アステロイド家族




アフター・ザ・ウォー



 青い照明の下で、愛機は無惨な姿を曝していた。
 尾翼にマーキングされたHALの文字は掠れ、左翼にはケイオスの爪痕が残り、エンジンは一つ足りなかった。
右翼も歪み、船腹も摩擦で塗装が剥げ、主砲もバレルが溶ける寸前だ。今にして思うと、勝てたことは奇跡だ。
マサヨシは超強化ガラス越しに破損したHAL号を見つめていたが、今は愛機に近付くことは許されていなかった。
二人の部品と同様に、HAL号もまた放射能に汚染されている。除去が完了するまで、大分時間が掛かるだろう。
格納庫の四隅に設置された放射能除去装置が低く唸りを上げ、HAL号を穢した放射性物質を吸収し続けていた。
 グリーン・ラボラトリー内の格納庫に、HAL号は移送された。機密上の問題と放射能汚染濃度の高さが理由だ。
そして、ケイオスとの戦闘で浴びたおびただしい量のエネルギー分子を採取し、徹底的に解析するためでもある。
 新人類にとって、アウルム・マーテルは異星体である以前に未知の可能性を秘めたエネルギーの集積体である。
アウルム・マーテルの八割は次元艦隊の作戦で分解され、頭部であり人格であるタルタロスは二人に倒された。
心臓でありもう一つの人格の主であるケイオスもマサヨシの捨て身の攻撃で分子となり、遠い宇宙を漂っている。
アウルム・マーテルは危険な存在だが、そのエネルギーが持つ特性を調査し研究することは有益だと判断された。
しかし、それはマサヨシには無意味だった。アウルム・マーテルが解析されても、サチコは戻ってこないのだから。

「すまん、サチコ」

 マサヨシは冷え切ったパネルに額をぶつけ、崩れ落ちた。もう一人の妻に、自分は何をしてやれたのだろうか。
愛妻とは違った意味で、サチコを愛していた。ハルへの愛に比べればひどく背徳的な感情を、彼女に抱いていた。
だが、その感情を発展させてサチコに示すよりも先にサチコはこの世から消滅し、二人の間の距離はそのままだ。
主と下僕であり、上司と部下であり、パイロットとナビゲーターではあったがそれだけで、男と女にはなれず終いだ。
それで良かったと思おうとする自分もいるが、それでは良くないと思う自分もいて、陰鬱な気分は深まっていった。

「ムラタさん」

 その声にマサヨシは戦慄した。額に感じていたガラスの冷たさも、胸の痛みも、苦しさも、全てが溶解してしまう。
痛いほど胸が詰まって、息が出来なくなる。心臓が早鐘を打ち、急激に循環した血液が脳の隅々まで行き渡る。
 忘れもしない響き、忘れもしない声色、忘れもしない記憶。振り返ると夢が覚めてしまいそうで、振り返りたくない。
電子合成音声で作った彼女の声よりも更に生々しい、生者の体温と気配を伴った声に、マサヨシは息を呑んだ。
 ガラスの端に、白い女の姿が浮かんだ。その顔立ちを見るよりも先に体格が目に入り、在りし日の妻と重なった。
その名を呼んだら、幻影が消えてしまいそうだ。白昼夢か、或いは単なる妄想か。どちらにせよ、確かめなくては。
マサヨシは超強化パネルに手を付いて膝を上げ、浅く息を吸うと、伏せていた瞼を上げて網膜にその姿を映した。

「初めまして。リリアンヌ号から参りました、看護士のヒエムスと申します」

 愛妻と同じ声を放つ女は淡いピンクのナース服に身を包んで、愛妻と同じ顔に優しげな微笑みを湛えていた。
細い眉に少し高めの鼻筋、若干尖り気味の顎、血の気が薄いが柔らかな頬、小さい唇、そして、澄んだ青い瞳。
少しばかり撫で肩気味の肩に、しなやかな細い腕、長い足、長身の割に控えめな乳房、そのどれもが愛妻だった。
次元管理局の制服を着ていたら、本当に愛妻だと思っていた。それほどまでに、彼女は死んだ妻に酷似していた。
違う部分はただ一つ、髪の色と長さだけだ。愛妻の髪は艶やかな黒だったが、ヒエムスの髪は涼やかな銀髪だ。

「イグニスさんとトニルトスさんの看護を勤めさせて頂いております。今後とも、どうぞよろしくお願いしますわ」

 妻に似た女、ヒエムスは首から提げたカードを示し、顔写真と役職をマサヨシに見せた。

「サチコ…」

 無難な挨拶を言うつもりだったのに、愛妻の名が口から出てしまい、マサヨシはひどく後悔した。

「すみません」

「いえ、お気になさらずに」

 ヒエムスは微笑みを陰らせることもなく、マサヨシに近付いてきた。

「あれがムラタさんの船ですのね? 大分破損しておられますが、よくご無事でしたね」

「俺が生きているのは、俺の力ではありません。サチコの力なんです」

「先程のお名前は、ナビゲートコンピューターのお名前なのですね?」

「ええ。ですが」

 マサヨシは死んだ妻のことも言いかけて、口を噤んだ。ヒエムスは、マサヨシの手を取った。

「私でよろしければ、お話をお聞きしますわ。大丈夫です、誰にも話したりしません。それも仕事のうちですもの」

 マサヨシは、手に伝わるヒエムスの細い指先の感触に胸が詰まり、喉の奥から熱い固まりが込み上がってきた。
ヒエムスの青い瞳とパネルに映り込んだ自分の顔は、ひどく弱っていて、見開いた目には僅かに涙が滲んでいた。
知覚するよりも先に視覚したマサヨシは、久しく流していなかった涙を拭うことすらせずに自己嫌悪と戦っていた。
 勝手に苦しんだばかりか、陶酔している。ヒエムスに愛妻を重ねたばかりか、初対面の彼女に甘えてしまった。
こんなに情けないことはない、とマサヨシはヒエムスの手を振り払い、握り締めた拳をパネルに力一杯叩き付けた。
自分を殴れたら、どんなに楽だろう。マサヨシは心配するヒエムスに目を向けることも出来ずに、息を荒げていた。

『マサヨシ』

 マサヨシのジャケットから、聞き慣れた相棒の声が聞こえた。情報端末に、イグニスから通信が入っていた。

「どうした、イグニス」

 マサヨシは情報端末を出し、通信状況を表すホログラフィーを展開した。送信者はイグニスだけではなかった。
イグニスの名の下に、トニルトスの名も表示されている。フローラのテレパシーを経由して発信しているようだ。

『答えてくれなくてもいい。だが、聞くだけ聞いてくれ』

 いつになく穏やかなイグニスに続き、トニルトスが発言した。

『数千万年に及ぶ戦争に真の終結をもたらすために、我らは戦い、そして勝利した。だが、我らは、どちらもその先にあるものを知らなかった。いや、知ろうとすらしなかったと表現するのが正しい』

『俺は、昔に戻るためにお前を裏切った。人間が好かねぇってのは嘘じゃねぇし、タルタロスのクソ野郎がどう言おうと機械生命体としての誇りも失っちゃいねぇ。惑星フラーテルでの戦いも、決して無駄じゃないと信じている。けど、太陽系に来てからの十年も悪くなかったんだ。お前に出会ったことは何よりの幸運だと思っているし、ハルと引き合わせてくれたことにも感謝している。他の連中もそんなに嫌いじゃねぇ。けどよ、俺は戦士なんだ。お前らと同じ空間で暮らして、生温い生活に身を浸して、笑い合っている自分が、どうしても許せなかったんだ。過去を忘れることは出来ねぇし、忘れちゃいけねぇことだと解っている。でも、お前らとこのまま生きるのも悪くねぇかなって思ったところで現れたのが、トニルトスだったんだ』

『母星が消滅した後、私もまた宇宙を彷徨っていた。私が私で在るためには、機械生命体である誇りを胸に刻み、敵を憎まなければならなかった。空虚な暗黒の世界を漂う中で、私は幾度となく絶望し、死を渇望した。しかし、宇宙はそれを許してくれず、私が死せるような状況はただの一度も訪れなかった。私がいつまでたっても死ねないのは、いずれまた同族に出会い、戦争を再開するのが運命なのだと思うようになったのだ。冷静に考えれば、それがいかに愚かしい考えか解るはずだが、私はそれしか考えることが出来なくなっていた。体内に宿るアウルム・マーテルのエネルギー分子がそうさせるのか、私は深き絶望によって歪曲した心で戦いだけを望むようになり、飢えすら感じるようになっていた。そして、いくつかのワームホールを抜けた末に辿り着いたのが太陽系であり、イグニスだった』

『トニルトスと会った時、俺はとんでもなく嬉しかった。また昔みたいに全力に戦える敵が現れた、って思って、こいつを本気で殺すつもりで戦った。けど、カエルレウミオンはこいつしかいなかった。殺すのは簡単だが、殺した後はどうなっちまうんだろうって、その時に初めて思ったんだ。そして、気付いたんだ。こいつが今まで生きてきた理由も、俺と同じなんじゃないかってな』

『我らは敵である以前に同族だ。戦うために生まれたために、戦いの最中で死ぬことが何よりの美徳と考えていた。故に、死ねなかった己を疎み、死んでいった同胞を羨み、死が訪れぬことに絶望した。だが、イグニスは私を殺してくれなかった。そして私も、イグニスを殺すことは出来なかった。悠久なる絶望の旅を経て辿り着いた宇宙の片隅で、ようやく出会えた同胞は、回路が焼け付くほど憎らしかったが同時に愛おしくもあったのだ。我らは同じ存在から生を受けた兄弟なのだから、当然と言えば当然なのだがな』

『だから、俺達は常に憎み合うしかなかったんだ。殺したいが殺せず、死にたいが死ねず、戦いたいが戦い抜けなかった自分を憎む代わりに相手を憎んだ。だが、それは何の解決にもならねぇってことは最初から解っていた。俺達が決着を付けるためには、まともに戦う必要があるってな。俺達の願いが通じたかのように、アウルム・マーテルが太陽系に現れた。俺達はアウルム・マーテルを巡る戦いで機械生命体らしく共倒れしようって思っていたんだが、まあ、色々と計算が狂っちまってよ。タルタロスのこともそうなんだが、一番はお前なんだ、マサヨシ』

『貴様は、素晴らしい愚か者だ。私達と同列に戦おうなどと考える時点で、愚かの極みだ。疎ましくてたまらなかったのだが、少しばかり嬉しいと思ってしまった。私達を理解せんと身を投げ出してくる貴様の姿は、滑稽で、馬鹿げていて、どうしようもなく空しかったが、真摯に情を注がれる喜びを思い出すことが出来た。感謝する』

『ちょっと前だったら生き残ったことを悔やんでいただろうが、今はそうじゃねぇ。生きていられることが嬉しくてどうしようもなくて、泣けてきそうなほどなんだ。お前が生きていてくれたことも、嬉しくて嬉しくて仕方ねぇんだ。俺達みたいな戦争馬鹿を見捨てるどころか追いかけてきて、一緒に戦ってくれたマサヨシは、俺達の誇りなんだ』

『貴様がタルタロスの心臓を先に仕留めてくれなければ、我らは生きてはいなかった。そして、貴様と接触することがなければ、戦い抜いて死したことだろう。だが、今なら解る。死は解放ではなく、永久なる牢獄だということが』

 二人からの情が詰まった言葉の数々に、マサヨシは嗚咽を殺し、肩を怒らせた。

「だが、俺はまたサチコを死なせた。二度も死なせた。そんな奴に、感謝なんてしないでくれ」

『サチコが死んだことは、俺達も知っている。俺達もあいつも瀕死だったが、通信電波だけは受け取れたんだ』

 イグニスに続き、トニルトスも述べた。

『彼女の言葉は途切れていたが、ある程度なら感じ取ることは出来た。サチコは、貴様を守れたことを喜んでいた。それ以外は何も感じることは出来ず、言語に変換することも不可能だったがな』

「嘘を吐くな」

『嘘だと思うなら、なんでお前は生きているんだよ? なんでサチコは命懸けでお前を助けたんだよ? ちったぁ自分に自信を持ってくれよ、マサヨシ。そうじゃねぇと、お前に生かされた俺達の立場がねぇじゃねぇか』

『我らの戦いは終わった。これから始まるのは新たなる日々であり、未知の時間なのだ。だが、我らが心許ないことは、貴様自身が一番良く知っているだろう。サチコは貴様だけを守ったのではない、我らと貴様が支えるべき家庭の未来をも守ったのだ。それが名誉ある死でなくてなんであろうか』

『なあ、マサヨシ。少しぐらいは、自分が生き残ったことを喜んでもいいじゃねぇかよ。お前が生き延びたことを何より喜ぶ女がいないんだから、余計によ』

 そんなことはない。マサヨシは首を横に振って、否定の言葉を吐き出そうとしたが、喉の奥で詰まってしまった。
何も言えないまま、二人からの通信は切れた。心配げに近付いてきたヒエムスの顔を、見ることは出来なかった。
ヒエムスの顔を見てしまったら、涙腺が決壊すると解っていたからだ。サチコだと思い込んで、また甘えてしまう。
だが、彼女はサチコではないのだ。驚くほど愛妻に似ているが、愛妻とは全く別の人生を歩んできた人間なのだ。
こちらの身勝手な感傷を押し付けるほど、幼くはない。マサヨシはヒエムスに手短に挨拶をし、格納庫を後にした。
 格納庫から出ると、人工の空が全面スクリーンパネルに映し出され、コロニーよりも暖かな日差しが注いでいた。
愛した女を二人も失っても、傷一つない自分の体が疎ましかった。だが、自分を傷付けたところで何も始まらない。
 鉛のような疲労が全身に蓄積し、頭痛がする。火星に移送されてから、何も食べていなかったことも思い出した。
だが、食欲は全くない。行くべき場所もなかったが、やるべきことは一つだけあった。自宅に通信を入れなくては。
けれど、この状態では自分でも何を言うかまるで解らない。多少は休息を取らなくては、とマサヨシは歩き出した。
アウルム・マーテルの件の関係者のために、グリーン・ラボラトリー内の部屋がいくつか開放されているはずだ。
市街地へ出る気力もなかったので、マサヨシはひとまずラボラトリーエリアに戻り、その部屋へと向かうことにした。
 睡眠だけは、現実を忘れさせてくれる。




 自宅に通信を入れたのは、それから三時間後だった。
 泥のような重たい眠りから目を覚ましたマサヨシは、身支度を調えてコーヒーを流し込んでからホールに出た。
気分はある程度は持ち直していたが、完調とは言い難かった。だが、眠る前に比べれば、大分まともになった。
これなら、態度を取り繕うことも出来る。空っぽの胃に染み入るカフェインは痛かったが、今はそれで丁度良い。
 マサヨシは情報端末を操作してホログラフィーを浮かび上がらせると、アドレスからヤブキの番号を呼び出した。
ミイムでも構わないのだが、敢えてヤブキを選んだ。今は夕食時だから、彼の手を煩わせるわけにはいかない。
数秒間のラグの後、ヤブキの情報端末との接続が完了した。程なくして、リビングを背景にしたヤブキが現れた。
彼の背後に見えるキッチンではミイムが夕食を作っていたので、ヤブキを選んだ選択は正しかったようだった。

『はいっすー』

「悪いな、家を空けちまって。そっちはどうだ?」

『特に何もないっすよ? 強いて言うなら、むーちゃんのレモンパイがめっちゃ旨かったぐらいっすかねぇ』

「そうか。俺達の方は…まあ、色々あってな」

 マサヨシは言葉を選び、言った。

「HAL号が大分破損しちまったし、イグニスとトニルトスも派手にやられちまったから、帰るのは当分先になりそうだ。だが、心配するな。俺もあいつらも無事だ。俺は二週間ぐらいしたら帰れるが、あいつらは最低でも一、二ヶ月は戻れない。だが、必ず連れて帰る」

『そうっすか』

 ヤブキの語気は弱く、何か言いたげだったが、すぐに明るさを取り戻した。

『じゃ、その間はオイラが家を守るっすよ』

「逆に不安になるが」

『だったら、出来るだけ早く帰ってくることっすよ! そうじゃないと、オイラ達は』

 ヤブキの強張った言葉が、急に割り込んできた幼い声に掻き消された。

『おにーちゃーん、私にも貸ーしーてー! 私もパパとお話しするぅ、すーるーのぉー!』

 ヤブキの持つ情報端末を取ろうとしているらしく、ホログラフィーモニターの端にハルの毛先がちらちらと掠めた。
恐らく、ハルは飛び跳ねているのだろう。だが、身長が一メートル弱しかないハルでは、ヤブキの手に届かない。
もちろん、ヤブキはすぐにハルに情報端末を渡してやった。途端に、満面の笑みを浮かべたハルの顔が現れた。

『パパ!』

「良い子にしてたか、ハル」

『うん! ちゃんとママのお手伝いもしたよ!』

 誇らしげなハルに、マサヨシは笑みを返した。

「そうか、偉いな」

『パパ、今日は帰ってこられないの?』

「そうだ。肝心の船が壊れちまったからな。だが、必ず帰るから、それまで待っているんだぞ」

『うん、解った。寂しいけど、我慢する。だって、パパだって寂しいもん』

「…そうだな」

『んで、マサ兄貴』

 ハルの背後から再登場したヤブキは、少しばかり間を置いてから、勢い良く言い放った。

『帰ってきたら、なんか喰いたいモノとかあるっすか?』

「なんだ、急に」

『いや、なんてーか、いいじゃないっすか細かいことは』

「なんでもいいってんなら、うどんを注文させてもらおうか」

『うどんっすか?』

「作れないのか?」

『いやあ、オイラに限ってそんなことはないっすけど、そうっすか、うどんっすかぁ』

「だったら期待しても良いんだな?」

『そりゃもちろんっすよ!』

 胸を張ったヤブキに、マサヨシは返した。

「帰れる目途が付いたら、また連絡する。楽しみにしているからな」

『じゃあまたね、パパ! おじちゃんとトニーちゃんにもよろしくね!』

 ホログラフィーモニターの中で、ハルは大きく手を振る。マサヨシも軽く手を振り返していると、通信が切られた。
しばらく皆に会えないのは寂しいが、仕方ない。マサヨシは情報端末を閉じ、ジャケットのポケットに押し込んだ。

「じゃ、まずは私が奢りましょうか。うどんってのを」

 いきなり声を掛けられて、マサヨシがやや驚きながら振り返ると、軍服に着替えたレイラが背後に立っていた。
気分転換にシャワーでも浴びたらしく、ショートカットの襟足が生乾きで、僅かにボディーソープの香りが漂った。

「さっきはどうもすみませんでした、中佐」

「いや、あれは俺が悪かった。奢るなら俺の方だ、レイラ」

 マサヨシは苦笑いしながら、立ち上がった。レイラは、マサヨシを見上げる。

「でも、ここの職員食堂は嫌ですからね。軍服だと、白衣集団の中じゃ目立って目立って」

「それぐらい弁えている」

「じゃ、行きましょうか。間を取って割り勘ってことでいいですね」

 レイラはパンプスの低いヒールを鳴らして歩き出したが、一旦足を止め、マサヨシに振り返った。

「でも、サチコには内緒ですからね。下手な誤解を生みたくありません」

「どっちにも、だな」

 マサヨシの呟きに、レイラは安堵したような表情を見せたが、すぐにいつもの素っ気ない顔に戻ってしまった。
レイラも不安がらせていたことを悟ったマサヨシは、罪悪感に駆られたが、気を取り直して彼女の後に続いた。
 今は、現実に戻るしかない。後悔は尽きず、サチコに対する思いは変わらず、前を見ることは出来そうにない。
古傷と共に抉られた心中の傷は、サチコを愛した証だ。簡単に埋めてしまったら、彼女が薄れそうな気がする。
それもまた、恐ろしかった。愛妻が生きていた情報が消されたように、彼女の情報も消滅し、最早記憶しかない。
彼女のことを覚えている者は、愛妻に比べて遙かに少ない。だからこそ、己の傷を癒すわけにはいかないのだ。
 痛みこそが、記憶なのだから。







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