豪烈甲者カンタロス




果たされた切望



 生きている。
 下水と汚泥にまみれた六本足を投げ出し、下水道のぬるついた内壁に限界まで疲労した巨体を預けていた。
傷だらけの胸部に触れると自分以外の体温が滲み、彼女の内側で規則正しく繰り返される鼓動が感じ取れた。
それが、切なくなるほど嬉しかった。だが、繭の意識は戦闘による消耗と爆撃による衝撃で薄らいだままだった。
以前であれば無理に起こしたのだろうが、今は違う。繭が生きているだけで嬉しくて、傷付けたいとは思わない。

「ゆっくり寝てろ、繭」

 粘ついた下水に外骨格に残る過熱を溶かしながら、カンタロスは穏やかに呟いた。

「俺が、お前を守ってやる」

 関節が鈍く軋む下両足で体を支え、カンタロスは歩き出した。遠くからは、爆撃の余韻と思しき轟音が聞こえる。
ブラックシャインこと黒田輝之に裏切られたことは、特に驚くことではない。元より、彼はこちら側の存在ではない。
虫に縋っていても人でいることを捨てきれない黒田は、カンタロスらを殺すことによって人の世界で生きようとした。
ただ、それだけのことなのだ。真の女王を殺した達成感と繭が生きていた安堵感からか、黒田に憎悪は感じない。
むしろ、哀れだとすら思ってしまった。繭の影響で感情の振り幅が増えたからこそ感じられる、新たな感情だった。
だが、黒田と出会ったら、即座に殺すだろう。黒田がカンタロスと繭に接触する理由は、女王を殺すことだからだ。
だから、同情はしても信頼はしない。それ以前に、黒田に同情してしまった自分が馬鹿馬鹿しく腹立たしくもある。
 そんなことを考えている余裕があるなら、もっと繭のことを考えたい。体だけでなく、頭も繭で満たしてしまいたい。
自分の腹の中にいるのに、目覚めていないだけで寂しい。体温も鼓動も感じるのに、顔も見たい、声も聞きたい。

「繭…」

 下水とその下に堆積したヘドロを掻き分けて進みながら、カンタロスは胸に爪を添えた。

「俺をここに連れてきてくれたのは、お前しかいねぇよな」

 真の女王との決戦に勝利したが、黒田の裏切りによって爆撃されたカンタロスは、爆風に煽られて飛ばされた。
外骨格が焦がされるほどの強烈な熱と膨大な衝撃の感覚は体に残っているが、そこから先は途切れてしまった。
繭を女王に出来ないまま死んでしまうのだと思いながら、カンタロスは意識を失い、底の見えない地下へと没した。
 そして、意識が戻った時には、真の女王の手足とも言える神経糸が数本這っている下水道に身を潜めていた。
本体が死したためにただの肉の紐と化している神経糸を辿る形で、カンタロスは下水道の奥深くへと進んでいた。
頭上にはツノを引っ掛けてヘドロを刮げ落とした痕跡が、水面下には独特の足跡が、何百メートルも続いていた。
下水道の破損した部分に偶然落下しただけでは、ここまで奥へは入れず、自力で移動したとしか思えなかった。
しかし、カンタロスが下水道に飛び込んだ記憶もなければ歩いた記憶もなく、長らく意識を失ったままだったのだ。
だから、カンタロスを下水道に逃がし、生かしてくれたのは、カンタロスの体内に収まった繭の他にいないだろう。

「へへ」

 背筋がむず痒くなって、カンタロスは奇妙な声を漏らした。

「なんだ、この感じ」

 これまで、ずっと繭を守ってきた。女王の卵を孕んだ繭を守ることは、カンタロスの繁栄を意味していたからだ。
己の本能に身を任せ、私有物として繭を扱った。それでいいと思っていたし、それしか考えられなかったからだ。
人間にも感情があることは知っていたが、煩わしいだけだった。いちいち気に掛けられるのも、面倒なだけだった。
だから、カンタロスに好意を抱こうと頑張る繭を無下にした。好きになったり、なられたり、というのがまず鬱陶しい。
 繁殖するだけなのだから、感情など必要ない。そう思っていたはずなのに、少しずつ繭に心を動かされていた。
それ以前に、心があることを気付かせてくれたのも繭だ。戦い以外の喜びも、繭がいなければ知り得なかった。
脱皮直後に暴れ出して研究所から脱走しなければ、繭とは出会わず、セールヴォランのようになっていただろう。
繭以外の少女を腹の中に入れるなど、考えただけでぞっとする。あの時に喰わなくて良かった、とつくづく思った。
 真の女王の脳漿が貼り付いたツノで下水道の内壁に貼り付いたヘドロを削りながら、カンタロスは歩き続けた。
戦場から少しでも離れるために、外界への出口を見つけ出すために、疲労に押し潰されそうな巨体を進ませた。
 繭に守られた。だから、繭を守り抜かなければ。




 冷たい夜気が頬を撫で、意識が引き戻された。
 体液に濡れた瞼を拭ってから、同じく濡れた髪を払った。重たい体を怠慢に起こしつつ、慎重に目を動かした。
あれから、どうなったのだろう。真の女王に勝利したが、爆撃され、カンタロスが気絶し、それから必死に逃げた。
真の女王が造り上げた巨大な地下空洞に身を投じ、体力の最後の一滴まで振り絞って飛び、下水道を見つけた。
その中に体を突っ込んで、奥へ奥へと進んだ。絶え間なく轟く爆音が怖くて、何も考えずにひたすら走り続けた。
そこまでは記憶しているが、極限状態が続きすぎたからか意識を失ってしまい、今の今まで深く眠り込んでいた。
 ここはどこだろう。生きているのだろうか、死んだのだろうか。繭はぼやけた視界を拭おうと瞬きを繰り返した。
目を上げると、ツノの生えた巨体が映った。街灯の光に青白く縁取られた彼は、泥と汚水を幾筋も落としていた。
そして、上両足からは見慣れた赤黒い液体を落としていた。下水の異臭に混じって、鉄臭さがつんと鼻を突いた。

「起きたか、繭」

「カンタロス…?」

 耳に届いたカンタロスの声に繭が答えると、カンタロスは殺したばかりの人間を荒々しく咀嚼した。

「俺は腹が減った。お前も減っただろう」

「あ…うん」

 繭は意識が晴れるに連れて空腹感を感じ、頷いた。

「だから、適当な巣を見繕ってやる。こいつらはその巣の中にいた人間だ」

 ごきゅ、とエプロン姿の女性の肋骨を噛み砕いたカンタロスは、肺と心臓を引き摺り出して喰い千切った。

「え…」

 繭が彼の視線の先を辿ると、繭の自宅より大きな民家が建っていたが、玄関が壊されて血飛沫が散っていた。
カンタロスの上両足に掴まれているのは、両親と思しき家人であり、玄関で死んでいるのは幼い娘と愛犬だった。
庭も広く、車庫には値の張る外車が収まり、家はまだ新しい。絵に描いたような幸せな一家、と言われるタイプだ。
近所の人間に見つかっていないだろうか、と繭は視線を巡らせるが、どの家も雨戸を閉めて物音すら聞こえない。
皆が皆、六本木の異変に怯えて閉じ籠もっているのだろう。だから、今のところは、目撃されていないようだった。
カンタロスが下水道から地上に脱した際にこの民家の前のマンホールを破壊したらしく、分厚い蓋が転げていた。
人間の体格では楽に通れる幅の穴でもカンタロスにとっては手狭だったらしく、周囲のアスファルトが砕けている。
割れたアスファルトの周囲とログハウス調の家の間には、血と泥で出来た形状が独特な足跡が多数付いていた。

「ありがとう、カンタロス」

 繭は彼の心遣いに素直に感謝し、少しよろけながら立ち上がった。

「だったら、早く家に入ろう。私も、カンタロスも、体を流さなきゃ」

「ああ。このままじゃ、泥で息が詰まっちまいそうだ」

 カンタロスはまだ若い父親の足を顎で挟み、断ち切った。ごきごきと骨を砕いてから、嚥下する。

「私達、勝ったんだよね?」

 繭はカンタロスの上右足を取り、血と泥に汚れた爪を握った。

「そうだ。俺達は勝ったんだ。だから、繭が真の女王だ」

 カンタロスは柔らかく爪を曲げ、繭の冷え切った手を握り返した。

「うん。だから、カンタロスは王になるんだよね」

 カンタロスの爪を持ち上げて頬に当てた繭は、疲労で青ざめた頬に血の気を戻した。

「嬉しい…。私、カンタロスの役に立てたんだ」

「だが、本番はこれからだ。俺が王の中の王になるためには、お前を犯す必要がある」

「うん」

 繭はカンタロスの上右足に華奢な裸体を寄せ、恥じらって目を伏せた。

「頑張るね、カンタロス」

「だったら、早くヤっちまおうぜ。あの状況で他の連中が生き延びたとは思えないが、先を越されたら面倒だ」

 カンタロスは繭を横抱きにし、持ち上げた。繭は驚いて声を上げたが、抵抗することはなく、身を委ねてきた。
玄関に転がっていた幼い娘と大型犬の死体を廊下に蹴飛ばし、強く引っ張ったせいで外れたドアを填め直した。
カンタロスの体格でも楽に通れる幅の広い廊下を歩き、一般家庭のそれよりも広めの浴室に繭を入れてやった。
いつものようにカンタロスがリビングに向かおうとすると、繭はバスルームのドアを開けてカンタロスを手招きした。

「カンタロス、お風呂、一緒に入らない?」

「だが…」

 羽と触角が濡れたら一大事だ。カンタロスが渋ると、繭は体液の滴る毛先をいじり、目線を彷徨わせた。

「羽と触角は絶対に濡らさないって約束する。だから、お願い。それに、ちょっとでも離れちゃうのは…」

「あん?」

「だ、だって、ああいうこと言っちゃったら、自分でも意識しちゃうっていうか、カンタロスのことももっと意識しちゃうっていうか、うん、なんていうか…」

 次第に赤面して俯いた繭の姿を見、カンタロスは先程の声とは抑揚の高い声を出さずにはいられなくなった。
肩を震わせて感情に任せて顎を鳴らしていると、繭は不思議そうに目を丸めたが、次第に頬を緩めていった。

「カンタロス、笑ってるの?」

「どうして俺が笑わなきゃならねぇんだよ」

 カンタロスはいつものように言い返したが、明らかに声色は弾んでいた。

「そっか、カンタロスも笑えるんだ。うん、そうだよね、カンタロスだもんね!」

 繭はカンタロスの上右足を掴み、バスルームに引っ張り込んだ。

「綺麗にしてあげるね、カンタロス!」

「仕方ねぇな」

 カンタロスは妙な高揚感に煽られ、繭に従った。繭の明るい笑顔を、曇らせたくなかったということもあったが。
既に家人が使ったらしく、湯船には湯が張っていた。繭は栓を抜いて湯船の湯を落としてから、シャワーを出した。
体液を洗い流した繭は、カンタロスを浴室に入らせると、シャワーの勢いを緩めて外骨格に付いた泥を落とした。
外骨格を舐める温水の感触にカンタロスが身震いすると、繭は可笑しげに笑みを零して丁寧に外骨格を擦った。
 戦いに次ぐ戦いで疲弊し、芯まで汚れ切った体を丹念に清めながら、二人は思い付くままに言葉を掛け合った。
取り留めのない会話だったが、どちらも満たされていた。改めて、凄絶な戦いを生き延びられたことを実感した。
温水の熱と繭の体温が高揚した精神を更に高ぶらせ、カンタロスは些細なことでも笑わずにはいられなかった。
繭もまた、声を合わせて笑ってくれた。笑い声を出すと繭の笑顔もますます明るくなり、カンタロスも嬉しくなった。
 幸せすぎる一時だった。 




 底の浅い闇の中、二人は体を寄せ合っていた。
 付けっぱなしの大きな薄型テレビからは、戦場と化した六本木の映像と悲壮感漂うコメントが流れ続けている。
燃え盛る東京タワー跡地と横倒しの東京タワー、そして無惨に破壊された街並みの映像が幾度となく映された。
巨大すぎる真の女王の死体も映され、炎に包まれていた。ニュース速報も次々に出され、死傷者数は増えていく。
地獄のような映像を背負ったアナウンサーに切り替わると、強張った表情で速報と同じ内容の情報を読み上げた。
 こうして見ると、まるで他人事だ。数時間前まで東京タワー付近にいたのに、時間が経つと実感が薄らいでいく。
だが、全ては現実だ。だだっ広いリビングの中央で、繭はカンタロスの胡座を掻いたカンタロスの上に座っていた。
家人のものであるバスローブを着ているが、サイズが合わず、袖も裾も長すぎたが気にするほどのことではない。
リビングテーブルには繭が手当たり次第に食べた食品の空き袋や、空っぽになったペットボトルが転がっていた。
フローリングには入浴後にカンタロスが貪り喰った幼い娘と大型犬の血溜まりが広がり、壁にも飛び散っていた。

「ん…」

 繭が少し身を捩ると、カンタロスは背を曲げて繭に顔を寄せた。

「どうした、繭。一旦抜いちまうか?」

「大丈夫、だから、このまま…」

 繭は胎内に押し込まれた異物の大きさと硬さに眉を顰め、カンタロスの上左足を握り締めた。

「でも、すぐには抜いちゃわないでね。せっかく出してもらったのに、漏れちゃったら…」

「俺もそのつもりだ。簡単に事を終えちまうのは、勿体なさすぎる」

「うん。だって、やっとここまで来たんだもん」

 繭は女王の卵が収められた腹部に手を当てたが、その手を下げ、陰部に押し込まれた彼を確かめた。

「最初に見た時は絶対入りそうにないと思ったけど、ちゃんと、カンタロスが私の中にいる。なんか、凄い」

「やれば出来るもんだな」

「うん」

 繭はカンタロスに寄り掛かると、頬を緩めた。

「カンタロス」

「なんだ」

「なんでもない」

 照れ混じりの笑みを浮かべた繭に、カンタロスはきちりと顎を弱く鳴らした。

「繭」

「なあに」

「なんでもねぇよ」

 カンタロスが同じことをしてやると、繭は頬を染めた。

「もお…」

 繭は拗ねたように眉を顰めているが決して怒っているわけではなく、どちらかというと恥じらっている表情だった。
それが妙な気持ちをくすぐり、カンタロスは繭の細い腰を掴んで押し下げると、繭はびくんと痙攣して仰け反った。
喉を反らした繭は足を突っ張り、悲鳴に似た声を零したが、カンタロスの経験では嫌がっている声ではなかった。
むしろ、その逆だ。繭は浅い呼吸を繰り返しながら、仰け反らせていた体を戻し、薄く汗の浮いた太股を閉ざした。

「エッチ」

「どっちがだ」

 カンタロスが軽口を叩くと、繭は上擦り気味の声で言い返した。

「だって…どうしようもないんだもん」

「俺もだ」

 カンタロスは繭の腰に回していた中両足を外し、上右足で繭の体を引き寄せた。

「何もかもお前のせいだ、繭。お前がいたから、俺は勝てた。おまけに、余計なものまで知っちまった」

「それって、どういうこと?」

 興味深げに見上げてきた繭に、カンタロスは多少やりづらくなったが答えた。

「まあ…好きとか、そういうのだ」

「私も、カンタロスがいたから、私は最後まで頑張れたんだよ。だから、カンタロス」

 女王の卵ともう一つの異物で膨らんだ腹部を押さえ、繭は柔らかく笑んだが、目元には涙が滲んでいた。

「最後まで、傍にいてね」

「言われるまでもねぇ」

「ありがとう、カンタロス。大好き」

 繭は笑みを保とうとしたが、徐々に崩れて俯き、双方の体液が散らばるフローリングに新たな体液を落とした。
細かく肩を震わせる繭を抱き締めてやり、カンタロスはその涙を舐めた。次なる女王を生み出せば、繭は死ぬ。
人間はあくまでも女王の卵の苗床に過ぎず、そこから先はない。そして、カンタロスも交尾を果たせば命が尽きる。
 最初から、こうなることは解っていた。だが、動き始めた心は止まることはなく、戦うほどに深みに填っていった。
けれど、終わってしまうと知っているから、尚更思いは深まった。どうせ死ぬのなら、力一杯愛してやりたい、と。
生まれて初めて好きになった相手であり、生まれて初めて求めた相手であり、生まれて初めて得られた居場所だ。
だから、最期まで傍にいるのは当然だ。カンタロスは細く泣く繭の頬を舌先で舐め上げ、塩辛い体液を味わった。
繭の体液に混じる女王の味は甘美だが、繭から感じる思いは痛みが生じるほど苦しく、どうしようもなく愛おしい。
 繭の腹を破って次なる女王が生まれる時、二人の時間は終わり、人型昆虫の世界に新たな時間が刻まれる。
長らく待ち焦がれていたことなのに、無性に悔しくなってしまう。なぜ、自分は虫で彼女は人間なのだろうか、と。
だが、虫でなければカンタロスは繭を得られず、繭も人間でなければカンタロスと出会えず、何も始まらなかった。
だから、それ以上は考えないことにした。もしも来世があるとしたら、そこで同じ種族となって出会えばいいだけだ。
別の種族同士で生まれたとしても、また一からやり直せばいい。今、愛し合えたのだから次も愛し合えるはずだ。
 求めていれば、必ず。






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