豪烈甲者カンタロス




最終話 次なる女王



 特別療養所は、東京西部の郊外にある医療施設である。
 自衛軍の車両を借りて移動した黒田は、全身黒ずくめの格好でヘルメットを外さないまま正面玄関に入った。
職員達は異様な外見の黒田に一斉に目を向けたが、黒田が敬礼すると、咎めることもなく丁寧に会釈してきた。
ここの職員は、皆、黒田の正体と地位を知っている。最初の頃こそ戸惑われたが、今ではすっかり常連だった。
家族と二人の恋人達の墓参り以外の私用は、ここを訪れることぐらいしかないので、訪問する頻度は高かった。
 受付で面会許可を取ってから、ロビーを兼ねた待合室を抜けて通路に向かい、エレベーターで最上階に昇る。
五階のロビーに出ると、顔見知りの女性看護師が挨拶してきた。受付から連絡を受けて、待っていたのだろう。
黒田はヘルメットを外して一礼し、女性看護師と共に掃除の行き届いた廊下を歩き、一番奥の病室に向かった。

「彼女の容態はどうですか?」

 黒田が看護師に問うと、看護師は平静に答えた。

「経過は順調ですが、記憶が戻ることはないでしょう」

「そうですか」

「脳に受けたダメージが大きすぎましたからね。意識が戻っただけでも良い方ですよ」

「何も思い出さない方が、身のためかもしれませんがね」

 五階の角部屋の病室に到着した黒田は、足を止めた。看護師がスライド式のドアをノックしてから、開いた。

「ねねちゃん、黒田一佐がいらしたわよ」

 看護師の肩越しに見える病室の壁は元の色が思い出せないほど、無数の色取り取りの線で塗り潰されていた。
クレヨン、サインペン、色鉛筆、絵の具、などで描かれた線が幾重にも描かれていて、異様な世界を成していた。
だが、その暴力的な色彩は子供の目線ほどの高さにしかなく、床から一メートル以上高くなると線が減っていた。
看護師に促されて黒田が病室に入ると、やはり無数の線が入り乱れる冷たい床の上に小柄な少女が座っていた。

「彼女と二人きりにして下さいますか。何かあったら、すぐに呼びますので」

 黒田が看護師に言うと、看護師は頭を下げた。

「では、ごゆっくり」

「どうも」

 黒田は頭を下げ返してから、ドアを閉め、床に直接絵を描き続ける少女と向き直った。

「具合はどうだ、蜂須賀君」

「うー、あ?」

 折れたクレヨンを落とし、少女は振り返った。脱色していた髪は伸びたおかげで元の明るい栗色に戻っていた。
入院着から伸びた二次性徴途中の手足には、女性らしさを生み出す脂肪が付き始め、胸も尻も丸くなっていた。
少し吊り上がり気味の大きな目は焦点を合わせるかのように動いていたが、黒田を見定めると表情が弛緩した。

「にーたん!」

 蜂須賀ねねだった。黒田が膝を付き、落ちたクレヨンを握らせてやると、ねねはまた床に絵を描く作業に戻った。
その絵は色も形もぐちゃぐちゃだったが、人が死ぬ様だった。殺しているのは、ねねが操っていた虫、ベスパだ。
在りし日を形作るかのように、ねねは大量の絵を描いている。その全てが、彼女が初めて心を開いた相手だった。
床と壁には、黄色と黒のクレヨンやサインペンで描かれた丸いものが無数に並び、それが残酷に人を殺している。
虫を殺している絵がないのは、ねねはベスパと共に人型昆虫を掃討する作戦には投入されなかったからだろう。

「にーた、にーた」

 ねねは黒田に縋って立ち上がろうとするが、脳内出血の影響で両足が麻痺しているため、ずるりと滑った。

「こら、無茶はするな」

 黒田がねねを支えてやると、ねねはクレヨンに汚れた指で黒田の複眼をぺたぺたと触った。

「ぁおー、いーあ」

「どれ、卵はどうだ」

 黒田はねねを膝の上に座らせると、上右足をねねの入院着の裾に差し入れ、膨らみを持った腹部に触れた。
ねねは黒田の外骨格の冷たさがくすぐったいのか、きゃあきゃあと高く笑い、足の代わりに手をばたつかせた。
ねねの薄い肉越しに女王の卵を握り締めると、一週間前に比べて明らかに大きくなっていて、手応えも違った。
心なしか、腹部も張っている。単体増殖を行える女王から産まれた卵だから、無精で孵化してもおかしくはない。
良くない兆候に、黒田は内心で顔を歪めながら上右足を抜いて、少々乱れてしまったねねの裾を整えてやった。

「にーたん」

 ねねは黒田の上左足を掴むと、見上げてきた。

「ん、どうした」

 黒田がねねを見下ろすと、ねねは首をかしげた。

「べすぱ、どー?」

「ああ、そうか。まだ出してもらってなかったんだな」

 黒田はねねを抱きかかえてベッドに座らせてから、そのベッドの下からねねの求めるものを引き摺り出した。
焼け焦げた触角、艶を失った複眼、先細りの顎、乾き切った黄色と黒の外骨格。それは、ベスパの頭部だった。
爆撃後に発見したベスパの死体で唯一無事だった頭部から腐敗する部分を切除し、保存処理を行ったものだ。
大きさの割に重量のない頭部をねねに渡してやると、ねねは満面の笑みを浮かべ、ベスパの頭部を抱き締めた。

「べーしゅぱー、べーしゅぱー」

 ぬいぐるみを愛でるかのように、ねねは異形の戦士の残骸に頬摺りし、緩んだ唇の端から涎を落としていた。
その涎を拭いてやってから、黒田はねねの傍に座った。ねねはベスパを力一杯抱き締め、彼の名を呼んでいる。
痛々しくもあり、微笑ましくもあった。ねねの中で最も良い記憶が、ベスパと共に戦い抜いた二ヶ月間なのだろう。
 ねねが口にする言葉は、ベスパの名と自分の名と兄と誤認している黒田のことぐらいで、後は全て幼児語だ。
言葉にすらならない舌っ足らずな音を発して食欲や睡眠欲を示し、すぐに機嫌を損ねて泣くがまたすぐに笑う。
気分がころころ変わってしまう辺りは、意地っ張りで生意気で口が悪かった頃とそれほど変わっていなかった。
 東京タワー跡地への爆撃後、黒田は軍と共に真の女王の死骸を除去しつつ、少女と戦士の死体を捜索した。
セールヴォランとカンタロスはどれほど探しても見つからなかったが、ベスパとねねだけは比較的早く発見された。
瓦礫の底に埋もれていたベスパは、外骨格の中に収めたねねを守ったまま息絶えていて、ねねも昏睡していた。
ベスパと共に回収されたねねは、人型昆虫に関わった人間を隔離するための施設、特別療養所に搬送された。
ねねはベスパの外骨格に包まれたおかげで肉体のダメージはそれほどではなかったが、脳内出血がひどかった。
緊急手術を行われ、一命こそ取り留めたものの、脳内出血と長時間の昏睡の影響で記憶をほとんど失っていた。
知能は幼児に退行し、両足も麻痺したねねは、政府の意向で卵が孵化する寸前までは生かされることになった。
だが、孵化すれば、また取り返しの付かない事態になりかねないので、孵化する前にねねを安楽死させるのだ。
ねねが死んでしまえば、彼女の死体ごと女王の卵を解剖出来るので、学術的に得られるものは多いことだろう。
しかし、まともな神経ではない。黒田はベスパの頭部と戯れるねねを眺めていたが、ねねはふと窓を見上げた。

「おー」

 顔を上げたねねは、鉄格子に塞がれた空に両手を伸ばした。

「あー、うーあーい」

「外に出たいのか?」

 黒田が問うと、ねねは頷いた。

「う」

「解った。少し待ってろ、車椅子を持ってきてやる」

 黒田がベッドから立ち上がると、ねねは黒田の言葉を理解したのか、はしゃいだ。

「にーたん、にーたん!」

「良い子にしてるんだぞ」

 黒田がねねを撫でてやると、ねねはにんまりした。

「えうー!」

 ねねの頼りない言葉を背に受けた黒田は、上右足を振ってやりながら病室を後にし、主治医の元に向かった。
女王の卵を孕んだねねは、今でも人型昆虫に襲撃されるおそれがあるため、屋外に出ることは禁じられている。
だが、今日ぐらいは医者も許してくれるはずだ。許してくれないとしたら、それはきっと人の皮を被った虫なのだ。
 ねねが安楽死されるのは、明日だからだ。治療と称して行われた女王の卵のデータ採取も、必要分を終えた。
残すは、ねねと卵を解剖し、孵化寸前の幼虫の成長具合と苗床であるねねの子宮の状態を調べるだけだった。
万が一ねねが記憶を取り戻して暴れたり、人型昆虫に攻撃される場合を考慮し、安楽死の許可は既に出ている。
当然、これはねねだけの特例だ。本来、日本では安楽死は認められていないのだが、特例として法案が通った。
生体解剖すれば充分ではないか、との意見も多かったが、東京を守って戦い抜いた少女への温情で成立された。
痛みを与えなければ優しさになるというわけではないが、それでも拷問同然に殺されるよりは余程良いと思った。
 けれど、何も救いになるわけではない。




 療養所の中庭は、所内と同じく静かだった。
 見上げるほど高い鉄格子と分厚い塀に囲まれ、景色は良くなかったが、病室の淀んだ空気よりはマシだった。
黒田は車椅子にねねを載せ、押して歩いていた。こうしていると、妹が生きていた頃を無意識に思い出してしまう。
百香も歩くのもままならない状態なのに外に出たがったので、車椅子に載せて病院の中庭に連れ出してやった。
それだけで気が済むことがあれば、病院の外へ出たがってしまうこともあり、我が侭さに辟易したことも多かった。
僅かだったが、百香は退院することが出来た。だが、ねねは違う。退院も出来ず、投薬されて安楽死されるのだ。

「にーたん?」

 花壇のコスモスに手を伸ばしていたねねは、車椅子が止まったことに気付き、黒田を見上げた。

「いや…なんでもない」

 黒田は車椅子を止めると、花壇の脇に設置されたベンチに腰掛けた。

「なんでそんなことばかりを考えるんだ、俺は」

「うー?」

 黒田を覗き込んできたねねは、訝しげに唇を曲げていたが、コスモスを一本引きちぎって黒田に向けた。

「あー!」

「…なんだ?」

 目の前に突き出されたコスモスに黒田が戸惑うと、ねねは身を乗り出してきた。

「うぅ!」

「俺にくれるのか?」

「うー!」

 ねねが満面の笑みで頷いたので、黒田は少し笑みを零した。

「ありがとう」

「あぉ!」

 ねねは黒田の仕草を真似て敬礼するように右手を挙げたので、黒田も敬礼を返した。

「お心遣いに感謝します、蜂須賀二尉」

 黒田に受け取ってもらえたのが嬉しいのか、ねねは歓声を上げている。その様に黒田は良心がひどく痛んだ。
確かに、ねねを生かしておくのは良くないことだ。いずれ、次なる女王が孵化し、幼虫がこの世に生まれ落ちる。
それ以前に、ねねは自分自身の家族を殺している。だから、記憶を全て失っていたとしてもねねの罪は消えない。
何も解らず、何も知らずに、眠るように息を引き取る方が、ねねにとっては幸せな最期かもしれないとは思った。
けれど、どうしても理解しきれなかった。頭では解っているのに、黒田に残された人間らしい部分が拒絶している。

「う?」

 表情が出ないはずなのに、ねねは黒田の異変を感じ取ったのか、不安げに見上げてきた。

「俺は、正しいことをしているんだよな?」

 黒田は自分に言い聞かせるために、胸中で渦巻く疑問を吐き出した。

「さっき、俺はセールヴォランを殺してきたんだ。セールヴォランは、これまでにも何度も大量殺人を起こしているし、何よりあいつ自身が人格崩壊を起こしていた。あのまま放っておいたら、被害が広がるのは間違いなかった。だから、俺はあいつを殺した。鍬形桐子はとっくの昔に死んでいて、彼女の首は既に腐敗していた。だから、俺は何一つ間違ったことはしちゃいないはずなんだ」

「んあ?」

「それに、君の安楽死の件だって、これ以上君が辛い目に遭わないためには必要なことなんだ。だから、俺も政府の意見に賛成したし、納得した。だが、俺は…」

 黒田が項垂れると、ねねは黒田の膝に縋り、首をかしげた。

「にーたん…」

「ああ、くそ!」

 頭を抱えた黒田に、ねねは甘えてきた。

「にーたぁーん」

「本当にすまない。俺達を許してくれとは言わない、解ってくれとも言わない。だから、もう」

 震える爪先でねねの背を抱き寄せた黒田は、肩を震わせた。

「俺を慕わないでくれ」

「うー!」

 不満げに唇を尖らせ、ねねは黒田のコートを握り締めた。

「明日になれば、君はベスパに会える。きっと、彼は君を待っていてくれるはずだ」

 黒田は嗚咽を堪えるために、ぎちぎちと顎を噛み合わせた。

「あー!」

 ねねは黒田の言葉を察し、無邪気に喜んだ。それが尚更痛々しく、黒田は肩を怒らせた。

「すまない、本当にすまない…」

「うー、あぅー、あぉ」

 上手く動かない舌で懸命に意志を伝えようと声を発しながら、ねねは黒田の膝にもたれて、にこにこと笑った。
警戒心の欠片もない笑顔に、黒田は目を逸らしたくなった。黒田には、この笑顔を向けられるような資格はない。
 黒田は彼女達を填め、利用し、最後は殺そうとした。信頼されるはずもなければ、慕われるはずもない立場だ。
それなのに、ねねは無条件に黒田を慕ってくる。黒田自身も、ねねを百香に重ね合わせて見ていた節があった。
ねねに甘えられるのが嬉しかったから、用事はなくともねねの面会に訪れて共に過ごし、寂しさを紛らわしていた。
それではいけないと解っていても、他人に触れられて好意を向けられる心地良さを忘れられず、訪れてしまった。
ねねが黒田に甘えていたのではなく、黒田こそがねねに甘えていた。挙げ句の果てに、偽の兄弟関係を作った。
だから、ねねが安楽死されることがどうしようもなく辛い。黒田に唯一残された安らぎが、失われてしまうからだ。

「にーたん」

 ねねは黒田を見上げ、手を伸ばしてきた。黒田は躊躇ったが、その手を取って優しく握り締めた。

「今夜は、兄ちゃんもここに泊まるよ。だから、今日はずっと一緒にいられるぞ」

 うあー、とますます機嫌が良くなったねねに、黒田は顎を開いて笑みに似せた表情を作ったが内心は違った。
本当はねねのためではなく、黒田自身が寂しさを埋めたいからだ。明日になれば、ねねは投薬されて安楽死する。
解剖されてしまえば、面会するどころではない。だから、ねねが生きている間に、黒田の願望を果たすしかない。
こんな調子では、いずれまた紫織のような女性を求めてしまうだろう。埋めても埋めても、埋まり切らないからだ。
それでも、埋めずにはいられない。底なし沼に砂を一粒ずつ落としていくようなことでも、しないよりは良いと思う。
 自分への言い訳だと解り切っていたが。





 


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