豪烈甲者カンタロス




第十三話 抉れた希望



 雨は重たく、空気は粘り着くようだ。
 この雨が止めば、戦いが始まる。黒田以外の三組は、既に戦闘配備に付いて女王の出現を待ち侘びている。
いつもよりも濃密な生臭い人型昆虫の匂いが地中から立ち上り、体に植え付けられた虫としての感覚が騒いだ。
黒田が真の女王の神経糸に襲われたのとほぼ同時刻、兜森繭も真の女王と思しき存在と自宅で接触していた。
その事実で、事態は急変した。それまでは仮定に過ぎなかった真の女王の存在が確定され、作戦も変わった。
出現する女王を一匹ずつ迎え撃つのではなく、手当たり次第に女王を殺して、真の女王を地上へ炙り出すのだ。
これもやはり頭の良い作戦とは言えず、都心への損害も甚大になってしまうだろうが背に腹は代えられなかった。
 雨が降っている間は、人型昆虫は活動出来ない。窒息の危険があるからだ。だが、止んだ途端に堰は切れる。
このまま降り続けてくれれば、と願う傍ら、止んでくれなければ困る、とも思った。そのどちらも紛れもない本音だ。
戦わなければ何も終わらないが、終わらせるほどの力はないと解っている。だから、決意が容易く揺らいでしまう。
 外骨格の隙間を埋める膜に太い注射針を突き立てて薬液を注入すると、体液に薬液が混ざり合って広がった。
それが血管を通じて自身の体にも行き渡っていく感覚を味わいながら、黒田は顎を開いて安堵の声を漏らした。
空になった注射器を引き抜いて、テーブルに投げた。もう一本ぐらい投与しておきたいが、それでは意識が飛ぶ。
 自室のドアがノックされたが、別に驚くことはなかった。彼女が部屋に来ることは、解り切っていたことだからだ。
鍵を掛けていないドアが開き、紫織が現れた。黒田は振り返ると、盆を抱えた紫織は顔を強張らせて立っていた。

「失礼します」

「喰うような気分じゃないんだがな」

 黒田が低く呟くと、紫織は湯気の昇る皿を載せた盆をきつく握った。

「ですけど、少しは入れておかないと、保ちませんよ。それに!」

「それに?」

「これ、一応、私が作ったんです。だから、その…」

 紫織は気恥ずかしげに顔を伏せ、足元を見つめた。

「だったら、少しは喰った方がいいかもしれないな。どういう味か気になったままじゃ、死ぬに死ねん」

 黒田が茶化すと、紫織はむくれた。

「そんなにひどくはないですよ! まあ…自信はありませんけど…」

 黒田が立ち上がって紫織に歩み寄ると、紫織は躊躇いがちに盆を下げたので、彼女の手から盆を奪い取った。
それには、やたらと大きいが表面が黒く焦げたハンバーグと、煮過ぎて具が溶けたカレーの皿が載せられていた。

「あ、あの、やっぱりいいです! 自分で処分しますので!」

 紫織は慌てふためいて盆を奪おうとするので、黒田はなんだか面白くなってしまった。

「カレーにハンバーグとは、俺は小学生か?」

「だって、それしか思い付かなかったんです! 黒田二佐が何が好きかなんてこと、知らなかったから!」

 紫織は余計に恥ずかしくなってきたのか、赤面している。黒田はその盆をテーブルに置き、椅子に腰を下ろした。

「まあ、嫌いじゃない」

「それなら、いいんですけど」

 では私はこれで、と紫織は頭を下げて退室しようとしたので、黒田は呼び止めた。

「紫織」

「はい、なんでしょうか」

「話したいことがある」

「…はい」

 紫織は開けかけたドアを閉めると、黒田に近付いた。期待と緊張と困惑が入り混じり、動作がぎこちなかった。
ぎくしゃくした歩き方で近付いてきた紫織は、黒田の前に直立したので、黒田は向かい側の空いた椅子を勧めた。
 紫織は上擦った声で最敬礼し、その椅子に座ったが、勢いが良すぎたせいで座り損ね、危うく落ちそうになった。
それがまた恥ずかしかったのか、紫織はますます赤面した。無性に可笑しくなった黒田は、肩を細かく震わせた。
紫織は黒田に笑われたことで、怒るよりも先に困り果ててしまったのか、小さな体を更に縮めて俯いてしまった。

「あんまり、笑わないで下さいぃ…」

「すまん」

 こんなに笑ったのは久し振りだな、と思いながら、黒田は笑いを収めた。

「東京タワー付近の地下空洞で、俺が真の女王に接触されたことは知っているな」

「はい」

 紫織は仕事の顔に切り替え、黒田を見上げた。

「ほんの数秒間だったが、俺は真の女王の操る神経糸と接続した。その時、俺は色々なものを見せられた」

 黒田は皿に添えられたスプーンを取り、具が溶けたカレーを掬って口に入れた。

「真の女王は、生きることだけを望んでいる。自分の分身である人型昆虫を繁栄させ、人類を淘汰しようとしている。だが、それは俺達も同じなんだ。俺達が女王と人型昆虫を殺すのは、滅びたくないからだ。だが、女王様方は違う。あいつらは幼すぎて、物事がまるで見えちゃいない。真の女王になるとか言っていたが、そんなことはどう考えても無理だ。真の女王を倒し、その子である女王を殺し尽くしたとしても、真の女王になる資格を持ち合わせているのは女王様方の腹を破って生まれてくる新たな女王なんだ。もちろん、その時に女王様方は死ぬ。それなのに、あいつらは揃って自分が死なないとでも思っていやがる。青臭すぎて反吐が出そうだ」

 黒田はハンバーグを半分に割り、中が生焼けであることに気付いたが、気にせずに食べた。

「だが、俺は違う。俺は無理を通しすぎてきたことぐらい、承知している。肉体も限界を通り越している。運良く真の女王を倒せたとしても、そこから先はない。肉体的にも、精神的にもな」

「黒田二佐…」

 紫織は切なげに俯き、白衣を握り締めた。

「それでも、俺は生きていたいと思ってしまう。生きることを諦めているはずなのに、どうしても諦めきれないんだ」

 黒田はハンバーグとカレーを食べ切ると、空になった皿にスプーンを投げ入れた。

「だから、俺には君が必要だ」

「へ…」

 紫織は顔を上げ、目を丸めた。黒田は盆を押しやり、紙ナプキンでルーに汚れた顎を拭いた。

「思ったよりも旨かった。だが、ハンバーグは火を弱めて蓋をして焼いた方が良い。その方がちゃんと火が通るぞ」

「えっと、それはどういう意味ですか?」

「俺の思い上がりなら、それでいい」

 黒田が立ち上がると、紫織も立ち上がったが勢いが余って椅子を蹴り倒してしまった。

「そんなことないです! ていうか、馬鹿なのは私の方です! 黒田二佐はまだ水橋さんのことが好きだって解っているのに、でも、やっぱり我慢出来なくて…」

 次第に項垂れた紫織に、黒田は彼女の頬と顎に横たえた爪を添えて、上向けさせた。

「俺は櫻子を愛している。それは今でも変わらないし、これからもそうだろう。だが、俺は一人で戦い続けられるほど強くはない。だから、紫織が俺に近付いてきてくれるのが、馬鹿みたいに嬉しいんだ」

「それって、好きってこととは、ちょっと違うんですよね?」

「ああ」

 しばらく、二人は動かなかった。ざあざあと雨が降りしきる音だけが聞こえ、窓が細かな雨粒に叩かれていた。
紫織が黒田に感じている感情は、恋愛感情であるとは言い切れない。同情か、異形に対する好奇心の延長だ。
どちらにせよ、本当の愛ではない。黒田が紫織に求めているのは、寂しさと辛さを埋めるための柔らかさなのだ。
だから、これだけで充分だ。紫織のおかげで心の隙間を埋めることが出来たのだから、と、黒田は満足していた。

「薬が回ってきたな」

 黒田は体液が熱するような高揚感を感じて、紫織の脇を抜けてドアに向かった。

「雨が上がる前に出る」

「あの!」

「なんだ」

 ドアノブに爪を掛けた黒田が振り返ると、紫織は声を上擦らせながら叫んだ。

「絶対、絶対に、帰ってきて下さい! 私はずっとここで待っています! だから、死なないで下さい!」

「一つ、聞いて良いか」

「はい!」

「どうして、君は俺に興味を持ったんだ?」

 聞かない方が、幻想が覚めずに済んだだろうに。言ってしまった後に、黒田はやや後悔した。

「黒田二佐は、私を助けてくれたからです! 私のヒーローだからです!」

 だが、黒田の予想に反し、紫織は子供っぽいが真っ当な好意を込めた言葉を放った。

「そうか」

「はい、そうなんです!」

 全力で頷いた紫織は、興奮と高揚で真っ赤になっていた。黒田は生臭い衝動が湧き上がったが、押し止めた。
今、やるべきことは、真っ当な好意を示してくれた紫織を手込めにすることではなく、真の女王を倒すことなのだ。
だが、戦闘高揚剤の影響か、高ぶりは膨れ上がっていった。黒田はドアに爪を立てるが、鼓動は収まらなかった。
複眼の隅では、紫織が目を伏せている。普段なら色気どころか女らしさも薄い童顔が、いつになく扇情的だった。
 堪えるべきだ。押さえるべきだ。封じるべきだ。何度となく自分に言い聞かせるが、体内の温度は上がっていく。
黒田は一刻も早く紫織から離れるべきだとドアを開けようとしたが、力加減を少々誤ってしまい、ドアノブが潰れた。
なんだか気まずくなってしまった黒田は、壊れたドアノブを握ったまま振り返ると、彼女は照れ混じりに微笑んだ。

「えっと、どうしましょうか? こういう場合って、大抵はあっちの方面に雪崩れ込むもんですよね?」

「だが、俺はゴキブリだぞ」

「黒田二佐です。人間です。だから、たぶん、平気です」

 したことないけど、と紫織は躊躇いがちに付け加え、白衣の袖を握った。黒田は、潰れたドアノブを捨てた。

「もう一度言う。俺は怪人ゴキブリ男だぞ」

「正義の味方、ブラックシャインです!」

 妙に意気込んだ紫織に、黒田は少々辟易したが折れた。

「解った。だが、後悔するなよ。こういう体だからな、正直な話、役に立つとは思えないんだ」

「きっと大丈夫ですよ! 正義の味方なんですから!」

「根拠のないことを言うな。笑えてくる」

 黒田は無意識に笑みを零しながら、部屋の明かりを落とした。紫織は身を縮め、その場で固まってしまった。
自分から言い出したくせに、度胸がない。黒田はそれが余計に可笑しかったが、笑うことはせずに彼女に触れた。
紫織はますます固くなったが、黒田は下両足の膝を曲げて身長を合わせ、紫織の小柄な体を上両足に収めた。
 触角を掠める女の匂いは甘く、欲動を駆り立てる。中両足を肉の薄い背に回して、冷たい外骨格に押し付ける。
外骨格に染み渡る体温は少しだけ熱く、彼女の鼓動は速まっていた。顎を開いて顔を寄せ、細長い舌を伸ばす。
今の黒田には、唇がない。だから、これしか方法がない。舌先で紫織の小さな唇を撫でて開かせ、押し込んだ。
黒田のそれよりも体温の高い唾液が絡み付き、舌が触れてくる。顎で挟んでしまえば、一瞬で断ち切れるだろう。
櫻子の時にも思ったが、女性とは柔らかすぎて危うく、扱いづらい。増して、外骨格に包まれた体では尚更だった。
 唾液の糸が引く舌を口中に収め、顎を閉じた黒田は、息を荒げて寄り掛かってきた紫織を床の上に横たえた。
本当ならベッドまで運ぶべきだろうが、余裕がなかった。紫織の好意と体温が愛おしすぎて、気が狂いそうだった。
 永遠に、雨が止まなければ良いのに。




 雨音が弱まり始めていた。
 もうすぐ戦いが始まる。真の女王の座を巡る戦いが。数多の女王を殺し、少女達を殺し、勝ち抜くのは自分だ。
神となる子を抱いた聖母が描かれたステンドグラスは光が差しておらず、周囲の窓明かりを僅かに帯びていた。
だが、人型昆虫の目にはその程度の光量で充分だ。講壇に腰掛けているセールヴォランは、十字架を仰ぎ見た。
雨を凌ぐために入り込んだ場所だったが、都合が良い。セールヴォランの内で、桐子が満足げな思念を漏らした。
すぐに二人の人格は入れ替わり、桐子が優位になった。桐子と化したセールヴォランは講壇から降り、歩いた。

「ふふふふふふ…」

 礼拝堂の入り口から講壇まで真っ直ぐ伸びるカーペットをしなやかに歩きながら、微笑む。

「ねえ、セールヴォラン。どうせなら、ここで結婚してしまいましょう?」

「ケッコン?」

「そうよ、結婚よ。私達は夫婦になるの。恋人じゃなくて、家族に」

「家族」

「私は女王、あなたは王になるんだもの。恋人なんかじゃ足りないわ、セールヴォラン」

「桐子が望むなら、僕もそれを望む」

「ふふふふ、最高に素敵だわ」

 たおやかに上右足が上がり、聖母が描かれたステンドグラスを示す。

「指輪もドレスもいらないわ。必要なのは、あなたと私だけ。世界には私とセールヴォランだけがいればいいの」

「愛している、桐子」

「愛しているわ、セールヴォラン」

 上両足で、セールヴォランは己を抱き締めた。狂おしいほど愛する者は、同時に自分自身でもあるからだった。
唇を重ねなくても、体は一つだ。心を重ねなくても、意識は寄り添っている。契りを交わさなくても、結ばれている。
誓いの言葉を述べることすら無粋だ。崩れ落ちるように跪いたセールヴォランは、息を荒げ、愛する者を感じた。
 桐子、桐子、桐子。セールヴォラン、私の愛しいセールヴォラン。互いに名を呼び合って、互いを感じ合っていく。
名を呼んでいなければ、愛おしすぎて溶け合ってしまいそうだった。天上よりも素晴らしい快感が押し寄せてくる。
このまま果てるのもこの上なく幸せだろう、と思ったが、今はまだその時ではない。戦わなければならないからだ。
 甘く弛緩した意識の隅で、雨音が消えた。セールヴォランが身を起こして触角を上げると、講壇が揺れ動いた。
すぐさま立ち上がり、触角を揺らす。地震に似ているが明らかに異なる揺れが続き、ステンドグラスがひび割れた。
色鮮やかなガラスの破片が降り注ぎ、カーペットに刺さった。セールヴォランは駆け出し、正面の扉を全開にした。
 湿った夜気が流れ込み、触角と体毛をくすぐる。倒れた街灯のオレンジ色の光を浴びた異形が、こちらに向く。
女王だった。セールヴォランが足元を蹴り付けて急上昇すると、女王の振り上げた上左足が扉を粉々に砕いた。
そのまま羽ばたいて十字架に乗ったセールヴォランを、女王はきちきちと顎を鳴らしながら仰ぎ見、這い出した。
アスファルトの穴から現れた純白の巨体は重たげに膨らんだ腹部を引き摺っていたが、礼拝堂に体当たりした。
 凄まじい轟音と共に礼拝堂が揺れ、十字架が根元から折れた。セールヴォランはそれを掴むと、飛び降りた。
女王は壁から頭を引き抜くと、しなやかに駆けるセールヴォランを目で追い、顎を開いて体液を吐き付けてきた。
胃液混じりの強酸はセールヴォランの背後に次々と着弾し、アスファルトやコンクリートを溶かして煙を上げた。

「相変わらず、動きが鈍すぎるのよね!」

 セールヴォランは女王が自重で折った街灯を足掛かりにして高く跳ねると、女王の後頭部に飛び降りた。

「ほうら、もう後ろを取られちゃったじゃない!」

 女王はセールヴォランを振り払おうと頭を振るが、セールヴォランは下両足の爪を外骨格に喰い込ませていた。
ぎいぎいぎいぎいぎい、と絶叫する女王の後頭部に十字架を思い切り突き立て、横の棒を掴んで強引に捻った。
脳を破壊され、女王の絶叫は一際高くなったが、間を置かずして収まった。六本足をだらりと下げ、崩れ落ちた。
体液と脳漿の混じったものを全身に浴びたセールヴォランが、女王から飛び降りると、また新たな震動が起きた。

「あら」

 セールヴォランが震動の発信源に向くと、前触れもなく民家が倒壊し、家人の悲鳴が夜の静けさを引き裂いた。
紙屑のように裂けた壁や屋根を貼り付けながら現れたのは、やはり女王であり、先程の女王よりも大きかった。
ぎぢぃ、と顎を開いて金色の複眼を上げた女王は、セールヴォランを見定めると地中から巨体を引き摺り出した。
その際に壊れた民家から放り出された人間が潰され、汚らしい筋がアスファルトに伸びて骨と内臓が散らばった。

「あらまぁ」

 すると、今度は別方向から轟音が響き渡った。見ると、やはりビルが倒壊し、新たな女王が這い出していた。

「今夜は素敵なパーティになりそうね、セールヴォラン」

 セールヴォランは女王の体液に濡れた爪をぺろりと舐めると、人格が本来のセールヴォランに切り替わった。

「僕は戦う。桐子を幸せにするために」

 腰を落として駆け出し、雨と体液で黒く潤ったアスファルトを爪先で蹴り付けるたびに、細かな飛沫が舞い散る。
住宅街に出現した二体目の女王は、セールヴォランがいることを既に知っていたのか、迷わずに向かってきた。
地中から重たい腹部を出す際、女王の生殖器に差し込まれていた糸のようなものが抜けて地中へ戻っていった。
一瞬しか見えなかったが、色にも形状にも見覚えがあった。神経糸だ。恐らく、あれが真の女王に繋がっている。
 出撃前に黒田から真の女王についての情報を聞かされたが、それほど信じてはいなかったが事実だったらしい。
俄然、戦闘意欲が湧いてくる。真の女王が本当に東京タワーの地下に存在しているのなら、絶対に倒さなければ。
 今以上に幸せになるために。





 


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