豪烈甲者カンタロス




閉ざした世界



 それから、更に半年後。
 幼虫からさなぎ、さなぎから成虫への変態を果たしたセールヴォランは、桐子よりも遙かに大きくなっていた。
身長は二メートルを超え、天を示す一対のあぎとが猛々しく、分厚く頑強な外骨格は黒曜石を思わせる色合いだ。
戦術外骨格となるために施された手術も、もう一つの脳である電子頭脳の移植も滞りなく進み、彼は目覚めた。
桐子だけが使える、桐子にのみ許された兵器として。桐子はセールヴォランと合体し、日々戦闘訓練に励んだ。
 最初から二人の相性は最高で、桐子の思うがままにセールヴォランは動き、差し向けられた敵を次々に倒した。
戦術外骨格の操縦とは別に自分の身を守るためにと桐子自身も戦闘訓練が行われ、日に日に強くなっていった。
あらゆる面で優秀だった桐子は戦闘に対しても優秀だったようで、教え込まれたことを難なく飲み込んでいった。
 二人が実戦に投入されるまで、それほど時間は掛からなかった。




 絶え間ない波音が、潮風に混じっている。
 砂と埃を巻き上げた風が抜けていくと、あぎとの下に生えた触角が揺さぶられて様々な匂いの粒子が掠めた。
複眼に映る世界は暗いが、何の問題もない。元々夜行性である彼の目を通してみれば、昼間も同然だからだ。
人払いが行われた倉庫街は静まり返って、街灯だけが眩しい。普段は輸送車両が行き交う道路も今は無人だ。
 セールヴォランの体内に身を沈めた桐子は、鋭く尖った爪で硬いアスファルトを踏み締めながら慎重に歩いた。
これは訓練ではない、実戦だ。その言葉を何度となく脳内で繰り返しながら、シャッターの閉まった倉庫を眺めた。
調査班から伝えられた事前情報では、人型昆虫と思しき存在は倉庫街に潜んでいて既に人間を捕食している。
自衛軍が出動したが、返り討ちにされて全滅した。潮臭い空気には、彼らの残滓の鉄錆の匂いが混じっていた。
それを感じると、桐子に僅かに畏怖が起きた。人型昆虫を殺すことには慣れたが人間を殺したことはないからだ。

『桐子』

 桐子の脳内に、穏やかで平坦な青年の声が響いた。

「なあに、セールヴォラン?」

 桐子が聞き返すと、声の主、セールヴォランは続けた。

『桐子は何も不安に思わなくてもいい。全ては僕が処理する』

「いいえ、私が戦うわ。だって、私はセールヴォランを纏っているのだもの」

 桐子が語気を強めると、セールヴォランは爪先で桐子の収まっている胸部に触れた。

『けれど、桐子。僕は桐子の兵器だ』

「私はあなたを傷付けたくないのよ。その気持ちは私も同じよ」

『桐子…』

 セールヴォランの声色が、かすかに震えた。

「大丈夫よ、セールヴォラン。ずっと一緒にやってきたんだもの、きっと上手く行くわ」

 桐子はセールヴォランと自分自身に言い聞かせてから、立ち止まった。爪先が小石を噛み、硬い音を立てた。
複眼を挙げると、街灯の放つ光の端が触れた。人間と硝煙の匂いは薄らぎ、兵士達から離れたのだと知った。
元より、援護は望めない。戦術外骨格を実戦に投入した時点で、この作戦の方向性は決定されたようなものだ。
 対人型昆虫用戦術外骨格とは、脆弱な人間に代わって人型昆虫を薙ぎ払うために生み出された生体兵器だ。
人型昆虫はいずれも外骨格が硬く、自衛軍の通常兵器では、弾丸が貫通するどころか跳弾してしまうばかりだ。
だが、空爆や火炎放射では近隣への被害が増えるばかりか、隠蔽している事実が世間に露見する危険もある。
だから、一番手っ取り早いのは、外骨格を砕くほどの力を持った者を人型昆虫の中に投じて総当たり戦をさせる。
効率は悪いが一匹一匹潰していけば確実だ。桐子はそのために選ばれた存在であり、セールヴォランも同様だ。
 人の世界を守ることには興味はない。桐子の世界には桐子だけがいればいい。だが、彼を守りたいとは思った。
セールヴォランは特別だ。それは彼が幼虫だった頃から変わらず、時間が経てば経つほどに存在感は膨らんだ。
相手が虫だと解っていても、嫌悪感は欠片も感じず、それどころかセールヴォランの人格にも心を惹かれていた。
 電子頭脳に搭載された疑似感情プログラムが不完全なためか、セールヴォランの感情表現は極めて希薄だ。
理性的に受け答え、人間の命令も従順に聞き、高度な判断能力と戦闘能力を持ち合わせているが、冷淡なのだ。
喋る言葉は単語を繋げただけであり、感情で揺れることもない。虫の皮を被ったロボットだ、と研究員達は言った。
だが、桐子にはその言葉が不愉快だった。セールヴォランにも感情があることを、誰よりも深く知っているからだ。
 合体し、神経糸を繋げると、脳内に直接セールヴォランの考えが染み込んできて、桐子の心中を満たしてくれる。
訓練に次ぐ訓練で疲弊した桐子を気遣ってくれたり、桐子が傍にいると喜んでくれたり、時には笑うこともあった。
セールヴォランはロボットではない。人型昆虫としてこの世に生を受け、戦術外骨格に改造されただけに過ぎない。
桐子にだけ開かれる心の内側にいる本当のセールヴォランは、素直で優しく、力強い、真っ直ぐな心の主なのだ。

『桐子!』

 不意に、セールヴォランが声を張り上げた。桐子が思考から意識を引き戻すと、無数の羽音が体毛に触れた。
びいいいいん。びいいいいん。びいいいん。びいいいいいん。倉庫の屋根や壁を突き破り、大量の虫が溢れた。
若緑色の外骨格、発達した下両足、細長い触角、縦長の複眼。人型キリギリスの群れは、次々に飛び上がった。
一呼吸で倉庫街の上空を埋め尽くした人型キリギリスは、セールヴォランを見定めると、羽を展開して滑空した。
彼らの突進を受ける前に、セールヴォランは琥珀色の羽を広げて羽ばたき、低空飛行してその場から離脱した。

「何よ、この量!」

 セールヴォランと化した桐子は複眼に収まりきらないほどの数の人型キリギリスを睨むと、彼が言った。

『恐らく、地中に埋められていた卵が一斉に孵化したんだ』

「だとすると、先に出現していた虫は個体差の違いで早く孵化しただけなのね」

『間違いなく』

「面倒なことになったわね」

 地面すれすれを飛行していたセールヴォランは、人型キリギリスの包囲から脱すると、倉庫の陰に身を隠した。
人型キリギリスは次々に出現し、増える一方だった。緑色のドームが渦を巻き、絶え間なく羽音が撒き散らされる。
餌となる人間を求めているのか、皆が皆、顎を鳴らしている。本来は草食の昆虫でも、人型に進化すると肉食だ。
セールヴォランを追いかけるためなのか、数匹が飛び回る同胞の渦から脱して倉庫街を縫うように飛び始めた。
見つけ出されるのは時間の問題だが、あの量を相手にするのは実戦経験が少ないセールヴォランには厳しい。
となれば、策を講じるしかない。セールヴォランは顔を左右に動かしていたが、人の気配のする方向を見定めた。

「どうせ、あいつらなんて何の役にも立たないんだから」

 笑みを零すつもりで顎を鳴らしながら、セールヴォランは身を起こし、羽を広げてアスファルトを蹴り付けた。

「だから、せいぜい喰われてちょうだい!」

 黒く艶のある巨体が倉庫の影から脱すると、人型キリギリスの複眼が一斉に向き、がちがちと顎が鳴らされた。
低空を保ちながら飛行するセールヴォランは、頭上に振ってきた人型キリギリスを引き裂き、千切り、切り捨てた。
あぎとに触れれば挟んで断ち切り、羽を掠めれば蹴り付け、視界を過ぎれば叩き潰し、体液の海を作り続けた。
速度を緩めぬまま人型キリギリスの津波を突破したセールヴォランは、戦闘領域外に待機する部隊を見つけた。
青い体液にまみれながら飛行してきたセールヴォランの姿に、兵士達は戸惑い、自動小銃を構えそうになった。
研究所側の人間も同じ場所に集められていたので、兵士達の防衛ラインの奥には顔を引きつらせた睦美がいた。
爪を引き摺って減速したセールヴォランは、全身にまとわりつく体液をぼたぼたと落としながら、彼らを一瞥した。

「ごきげんよう」

 セールヴォランは顎を開いて細長い舌を伸ばし、顔面を伝い落ちる体液を舐め取った。

「鍬形一尉! 一体、何を!」

 セールヴォランに掴み掛かりそうな勢いで叫んだ小隊長に、セールヴォランは返した。

「決まっているわ。あなた達には、囮になってもらうのよ」

「そんなことをして、ただで済むと思っているのですか!」

「もちろん」 

 セールヴォランは小隊長に歩み寄ると、体液の滴る爪を小隊長の首筋にずぶりと埋めた。

「だって、生き残っていいのは、私とセールヴォランだけなんだから」

 ぶちぶちと血管を千切りながら黒い爪を引き抜くと、小隊長の首筋から生温い飛沫が噴き上がり、降り注いだ。
兵士や研究員がどよめき、悲鳴が上がる。一斉に銃口が向くが、セールヴォランは小隊長の死体を投げ捨てた。

「ほら、お食べなさい」

 人々は無様な悲鳴を迸らせながら逃げ惑うが、血の匂いに誘われた人型キリギリスからは逃れられなかった。
ある者は首が跳ね飛ばされ、ある者は背骨を折られ、ある者は腕を切られ、ある者は足を切断され、喰われた。
体液の海よりも温度の高い血の海が出来上がり、肉片が零れる。それを、異形の昆虫達は無心に喰い荒らした。
 セールヴォランは捕食に夢中になっている人型キリギリスを手当たり次第に殺しながら、優雅な足取りで歩いた。
人が死ぬ様は、怖いと思うよりも先に面白かった。高圧的な兵士や鬱陶しい研究員が、ただの肉片と化していく。
中でも一際鬱陶しかったあの女はどうなっただろう、と視線を向けると、睦美は幸か不幸か生き残り、震えていた。
倉庫の壁際にしゃがんで震えている睦美は返り血で白衣を真っ赤に染め、恐怖のあまりに水溜まりを作っていた。
がちがちと歯を鳴らしながら固まっている睦美に、セールヴォランは人型キリギリスの頭部を拾って投げ付けた。

「ひいいっ!」

 頭上の壁に激突して砕け散った頭部に怯え、睦美は頭を抱えた。

「なんで、あなたなんかが生き残っているのかしら」

 血溜まりを踏み締めながら近付いてくるセールヴォランに、睦美は見苦しく絶叫した。

「お願い、助けてぇ、桐子ちゃん!」

「本当は、私のことなんか嫌いなくせに」

「違う、そんなことない、だからお願いぃいいっ!」

「そんなに助けて欲しい?」

「私はまだ死にたくないのぉっ、だからぁっ!」

 ぜいぜいと息を荒げる睦美は、涙や脂汗で化粧が剥がれ落ちていた。

「そうねぇ…どうしてあげようかしら」

 セールヴォランがきちきちと顎を鳴らすと、睦美は血溜まりに這い蹲り、必死に手を伸ばしてきた。

「死にたくないの、だから、お願い、桐子ちゃん!」

「でも、私はあなたを殺したかったのよね。ずっとずっとずっとずっとずっと!」

 セールヴォランは睦美の手に下右足を落とし、体重を掛けて踏み躙った。爪の下で、骨が容易く折れていく。

「うぎぇああっ!」

 激痛に仰け反った睦美に、セールヴォランは潰れた手を更に踏み潰し、血溜まりに新しい血液を流した。

「私のこと、馴れ馴れしく呼ばないでくれる? そう呼ばれるだけで、腹が立つのよ!」

「ごめ、ごめんな、さいぃっ!」

 吐瀉物混じりの唾液を落としながら睦美は喚くが、セールヴォランは足の力を緩めない。

「甘い顔を見せれば、誰でも懐柔出来ると思ったら大間違いなのよ! 私には、セールヴォランしかいらないのよ! あなたも、他の連中も、必要だと思ったことは一度もないわ!」

「うぉ、ぐぇあ、あああ…」

 肘の根元までを踏み潰された睦美は、自身の血溜まりに崩れ落ち、喘いだ。

「さっさと死になさい。鬱陶しいわ」

 セールヴォランは睦美の頭部を掴むと、握り潰した。頭蓋骨の隙間から脳漿が噴き出し、ぶしゃりと飛び散った。
顔に付着した体液を拭い捨て、頭部と右腕を失った睦美の死体を拾い、ぞんざいに人型キリギリスの中に投げた。
途端に睦美の死体に人型キリギリスが大量に群がり、気味の悪い音を立てながら肉や骨が食い千切っていった。
 セールヴォランは血飛沫を散らしながらアスファルトを踏み切り、巨体を投じた。そして、爪を上げて踊り始めた。
赤い海に更に青い海を重ね、無数の肉片に無数の外骨格を混ぜながら、桐子は哄笑を放ちながら殺戮を行った。
 とても楽しく、美しい、新しい世界が見つかった。




 冷たい潮風が、濡れた肌を舐めていく。
 重たい疲労による鈍い眠りから戻ってきた桐子は背に触れる硬い感触に気付き、上目にその主を見上げた。
漆黒の外骨格は汚れすぎたせいで艶が失われ、筋が付いている。後で清めてあげなければ、と桐子は思った。
首の後ろと陰部には神経糸が差し込まれていた余韻が残っているが、彼はおらず、それがなんとなく寂しかった。
だが、彼自身はここにいてくれる。桐子が手を伸ばすと、セールヴォランは顎を開いて細長い舌を伸ばしてきた。

「桐子」

「セールヴォラン…」

 指先を弄ぶ細長い舌の感触に、桐子は彼の体液と疲労で青ざめた頬を緩めた。

「人は虫が殺した。虫は僕と桐子が殺した。皆、死んだ」

 セールヴォランはにゅるりと舌を顎の中に戻すと、静けさを取り戻した倉庫街に振り返った。

「これでいいのよ、セールヴォラン」

 彼の屈強な上右足に細い腕を絡め、桐子は恍惚で目を細めた。

「桐子が嬉しいのなら、僕も嬉しい」

 セールヴォランは上左足を伸ばし、桐子の華奢な肩を柔らかく爪で握った。だが、痛みは少しも感じなかった。
つい先程まで人型キリギリスを殺戮していた爪と同じものとは思えないほど優しい手付きに、桐子は嬉しくなった。
埋め立て地に作られた倉庫街を囲んでいる波止場から見えるのは、異変を察知せずに日常を続ける都心だった。
タンカーと思しき巨大な船舶が波を切り裂きながら進み、海面が揺らぐ。星は見えず、都会らしく空は濁っている。
それでも、今はどんなものよりも素晴らしい景色だと思えた。他でもない、セールヴォランが傍にいるからだった。

「桐子」

 セールヴォランは桐子を抱き寄せ、その頬をぬるりと舐めた。

「僕だけの桐子」

「あ、ん」

 目元まで舐め上げられ、桐子はくすぐったくなり、笑みを零した。

「好きよ、セールヴォラン」

「僕も桐子が好きだ」

「ちゃんと意味を解って言っているのよね?」

「違っている?」

 少し不安げに、セールヴォランは首をかしげた。桐子は手を挙げ、彼の複眼から顎までをそっと撫でた。

「いいえ、違わないわ。でもね、好きだったら、こういうことをするのよ」

 彼の上右足から腕を外し、肩から爪を外させた桐子は、セールヴォランの膝に座って小さな体を乗り出した。
桐子が顔を寄せると、セールヴォランも身を屈めた。桐子は彼の顔を手で挟み、頑強な顎の合わせ目を舐めた。
分厚く硬い顎は素直に開き、黄色く細長い舌が現れた。桐子は薄い唇を開けて、その舌に自身の舌を絡めた。
互いの唾液が混じり合い、膨らみ始めたばかりの乳房と、戦闘による細かな傷が付いた外骨格に滴り落ちる。
桐子は丹念にセールヴォランの舌を舐め、含み、絡ませてから、口中から彼の舌を抜いて濡れた唇を拭った。

「ね…?」

「解った」

 セールヴォランはすぐさま桐子を抱き寄せ、桐子が開いた唇の間に滑り込ませ、ぐねぐねと先端を蠢かせた。
桐子は目を閉じ、セールヴォランの冷たい外骨格に身を委ねた。口中で暴れる彼の舌には、感情が漲っている。
女王の匂いが溢れる唾液を味わい、舌や歯や唇を確かめながら、桐子を抱き寄せている足にも力を込めてくる。

「桐子」

 深い口付けを続けながら、セールヴォランは発声装置から言葉を発した。

「桐子は僕を選んでくれた。だから、僕は桐子を選ぶ。桐子のためだけに、桐子を守るためだけに戦う」

「ん、ふぅ…」

 唇の端から溢れ出した唾液を零しながら、桐子は微笑み、セールヴォランの首に腕を巻き付けた。

「愛しているわ、セールヴォラン」

 桐子を抱き締める足の力は強く、それでいて桐子を苦しめない程度に緩められ、壊れ物のように扱っていた。
セールヴォランに慈しまれているのだと感じるだけで胸が高鳴り、息が詰まり、体の芯からとろけてしまいそうだ。
 桐子の世界は桐子だけのものだった。それは、桐子以外の誰も桐子という人間を好いてはくれなかったからだ。
両親も、養護施設の職員も、子供達も、戸籍上の父親も、研究員も、睦美も、誰一人として桐子を愛そうとしない。
だから、桐子だけは桐子を愛してやっていた。だが、セールヴォランだけは違っていた。桐子を見、愛してくれた。
初めて他人から注がれる感情の暖かさに胸が詰まって涙が出てしまいそうになったが、桐子は微笑みを保った。
こんなに嬉しいことがあったのに、泣いてしまうのは勿体ないと思ったからだ。だが、堪えきれるものではなかった。
 声を殺して涙を落としながら、桐子はセールヴォランを抱き締めた。セールヴォランも、桐子を抱き締めてくれた。
セールヴォランに守られるためには、守られるに相応しい人間になると同時に、彼を守れる人間にならなければ。
彼のためだったら、辛い訓練も、恐ろしい戦闘も、寂しい夜も我慢出来る。だから、今は泣くだけ泣いてしまおう。
 そして、いつか、二人だけの世界を作ろう。







09 4/8