酸の雨は星の落涙



第一話 堕落への墜落



 ゲオルグの右手には、手応えのない温度が染み渡っていた。
 それを振り払おうにも、振り払えなかった。ゲオルグの硬いウロコに覆われた分厚い手をなぞった指先がするりと外れると、 アリスは満足げに目を細めて金色の長い睫毛をかすかに揺らした。ピンクの花びらを散らしながらドレスの裾を引いて立ち上がったアリスは、 傅いたままのゲオルグの前に歩み寄った。髪を掻き上げて薄い耳に掛けながら身を屈めたアリスは、外部操作でゲオルグのヘルメットを 解除してセラミックアーマーの背嚢に収納させてから、湿っぽく生暖かい吐息が掛かるほど顔を寄せた。

「やっと出会えたわ」

 熱を帯びた声が鼓膜の上を擦り抜け、指先が機械の単眼に触れ、レンズを撫でる。

「なんて素敵な方」

 レンズから人工頭蓋骨に至り、人工頭蓋骨から顎、顎から首、首から胸を、柔らかな手がまさぐってくる。

「思い描いていた通りの方」

 セラミックアーマーに覆われた胸に手を添えたアリスは、ゲオルグの前に膝を付いた。

「さあ、私を見て」

 見たくもなかった。突き飛ばしてしまいたかった。だが、ゲオルグはそのどちらも出来ずに顎を引いた。

「そう…それでよろしいの」

 人工網膜にアリスの像が結び、胸には少女の重みが寄せられた。

「私の名を呼んで、ゲオルグ」

「アリス」

 呼ばれて間もなく、ゲオルグも呼び返していた。だが、それは己の意志とは無関係に喉が動いた結果だった。

「そう、アリスよ」

 アリスはゲオルグの硬い体に細い腕を回し、ドレスの裾をふわりと翻らせた。

「これから、ずうっと一緒に暮らしましょう。ずうっと、ずうっとね」

「それは」

 俺の意志ではない、と言おうとしたが、ゲオルグの喉はまたも異なる言葉を発した。

「同意する」

「まあ、嬉しい」

 アリスは顔を綻ばせ、満開の花にも勝る笑みを浮かべてから、ゲオルグの顔を両手で挟んで腰を上げた。

「契りを交わしましょう、私の王子様」

「解った」

 これもまた、ゲオルグの意志による言葉ではない。ゲオルグはアリスに従い、背を曲げて彼女に顔を寄せた。固く閉ざした 口と柔らかく閉じられた唇が迫り、接した。アリスはゲオルグを慈しむように何度も口付けを落としてから、恥じらいを見せながら身を引いた。

「うふふふふ…」

 アリスは口元を押さえながら離れると、立ち上がり、ドレスの裾を両手で広げた。

「さあ」

 ゲオルグは頷き、アリスに両腕を差し伸べていた。アリスの華奢な体が腕の中に収まり、体重が掛かる。アリスはゲオルグの首に 両腕を回し、肩に頭をもたせかけてきた。少女を横抱きにしたゲオルグは温室を出ると、迷いなく歩いた。ヒルダもエーディも先導しなかったが、 ゲオルグにはどこに行くべきかは解り切っていた。この城の最上階にあるアリスの寝室だ。石造りの硬い階段を踏み締めながら、 ゲオルグは生身の脳で思考していた。この状況は不可解だ。打開しなくては。少女を捨てろ。任務に戻れ。だが、増量した機械の脳は 反論する。絶対権力者に逆らうことは有益ではない。忠実に従い、親交を深めてから協力を申し出るべきだ。しかし、そのどちらの 意見も肉体には作用せず、ゲオルグは淡々と歩いていた。アリスのドレスに付着していた花びらが階段を昇るたびに落ち、色彩の欠片が 振りまかれる様は、花嫁が浴びる祝福の花を思わせた。
 一刻も早く、戦場に戻りたかった。




 夜は、冷たく更けていた。
 人気どころか生命体の息吹すら感じ取れない地上を見下ろし、ゲオルグはプラズマライフルを担いでベランダに立っていた。 広い寝室の中心に据えられた天蓋付きのベッドではアリスが寝息を立てていて、誰かに縋るかのように柔らかい枕を抱き締めていた。 後頭部の副眼でアリスの寝顔を捉えつつ、顔面前部の主眼で周囲を見張った。宇宙空間での異変も感じ取れるように、各種センサーは 開いてある。だが、ゲオルグが求めて止まないアイデクセ帝国軍の無線電波は、ノイズの一欠片さえも掠めなかった。
 墜落した際には解らなかったが、これでようやく地理が把握出来た。アリスを抱き上げて最上階の寝室まで運ばされた時は 肉体的にうんざりしたが、まるで無駄ではなかったようだ。寝室のベランダからは都市が一望出来、衛星に反射した恒星光に包まれた 街並みは死んでいた。高さの異なるビルが隙間なく詰め込まれ、整然と建っている。住宅街というものはなく、交通機関は寸断されていて、 駅はあるが線路は繋がっていない。道路もある程度までは伸びているが、街の外に出た途端に途切れている。形は都市だが、都市としての 機能は全くない。電波塔のように見えるタワーも、送信装置もなければ受信装置も備え付けられていなかった。だから、この都市の中で まともに生活出来るのは、この城だけなのだろう。電力の供給源は見当も付かないが、城の窓は夜が更けても光を放ち続けている。 アリスを生かすためだけに、この城だけが生きているのだ。

「おい」

 突然、ゲオルグの目の前にエーディが現れた。

「なんだ」

 ゲオルグがプラズマライフルを構えると、羽ばたきを弱めたエーディはすとんと手すりに下りた。

「だから、いい加減にそんなものは捨てちまえ。戦う相手なんて、どこにもいやしねぇんだからよ」

「俺は兵士だ。戦闘中だ」

「お前、ここ、おかしいんじゃねぇの?」

 翼を折り畳んだエーディは手すりに座ると、前足で自分の頭を小突いた。

「俺は事故で脳を損傷した。よって、その表現は妥当だ」

「そのついでに、機械みたいになっちまったってか?」

「その通りだ」

「おいおい…。なんでこんなのが王子様なんだよ、趣味の悪ぃお姫様だぜ」

 エーディは首を横に振ってから、瞳孔が丸く広がった目を上げた。

「それで、お前はお姫様のことをどう思うよ?」

「どうも思わない。ただの二足歩行型脊椎動物の幼生体だ」

「間違っちゃいねぇが、お前自身の感想を聞いているんだよ、感想をだな」

「感想はない。今、優先すべきはこの事態を打開することだ」

「打開して、どうするんだよ?」

 エーディは首を伸ばし、ゲオルグを覗き込んできた。ゲオルグは、紅茶色の毛並みの異星体を見下ろした。

「前線に戻り、戦闘に参加する」

「その戦闘ってのは、どこでやってるんだ? 宇宙か、お前の母星か、それとも攻め入った先の星か?」

「戦闘宙域は母星より二光年、惑星クーより三光年の地点だ。正確な位置を割り出すための情報が不足している」

「ん…」

 エーディは首を戻して背を丸めると、後ろ足でかっかっと耳を引っ掻いた。

「そいつぁ引っ掛かるな。惑星クーとアイデクセ帝国は、もう五十年も前に停戦して友好関係を保っているぞ?」

「それは有り得ない」

「じゃ、お前の星の暦で、今は何年何月何日なんだ?」

「帝歴三○五○年、十三月五日」

「…あ?」

 エーディは丸い目を更に丸くし、逆三角形の鼻をひくつかせた。

「なんだそりゃ? とうとう時空までねじ曲げやがったのか、あのお姫様は」

「発言の意味が解らない」

「俺だってお前の言っていることが解らねぇよ。何がどうなってやがるんだ、本当に」

 エーディは、レースカーテンと窓越しにベッドの上のアリスを見やった。

「お前の言うところの帝歴を俺の星の暦と換算すると、統一歴二五○一年になるんだ。俺が惑星探査員として惑星イリシュを 旅立ったのは統一歴二六○○年だから、俺の星の暦で百年、お前の星の暦で五十年はずれてやがる。だが、俺はお前の戦闘機が 街に突っ込んでくるところを見た。お姫様に言われて、お前を出迎えに行ったからだ」

「ならば、お前は百年も前からこの星にいるのか?」

「そんなわけがあるか。俺もこの星に引っ張られてからは色々考えて、計算もしてみた。まずは自転周期、公転周期で暦を割り出して、 一日の時間と季節の変動も調べられるだけ調べたし、見える星の位置からこの星の位置も割り出そうともした。毎日毎日時間を計って 日付を付けたが、まだカレンダーは出来ちゃいない。なぜなら、俺はこの星に来てからは一年も経っていないからだ」

「だが、お前は今、百年が経過していると発言した」

「お前の言うことが正しければ、だよ。お前の認識している事実も、どこまでが真実なのかすら怪しいな」

「俺は時間経過を誤認するほど認識能力は低くない」

「俺だってそうだ。これでも博士号やら何やら取った頭だ、少なくともお前よりは数字の扱いに長けてる」

「ならば、なぜ計算と事実が食い違う」

「この星じゃ、妄想と現実の区別が付かなくなっちまってるんだよ」

「俺が認識している現状は嘘だとは思えない」

「俺も思えねぇけど、現実味は欠片もない。見ての通り、この星はお姫様が支配してやがるからな」

 見てみろ、とエーディが夜空を仰いだのでゲオルグは周囲に注意を払ってから目線を上げると、薄い羽の生えた奇妙な生物が 夜空に光の粒子を振りまきながら飛んでいた。奇妙な生物はアリスに似た外見だったが、節足動物を思わせる羽を生やして 薄布を身に纏い、鈴を転がすような声色で笑い合っている。無数の妖精が星々の広がる夜空を渡ると、衛星に反射した恒星光が 屈折し、淡いグラデーションの虹が浮かび上がった。

「ありゃ、お姫様の夢だ」

 エーディは吐き気を堪えるように牙を剥き、アリスを睨め付けた。

「毎晩毎晩、あんなものを見せられてみろ。こっちまで気が狂いそうになる」

「ならば、アリスを破壊しろ。異常現象の根源が解っているのなら、それが最も有効な手段だ」

「それが出来たら誰も苦労しねぇよ。俺だって馬鹿じゃない、何度か試してみたさ。だが、その度に俺は死んで、また生き返って、 死んで、でもってまた生き返る。そんなことが続いたんじゃ、殺すこと自体を諦めざるを得なくなる」

「俺には理解出来ない」

「説明されて理解出来なかったら、やってみるのが一番だぜ。その御立派なプラズマライフルをただの筒にしちまわないためにも、 まずはアリスを撃ってみろ」

 お前が死ぬから、とエーディは嫌味ったらしく笑った後、小さな翼を広げてベランダから飛び降り、庭園のどこかに消えた。 ゲオルグはエーディの言葉を全面的に信じるつもりはなかったが、アリスを殺せば、自意識以外の意識で肉体が操作されることが なくなるのでは、と思考した。アリスのせいで、随分と時間を無駄にしてしまった。アリスを寝室に運んだ後も、本を読め、カードで一緒に遊べ、 寝かし付けろ、と細々と言い付けられ、全てに逆らえなかった。だが、アリスを殺せば解放される。運が良ければ、この都市の 交通機関や建造物から戦闘機を修理するための部品が調達出来るかもしれない。そう判断したゲオルグは、プラズマライフルの銃口を 無防備に眠っているアリスの頭部に据え、引き金に掛けた指を一息に押し込むと、銃身に内蔵された電磁ライフリングに従って 青白いプラズマ弾が発射され、ガラスを砕いて標的に向かった。着弾する、と思われた瞬間、アリスの目がいきなり見開かれた。 彼女の青い瞳に浮かんだ不愉快さと落胆をゲオルグが見取った刹那、プラズマ弾が跳ね返った。
 ゲオルグの主眼の義眼に飛び込んだプラズマ弾は、レンズを割り、人工網膜を一瞬で焼き切り、生身の脳を掻き乱しながら 副眼を押し出すようにして貫通した。機械の脳が帯電し、過電流で機能を失っていく感覚を味わいながらも、ゲオルグはプラズマライフルを 握り締めるが、持ち上げることすら出来なかった。酸性の血液がベランダに大量に飛び散り、石を焼け焦がしている。ゲオルグは 損傷した二つの脳の片隅で、これ以上ないほど強く確信した。
 エーディの言葉に嘘はなかった。





 


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