
サチコも研究員として着実に成果を上げていたので、次元探査船の搭乗員に選抜され、搭乗することになった。
 まともに顔を合わせたのは、その出航前の会議だ。サチコの決めた調査航路は完璧で、異論は出なかった。
マサヨシもそれに納得したが、サチコのプランに少しばかり気に掛かることがあったので会議の後に呼び止めた。
次元の歪みを調査するポイントを巡る航路としては無駄はないが、いくつかの航路が他の星系に接触していた。
 航行するためのエネルギーを無駄にしないためには有効な手段だが、外交的にはあまり良いとは思えない。
マサヨシがそう言うと、サチコは反発した。効率的に立ち回った方が誰にとっても良いはずだ、と譲らなかった。
なので、出向いた先の宙域で他の星系と摩擦を起こし、無駄な戦闘を繰り広げる方が余程危険だ、と言い返した。
マサヨシに言いくるめられたサチコは悔しげだったが、その場はマサヨシに従って、調査航路を変更してくれた。
 そして、出発した次元探査船ウィンクルム号は目的の次元の歪みの調査と修復を終え、戦闘は行わなかった。
次元調査の旅は一年間に渡るものだったので、マサヨシとサチコは度々意見を衝突させ、距離を狭めていった。
調査を終える頃には互いに相手を意識するようになり、二人が特別な関係になるまで、時間は掛からなかった。
 結婚したのは、それから半年後のことだった。マサヨシが二十四歳で、サチコが二十一歳の時に籍を入れた。
二人とも仕事が忙しかったので、結婚式を挙げる余裕が取れず、サチコに小さな結婚指輪を贈っただけだった。
それでも、サチコはとても喜んでくれた。普段はそれほど表情を崩さない彼女が泣いたのは、この時だけだった。
それから二ヶ月後にサチコは妊娠したので、彼女は研究員から退き、マサヨシも次元管理局を離れることにした。
次元管理局で目に見えた成果を上げていたマサヨシには、木星の宇宙軍基地から辞令が届いていたのである。
 どうせなら暮らしやすい木星のコロニーで新たな家族を迎えよう、ということで彼女が安定期になるまで待った。
そして、サチコとその胎内の娘を乗せた連絡艇が木星へ向けて出発し、マサヨシもその連絡艇を護衛していた。
連絡艇の航路には何の異常も見られず、宇宙海賊の影もなく、このまま何事もなく木星に辿り着くのだと思った。
 だが、突然空間に異変が起きた。サチコを乗せた連絡艇と全く同じ座標に、小規模な次元の歪みが発生した。
マサヨシの目の前でサチコとまだ顔も知らない娘の乗った連絡艇は大破し、その大部分が歪みに飲み込まれた。
救助に向かったが、手遅れだった。回収出来たのは、子を守ろうと身を丸めたサチコの乾いた死体だけだった。

「サチコ、ハル」

 二人の遺体を回収した時の闇よりも暗い絶望と悔恨は、今でも容易に思い出せる。

「ごめんな」

 彼女と、恋に落ちることがなければ。あの時、妊娠させなければ。そして、結婚しなければ。

「俺と出会ったのが、そもそもの間違いなんだよな」

 マサヨシと出会わなかったら、サチコは死ぬことはなかった。その胎内の娘も、無事に生まれてきたはずだ。
マサヨシさえ存在しなければ、サチコはもっとまともな男と恋に落ちて、もっと幸せな人生を送っていたことだろう。
或いは、誰とも結婚せずに優秀な科学者として生涯を終えたかもしれない。だが、そのどちらも奪ってしまった。
 自分さえいなかったら。彼女に声を掛けなければ。彼女に恋をしなければ。その胎内に、生命を授けなければ。
後悔は尽きない。十年が過ぎた今でも、時折夢に見る。目の前でサチコとハルが死ぬ様を、繰り返し、繰り返し。
危険な仕事をすれば早く死ねると思って、軍を辞めて傭兵になった。だが、イグニスと組んでから、変わってきた。
 母星が滅亡してから宇宙を彷徨い続けていたイグニスにとって、マサヨシは掛け替えのない友人になったらしい。
マサヨシも、粗暴だが気の良いイグニスには少しずつ心を開くようになり、そして廃棄コロニーでハルを見つけた。
 愛機のコンピューターに愛妻の名を付けたように、過去も未来もない少女に生まれなかった娘の名を付けた。
二人の名を呼んでいると粉々に砕かれた過去が蘇るような気がして、偽物の二人にも愛情を感じるようになった。
偽物でも、最近では本物の家族のように思えるようになった。ミイム、ヤブキ、トニルトスが加わったからでもある。
三人のおかげで前にも増して日々は騒がしくなり、無限にも等しい絶望を覗き込むことも悪夢を見ることも減った。
コルリス帝国の一件で、偽物の家族を守りたいと思っているのは自分だけではないと知ったことで執着も増した。
 偽物のハルに本物のハルに与えてやりかった愛情や、してやりかったことをしてやると、自己満足だが幸せだ。
それを、偽物のハルに感付かれないように振る舞うことにも慣れた。父親らしいことも、出来るようになってきた。
だが、偽物のハルは所詮偽物だ。だから、ナビゲートコンピューターのサチコのことは母ではなく姉と呼ばせた。
母と呼ばせるのは抵抗があったからだ。偽物と言えどサチコを母と呼んでいいのは、本物のハルだけなのだから。
偽物のサチコの人格も、本物のサチコから敢えて遠のかせていた。近付けてしまうと、自分自身が壊れてしまう。
 サチコとハルが死んだことはきちんと理解した。覚悟した。現実を思い知った。だから、偽物を作りたくなかった。
けれど寂しさに負けて、ナビゲートコンピューターにはサチコと名を付けて、機体にもHALと名を付けてしまった。
そのことは、常に後悔している。しかし、そうでもしなければ、二人がいなくなった後の世界を生きていけなかった。

「ごめんな」

 マサヨシは吸い終えたタバコを、強く握り潰した。皮膚が焼けて熱く痛み、蛋白質の焦げる匂いが立ち上る。

「また会いに来るよ、サチコ。お前は気は強いが、案外寂しがりやだからな」

 マサヨシは身を起こすと、妻の棺を丁寧に撫でた。

「ハルも良い子にしているんだぞ。あまり我が侭を言って、お母さんを困らせたりするなよ」

 冷え切った保存容器に印された無機質な妻の名に、渾身の愛情を込めて口付けをした。

「愛しているよ。今までも、これからも」

 マサヨシは身を翻し、薄闇の中を歩き出した。右の手のひらで出来たばかりの火傷が疼き、痛みを生んでいた。
そして、唇には妻の眠る棺の冷たさが残っている。それだけが確かな現実で、それ以外は自分で作った偽物だ。
偽物の家族にも、愛情は感じる。しかし、それもまた偽物だ。本物の家族は、十年前に死んだ妻と娘だけなのだ。
けれど、二人は死んでしまった。その寂しさと孤独を埋めるためにも、心の均衡を保つためにも、偽物は必要だ。
偽物のハルや皆に、欠片も罪悪感は感じない。ひどいエゴだと自分でも思うが、今更どうにかなる感情ではない。
 とっくの昔に、マサヨシは壊れている。妻と娘が死んだ瞬間から感情の一部が欠落し、嘘を吐けるようになった。
それまではどんなに小さな嘘も吐けず、自分にも他人にも真面目でいることこそが己の美徳だと信じ込んでいた。
だが、それは過去の話だ。時には嘘も必要だと悟ったからこそ、壊れた幸せの欠片を掻き集めて、握り締めた。
その結果、出来上がったのはいびつな幸せだった。どれほど愛情を与えても孵らない、死んだ卵のようなものだ。
外界から切り離された狭い世界に沈殿したエゴに、永遠に大人になれない娘を浸して、緩やかに腐らせている。
 その卵を握り潰すのは、自分なのだろう。




 日が暮れても、父親はまだ帰ってこなかった。
 ハルは夏の匂いを含んだ温い夜風を浴びながら、父親がリニアカタパルトから戻ってくる瞬間を待っていた。
マサヨシは、年に一度どこかに出掛けてしまう。ハルもイグニスも置いて、サチコもシャットダウンして出ていく。
そのため、彼の行き先は誰も知らない。ハルもイグニスも聞いたことはあるが、明確な答えは返ってこなかった。
とても気になるが、ハルは深く聞けなかった。どこかから帰ってきたマサヨシは、何か怖い顔をしているからだ。
いつもはハルが駆け寄ると笑いかけてくれるのに、この時だけは冷たい目をしていて、雰囲気も近寄りがたい。
だけど、翌日には元に戻るので、それまで待てばいいと知っている。いつものことだが、寂しいものは寂しかった。

「ハルちゃーん、そろそろ御夕飯ですよぉー」

 リビングの掃き出し窓から顔を出したミイムが呼び掛けてきたが、ハルは振り返らなかった。

「もうちょっと待ってる」

「マサヨシが帰ってきたら、俺が教えてやるさ。だから、ハルは早く家に戻れ」

 イグニスはハルの手前に膝を付き、顔を寄せた。ハルは唇を尖らせ、拗ねる。

「だって、早くパパに会いたいだもん」

「だが、奴の機体の気配は近隣の宙域に存在していない。このまま待機していても無駄だ」

 トニルトスの素っ気ない物言いに、ハルはそっぽを向いた。

「やだ!」

「そりゃあ、あの野郎がいねぇと物足りねぇのは解るがな、早く喰わないと全部ヤブキに喰われまうぜ?」

 イグニスの軽口に、リビングの掃き出し窓から顔を出していたヤブキが言い返す。

「いくらオイラでもそれはしないっすよ! ちゃんと喰うべき量を弁えて喰ってるんすから!」

「あんだけヒマワリの種を喰っといてまだ喰いやがるんですかぁ!」

 ミイムはサイコキネシスを纏わせた足で、ヤブキの背を蹴り飛ばした。ヤブキは庭に転げ出たが、着地した。

「当たり前じゃないっすか、ありゃ単なる口慰みってやつっすよ! ていうかミイムも喰ってたじゃないっすか!」

「ありゃあんたに釣られただけですぅ! それにボクが食べた量はとってもとおっても可愛いレベルですぅ!」

 ミイムは掃き出し窓に仁王立ちし、リビングに戻ってこようとするヤブキを睨み付けた。

「その割には殻の量が凄いんすけど。喰った数、十や二十じゃないっすよね」

 ヤブキは掃き出し窓の手前に大量に散らばっている、ミイムが食べたヒマワリの種の殻を指した。

「殻に比べて中身が小さいからですぅ!」

 ミイムは再度足を上げるが、二度目の蹴りはヤブキに入らなかった。

「そりゃ言い訳っすよー、やっぱりミイムは齧歯類なんすねーウサギだけに!」

 ヤブキは軽い足取りで逃げ出したので、むきになったミイムはサンダルを突っかけてヤブキを追いかける。

「違いますぅ、ボクは可愛いから前歯なんて伸びたりしないんですぅ!」

「また始まりやがった」

 イグニスは呆れつつも、腰を下ろして二人の追いかけっこを眺めた。トニルトスも、二人を目で追っている。

「下らん」

 ハルは、サイボーグだけあってやたらと速く逃げるヤブキをサイコキネシスで飛行して追うミイムを見やった。
デリカシーがない野郎は嫌われますぅ、とミイムが叫ぶと、野郎に使うデリカシーはないっす、とヤブキも返した。
ハルは二人の大人気ない追いかけっこをしばらく眺めていたが、やはりマサヨシが気になるので目線を外した。
だが、トニルトスが言った通り、マサヨシのスペースファイターがリニアカタパルトに入ってきた気配はなかった。
 ハルはイグニスの手を借りて彼の膝にちょこんと座ると、短い足をぶらぶらさせながら夕暮れの空を見上げた。
トニルトスがスクリーンパネルを破損させて作った空の穴は未だに塞がっておらず、その部分だけ黒くなっていた。
マサヨシがいない時の気分にどこか似ているが、もっともっと穴は大きい。マサヨシは、とても大事な人だからだ。
狭いポッドの中でコールドスリープさせられていたハルを見つけてくれて、広くて楽しい世界に目覚めさせてくれた。
 マサヨシがいなければ、ハルは凍り付いたままだった。もしかしたら、何も知らないまま死んでいたかもしれない。
ハルが意識を取り戻した後、初めて見た人間でもある。ハルを大事にしてくれるから、ハルもマサヨシが大事だ。
マサヨシがいない日々など、考えられない。マサヨシは掛け替えのない父親であり、この家族を支える主なのだ。
 マサヨシがいるから、ハルは生きていられる。







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