アステロイド家族




スターダスト・メモリー



 二人が結婚したのは、それから半年後のことだった。
 理由は、どちらも忙しかったからだ。マサヨシは船長の任を解かれた後、すぐにまた新たな任務を命じられた。
次元管理局から配置を変えられ、外宇宙へ向けて航行を続けている巨大移民宇宙船の護衛任務に就いた。
 マサヨシは宇宙空挺団のパイロットとして最前線で戦い、巨大移民船を襲撃する異星体と戦闘を繰り広げた。
サチコは次元管理局の研究部に戻り、ウィンクルム号が収集した次元の歪みのデータを分析、研究していた。
物理的な距離は二人の心の距離を開くことはなく、離れれば離れるほど心は近付き、恋は愛へと変わっていた。
 巨大移民宇宙船ペルグランテ号は、百五十年前に太陽系を出航した移民船で、特に大規模な宇宙船だった。
五百万メートル級の移民宇宙船が五基合体しており、完全な環境循環のおかげで半永久的に補給は不要だ。
 人口が増えすぎれば冷凍睡眠で減らし、今回のような環境の変化で減少すれば冷凍睡眠を解除して増やす。
宇宙船と言うよりも、移動する惑星だった。新人類にとって、未だに未知の世界である外宇宙を探索するためだ。
 ペルグランテ号を襲撃した異星体の正体は不明だったが、戦闘を重ねるうちに研究が進み、珪素生物と解った。
その生物に付着していた物質を解析した結果、銀河系の遙か彼方の宇宙からやってきた原始生物と判明した。
炭素生物は有機物を摂取して生命活動を維持するが、巨大珪素生物は高純度金属を摂取して生命を維持する。
そのため、宇宙を漂う巨大な金属塊であるペルグランテ号は格好の餌場となり、船体は幾度となく捕食された。
マサヨシらはその度に彼らを撃墜し、破壊した。そして、ペルグランテ号を滅亡の危機から守り抜いたのである。
 命の危機に曝されることは少なくなかったが、運良く生き残ったマサヨシは、真っ先に次元管理局に帰還した。
配置換えのせいで贈るに贈れなかった指輪をサチコに贈り、改めて結婚を申し込み、そしてサチコと結婚した。
双方の友人達によるささやかな結婚式で、純白のウエディングドレスに身を包んだサチコは何よりも美しかった。
その後に、ようやく二人は同じ部屋で暮らし始め、慣れないながらも手料理を振る舞うサチコは微笑ましかった。
 最初の頃はどんなに簡単な料理でもかなりずれた味がして、カレーが甘く、シチューが辛く、ケーキが苦かった。
それでも、回を重ねるごとに少しずつ改善されるようになり、一ヶ月も経てばサチコの料理はまともになってきた。
だが、肝心なのは味ではなかった。仕事の合間を縫って一生懸命に練習するサチコが、愛しくてたまらなかった。
その努力の成果を食べるのは、夫として当然のことだった。だから、どんなに意外な味がしても、食べ切っていた。
 サチコがハルを身籠もったのは、結婚して二ヶ月後のことだった。


 サチコは、すっかり母親の顔になっていた。
 妊娠したことで顔付きも体型も丸くなり、五ヶ月目に入ったので腹部も大きく膨らみ、目立つようになっていた。
妊娠初期は仕事も続けていたので辛そうだったが、最近は研究員を退いたので、精神的にも余裕が出てきた。
一時は失われていた笑顔も戻り、無理をしない程度に家事をこなし、日々成長する娘の誕生を待ち望んでいた。
 マサヨシはウィンクルム号での船長経験とペルグランテ号での戦果を認められ、中佐への昇進を果たしていた。
それに応じて、軍部からは辞令も下されていた。木星基地で、宇宙航空部隊の一部隊を任されることになった。
木星のコロニーへ転居することはサチコの体にとってもいいことだと思ったので、マサヨシはその辞令を快諾した。
次元管理局の居住区もそれほど悪くないのだが、生活環境のレベルはそうでもなく、必要最低限でしかなかった。
対する木星のコロニーは規模も大きく、環境循環も良く、これから生まれてくる子供のために必要な学校もある。
サチコも木星のコロニーに移り住むことを喜んでくれたので、手続きを終えた後、木星に移動するだけとなった。
 そして、転居日が訪れた。マサヨシはリニアカタパルト前で待機している自機と、中型の連絡艇を眺めていた。
サチコが搭乗するのは、二人の家財道具や荷物を輸送する連絡艇で、マサヨシはその護衛を行うことにした。
連絡艇を操縦するのは木星基地から派遣されてきた操舵士で、信用していないわけではないが、念のためだ。

「中佐」

 声を掛けられ、振り返ると、軍服姿のレイラがかかとを揃えて敬礼した。

「栄転、おめでとうございます」

「ありがとう。色んな宙域に行ったり来たりで、お前らを指揮することはあまり出来なかったがな」

 パイロットスーツ姿のマサヨシも敬礼を返すと、レイラはカタパルトを映すホログラフィーモニターを見上げた。

「サンダークラックじゃないですか。エース時代はスカイジャンパーで、ペルグランテ号の時はスタースクリーマーで、今度はサンダークラックとは、相変わらず良い機体を回してもらってますね。ジェットロンシリーズを制覇するなんて、そうそうあることじゃないですよ」

「今は、こいつを持て余さないだけで精一杯さ。だから、慣らしておかないと、部下共に示しが付かないんだよ」

 マサヨシは、最新鋭のスペースファイターを見上げた。エンジンが強化され、長距離航行が可能な機体だった。
滑らかに伸びる両翼の下にはビームバルカンを搭載し、機首部分にも主砲が備えられ、攻撃力も申し分なかった。
尾翼には木星軍のマーキングが施されているが、船腹には何も付いておらず、真っ青な積層装甲を曝していた。
部隊のマーキングを付けるのは、これから先だ。新たな部下達と訓練を重ね、実戦配備された時に付けるべきだ。
マーキングのデザインは欠片も自信がないので隊員達に任せるつもりだったが、もう一つ付けたいものがあった。

「なあ、レイラ。マーキングの場所、船腹以外にも出来そうな場所があると思うか?」

 マサヨシに問われ、レイラは最新鋭の機体を見回した。

「そうですねー、ノーズとかどうですか。なんですか、サチコとでも入れるんですか?」

「いや、違う」

 マサヨシは顔の緩みを押さえ切れず、弛緩した。

「娘の名前でも入れておこうと思ってな」

「性別、調べちゃったんですか?」

 うわあ勿体ない、と嘆いたレイラに、マサヨシは肩を竦めた。

「解っちまったんだよ、不可抗力で。超音波検査をした時に丁度股の辺りが見えたんだ」

「それで、名前は考えてあるんですか?」

「ハルだ。色々考えたんだが、解りやすいのが一番だと思ってな」

「中佐にしては悪くないセンスですね。ハルちゃんが生まれたら、有り余っている有給休暇でも取って見に行きますよ。サチコにも会いたいですしね」

「相変わらず余計なことを言うな、お前は」

「そういう女ですので」

 マサヨシの文句を受け流し、レイラは澄ました。二人が待機している待機室の扉が開き、サチコが入ってきた。
サチコは体を圧迫しないゆったりとしたワンピースを着ていて、その背後には彼女の荷物を持ったラルフがいた。
ラルフはサチコに彼女の私物であるトートバッグを返してから、マサヨシに近付いて、かかとを揃えて敬礼した。

「行ってこい、中佐どの」

「ラリーこそ、頑張れよな」

 マサヨシは友人に敬礼を返したが、彼の背後を見やった。

「ステラはどうした? 一緒に来るとか行っていたはずだが」

「来るはずだったんだが、どうしても抜けられない仕事が入っちまってな。だから、俺とレイラだけだ」

 ひどく残念そうなラルフに、マサヨシは笑った。

「そっちの方も頑張れよな。但し、俺は何も手は出さないが」

「手ぇ出されてたまるか」

 ラルフは舌打ちすると、顔を背けた。ラルフの思い人がステラであることを知ったのは、少し前の出来事である。
サチコと結婚してからはあまり酒を飲み交わせなくなっていたマサヨシとラルフは、時間を作って会うことにした。
会話の大半はマサヨシの惚気とラルフの愚痴だったのだが、酒が進むに連れてラルフはどんどん饒舌になった。
そして、ラルフは幸福と酒で緩みきったマサヨシを引っぱたきながら、いかに自分が大変な恋をしているか語った。
やれ勤務時間が合わないだの、顔すら見られないだの、誘おうにも誘えないだの、妙に青臭い悩みばかりだった。
そのうちに勢い余って口を滑らせて、ステラ・プレアデスの名を口に出してしまい、マサヨシに知られたのであった。
友人の沽券のためにマサヨシは黙っているが、彼の部下であり彼女の親友であるレイラが知らないわけがない。
実際、今もレイラはにやにやしていた。敢えて口を挟んでこないのは、傍観しているのが面白いからなのだろう。

「サチコ、いってらっしゃい。元気でね」

 レイラはサチコに微笑みかけ、敬礼した。

「レイラこそ、ケガとかしないでね? あなたの戦闘って荒っぽくて、見ていると凄くはらはらするのよ」

 サチコが笑みを返すと、レイラは舌を出した。

「そこはラフファイトと言ってほしかったなぁ。どうせ、テクニックじゃラルフ隊長には敵わないんだもん」

「馬鹿言え。お前が適当すぎるんだ」

 ラルフに毒突かれ、レイラはむくれた。

「隊長機と隊員機の機体性能差はでかいんですから、その辺の事情を無視した発言をしないで下さい」

「予算の都合だ。文句なら上に言え」

「その上が隊長じゃないですか。曹長如きには大した発言権はありませんってば」

 レイラにやりこめられてしまい、ラルフはこれ以上は墓穴を掘ると思ったのか、口惜しげながらも引き下がった。
その様に、サチコは笑いを押し殺していた。マサヨシも笑いが込み上がってきたが、友人の尊厳のために堪えた。
すると、マサヨシの情報端末に通信が入った。連絡艇のパイロットからで、発進準備が完了したとの連絡だった。
マサヨシは連絡艇のパイロットに礼を述べてから、通信を切り、当分は会えなくなるであろう二人の友人に言った。

「次に会う時は、戦場でないといいな」

「そう願うしかないな。どんな宙域にせよ、俺達の出番は少ない方がいい」

 ラルフが言うと、レイラは少し怖い顔をした。

「サチコを泣かせたりしたら、本気で承知しませんからね? リアルに撃墜しますよ?」

「そうよ。これからはハルも生まれるんだし、また置いていったら承知しないんだから」

 サチコはマサヨシに近付き、見上げてきた。

「木星基地に配属されれば、出張することもなくなるさ。これからは、君とハルを守るために飛ぶんだからな」

 マサヨシがサチコの頬に軽くキスをすると、サチコはくすぐったげに微笑んだ。

「あなたとなら、どこへだって行けるわ」

「どこへだって連れて行くし、どこにいたって見つけてやるさ」

 マサヨシが笑みを返すと、サチコはかかとを上げてマサヨシに深く口付け、離れた。

「約束よ」

 サチコは頬を染めながら身を下げ、搭乗口に向かった。

「じゃ、私は先に船に乗っているわ。木星で会いましょう、マサヨシ」

「見ているこっちが恥ずかしくなってきた…。何この大宇宙ラブラブ劇場」

 レイラは珍しく赤面して口元を押さえ、ラルフもやりづらそうに顔を背けていた。

「よくもまぁ、次から次へと恥ずかしいことをぽんぽん言えるな。俺なら酔ってても言えんぞ」

「やかましい」

 マサヨシは二人に言い返してから背を向けると、脇に抱えていたヘルメットを被り、自機の搭乗口に向かった。
スペースファイターのコクピットに入り、キャノピーを閉じてベルトで体を固定し、あらゆるシステムを作動させた。
コクピット内に計器の光が灯り、回転を始めたイオンエンジンの唸りが背中越しに伝わり、緊張感が高ぶってくる。
キャノピーの上に防護壁が更に被せられると、全面モニターに切り替わり、モニターの端に連絡艇の影が見えた。
機体全体に磁力を帯びた連絡艇は射出され、太陽系に向けて放たれると、マサヨシも自機でその後を追った。
 太陽系との距離は膨大なので、ワープドライブを行って、土星と木星の中間地点まで一気に飛ぶこととなった。
連絡艇の開いたワープ空間にマサヨシも突入し、異空間を経由して空間を越え、その先に惑星が浮かんでいた。
赤とオレンジのガスの雲が渦巻く、巨大なガス惑星だった。その衛星軌道上には、コロニーがいくつも回っている。
レーダーには何の反応もなく、特に問題はない。懸念していた宇宙海賊の機影もなく、宇宙空間は静まっていた。
これなら、無事に木星に到着することが出来る。マサヨシは連絡艇を先導するべく、加速して前に出ることにした。
 その瞬間、機体が失速した。真新しく高性能なイオンエンジンの回転が急に鈍り、両翼が粘り着くように重たい。
何事かと防護壁を開いて肉眼で確認すると、進行方向の宙域に見える木星の姿がぐにゃりと奇妙に歪んでいた。
柔らかな飴細工を力任せに捻ったように曲がっているのは、木星ではなく、直線上にある空間だとすぐに解った。
だが、どうしてこんな場所に。こんな時に。マサヨシは動揺しながら、突如現れた次元の歪みから回避していった。

「メーデー、メーデー! こちらアルファ1、進行方向上に空間異常を確認! 至急回避せよ!」

 マサヨシは即座に連絡艇に通信を入れたが、応答がなかった。代わりに、耳障りなノイズが漏れ聞こえてきた。
次元の歪みが発生した影響で、磁気嵐が起きている。電波出力を上げても、周波数を変えても同じことだった。
だが、こちらに異常が発生しているならあちらも同じはずだ。マサヨシは重たい機体を動かし、連絡艇に接近した。
通信が繋がらないなら、レーザーバインドで牽引してでも引き離さなければ。あの中には、サチコがいるのだから。
 次元の歪みから生まれる目に見えない空間の波が翼に絡み付き、重力とは違う過負荷を与え、軋ませてくる。
まるで言うことを聞かない機体をなんとか操縦し、ある程度距離を開くと、機体にのし掛かっていた重量が消えた。
これなら、レーザーバインドを接続すれば連絡艇を引き上げられる。マサヨシは、連絡艇の機体を射程に入れた。
すると、連絡艇の左翼が突然爆砕し、内容物を撒き散らしたかと思うと、連絡艇の中央が捻れるように曲がった。

「な…」

 今、自分は何を見ている。マサヨシはがちがちと震え出した顎を懸命に噛み締めるが、押さえ付けられなかった。
レーダーはひっきりなしに警告音を繰り返し、マサヨシは思い違いをしていたということを、残酷に知らしめてきた。
目視した木星が歪んでいたのは、自分が歪みの内側にいたからだ。外側からでは、確認出来る現象ではない。
なぜ、そんな初歩的なことに気付かなかった。一年間も次元の歪みを追っていたのに、なぜ、その知識が失せた。
機体が重たかったのも、次元の歪みに捕らわれていたからだ。それが軽くなったのは、外へ出てしまったからだ。
このままでは、サチコが。ハルが。マサヨシは歯を食い縛って接近していくが、目の前で連絡艇の船腹が割れた。
マサヨシは通信という通信を開いて叫ぶが、その声は妻の元には届かず、空しくコクピットに反響するだけだった。

「サチコォオオオオオオオッ!」

 真っ二つに折れた船腹から、ばらばらと物が落ちてくる。格納庫のハッチが割れて、二人の荷物が散らばった。
液体燃料と真水のタンクが破損したために散布された液体の粒が漂う空間を、サチコの服や道具が流れていく。
数少ない化粧品や、結婚式の記念品や、次元探査航行での思い出の品や、これから生まれる娘のための服が。
マサヨシは必死に目を凝らし、彼女の姿を探した。もう間に合わないと解っていても、探さずにはいられなかった。

「大丈夫だ、大丈夫なんだ!」

 自分に言い聞かせながら、急発進する。

「待っていろ、どこにいたってすぐに見つけてやる!」

 鼓動が痛く、息が詰まる。操縦桿を握る手には痛いほど力が込められ、食い縛った歯は顎の力で砕けそうだ。
だが、サチコの受けた苦痛はこんなものではない。次元の歪みが自己修復されていく様を横目に、探し続けた。
無惨に砕け散った連絡艇の破片や部品の海の中に、パイロットスーツを着た操舵士がいたが、首が消えていた。
彼はマサヨシと同じ装備を付けていたが、連絡艇が折れた際に破片が飛んできたのか、頭部が切断されていた。
その死体も回収してやらなければ、と思うが、サチコの方が先だった。彼女の姿を確認することが最重要だった。
 連絡艇の後ろ半分は、ごっそり消えていた。大方、次元の歪みに飲み込まれてしまい、消滅してしまったのだ。
通常空間に残されているものは機体の前半分と翼の先端のみだが、サチコが座っていた座席は前方のはずだ。
だから、まだ彼女はいるはずだ。頼むから、いてくれ。マサヨシは目を凝らして宇宙を睨んでいたが、息を呑んだ。

「サチコ…」

 彼女が、いた。

「そこに、いたんだな」

 次元管理局で別れた時と同じ服装で、だが、変わり果ててしまった姿で、宇宙で一番愛おしい妻は漂っていた。
視線を向けるのが怖かった。だが、目を逸らしてはいけないと懸命に己を奮い立て、彼女の姿を網膜に捉えた。
無防備な状態で宇宙空間に放り出されたサチコは、全身の水分が蒸発したため、袖から出た手は縮んでいた。
爆風を浴びた長い黒髪は焼き切れ、艶を失っていた。黒髪の隙間から見える顔も、全く別の形相と化していた。
背中を丸めているのは、腹部を庇ったからだ。これから生まれてくる娘の命を守るために、サチコは戦ったのだ。
だが、勝てなかった。マサヨシはキャノピーを開くと、体を拘束していたベルトを外して、彼女の元へと泳ぎだした。

「ちゃんと、約束したもんな」

 マサヨシは変わり果てたサチコを抱き締めたが、その体の軽さが空しかった。

「ほら、すぐに見つけてやったぞ」

 強く抱き締めた体が軋んだので、マサヨシは腕の力を抜き、ヘルメットを彼女の干涸らびた顔に寄せた。

「愛しているよ。今までも、これからも」

 それから先の記憶は、途切れている。思い出そうとしても思い出せず、一番良い時の記憶しか残っていない。
それが、尚更残酷だ。腕に抱いたサチコの軽さや、抱き締めた彼女を壊しそうになったことは体が覚えている。
見開いたままの眼球が乾いていく感触や、喉の詰まった異物感や、木星の眩しさや、宇宙の暗さや、冷たさを。
 涙が出れば良かった。彼女を潤してやることが出来た。慟哭出来れば良かった。彼女を起こすことが出来た。
自害することが出来れば良かった。彼女を一人にせずに済んだ。だが、どれ一つとしてマサヨシは出来なかった。
 父親として、夫として、失格だ。




 記憶の海は、ひどく苦い。
 涙は、やはり出なかった。両手に残るサチコの軽さが胸を押し潰してくるが、干涸らびた喉は呻きすら零さない。
息をするだけで、彼女への罪になる。溢れるほどの光に満ちた未来に至る前に、全てを失ってしまったのだから。
許せないのは、自分だ。あの瞬間、判断を誤っていなければ、サチコは死なずに済んだのだと何度となく思った。
死ぬべきは自分だ。サチコではない。ハルではない。彼女達の人生を歪めたのは、他でもないマサヨシ自身だ。

「おはよう、マサヨシ」

 朧な意識を掻き混ぜる声に、マサヨシはひどく重たい瞼を開き、眼球を動かした。

「サチコ」

「そうよ、私よ」

 懐かしい声色。長い黒髪。青い瞳。

「俺は…」

 マサヨシは鉛を詰めたように重たい頭を押さえ、息を荒げた。

「君を死なせた。二度も死なせたんだ」

「ちゃんと目を開けて、マサヨシ。私は、ここにいるわ」

 少し冷たい手が頬を挟み、視線を合わせてくる。澄み切った青い瞳の中に、マサヨシが映る。

「ほら、ね?」

 優しく引き寄せられ、唇が重なった。マサヨシは彼女に身を預け、目を閉じて、愛おしい妻の感触を味わった。
鼻を掠める彼女の匂い。頬に感じる細い指。胸に感じる柔らかな乳房。全身の隅々に染み渡る、生者の体温。
その温もりを逃すのが惜しくて、マサヨシは彼女の体に腕を回して抱き寄せると、力任せに彼女の唇を貪った。
彼女の吐息が上がり、漏れる声が甘くなる。腕を緩めて彼女の体を押し倒し、覆い被さり、真上から見下ろした。

「だから、君の手で俺を殺してくれ」

 マサヨシは骨が痺れるほど強く床を叩き、呻いた。

「俺には、君を愛する資格がない」

 膝を折って座り込んだマサヨシは、乾いた笑いを零し、項垂れた。

「だが、俺が生きている限り、俺はまたサチコを求めるだろう。どんな形であれ、どんなものであれ、サチコでなきゃ気が済まないんだ。そのくせ、すぐに死なせちまう。守れないくせに、惚れちまうんだ」

「マサヨシ…」

 彼女は身を起こすと、少し乱れた襟元を整えた。

「どうして、素直に甘えてくれないの?」

「怖いんだ。俺が近付くことで、また君が死んでしまうことが」

 壁に手を付いて立ち上がったマサヨシは、ふらつく頭を押さえた。

「この根性なし!」

 急に立ち上がった彼女は乱暴にマサヨシを殴り付け、壁に押し付けてきた。

「二度も死んだんだから、もう死なないかもしれないじゃないの! どうしてそう思ってくれないのよ!」

「俺は、そこまで強くない」

 胸倉を掴む彼女の手を解いたマサヨシは、壁伝いに進んでドアを見つけ、ふらつきながらその部屋から出た。
本物のサチコは死んだ。二人目のサチコも死んだ。ならば、三人目のサチコが死なない保証はどこにもない。
サチコを愛している。サチコのためなら、命さえ惜しまない。だが、自分が愛したがためにサチコは死んでいく。
愛すれば愛するほど、愛する妻は死ぬ。だから、もう愛さない方が良い。その方が、サチコのためになるのだ。
 回廊は、どこまでも続いている。見覚えのある光景だとは思ったが、それがどこで何なのかは解らなかった。
ここはどこなのか。自分はどこにいるのか。何のために歩いているのか。一体、どこへ向かおうとしているのか。
だが、ここで立ち止まってはいけないのだと、もう一人の自分が突き動かしてくる。帰るべき場所へ帰るのだと。
 守るべき我が家があるのだから。







08 10/31