豪烈甲者カンタロス




第九話 交わった運命



 車窓に映るのは、愛おしい彼の顔だ。
 新幹線の中で最も広い座席に身を沈めてもセールヴォランの肩や足ははみ出し、あぎとは天井を擦っている。
窮屈ではあるが、飛び続けるよりは余程楽だ。体力を消耗せずに、独りでに目的地まで運んでくれるのだから。
やはり、この選択は正解だ。睡眠欲に負けて力を失ったセールヴォランの意識に代わり、桐子が思考していた。
角の丸い窓に映る車内の背景は、赤黒い飛沫に塗り潰されていた。死に損なった乗客が、苦しげに呻いている。
 新幹線が減速を始め、終点の東京駅に到着するとのアナウンスが流れた。運転手は、生かしておいたからだ。
桐子と言えど、新幹線まではさすがに操縦出来ない。セールヴォランは座席から立ち上がり、デッキへ向かった。
自動ドアが横に滑ると、ドアに寄り掛からせておいた車掌の死体の首がずれ、鈍い水音を立てて階段を転げた。
その死体を投げ捨てて階段を下り、次の車両に入った。先程の車両と同じく、ほとんどの人間が惨殺されていた。
首が、臓物が、皮膚が、骨が、筋肉が至るところに散り、床に出来た血溜まりは車体の揺れと共に広がっていた。
 セールヴォランが座席の間の通路を進むと、一番奥の座席でなんとなく生かしておいた母親と娘が震えていた。
座席に爪を立てながらセールヴォランが身を屈めると、小学生程度の娘はがちがちと歯を鳴らし、涙を落とした。

「ふふふふふふ、そんなに怖がらなくてもいいじゃないの」

 セールヴォランは上左足の爪先で娘の頬をついっと撫で、切り傷を作った。

「もうすぐ東京に着くわ。どう、素敵な旅だったでしょ?」

「うぇ、ぁああ…」

 頬を裂かれた痛みと目の前に迫った異形の昆虫に怯え、娘は硬直した。

「あらあら、そんなに泣いちゃいけないわ。せっかくの可愛い顔が台無しよ」

 セールヴォランは爪先に付いた娘の血を舌で絡め取り、飲み下した。

「素敵な味ね。どこもかしこも柔らかくて、ちょっと囓っただけで千切れちゃいそうね」

「お願いします、その子だけは、その子だけは殺さないでぇえっ!」

 母親はセールヴォランの下右足に縋り、悲痛な叫びを上げた。

「あら、どうして?」

「何回も流産して、やっと生まれた一人娘なんです、私達にはもうこの子しかいないんです!」

「あら、そうなの」

 セールヴォランは鬼気迫る形相の母親から、娘に目を向けた。

「でも、私にはどうでもいいことだわ」

「いやぁ、おかあさ」

 逃げだそうとした娘の首に、セールヴォランの爪が埋まった。頸動脈が切り裂かれ、血飛沫が天井まで上がる。
ぼたぼたと降り注ぐ娘の鮮血を浴びて母親は自失し、セールヴォランに縋っていた手を下ろし、がくがくと震えた。

「柔らかすぎて、手応えもないわね」

 セールヴォランは娘の血に汚れた爪を払い、貼り付いた薄い皮膚を捨てた。

「この世には、私と彼だけがいればいいの。あなた達がどうなろうが、私の知ったことじゃないわ」

「死ねぇっ、悪魔ぁあああっ!」

 絶叫した母親は、セールヴォランに殴りかかってきたが、セールヴォランはその腕を掴んだ。

「あら、良い響きね。でも、もうちょっと素敵な言い回しがあるわ」

 母親の腕を容易くねじ曲げて折ると、骨の露出した腕を囓り、髄液を散らした。

「堕天使。どうせなら、そう呼んでくれない?」

 肘から先を失った腕を押さえて激痛に暴れる母親を、セールヴォランは下右足で踏み付け、首をへし折った。

「さあ、東京に着くわ。せいぜい楽しみましょう、セールヴォラン」

 目を見開いて死んだ母親と娘の死体を引き摺って、セールヴォランは狭い階段を下り、手狭なデッキに入った。
減速した新幹線はホームに滑り込むが、ホームには乗客は一人もおらず、警察の特殊部隊が埋め尽くしていた。
新幹線に乗り込んだ駅でも殺戮を行ったので、警察に通報されていることは予測していたので別段驚かなかった。
紺色の戦闘服に身を固め、透明の盾で防壁を作っているのはSATだ。自衛軍に比べれば武装も能力も生温い。
 終点、東京とのアナウンスの後、デッキのドアが開く。同時に一斉射撃が始まったが、母娘の死体を盾にした。
発砲音の後に水っぽい着弾音が鳴り、死体を掲げている上両足には震動が伝わる。この程度なら、楽に凌げる。
ひとしきり銃声が続いたが、セールヴォランは弾痕でぐちゃぐちゃになった二つの死体を放り投げ、隊列を乱した。
血と内臓を撒き散らしながらホームに転げた死体に、隊員達はどよめいた。直後、セールヴォランは飛び出した。

「さあ、ダンスの時間よ!」

 盾を並べていた隊員の列に飛び降り、数人を踏み潰し、背骨を折られた隊員の手から素早く自動小銃を奪う。
中左足で奪ったマガジンをまだ熱い銃身に差し込み、手当たり次第に発砲すると、数人の隊員が倒れていった。
まだ息が残っている隊員の装備を外してナイフを取り、上両足の爪の間に挟み、しなやかに足を振って投擲する。
銀色に輝く刃が次々に放たれ、遠方から射撃を行おうとしていた狙撃部隊の隊員の頭を一つ二つと的確に貫く。
真っ二つに頭蓋骨が割れ、ヘルメットの下からどろりと脳漿が流れ出し、あっという間に死体の数が増えていった。
それでも、SATの意地があるのか、戦う意志を失わずに生き残った者はセールヴォラン目掛けて射撃を始めた。
 9ミリパラベラムの弾丸が分厚い外骨格に衝撃を与え、潰れる。そのうちの一発が、複眼の端を掠めていった。
セールヴォランは弾丸の雨が注ぐ中、複眼を爪で覆った。そして、肩を揺さぶって笑い出し、別の口調で喋った。

「桐子、桐子、桐子!」

 疲弊してきた桐子の意識に代わり、セールヴォランが己の体を支配した。

「僕だけの桐子! 桐子だけの僕!」

 セールヴォランは愛する少女の名を叫びながら、隊列に突っ込んだ。

「桐子、桐子、桐子!」

 踊るように、上両足を振り回す。しゅかっ、しゅかっ、と爪が振り抜かれ、頭部が切断されて中身が飛び散った。
背後に回り込んだ隊員の胸を貫き、逃げ出した隊員に同胞の頭を投げて砕き、斬り掛かってきた隊員を切った。
血と肉を撒き散らしながらホームを駆け抜けたセールヴォランは、階段に向かったが、こちらもまた塞がれていた。
だが、躊躇うことはない。セールヴォランは琥珀色の羽を広げて階段を固める隊員の頭上を抜け、改札に降りた。
 人気のない改札口にも、またもやSATがいた。自動改札機を力任せに引き抜き、投げ飛ばして、隊列を乱した。
壁に激突した改札機に挟まれ、数人の隊員が死んだ。再び弾丸の雨が注いだが、爪で床を蹴り、低く飛び出した。
SATの懐に入ったセールヴォランは、巨体を回転させて自動小銃を蹴り飛ばしてから、その勢いで首も飛ばした。
どれほど人間を切ろうとも切れ味の衰えない爪に分断された首が次々に舞い上がり、それが落ちる前に駆けた。
 これでは、東京駅を出るのは骨が折れる。食欲を呼び覚ます血の匂いと、桐子の甘い匂いで噎せ返りそうだ。
乗客が全て排除された人気のない駅構内を駆け抜け、出口に向かうが、こちらも案の定警察に封鎖されていた。
その外からは、報道陣らしきざわめきが聞こえていた。戦うのは容易いが、これ以上消耗しては後に響いてしまう。
 そう判断したセールヴォランは琥珀色の羽を再度広げて、東京駅の出入り口を塞ぐブルーシートを切り裂いた。
薄汚れた青の裂け目から浮上したセールヴォランに眩しい閃光が無数に浴びせかけられ、目が眩みそうになる。
絶え間ないシャッター音とリポーターらしき人間の嬌声に辟易したセールヴォランは、最加速して離脱に専念した。
 桐子の匂いが流れてくる方向は既に解っている。だが、桐子の匂いの他に、全く別の女王の匂いも感じられた。
カンタロスと繭と思しき匂いもあるが、他にもある。野生の人型昆虫とはどこか違った、異質な人型昆虫の匂いだ。
途端に、セールヴォランの疑似感情にどす黒いものが湧いた。苛立ちとも怒りとも付かない、苦く粘ついた思いだ。
一刻も早く、桐子の孕んだ卵を取り戻さなければ。戦闘衝動よりも強烈な感情に煽られ、セールヴォランは飛んだ。
 早く、早く、桐子を。




 繭が溶けてしまう。
 ヘラクレスの胃袋で、繭が消化されてしまう。カンタロスは身を起こそうとしたが、畏怖のあまりに動けなかった。
何がそんなに恐ろしい。何をそんなに恐れている。たかが人間だ、たかが女だ、たかが繭だ。いや、繭だからだ。
答えは解り切っているから、尚更動けなかった。そんなことで畏怖してしまう自分が信じられず、信じたくなかった。
 ヘラクレスの笑いは止まらず、慢心に満ちている。カンタロスはがくがくと震える上両足の爪で、頭を抱え込んだ。
息が荒くなり、腹部が大きく上下する。繭がいなくなってしまった胸部が異様に軽く思えて、腰に力が入らなかった。

「俺の、女王が」

 カンタロスはぎちぎちぎちと顎が割れそうなほど噛み締めていたが、複眼の視点を上げた。

「おれの、じょ、おう、だ!」

 ヘラクレスはカンタロスの言葉に重ねて叫び、ツノを突き上げて己を鼓舞した。

「おれ、が、おう、だ!」

 げたげたと笑い転げるヘラクレスの声がやかましすぎて、気を失っていたベスパとねねも意識を取り戻していた。
だが、動くに動けなかった。あのカンタロスが立ち上がりもしないどころか、戦いもしないことが信じられなかった。
一度交戦しただけだが、カンタロスが極めて好戦的で凶暴な性格だということは、二人は身を持って知っている。
そのカンタロスが、圧倒されている。このまま繭が消化され、カンタロスが殺されてしまえば、ベスパには好都合だ。
だから、傍観していることにした。幸い、ヘラクレスの興味はカンタロスと繭以外には欠片も向いていないようだ。

『ここはひとまず、大人しくしていましょう、クイーン』

 ベスパに話しかけられ、ねねは毒突いた。

「んなこと、言われなくても解ってるっつの」

 念のため、人型ホタルの様子も窺ってみるが、ヘラクレスに圧倒されているのか近付いてくる様子もなかった。
あれは、人型昆虫にとっても化け物なのだろう。ねねの脳にも神経糸を通じてベスパの畏怖が流れ込んでくる。
 二人の視界の先では、カンタロスが怯えで顎を鳴らしている。ヘラクレスは笑いを収め、カンタロスを見下ろした。
ヘラクレスはカンタロスのツノを掴むと、突然投げ飛ばした。抵抗することもなく、カンタロスはビルに突っ込んだ。
ガラスとコンクリートを砕きながら埋まった人型カブトムシを追い、ヘラクレスが歩み寄るが、出てくる気配はない。

「たた、か、え」

「俺の…女王が」

 瓦礫に埋もれたカンタロスは顔を上げ、ヘラクレスを視界に入れるが、絶望に負けて戦意は湧かなかった。

「おれ、と、たた、か、え!」

 ヘラクレスはカンタロスに近寄ると、その頭上の壁に拳を埋めて鉄骨を引き抜き、振り上げた。

「俺の、女王」

 コンクリートの破片を零しながら、赤茶けた鉄骨が視界一杯に迫り、カンタロスの頭を突き破らんと襲ってきた。
死が間近に感じられる刹那、カンタロスの脳が忙しく働いた。もう一つの脳と生身の脳に宿る、繭との記憶だった。
 羽化してすぐに感じた女王の気配。その女王の卵を産み付けられた少女。表情のない少女。抜け殻の少女。
壊れ物じみた少女。不安定な少女。精一杯好意を注いでくる少女。自分のためにカンタロスを好こうとする少女。
カンタロスが己のために繁栄を求めるように、繭も寂しさを紛らわすためにカンタロスを好く。ただ、それだけだ。
 それだけなのに、なぜ、こんなにも心が痛むのだ。繭を奪われたと思うと、なぜ、こんなにも魂が冷え込むのだ。
在りもしない感情が揺れ、手応えのない思いが痺れ、訳の解らないものが体を強張らせ、そして心を滾らせた。

「…俺の」

 心中の熱に煽られて上右足を上げたカンタロスは、振り下ろされた鉄骨を受け止め、ぎぢりと爪を立てた。

「俺の女を返せぇえええええええっ!」

 感情が、脳が、体液が沸騰する。カンタロスは怒りに任せてヘラクレスの爪から鉄骨を奪い、天へ突き上げた。
予想外の反撃にヘラクレスは身動ぐと、カンタロスが投げ返した鉄骨が複眼を吹き飛ばし、ぢっ、と体液が散った。

「う、お、おおおおっ!」

 視界の半分を壊されたヘラクレスは、ツノを反らして喚いた。

「んだよ、避けるんじゃねぇよ」

 カンタロスはぎりぃっと顎を叩き合わせ、人間で言うところの舌打ちをした。

「おおおおおおお…」

 だらだらと体液の零れる潰れた左目を押さえ、ヘラクレスは後退る。

「お前が王だ? 馬鹿抜かしてんじゃねぇよ、木偶の坊が」

 カンタロスは崩れかけたビルの外壁から新たな鉄骨を抜き、担いだ。

「誰よりも強い俺こそが、王に相応しいんだよ。その俺が選んだ俺の女王を奪うとは、笑止千万だな」

「が、あ、ああ、あああああ!」

 ヘラクレスは顎を全開にして吼えると、カンタロスに掴み掛かってきた。

「王は俺だけで良い」

 カンタロスは腰を落として足場を固めると、真正面から接近してきたヘラクレスの腹部へ鉄骨を振り抜いた。

「だから、お前はいらねぇんだよおっ!」

 ぐなっ、と硬い外骨格が歪み、腹部が抉られた。下半身のバランスを崩したヘラクレスは、容易く倒れ込んだ。
カンタロスが鉄骨を腹部に刺そうと突き出すが、ヘラクレスの中右足が鉄骨を握り、ぎりぎりと双方は鬩ぎ合った。
先に離したのは、カンタロスだった。離す直前に地面を蹴って身を翻し、鉄骨が外壁を貫くとそれを足場にした。
 左目を失ったヘラクレスの死角に飛び降りたカンタロスは、ヘラクレスの後頭部のツノを掴み、上体を反らした。
踏ん張ると、下両足の下で瓦礫が細かく砕ける。持ち上げようと力を入れただけで、上中両足が抜けそうになる。
だが、この機を逃すわけにはいかない。カンタロスは傷口から体液が溢れることも気にせず、渾身の力を込めた。

「お前の体重が俺を潰すか、俺の力がお前を投げるか、一つ勝負でもしてみようじゃねぇか!」

「う、おお、お、お、おおおお!」

 首を思い切り反らされたヘラクレスは上両足を後頭部に回そうとするが、関節が曲がらないので届かなかった。
中両足、下両足も同じことで、わしゃわしゃと蠢くばかりだ。こういうところは、普通の昆虫と変わっていないのだ。

「俺は最強だ、俺は王になる男だ、俺は、俺は、俺はぁああああっ!」

 腹部の中で遊んでいた神経を繋ぎ合わせ、力という力を絞り出し、カンタロスは猛った。

「俺は王の中の王、カンタロスだぁああああああっ!」

 ず、ず、ず。ヘラクレスの首が、胸が、砕けたアスファルトから剥がされていく。

「その俺から女を奪いやがった度胸だけは買ってやる!」

 背中が、腹が、足先が、離れた。

「だが、何一つ許しゃしねぇえええっ!」

 カンタロスは上両足とツノで支えたヘラクレスの巨体を、投げた。五メートル近い物体が、宙に舞い上がった。
ベスパも人型ホタルの頭上も越したヘラクレスは、羽を広げる余裕すらないまま、複合商業施設に突っ込んだ。
地震のような震動が起き、ビルだけでなく足元も揺らした。その様を見ていたベスパとねねは、唖然としていた。
まさか、あの巨体を投げ飛ばすとは思っても見なかった。力を出し切ったカンタロスは、誇らしげに哄笑している。
 その笑い声は、邪悪極まりなかった。ヘラクレスの笑い声は化け物じみていたが、こちらは鬼とでも言うべきか。
濁った欲望と穢れた情欲が漲った、ざらついた不安を掻き立てる笑い。生贄に少女を喰らう悪鬼に相応しかった。
 一連の戦いを見下ろしていた黒い複眼が、逸れた。そして、先程ヘラクレスが攻撃した雑居ビルに向き直った。
闇夜に浮く赤いマフラーを靡かせた人型ゴキブリ、ブラックシャインは触角を揺らす夜風に混じる匂いに気付いた。
渋谷に接近しつつあるセールヴォランを見送ってから、屋上を蹴って飛び上がり、崩れた雑居ビルへと向かった。
 正義の名の下に、戦うために。





 


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