豪烈甲者カンタロス




第八話 造られた怪物



 夏は好きだ。だが、暑さは嫌いだ。
 ねねは真上からクーラーの冷風が降り注ぐ長椅子に横たわっていたが、視界に入った物体に顔をしかめた。
白い内装の中では強烈な存在感を誇るエキセントリックな配色の異形の生物、人型スズメバチが立っていた。
ねねは起き上がることも面倒になり、寝返りを打って背を向けた。だが、ベスパが消えてくれるわけがないのだ。
数分後に根負けしたねねが振り向くと、ベスパは胸に上右足を添えて腰を曲げて、実に丁寧な仕草で礼をした。

「御機嫌麗しゅう、クイーン」

「つかマジウゼェ」

 ねねは再び壁に向き直り、舌打ちした。

「普段は鉄格子と強化ガラスに隔てられておりますが、今ばかりは違います!」

 ベスパは興奮した様子で、意味もなく羽を揺らしながらねねに迫ってきた。

「さあ、存分にお踏み下さい!」

「うっだあああっ!」

 ねねは思い切り足を突き出し、スニーカーの靴底でベスパの頭部を蹴り飛ばした。

「ああ、なんという快感!」

 頭部を蹴られて仰け反ったベスパは、恍惚とした。

「つか、なんでこうなってるわけ? マジ意味不明なんだけど」

 ねねはベスパの胸部をだんだんと蹴り付けながら、部屋を見回した。いつもの訓練施設でも、自室でもない。
蹴り付けるたびにベスパは不気味な喘ぎ声を上げているが、突っ込むと増長するので、聞こえないふりをした。
 一人と一匹が押し込められた部屋は、壁も天井も床も白かった。窓はあるが位置が高く、鉄格子が填っている。
朝起きて、汗まみれの体をシャワーで流して着替え、さあ食堂へ行こうと思ったら、研究員に強引に案内された。
空調は完備され、ねねの空腹を紛らわすための食糧も準備してあるが、用意が良すぎて却って気味が悪かった。
扉は分厚い金属で、内側からは開けられない。どこをどう見ても監獄だ。確かに、罰せられるような覚えはある。
だが、ねねがカンタロスと兜森繭の殺害に失敗して帰還しても、城岡はおろか薫子すらも責めては来なかった。
薫子からは嫌みったらしく責められると思っていたので、拍子抜けした。楽と言えば楽だが、しっくり来なかった。
それ以前に、薫子は上の空だったように思う。ねねが事の次第を報告した時も、別の書類をめくっていたほどだ。

「つか、マジ解んね」

 ねねはベスパを蹴り終え、長椅子に転がった。ベッドも備え付けられているが、そちらからでは空が見えない。
四方が白いと、他の色を見たくなる。目に痛い原色の固まりであるベスパに比べれば、青空の方が大分マシだ。

「ありがとうございます、クイーン。ああ、なんという幸せ…」

 蹴られすぎて後ろに倒れ込んでいたベスパは身を起こし、かちかちかちと顎を鳴らした。

「つか死ね。マジウザすぎ」

「もっと、もっとお願いします!」

「あー、マジめんど…」

 ねねはベスパの声を聞くのも嫌になって、雲の切れ端が漂う長方形の青空を眺めた。

「てか、なんであたしらはこうなってんの? なんか知らねぇ?」

「城岡どのに寄りますと、関東西部の研究所より、新たな戦術外骨格が移送されてくるのだそうです」

 陶酔しながらも理性的に答えたベスパに、ねねは質問を続けた。

「つか、それとこれとは何の関係があるわけ?」

「私に聞かれましても…。それ以上の情報は存じていませんので、答えようがないのが現実でして」

 ベスパは言い淀み、触角を下げた。

「つっかえねー」

 ねねは唇を歪め、大袈裟にため息を吐いた。申し訳ありません、とベスパは深すぎるほど深々と頭を下げた。
暑さにも、この状況にも、ベスパにも苛立った。今の自分は、研究所に飼われ、利用されているだけの存在だ。
だから、生きるも死ぬもあちらの匙加減一つだ。きっと、新兵器を導入したから、ねねは処分してしまうのだろう。
自分のような屑には丁度良い結末だ。そんなことを考えていると、ドアの内側でロックが外され、蝶番が軋んだ。

「蜂須賀二尉、ベスパ」

 扉を開けたのは、白衣姿の城岡だった。

「ヘラクレスの調整が終わりました。もう出てきてもよろしいです」

「ん、何。あたしら、毒ガスとかで殺されるんじゃねーの?」

 ねねが長椅子から身を起こすと、城岡は表情も変えずに外を示した。

「窮屈な思いをさせてしまい、申し訳ありません。どうぞ、外へ」

「おや」

 立ち上がったベスパは、細い触角を伸ばした。

「この匂いには覚えがあります。確か、鍬形一尉の保有する女王の卵の匂いではありませんでしたか?」

「何それ。マジ訳解んねーんだけど。キチガイ女って死んだはずだろ?」

 ねねが変な顔をすると、ベスパは首を傾げた。

「ええ、私もそう記憶しておりますが、この匂いは間違いなく…」

 全く訳が解らない。ねねは不可解に思いながら、城岡に促されてベスパと共に数時間ぶりに白い部屋から出た。
空気が籠もっていた白い部屋に比べて、廊下の空気は冷たい。壁の色は同じく白く、城岡の輪郭が溶けそうだ。
ねねの背後では、ベスパの独特の足音が連なる。ぎちぎちと外骨格を軋ませ、かちかちと爪先で床を叩いている。
いつもの訓練施設も研究施設も過ぎて、中庭に出た。庭と言っても、上下左右を鉄格子に囲まれた閉鎖空間だ。
中庭に通じる扉を開けると、日光に熱せられた空気が溢れ出し、冷風で乾いていた肌にすぐさま汗の玉が浮いた。
足を踏み入れた途端、ねねは目を見張った。ベスパも顎を噛み合わせ、それに対する警戒心を剥き出しにした。
 天を突くほどの巨体が、直立していた。軽く見積もっても、ベスパの二倍以上の体格を持った人型昆虫だった。
胸部から伸びた、棘の生えたツノ。頭部から伸びた、更に長いツノ。背中では、金色の外骨格が眩しく輝いている。
戦車のような威圧感と存在感を備えた人型昆虫は、黒い複眼にねねとベスパの姿を映すと、ぎ、と顎を擦らせた。

「あら、来たのね」

 その人型昆虫の傍に立っていた薫子は、ねねとベスパに向いた。

「つか、これ何? マジ意味不明なんだけど」

 ねねが顎で巨体の人型昆虫を示すと、薫子は自慢げに口元を緩めた。

「どう、立派なもんでしょ?」

「対人型昆虫用大型戦術外骨格一号、識別名称ヘラクレスです」

 薫子の言葉に続けるように、城岡が説明した。

「ヘラクレスは、外来種が突然変異して誕生した人型ヘラクレスオオカブトから採取した遺伝情報を操作し、染色体の数を三倍体にした個体、いわゆる三倍体で、通常の倍近くの体格とそれに応じた腕力を持っています。身体機能を司る部分以外の脳は全て摘出し、失った知性は電子頭脳で補われています」

「んで、これってやっぱり中に入って動かすわけ?」

 こいつみたいに、とねねがベスパを示すと、城岡は言った。

「操縦する必要はありません。ヘラクレスはベスパやセールヴォランとは違い、人間の身体能力を向上させることが目的ではないからです。ヘラクレスに搭載した電子頭脳は高度な知能を有していて、状況に応じた自律行動を行いますので、指示も必要最低限で充分です」

「ですが、だとすれば、なぜ鍬形一尉の匂いがするのですか? 先程から、気になって仕方ないのですが」

「でもって、なんであたしらを閉じ込めてたわけ? マジ意味不明だし」

 ベスパに続いてねねが疑問をぶつけると、今度は薫子が答えた。

「ヘラクレスの体内には、桐子の死体から摘出した子宮ごと女王の卵が入れてあるからよ。クローンとはいえ、人型昆虫は人型昆虫だから、女王の卵が出すフェロモンを使わなければ制御出来ないのよ。でも、ヘラクレスはねねちゃんが振りまく女王の匂いに慣れていないから、近付きすぎたらどうなるか解ったものじゃなかったから、ヘラクレスにホルモン剤やら何やらを一通り投与してからでないと引き合わせられなかったのよ。他にも細かいセッティングもしなきゃならなかったしね。通信電波の微調整とか、非殺傷対象の認識能力の再確認とか、色々とあるのよ」

「そういうことでしたか」

 ベスパは納得したが、ねねは薫子の並べた言葉に不快感を感じた。

「ここんとこいなかったのは、キチガイ女の死体をいじくって、その卵を虫に突っ込んでたってわけ? つか、そういうのってマジグロくね? てか、死んだら死んだでいいじゃん。なんでそこまでするわけ?」

「利用出来るからに決まっているじゃない」

 やけに機嫌の良い薫子は、笑みを零した。

「現在、私達の手元には女王の卵は一つもないわ。女王が出現しても捕獲して摘出するのは難しいし、手に入れられたとしても人型昆虫から襲撃を受けて研究所ごとダメになってしまったり、移植手術を行って定着させても肝心の苗床が死んでしまったり、人型昆虫が暴走して研究所ごと焼けてしまったりと、そんなことを繰り返すうちに女王の卵は減っていったのよ。だから、ねねちゃんに移植した卵が本当に最後の一つだったのよ。あんなに良いタイミングで桐子が死んでくれるなんて、好都合だったわ。おかげでヘラクレスを完成させることが出来たんだから、二階級特進どころか勲章ものね。ま、実際には何も出ないけど」

「ふーん」

 ねねは気のない返事をして、ヘラクレスを睨んだ。

「じゃ、キチガイ女が死ななかったら、あたしの腹ぁ開いてたってこと?」

「そうよ。それ以外に何があるのよ」

 平然と答えた薫子に、ねねは肩を竦めた。

「うげ」

「では、蜂須賀二尉。訓練の時間ですので」

 城岡に研究所の中を示され、ねねは足早に歩き出した。

「言われなくても戻るっての。てか、こんなに暑いとこにマジいたくねーし」

「それでは私もお供いたします、クイーン」

 ベスパもねねに続いて、研究所に戻った。薫子は首筋に滲んだ汗をハンカチで拭って、ヘラクレスに近付いた。 
炎天下でも白衣を着込んでいる研究員達は、ヘラクレスの電子頭脳にケーブルを繋げて最終調整を行っていた。
日陰に置かれたコンピューターで操作されるたびに、ヘラクレスは複眼とは別に作られた人工複眼を点滅させた。
これだけ体格が大きいと、死角も増えてしまう。その弱点を補うために、ヘラクレスは後頭部にも目を持っていた。
電子頭脳の上に埋め込まれた円形の人工複眼は顎を鳴らす代わりに光っていたが、焦点が薫子に向けられた。

「今度こそ、上手く行くわ」

 これまで、何度も失敗を繰り返してきた。だから、成功するはずだ。薫子はそう確信し、異形の勇者を見つめた。
このヘラクレスを生み出すまでに犠牲にした人型昆虫や女王の卵、そして、少女達の数は両手ですらも足りない。
だが、進歩するためには犠牲が付き物だ。彼ら、彼女らの死は、これから訪れる恒久的な平和に不可欠なのだ。
 政府が、対人型昆虫用戦術外骨格の研究を始めたのは十年前のことだ。薫子が参入したのは五年前からだ。
それまでにも、人型昆虫は人間社会を脅かしていた。だが、数はそれほど多くなく、都市伝説になる程度だった。
しかし、何らかの切っ掛けで人型昆虫は爆発的に増殖し、主に東京近郊で人間を喰らい、繁殖するようになった。
自衛軍の攻撃も決定打にはならず、事態を公表すれば国民に不安が広がり、下手をすれば国が傾きかねない。
そこで政府は、秘密裏に事を収めるための対策を講じ、上層から出された案が対人型昆虫用戦術外骨格だった。
 つまり、政府はヒーローを作ろうとしたのだ。だが、戦術外骨格の開発を進めるに連れて幾度も壁に衝突した。
最初の問題は、戦術外骨格の大きさと使用者の体格だった。人型昆虫の体格は、平均では二メートル半程度だ。
人型昆虫の中に成人男性を入れようとすると、足の筋や内臓もを切除しなければならず、戦う以前の問題だった。
戦闘や訓練で負傷した兵士を生体改造し、人型昆虫を凌ぐ身体能力を与える手術も行われたが失敗に終わった。
だが、体格の大きい人型昆虫を探し出して改造するのは手間と金が掛かる。そこで、使用者を縮めることにした。
子供では小さすぎるが、十代の発育途中の少年少女なら丁度良かった。だが、引き合わせても喰われてしまう。
彼らと合体させようとしても、改造された人型昆虫は命令を聞かずに少年少女達を襲って喰ってしまうばかりだ。
 喰われないようにするためにはどうすれば、と思案していると、捕獲された女王の体内から少女が発見された。
少女は喰われていないばかりか、子宮に女王の卵を宿していた。そこで、彼女を人型昆虫に引き合わせてみた。
すると、意外なことに、人型昆虫は少女をすんなりと体内に収めただけでなく、神経糸を接続して合体も完了した。
初の成功例だったが、異常事態に少女が錯乱して暴走した末、その少女は人型昆虫を殺した後に衰弱死した。
 それからも何度となく実験を重ねて、セールヴォランと桐子が出来上がったが、あれもまだ発展途上の段階だ。
当然、ベスパとねねもそうだ。彼らは兵器としても不完全であり、それを操る少女達も兵士としての自覚は皆無だ。
だから、完全なる兵器が必要なのだ。不要な自我を持たず、愚直に命令を執行し、人型昆虫を殲滅する兵器が。

「げ」

 どこからか、異質な音が聞こえた。コンピューターの電子音でもなければ、研究員の声とも異なった音だった。
薫子は音源を探したが、差し当たって思い付くのは一つしかない。だが、喋れるほど高度な知能は与えていない。

「気のせい、よね?」

 薫子は気を取り直して、ヘラクレスを見つめた。多くの犠牲を払って出来た兵器なのだから、良い結果が出る。
いや、出てくれなければ困る。実験中の事故で死んだ犠牲者の中には、薫子の双子の妹も含まれていたからだ。

「櫻子」

 薫子はジャケットの胸ポケットを押さえ、その中に入れたパスケースの内で微笑む妹に笑みを向けた。

「あなたの仇は討ってあげるわ」

 薫子の妹である水橋櫻子は、最初の成功例である人型ムカデの改造体とその使用者である少女に殺された。
同じ顔でありながら、美しく、可愛らしく、柔らかかった櫻子。それが、汚らしい腐臭を放つ肉塊と化してしまった。
 櫻子は、薫子の妹であり恋人だった。幼い頃からいつも傍にいて、櫻子は薫子の後をいつも付いて回っていた。
いつの頃からか、妹を可愛らしいと思うだけではなくなった。家族としての感情とは、違った感情が生まれていた。
同じ顔だが、櫻子は薫子とは全く別の表情を見せる。笑顔も、泣き顔も、怒り顔も、不思議な感情を揺さぶった。
その感情を受け入れてはいけないような気がしたが、櫻子に甘えられると、些細な躊躇など呆気なく吹き飛んだ。
 思春期を迎えると、二人の関係は明確に変化した。両親が帰ってこなかった夜に、薫子は櫻子を抱き締めた。
櫻子は姉妹の触れ合いだと思い、薫子に腕を回した。同じもので出来ている手なのに、違った暖かさがあった。
腕の中に感じる櫻子の体は、危うい細さを持っていた。脂肪が付きかけた薄べったい胸が当たると、胸が騒いだ。
櫻子はそれが恥ずかしかったのか、頬を染めて俯いた。同じ顔をしているのに、息が詰まるほど可愛らしかった。
そして、自覚した。今まで感じていた不思議な感情は、背徳的な胸のざわめきは、妹である櫻子への恋心だ、と。
 自覚してしまうと、それまで保っていた均衡は崩れ去った。中学、高校と進学しても、薫子は櫻子に夢中だった。
薫子を追い掛けて同じ学校に進学した櫻子は、今までと変わらずに薫子を慕っていたが、微妙に変化していた。
交際している男子生徒と女子生徒のように待ち合わせて帰り、寄り道をし、人目に付かないところで手を繋いだ。
そして、時には抱き合い、口付けた。女らしい丸みを得てきたがまだ幼い妹の体を探ることは、素晴らしかった。
薫子が櫻子を愛すれば、櫻子も薫子を愛してくれた。絹糸の上をつま先立ちで歩くような繊細で美しい恋だった。
口に含めばすぐにとろけてしまう砂糖菓子のように儚くもあり、そして、猛毒を含ませた蜜のように蠱惑的だった。
 だが、薫子の気付かぬうちに、櫻子は男に毒されていた。高校を卒業した薫子と櫻子は、別の大学に進学した。
目指す方向は同じ生物学だったが、分野が少し違っていたからだ。その上、櫻子は家を出て一人暮らしを始めた。
薫子は頻繁に櫻子の部屋を訪れ、櫻子に男の気配がないか調べ回り、櫻子に近付いてきた男は全て排除した。
女らしく成長した櫻子は魅力に溢れていたから、他の誰にも触れさせたくない。触れられたら穢れてしまうからだ。
 別々の場所で暮らし始めても、薫子の徹底した排除のおかげで愛する櫻子の純潔は保たれた、はずであった。
いつのまにか、櫻子には男が出来ていた。いつものように部屋を訪れた薫子に、櫻子は遠慮がちに報告してきた。
好きな人がいる、いずれ結婚するつもりだ、と。その人には病気がちな妹がいるから、早く結婚したいのだとも。
大学は既に退学した、就職した国立生物研究所で働きながら結婚資金を貯めるつもりだ、と櫻子は言ってきた。
だからこれ以上私に過干渉しないで、お姉ちゃん、とも言われた。今までの櫻子なら、絶対言わない言葉だった。
 これも全て、穢らわしい男に毒されたからだ。汚く、泥臭く、生臭い、男の手に触られたから心まで汚れたのだ。
我を忘れた薫子は櫻子を押し倒し、乱暴に襲った。陰部が腫れるほど責められると、櫻子は弱々しく謝ってきた。
その様が可愛らしくて、薫子は満足した。櫻子には自分しかいないのだと何度も言い聞かせると、櫻子は頷いた。
誰とも結婚しない、交際相手とは別れる、薫子だけの櫻子になる、と約束させて、薫子は櫻子の部屋を後にした。
 それから三ヶ月後。櫻子は、就職先である国立生物研究所で暴走した人型昆虫に、ずたずたに切り裂かれた。
これはきっと、薫子を裏切った罰なのだ。櫻子は然るべき罰を受けたのだ。それもこれも、男に穢されたからだ。
男から結婚を持ちかけられなければ、櫻子は国立生物研究所になど就職せずに、海外に留学するはずだった。
そうなっていれば、櫻子は死ななかった。なのに、櫻子は死んだ。美しく、可愛らしく、柔らかい、櫻子が死んだ。
 その日から、薫子の人生は変わった。櫻子の代わりに国立生物研究所に就職し、人型昆虫の研究に励んだ。
櫻子を殺した人型昆虫を滅ぼすために、そして、櫻子を死に追いやる原因を作った穢らわしい男を殺すために。
 櫻子を惑わし貶めた男、黒田輝之。その名を忘れたことは、ただの一度もない。





 


09 2/24