豪烈甲者カンタロス




第七話 絡んだ必然



 妙なことになったものだ。
 カンタロスは渋谷駅の屋上に座って、上両足を組んでいた。眼下では、大量の人間が絶え間なく蠢いている。
触角だけでなく外骨格を覆う短い体毛が、無数の人間の発する匂いや体温の混じった風に弄ばれ、むず痒い。
皆が皆、下を見ているので誰一人としてカンタロスに気付いていない。気付いたところで、すぐに忘れるのだろう。
繭が言っていたが、人型昆虫が存在していることを認知している人間は、この世界の中では一握りなのだそうだ。
だから、見たとしても気にしないし、嘘だと思う、と。彼らにとっては、報道されていないことは事実ではないからだ。
カンタロスにはその意味は今一つ解らなかったので理解することを諦め、繭を見失わないように気を割いていた。
 渋谷駅を出た繭は、複合商業施設に向かっていた。家を出る前に華やかな服に着替え、髪型も変えている。
セミロングの栗色の髪にヘアアイロンで緩くウェーブを掛け、薄化粧を施し、ふんわりとしたスカートを着ている。
梅雨が終わって季節が巡り、夏が始まっているので、繭の服装もますます無防備になり、生地も薄手になった。
薄いカーディガンを羽織っているが、その下はキャミソールで、裸の肩を出している。それが、不安を掻き立てる。
具体的に何をどう不安なのかは説明しづらいが、とにかく不安だ。ただでさえ弱い娘が、肌を曝して良いものか。
 カンタロスが悶々としていると、スクランブル交差点を渡った繭は駅に振り向き、顔を隠すための帽子を上げた。
そして、何を思ったのか小さく手を振ってきた。カンタロスはどう反応するべきか迷ったが、反応しないことにした。
繭は少し残念そうだったが、また歩き出した。カンタロスはきちきちきちと顎を鳴らしながら、繭の背を見送った。

「何を考えてやがる、あいつは」

 だが、繭が手を振っても、周囲の人間は目もくれなかったので、カンタロスの存在には気付かれていないだろう。
しかし、それでも不安が増してくる。カンタロスは複眼を駆使して、渋谷駅から見渡せる全ての景色に気を向けた。
繭にばかり気を向けているから、おかしな気分になるのだ。そう思って複眼に映るものを見つめたが、同じだった。
また、いつのまにか繭に気が向いている。だから、繭ではなく、腹の中の卵に気が向いているのだ、と思い直した。
 そうでもしなれば、落ち着かなかった。




 付き合いが良いのか、悪いのか。
 雑踏の中を歩きながら、繭はカンタロスの様子を横目に窺った。今のところ、大人しく見張ってくれているようだ。
カンタロスが繭を見失っていないかを確かめるために手を振ってみたが、反応してくれなかったので解らなかった。
だが、大丈夫だろう。カンタロスは人間よりも遙かに優れた感覚の持ち主であることは、合体した時に知っている。
視力も視野も並外れていて、滅多なことでは見失わない。そして、女王の卵から零れ出すフェロモンがあるのだ。
繭自身にはフェロモンがどんな匂いかは解らないが、女王への執着が強いカンタロスが逃してしまうはずがない。
 繭は気を取り直して、進行方向に向いた。考えてみれば、家から離れて買い物に出かけるのは、かなり久々だ。
通っていた都立高校がカンタロスらの戦闘によって壊滅してからは休校が続き、未だに登校しろとの連絡はない。
塚本真衣を殺した後は退学するつもりでいたが、そのタイミングを逃してしまったので、高校には籍が残っている。
高校に行かなくなってからは、高頻度でカンタロスと合体して出撃し、襲い掛かってくる人型昆虫の群れを倒した。
人型昆虫が襲撃してくる時間がまちまちなので長時間外出することは出来ず、カンタロスも離れるなと言っていた。
だから、今まで出かけるに出かけられなかったのが、カンタロスの許可を得ている今は思う存分外を歩けるのだ。
それだけでも嬉しくて、繭は頬が緩んでしまった。苦手だった人混みも今日ばかりは楽しく思えてしまったほどだ。
 カンタロスとの生活には辛いことが多すぎる。徐々に彼のことを好きになってきたが、許し切れたわけではない。
戦いも、慣れてはきたが心身に堪える。人間や人型昆虫を殺すことには躊躇いはなくなったが、心の奥が痛む。
カンタロスには悪いが、今日は自由を味わおう。繭はショーウィンドウの煌びやかなディスプレイを眺め、笑った。
 一際目立つ複合商業施設に入ると、冷房の冷たい空気が肌を舐めた。繭は、一階のフロアの店舗を見渡した。
若者向けのショップが多く、目移りしてしまいそうだ。今回の目的は服なので、一階ではなく二階に昇るべきだろう。
両親から振り込まれた生活費や繭が天引きして貯めていた貯金も引き出してきたので、手持ちはそれなりにある。
エスカレーターで二階に昇った繭は、エスカレーターの手前にあった店舗に入り、流行りのデザインの服を眺めた。
 少しだけ、普通の人生に戻れた気がした。




 同時刻、渋谷駅前。
 ねねは三段重ねのアイスクリームを舐めながら歩いていたが、機嫌はまた悪くなり、腹の底から苛立っていた。
ベスパとの訓練を終えたねねは、城岡から言い渡された任務を全うするために研究所から渋谷に送り込まれた。
渋谷駅近隣のヘリポートまではベスパと共に軍用ヘリコプターで移送されたのだが、そこからは別行動になった。
そして、雑踏の中にいるであろう兜森繭を探し出すために駅前を歩いているが、財布の中身は小銭ばかりだった。
渋谷で遊び倒してやろうと画策したねねの不純な考えは同行した城岡に読まれたらしく、札は抜かれてしまった。

「マジダルいんだけど」

 ねねは二段目のチョコミントに取り掛かりつつ、ぼやいた。遊べなければ、せっかく渋谷に出てきた意味がない。
擦れ違う同年代の少女達は楽しげに笑い声を上げ、店名の入った袋を脇に抱えている。それがまた、恨めしい。
これでは、兜森繭を探すどころではない。ねねは三段目のラムレーズンを食べていたが、複合商業施設に向いた。
渋谷を訪れて、最初に行くところと行ったらあそこだろう。十六歳の少女ならば、思考回路は似通っているはずだ。
そう確信したねねは、コーンも食べ終え、クリームでべたべたになった指を舐めながら複合商業施設に向かった。
 一階を通り過ぎ、二階に昇る。特に理由はなかったが、店に入った時から一階にはいないような気がしたからだ。
汚れた手が気持ち悪いので、トイレに入った。洗面台で手を洗い、手を乾かそうとしたが、乾燥機が故障中だった。
更に間の悪いことに、ペーパータオルのストックも切れている。仕方ないので服で拭こうとすると、声を掛けられた。

「あの、これ、良かったら」

「んあ?」

 ねねが振り向くと、少し年上の小柄な少女がハンカチを差し出していた。

「使えってんなら使ってやるけど」

 ねねは少女の手からハンカチを引ったくって水気を拭い、少女の手の中に戻した。

「じゃ、私はこれで」

 少女は一礼し、トイレを出ていった。羨ましいことに買い物の真っ最中らしく、両肩に買い物袋が下がっている。
ねねは苛立ち紛れに舌打ちして、トイレを出た。買えもしないのに店を見て回るのは、余計に腹が立ってしまう。
だが、兜森繭を探さなければならない。ねねはぐしゃぐしゃになった書類のコピーを取り出し、顔写真を広げた。
既視感を覚えたので、ねねはしばらく考え込んで気付いた。今し方、ハンカチを貸してくれた少女と同じ顔だった。

「てか、あたしにマジウケる」

 物覚えの悪い自分に恥じ入りながら、ねねは書類をポケットに戻した。まだ、あまり遠くへ行っていないはずだ。
先程の少女の服装を思い出しながらフロアを見回すが、ねねも背が低ければ彼女も低いので、見つけられない。
面倒だが、フロアを歩き回るしかない。ねねは目を凝らして少女の姿を探しながら、人の行き交う通路を歩いた。
同年代の少女ならば立ち止まるであろう店舗を通り抜け、試着室も覗いてみたが、先程の少女は見当たらない。
 上のフロアに昇ったのだろうか、と思ってねねが階段に向かうと、階段の手前にあるベンチに少女が座っていた。
ねねと目が合うと、少女は囓りかけのパンを嚥下した。どちらも驚いていたが、先に口を開いたのはねねだった。

「…てか、早く見つかりすぎ」

「あの、なんでしょうか?」

 少女、兜森繭は戸惑いがちにねねを見返した。服の詰まった買い物袋の傍に、パンの詰まった紙袋があった。
恐らく、空腹を凌ぐために買い込んでいたのだろう。顔写真と見比べる前に、間違いなく女王だとねねは確信した。
女王の卵を移植されてからというもの、ねねも常日頃ひどい空腹に悩まされている。だから、他人事ではなかった。

「あんたがカブトモリ?」

 繭の隣に腰を下ろしたねねが尋ねると、繭はパンを食べ終えてから頷いた。

「あ、はい。でも、どうして」

「ん」

 ねねはポケットから書類を出し、繭の目の前に突き付けた。

「あ、これ…」

 繭はぐしゃぐしゃの書類に印刷された自分の顔と名前を見ていたが、不満げに眉を下げた。

「一番写真写りの悪いやつだ。なんでこんなの使うかなぁ、もっといいのがあったはずなんだけど…」

「てか、それ、リアクション違うし。普通さ、驚くとかしなくね?」

「でも、本当のことだから」

 繭は二つめのパンを取り出し、囓った。ねねは壁に寄り掛かり、足を投げ出してずり下がった。

「つか、あんたさ、あたしが何なのか解るわけ?」

「なんとなく。あなたも、女王なんだよね?」

 繭に問われると、ねねは下腹部を押さえて力なく答えた。

「まーね」

 繭は二つめのパンを食べ終えると、ハンカチで手と口を拭ってからねねに向いた。

「あなたの名前は?」

「なんで聞くの、んなこと」

「一応、聞いておこうと思って。桐子さんの時は、あっちから名乗ってくれたから名乗り返したんだけど」

「ああ、キチガイ女ね。ま、別に減るもんでもねーし?」

 ねねは姿勢を直すこともせず、繭を見上げた。

「あたしは蜂須賀ねね。二尉なんだってさ。で、あたしのシモベはベスパ。あんたの方は知ってるからいらない」

「あ…うん。そう、だね」

 繭は三つめのパンを取り出し、食べようとしたが、ねねから視線を注がれて躊躇ってしまった。

「えっ、と…」

「ん、何」

「良かったら、食べる?」

 繭はぎこちなく笑顔を作って紙袋をねねに向けると、ねねは無遠慮にパンを掴み出した。

「てか、気付くのマジ遅いんだけど」

「ごめん、なさい」

 繭は平謝りしてから、三つめのパンを囓った。最初の二つは甘いものだったので、今度は惣菜系のパンにした。
ねねが食べているのは、繭が一番心を惹かれて買ったアップルシナモンロールで、甘ったるい匂いが漂っている。
繭はメンチカツロールを食べながら、ねねを窺ったが、ねねは既に半分以上を食べ終えて次のパンを探っていた。
その遠慮のなさに辟易したが、勧めたのは繭の方だ。ねねに何を食べられても文句は言えない、と繭は諦めた。
ねねは二つめのパンであるブルーベリーパイを食べ終えると、指に付いたジャムを舐め取り、口の周りも舐めた。

「食い終わったら、ツラ貸しな。あたしさ、あんた、殺さなきゃなんないわけだし」

「やっぱり、そうなんだ」

 繭はハムタマゴロールを新たに食べながら、目を伏せた。桐子の前例があるので、薄々感付いてはいたことだ。
ならば、カンタロスと合流するしかないだろう。束の間の自由だったなぁ、と繭は残念に思いながらパンを咀嚼した。

「生身でやり合うのはマジつまんねーから、あんたもシモベ呼びな。つか、その方がマジ面白いし?」

 ねねはにやにやしながら、繭を見やった。

「解った。でも、勝つのは私とカンタロスだから」

 空になった紙袋を握り潰してから、繭はハンカチで手と口元を拭った。

「うっわ何それ。てか、そういうのマジダッセ」

 ねねはけたけたと笑いながら、先に歩き出した。繭は一息吐いてから立ち上がろうとしたが、床が揺れていた。
ねねもそれに感付いたのか、すぐに立ち止まった。地震か、と思ったが揺れに混じって顎を鳴らす音が聞こえた。
店舗に並べられていた棚が傾き、商品が雪崩れ落ち、通路では客達が不安げに揺れが収まるのを待っている。
繭は荷物を抱えて階段を駆け下り、ねねを追い越して外に出たが、視界に見覚えのあるものが飛び込んできた。
 白く巨大な胴体。金色の複眼。銀色の羽。人型昆虫の母たる虫、女王が、アスファルトから顔を突き出していた。
アスファルトを薄氷のように容易く砕き、細い顎をきりきりきりと鳴らしながら、六本の足を蠢かせて這い出てきた。
道路を行き交う車は急ブレーキを掛けて止まり、衝突している。異形の生物の出現に、皆が皆、凍り付いている。
なぜ、こんなところに女王が。繭が呆気に取られていると、繭の後を追ってきたねねが背後で止まり、声を潰した。

「うげぇっ! てか何これ、マジキモ過ぎなんだけど!」

 きちきちきちきちと顎を小さく鳴らしながら、女王は電柱のように太い足を曲げ、重たげに腹を引き摺っている。
十数節が連なる楕円形の腹部は大きく膨らみ、内側で何かが動いているのか、表面がぶよぶよと波打っている。
腹部の両脇に並ぶ気門からは、波打つたびに体液が零れ、青く粘ついたものがびちゃびちゃと溢れ出していた。
 繭はカンタロスを呼ぶことも忘れ、女王を凝視していた。生きている女王を目にしたのは、これが初めてだった。
それはねねも同じらしく、しきりにキモいと連発しながらも、自分の人生をねじ曲げた卵の主を睨み付けていた。
繭が女王の卵を産み付けられた時、女王がどこから出現したのか解らなかったが、女王は地下から現れたのだ。
それも、背後から現れた。繭はカンタロスと出会った夜のことを思い出したが、もう女王に対する畏怖はなかった。
怖いと思うよりも、邪魔だと思う気持ちの方が強い。早く女王を殺さなければ、カンタロスの関心が向いてしまう。
それを阻止するためにも、戦わなければ。繭は渋谷駅に向かって駆け出そうとしたが、みぢ、と異音が聞こえた。

「今度は、何?」

 きちきちきちきちきちと鳴きながら、女王は倒れ込んだ。ぐねぐねと波打った腹部が、内側から裂かれていく。
分厚く柔らかい腹部が膨らみ、裂け、体液が零れる。裂けた箇所は一つではなく、十、二十、三十と増えていく。
それが細かな裂け目が腹部を覆い尽くすほど増え、微妙な均衡を保っていた裂け目が大きくなった、その直後。
 女王の腹部が爆ぜ、無数の人型昆虫が飛び出した。散弾のように飛び散り、ビルやアスファルトに激突する。
繭は足を止め、電柱の影に身を隠した。通り掛かった人々は人型昆虫に衝突され、上半身や頭部を失っていた。
程なくして、女王は動きを止めた。人型昆虫の子を産み落としたことで残り少ない生命力を使い果たしたのだろう。
 ねねを窺うと、呆然としながらも回避したらしく無事だった。繭はそれに舌打ちしてから、また駆け出そうとした。
だが、すぐに足を止めた。体液にまみれた生まれたての人型クモが這い蹲り、八つの複眼で繭を見上げていた。
がしゃっ、と重たい落下音に振り返ると、背後には数匹の人型クモが這い蹲り、同じように繭を見上げてきている。
生まれたてながら、女王の匂いを察知しているのだ。繭が後退ると、人型クモはゆらりと立ち上がり、顎を開けた。
 身を曲げた人型クモは腹部から白い粘液を放った。繭は逃げ出したが、粘液が手足に絡んで動きを封じられた。
更にもう一撃放たれ、繭の体は電柱に固定されてしまった。手を動かそうとしても、粘液は強力で剥がれなかった。

「カンタロスぅ!」

 繭は粘液の中で身を捩り、力一杯叫んだ。異変を察知したカンタロスは、繭が呼ぶよりも早く向かってきていた。
だが、距離が狭まらない。カンタロスは繭に近付こうとするのだが、ビルに取り憑いた人型クモが糸を吐いている。
羽や体に絡み付く糸を切り、飛ぼうとするが、大量に生まれた人型クモはひっきりなしにカンタロスに向かっていく。
カンタロスはそれを一つ一つ排除しているのだが効率が悪く、一匹倒せばもう一匹現れ、二匹倒せば二匹現れる。
これでは、近付く以前の問題だ。合体していれば作業効率も上がるのに、と繭は歯痒い思いで、もう一度叫んだ。

「カンタロスぅううううううっ!」

 きち、と繭の手前にいた人型クモが振り向いた。それが合図だったかのように、他の人型クモも繭へと向いた。
きちきちきちきち、とどこか幼い音を発しながら、人型クモは繭を見定め、蜜に惹かれるアリのように迫ってきた。
だが、逃げようにも体が固定されている。服を引きちぎって脱することが出来れば良かったが、その余裕もない。
出口を見やると、ねねもまた同じ目に遭っているが、女王の匂いの濃さが違うのか繭ほど敵の数は多くなかった。
ねねの戦術外骨格らしき人型スズメバチも上空で暴れているが、カンタロスとほぼ同じ状況で、助けは望めない。
 ここで終わりなのか。繭は悔しさとやるせなさで唇を噛み締めたが、まだ終わりたくない、とそれを振り切った。
糸さえ外れれば、彼と合体出来るのに。合体してしまえば、生まれたばかりの人型昆虫など二人の敵ではない。
だが、このままでは。繭は渾身の力で糸を引っ張るが、掴んだ指の間から糸がずるりと抜けてしまい、外れない。
その間にも、敵は近付いてくる。丸い頭部に膨らんだ腹部と八本足を持つ人型クモは、繭の体の上に昇ってきた。
ぎしゃあ、と顎を開き、毒を持つ牙を見せつける。たまらずに繭が顔を背けると、牙が首筋に迫り、毒液が滴った。

「待てぇい!」

 唐突に、男の声が響き渡った。

「とおっ!」

 繭が顔を上げると、何の前触れもなく現れた人影が、複合商業施設の屋上から飛び降りてきた。

「シャイニングキィーック!」

 繭に牙を突き立てようとしていた人型クモを一蹴りで粉砕した人影は、鮮やかに着地し、マフラーを靡かせた。
紛れもなく、人型昆虫だった。だが、立ち姿が虫のそれではない。繭は戸惑いながらも、その者の背を仰ぎ見た。
 艶やかな黒の複眼。しなやかに細長い触角。丸みを帯びた頭部。油を塗ったかのような光沢を持つ茶色の羽。
外骨格は黒と茶の中間の色合いで既視感がある。繭がぽかんとしていると、その者は繭を戒める糸を千切った。

「大丈夫かい、お嬢さん」

 その者は上右足を繭に差し出してきたが、繭はその爪を取らずに立ち上がり、顔を背けた。

「ええ…まあ…。えっと、あなたは?」

「通りすがりの正義の味方さ」

 キッチンで頻繁に見かける害虫に良く似た人型昆虫は、一際目立つ赤いマフラーを払って肩に載せた。

「名乗るほどのものではないが、礼儀として名乗っておこう」

 人型昆虫は素早い身のこなしでポーズを付け、分厚く盛り上がった胸を張った。

「世界が滅びに向かう時、闇の底より現れる、光を放つ正義の戦士!」

 効果音が付きそうなほど勢い良く上両足を伸ばした人型昆虫は、高らかに叫んだ。

「ブラックシャイン、参上!」

 これがテレビの中ならば、背後で色の付いた煙が上がっていたに違いない。それくらい、決まっていたからだ。
だが、物凄く似合わなかった。その原因は考えるまでもない。どこをどう見ても、彼は人型ゴキブリだったからだ。
 ブラックシャインと名乗った人型ゴキブリは妙な掛け声を上げてジャンプすると、今度はねねを助けに向かった。
素早くねねを助けたブラックシャインは、非常に慣れた動きで戦い、六本の足を使って人型クモを蹴散らしている。
真紅のマフラーを靡かせながら立ち回る様は、ヒーローらしく堂々としている。だが、やはりゴキブリはゴキブリだ。
繭はどういう顔をするべきか少々迷ったが、人型クモの群れを突破して近付きつつあるカンタロスに向き直った。
 今は、頭のおかしい輩に構っている場合ではない。





 


09 2/21