意外どころか、信じがたい展開だった。 実家の玄関に立ち尽くした大神は、年相応の表情で恥じらっている芽依子を見つめて口を閉じることを失念した。 マッハマンに対する思いを聞かされた時も充分驚いたが、今はその十倍以上もの驚きが大神を襲っていた。 だが、こんなことは今まで聞いたことはない。悪の秘密結社ジャールの中でも、そして他の悪の組織の間でも。 けれど、本人がそう言うのだから信じるしかない。大神は何を言うべきかしばらく迷ってから、無難に祝福した。 「おめでとう、芽依子さん」 「勿体のう御言葉にございます、若旦那様」 芽依子はスカートを広げて膝を曲げ、頬を淡く染めた顔を上げた。 「しかし、どうやって?」 玄関に立っていても仕方ないので、大神は実家のホールに入ると、芽依子はその後に従った。 「私めは大したことはしておりません。真っ向から思いを伝えただけにございます」 「しかし、マッハマンが芽依子さんとねぇ……」 控えめに照れる芽依子の姿に、自分までなんだか照れくさくなってきたので、大神は進行方向に向いた。 当事者ではないのでどんな経緯を経たのかは解らないが、音速戦士マッハマンと芽依子が付き合うことになった。 だが、相手は現役引退しているがヒーローであり、芽依子は半分は人間ではあるがれっきとした怪人なのである。 敵対することはあろうとも、男女の関係に至るとは考えづらい。むしろ、迫れば迫るほど遠のいてしまう関係だろう。 しかし、芽依子は真面目なので嘘は吐かないし、彼女らしからぬ緩みがちな顔を見ていれば本当なのだと解る。 「そういえば、姉さんは?」 大神が帰宅すれば、すぐに出迎えに来るはずだ。大神が辺りを見回すと、芽依子は表情を落ち着けた。 「弓子御嬢様でしたら、昨夜から居間におられます」 「夜から? ってことは、また……」 大神は居間に向き直り、幅広だが段の少ない階段を昇り、両開きのドアを細く開けて中の様子を窺った。 ソファーでは薄い毛布にくるまった弓子が深く眠っていたが、目尻から頬に掛けて涙の名残が幾筋も付いていた。 毛布の下から垂れた尻尾にも力はなく、耳も伏せられている。大神は音を立てないようにドアを閉めて、呟いた。 「刀一郎さん、何してんだよ」 「私めは御仕事だと聞いておりますが」 芽依子が答えると、大神は片耳を曲げた。 「刀一郎さんを疑いたくはないけど、でも、これはなぁ……」 近頃、弓子の夫の名護刀一郎の帰りが遅くなった。本人は仕事が忙しいと弓子や芽依子に説明している。 それが一度や二度で済むのであれば、大神も訝らなかった。だが、週に四日もその状態が続くのはおかしかった。 確かに名護の勤務する証券会社は立派なもので、悪の秘密結社ジャールなど足元にも及ばない一流の企業だ。 だから、残業が増えるのは仕方ないとは思うが、それまでの名護は残業を切り上げてまで弓子の元に帰ってきた。 結婚する前には、仕事よりも家庭を大事にしたい、と言って、残業だけでなく社員同士の付き合いも減らしていた。 その名護が、弓子を放っておくだろうか。芽依子や両親がいるので一人ではないが、弓子の一番は名護なのだ。 子供のように全身で愛情を示す弓子が可愛いと名護は何度となく言ったし、実弟の目から見ても微笑ましかった。 それらのことを知っているから、尚更訝ってしまう。だが、家族なのだから疑うのは良くない、とも思ってしまうのだ。 「弓子御嬢様は近頃体調も思わしくないようでございますので、刀一郎様には早々にお帰り頂きたいのですが」 芽依子が僅かに眉根を顰めると、大神はもう一方の耳も伏せた。 「ますます心配になるな。芽依子さんは姉さんを病院に連れて行ったのか?」 「いえ。私めはお連れしようとしたのでございますが、弓子御嬢様がどうしても嫌だと仰りまして」 「あんまり悪いようだったら、無理強いしてでもいいから連れて行けよな。何かあったら大変だ」 「仰せの通りに」 弓子は膝を曲げて一礼してから、段の少ない階段を下りた大神を追った。 「若旦那様、本日はいかなる御用でございましょうか」 「用、ってほどの用でもないんだけど、まあ……」 大神は弓子の眠りを妨げないために距離を取った後、無意識に尻尾を振りながら芽依子に振り向いた。 「明日、俺の部屋に野々宮さんが遊びに来てくれることになってさ、だから」 「掃除はいたしません」 「え?」 本題を言う前に切り捨てられ、大神は面食らった。芽依子はエプロンの前で両手を揃え、大神を見据える。 「前回、私めが若旦那様の御部屋を掃除いたしましたのは、私めが若旦那様とマッハマンのどちらを人生の伴侶に 選ぶか決めかねていたからでございます。ですが、先述のように私めはマッハマンと男と女として付き合うことになりました。 ですので、私めにとって若旦那様は愛すべき対象ではございますが、あくまでもそれは主に対する忠誠心にございます。 ですが、忠誠とは甘やかすことではございません」 「解ったよ、俺が甘かった。自分の部屋だもんな、自分でなんとかするべきだ。変なことを言って悪かった」 「いえ。それはそれとして、若旦那様」 「今度はなんだ」 「美花さんは十七歳にしては心身が幼いどころか、異性に対する幻想を東京ドーム十五杯分の量で抱いておりますので、 扱いは丁重になさるべきかと存じます」 「妙に具体的な量だなぁ」 大神は笑うに笑えず、中途半端に耳を上げた。芽依子の言うように、美花はふわふわしたところがある。 言動が落ち着いてない、という意味ではなく、物事の捉え方が浮ついて滑りがちな部分があり、勘違いしやすい。 だから、大神を過大評価している面がある。それはちょっとだけ嬉しいのだが、扱いづらいこともまた確かだ。すぐに照れて すぐに泣き、思い出される表情は困った顔が多い。だが、それがまた可愛い、と大神は思ってしまう。 「若旦那様」 芽依子はつつっと歩み寄り、大神の尻尾の毛を一つまみして引っ張った。 「物思いに耽るのでございましたら、せめて私めから離れておいで下さいませ。お顔が緩んでおられます」 「くおっ!」 小さいが鋭い刺激に驚いた大神が飛び退くと、芽依子は唇の前に人差し指を立てた。 「それと、お静かに」 「あ、ああ……」 尻尾を丸めた大神が曖昧に答えると、芽依子は仕事があると大神から離れ、掃除用具のある納戸に向かった。 ぴんと背筋が伸びた後ろ姿を目で追っていたが、大神は書斎に用事があったので二階に繋がる階段を上った。 マッハマンは芽依子の尻に敷かれる、と、妙な確信を得た。押しは強くないが、だからこそ何か末恐ろしい。 あの時押し倒されないで良かった、うっかりその気にならなくて本当に良かった、と大神はつくづく安堵した。 二階の左側にある客用寝室と鋭太の部屋の更に奥の部屋で、事務室として使われていた部屋を改装したものだ。 普段はドイツ文学の翻訳家である父親が使っているのだが、今日は出版社から呼び出されたので外出している。 両開きのドアの片方を開けると、書斎に相応しく壁一面に本が詰まっており、他の部屋より埃の匂いが強かった。 芽依子の掃除は行き届いているのだろうが、本が古いものばかりなので、自然と零れ出してしまう匂いなのだろう。 大神は本棚を見上げていたが、窓際に置かれた机に近付き、父親が愛用している椅子に腰掛けて深呼吸した。 ここしばらく、考えていたことがある。外から見れば大したことではないが、大神にとっては重要なことだ。中村了介を ナメクジ怪人ナクトシュネッケに改造する際、病院の待合室で言われた言葉が胸に引っ掛かっていた。アルバイトを 辞めずにいるのはジャールにいたくないからではないか、と。その時は、そんなことはない、と思ったが、そうではない とは言い切れなかった。外で働くことで、怪人以外の人生を歩んでみたかった。怪人として生まれたからには世界征服を 目指すべきだ、と信じる一方で心の片隅では懐疑的になっていたのだ。 悪の秘密結社ジャールは、世界征服など出来るわけがない。資金面でも物理的にも支配出来る力はない。 ずっと前から気付いていたことではあったが、気付いていないことにして、声高にそれを語る面々に同調していた。 同じ怪人なのに怪人である皆の信念をほんの少しでも嘲っている自分が嫌だから、会社に専念しなかったのだ。 しかし、世界征服したい気持ちは本物だ。全てを手に入れて人間と怪人の境界を潰すために、世界を欲している。 それもこれも美花のおかげだ。美花と出会い、初めての恋をしなければ、ここまでは真剣になれなかっただろう。 そこまで考えて、大神は美花が部屋に来るという事実を再認識し、椅子を倒しそうな勢いで立ち上がってしまった。 「俺の部屋、なんだ、よな?」 もしかしてもしかしちゃったりして、と考えてしまい、大神は途端に自己嫌悪に襲われた。 「中坊みたいなこと考えてんじゃねぇよ!」 だが、そう簡単には振り払えず、大神は机に突っ伏して悶えた。 「だっ、大体、あの安普請でナニをどうこう出来るわけない! 筒抜けどころの問題じゃない、ザルだザル警備!」 尻尾を膨らませ、息を荒げながら顔を起こした大神は、両の拳を固めた。 「そ、それに、だな、相手はあの野々宮さんなんだぞ? 芽依子さんほど過激じゃないんだ、万が一ってことはない。 だって万が一だぞ、万が一。一万分の一の確率だ。野々宮さんの場合なら、一万どころか一兆分の一の確率でしか そういうことは起こり得ない。いやでももし起こり得たら、ああ、うん、拒むっていう選択肢はないよなぁ。拒んだら、なんか、 こう、男としてだなぁ……」 次第に声色を下げながら大神が独り言を漏らしていると、荒い足音が近付いて書斎のドアが開け放たれた。 「うっせーんだよさっきから! 何ゴチャゴチャほざいてんだ馬鹿兄貴!」 罵声を上げたのは、毛並みがぼさぼさに乱れた寝起きの鋭太だった。 「それはどうでもいいだろ! というか、今何時だと思ってる! お前の出社時間は午後二時なんだぞ! 後一時間もないじゃないか!」 煩悩を誤魔化すために大神が言い返すと、鋭太はずかずかと歩み寄ってきた。 「十五分もありゃどうにでもなるんだよ! てか、総統がこんなところにいるんじゃねぇよ!」 「おっ、俺にも事情ってのがあってだな!」 「わざわざ書斎に籠もって野々宮のこと妄想すんのが事情なのかよ、馬鹿兄貴!」 「妄想なものか! あ、あれは、今後の展開に対する心構えというかなんというかであって!」 「それが妄想っつーんだよ! てか、いい加減に付き合えよ! マジウゼェし!」 「それが出来たら俺は全然全く完全に苦労なんてしないっ!」 大神は色々な感情がごちゃ混ぜになって、鋭太の肩を掴んで揺さぶった。と、その時、何かが廊下から飛来した。 避ける間もなく額に衝撃を受けた大神が仰け反ると、書斎の天井付近で灰色のコウモリがきいきいと飛び回った。 鋭太が振り返ると、ドアの隙間からは芽依子が二人を睨み付けていた。 「御二方、お静かになさいませ」 「う、うん……」 芽依子の気迫に負けて鋭太が頷くと姿勢を戻した大神も頷き、芽依子はコウモリを指に止めてドアを閉めた。 芽依子とその眷属のコウモリが去ると、兄弟は書斎に残されたが、下らない口論の続きはしなかった。 どちらからともなく、会社に行こう、と言い出し、寝起きの鋭太は頭部の体毛を掻きむしりながら書斎を出ていった。 大神も書斎から出たが、必要書類があったことを思い出して一旦中に戻り、古い金庫を開けて書類を取り出した。 それをファイルに挟んでからショルダーバッグに入れ、階段を下りて再度居間を窺ったが弓子の気配はなかった。 あれだけ騒いだにも関わらず、起きなかったらしい。余程の心労なのだ、と大神は姉に同情して実家を後にした。 自転車を走らせて住宅街から市街地に入り、歓楽街の端にある本社の入った雑居ビルの前で自転車を止めた。 狭くて薄暗い階段を上って、三階にある本社に入って挨拶したが、四天王の雰囲気がどことなく重苦しい。 「何かあったのか?」 机に荷物を置いてから大神が尋ねると、レピデュルスは僅かに躊躇った後に答えた。 「本日も例によってミラキュルンとの決闘を控えている若旦那にお伝えするべきか迷ったのですが、今後の戦いの ためにもお伝えするべきだと判断いたしました」 レピデュルスは立ち上がり、態度を改めた。 「報告いたします。本日の午前中に、三つの悪の組織が壊滅いたしました」 「セイントセイバーの仕業か」 大神が顔をしかめると、ファルコは首を横に振った。 「お察しの通りで。ひでぇもんでしたぜ。土曜日でごぜぇやすから、やられちまった組織はどこも怪人の数が少なくて 警戒が緩めだったんでさぁ。そこに上空から必殺技を一発喰らわせたようで、三つとも瓦礫の上に馬鹿みたいにでっけぇ 十字架が付いてやしたぜ」 「これなら、怪人狩りしててくれた方が余程平和ってもんだぜ」 パンツァーはキャタピラの腕でごりごりと顎を擦ると、アラーニャは左右の足先をそっと重ね合わせた。 「正義の味方にも悪の怪人にもぉ、暗黙の了解はあるのよねぇ。変身中は襲っちゃいけない、とかぁ、巨大化を阻止しちゃ いけない、とかぁ、ヒーローは先制攻撃を喰らわせちゃいけない、とかぁ。それなのに、セイントセイバーはそういうのを全部 無視しちゃってるのよぉ。お約束ってぇ、守ってくれなきゃ意味がないのにねぇん」 「若旦那。敵がミラキュルンであろうとセイントセイバーであろうと、若旦那の御命令さえあれば我らは戦います」 レピデュルスは、胸に手を当てて礼をした。大神は四天王を見渡し、腕を組んだ。 「解ってる。奴がうちに来ることがあったら、全力で迎え撃とう。その時は俺も戦う」 「承知いたしました」 レピデュルスは深々と頭を下げてから、姿勢を戻した。 「では、本日の決闘における補佐役ですが」 「その前に、ちょっといいかな」 大神が挙手すると、レピデュルスは了承した。 「何なりと申し上げ下さい」 「俺、バイト辞めることにしたよ。セイントセイバーのこともそうだけど、世界征服に専念したいんだ」 「では、社会勉強はもうよろしいのですね」 「あれは社会勉強と言うよりも、まあ、現実逃避というか……」 大神は苦笑したが、総統らしく見えるように表情を引き締めた。 「だが、これからはちゃんとする。今日こそはミラキュルンに勝利し、世界征服への第一歩を踏み出すのだ!」 大神は大きく腕を広げたが、軍服姿ではないので様にならず、自分でやっておきながら恥ずかしくなった。 居たたまれなくなった大神は足早に更衣室に入り、手早く軍服に着替えて暗黒総統ヴェアヴォルフに変身した。 ヴェアヴォルフに変わると少しだけ羞恥心が収まり、肩の振り方も歩幅も心なしか大きくなってそれらしくなった。 どうせなら変身した後に言えば良かった、と後悔してしまったが、既に手遅れなので大人しく自分の席に収まった。 そして、今日の決闘でミラキュルンと戦う、監視カメラ怪人のロックガーが到着したので作戦会議が開始された。 作戦会議が終わった頃にようやく鋭太が到着し、暗黒参謀ツヴァイヴォルフに着替えたが特に何もしなかった。 弟のやる気のなさが鼻に突いたヴェアヴォルフは、ツヴァイヴォルフを駅前広場に連れ出して決闘に同行させた。 だが、妙に浮かれるミラキュルンにロックガーは瞬殺され、いつものように決闘が終わり、いつものように帰った。 ツヴァイヴォルフと一緒に昏倒したロックガーを抱えたヴェアヴォルフは、つい明日のことを考えて手元が狂った。 おかげで本社に着く前にロックガーの頭を落としてしまい、頭部に入っているビデオテープが散乱してしまった。 ツヴァイヴォルフから昼間のことも含めてひどくなじられたが、美花のことが気になって半分も聞き取れなかった。 これでは、肝心な掃除も捗らないだろう。 09 9/13 |