純情戦士ミラキュルン




ペンは剣よりも強し! 先代暗黒総統ヴェアヴォルフ!



 大神斬彦は先代暗黒総統ヴェアヴォルフである。
 今日、久々にそれを自覚した。三年振りに袖を通した軍服は、そこかしこが突っ張っているような気がする。普段は ラフな服装ばかりだし、冬毛に生え替わっていたせいだろう、と自分に言い訳しながら、分厚い本を閉じた。これ また久々に能力を行使したので、軽い倦怠感がを覚えた。仕事とは違った意味で集中力を使うからだろう。だが、 心地良い疲労と高揚だ。軍帽を脱いで懐に収めたヴェアヴォルフ、もとい、斬彦はナイトメアに振り返った。

「これでいいかい、芽依子さん、じゃなかった、ナイトメア?」

「申し分のうございます、旦那様」

 コウモリ怪人ナイトメアは、メイド服を着ている時と同じ動作で礼をした。

「だとすれば、僕達の仕事はこれで終わりかな。ああ、やれやれ」

 斬彦が本を脇に抱えると、ナイトメアは顔を上げ、辺りを見回した。

「相変わらず凄まじいお力にございます、旦那様」

「そうかな」

 斬彦は謙遜と照れを混ぜた笑みを零し、キャップを付けた万年筆を胸ポケットに差した。

「僕のは見せかけが凄いだけであって、大したものじゃないけど……」

 数ヶ月振りに戦闘に使用した大神採石場には、悪の秘密結社ジャールに戦いを挑んだヒーロー達が倒れていた。 今頃は、長男の剣司、もとい、現暗黒総統ヴェアヴォルフも同じように全国各地から来た御当地ヒーロー達と激戦を 繰り広げていることだろう。カメリーがばらまいた噂のせいで挑戦状を送ってきたヒーローを倒す戦いもこれでやっと 一段落付く。残るは魔法少女まじかるチェリーだけだが、戦う相手が暗黒参謀ツヴァイヴォルフとナクトシュネッケでは 期待出来そうになかった。だが、ジャールには彼ら以外の戦力は残っていない。ナイトメアは表情を強張らせて、 不安を誤魔化した。斬彦は怪人の中でもかなり特殊な能力を有しているが、既に引退しているし、ドイツ文学の翻訳 という本業がある。だから、まじかるチェリーとの戦いは暗黒参謀ツヴァイヴォルフとナメクジ怪人ナクトシュネッケに 任せるしかない。不安なのはナイトメアだけではないが、怪人の割り振りを練らなかった幹部怪人達にも非はある。
 斬彦の能力はヒーロー体質に近い想像具現化能力の一種だが、紙と文字を媒体にしなければ具現化出来ない。 ヒーロー体質との違いはそれだけではなく、使用する文字も斬彦の想像力を掻き立てる文章でなければならない。 更に言えば、書き味の良い万年筆を使わなければ上手く具現化出来ないので、本来は後方支援に向いた能力だ。 だがしかし、その条件さえ整えてしまえば攻撃も防御も自由自在なので、実戦でこれほど頼りになる戦力はない。
 現に、地方出身ヒーロー達は、その力で具現化された神話の神と眷属に襲われ、身も心も打ちのめされていた。 今回、具現化したものはクトゥルフ神話に登場するクトゥルーであり、眷属の深きものどものインスマスだった。タコ のような頭部にイカのような触腕を無数に生やした顔、巨大なカギ爪のある手足にウロコに覆われた巨体。その背 にはコウモリに似た翼も生えていたが、ナイトメアは親近感など一切覚えなかった。怖かったからである。
 斬彦が手にしている本には斬彦が気に入っている文章がコピーされていて、それを元にしてメモ用紙に筆記する。 父親の故郷であり、若い頃から執心しているドイツ文学の影響で、文章具現化に用いる言語はドイツ語だ。恐怖の 源泉たる異界の神々を描いた物語はお気に入りで、機嫌良く筆記した結果、完璧なクトゥルーが出来た。クトゥルー が出来たことに更に機嫌を良くした斬彦はインスマスも大量に生み出し、ヒーロー達に襲わせた。だが、ヒーロー達 も正義の味方のプライドと意地で抵抗したため、ナイトメアは執筆を続ける斬彦の護衛に徹した。しかし、存在して いるだけで恐怖と狂気を振りまくクトゥルーに、ヒーロー達は次々に屈した。そして、二人は勝利を収めたが、斬彦が 執筆したメモ用紙が残っているためにクトゥルー達も現存していた。斬彦の能力の利点はメモ用紙が現存している 限り、具現化物体も現存することだが、時にそれが不便でもあった。実際、ナイトメアは、ヒーローが倒れても未だに 現存し続けるクトゥルーとインスマス達から際限なく恐怖を味わっていた。

「……旦那様」

 採石場よりも巨大な体積を誇るタコとイカの化け物から懸命に目を逸らし、ナイトメアは翼を縮めた。

「結構可愛いと思うけど」

 ねえ、と斬彦は笑いながらインスマスの一匹を捕まえるが、ナイトメアはぶわっと体毛を逆立てた。

「ひいぃっ!」

「顔が魚だってだけじゃない、怖いことなんてないよ」

 ほらほら、と斬彦はインスマスを抱えてナイトメアに近付けるが、ナイトメアは涙目になって後退った。

「おおおお戯れをっ!」

「君がそんなに取り乱すなんて珍しいね」

 斬彦はインスマスの一匹を離すと、ねばねばした体液で濡れた手をハンカチで拭った。

「旦那様が正気でおられることの方が不思議でございますっ……」

 戦闘中には保っていた緊張が途切れたせいで、ナイトメアは恐怖という恐怖をクトゥルー達から感じ取っていた。 怪人なのだから化け物じみた神に怯えることはない、と思おうとしても、神経が末端まで恐怖に逆立っている。血管 が隅々までざわめき、がちがちと鳴る牙を噛み締めながら、ナイトメアはクトゥルー達から距離を取ろうとした。が、 後退った先にはインスマスが歩き回っていて、ナイトメアは動くに動けなくなってその場で硬直してしまった。あまり にも恐ろしすぎて悲鳴すら出せず、喉が引きつっただけだった。半泣きで立ち尽くすナイトメアに、斬彦は苦笑した。

「ごめんよ、ちょっとやりすぎた」

 斬彦はマッチを一本取り出すと靴底で擦って火を灯し、滑らかなドイツ語が並ぶメモ用紙に火を付けて燃やした。 めらめらと赤い舌のような火がメモ用紙を舐め尽くし、一握の灰と化して散っていくと、クトゥルーらは消え失せた。 途端に辺りに充満していた生臭さも、重苦しい空気も、ナイトメアの神経を逆立てていた恐怖も掻き消えた。だが、 クトゥルーらと真正面から戦ったヒーロー達は回復が遅いらしく、地面に倒れたまま微動だにしなかった。
 
「はあ……」

 恐怖が抜けて安堵したナイトメアは、涙が滲んだ目元を拭った。

「さて、これで一件落着だね。事後処理は剣司に任せるとして、僕達は帰るとしよう。仕事が残っているんだ」

 斬彦はマッチの燃えさしを軍靴で踏み潰して火を消してから、採石場の傍に止めた自家用車に向かった。

「ナイトメア、君も一緒に帰ろう。僕を守るために戦ったから、結構ダメージを受けているはずだろう?」

「御心配には及びません、旦那様。然したる傷ではございませんので、自力で御屋敷に帰れます」

「嫁入り前なんだから、大事にしないとダメじゃないか」

 斬彦が手招きすると、ナイトメアは若干迷ったが、膝を曲げて礼をした。

「でしたら、旦那様の御言葉に甘えさせて頂きます」

 ナイトメアは斬彦に近付こうとしたが、先程の恐怖が完全に抜けきっていないらしく、石に蹴躓きそうになった。よく 見ると、薄灰色の体毛も落ち着いていないし、体重を支えている膝も小刻みに震えていて翼も閉じたままだ。白目が ほとんど見えない赤い瞳も潤んでいて、この状態で一人で帰してしまうのは、斬彦の良心が咎める。斬彦は彼女の ために後部座席のドアを開けようとしたが、ナイトメアは震える手で自力で開け、膝を揃えて座った。運転席のドアを 開けてシートに身を沈めた斬彦は長男に携帯電話で報告をした後、イグニッションキーを回した。
 高揚感が抜けきっていないことに気付き、自分が怪人だということもまた自覚した。




 それから一週間後。斬彦は、次男から事後報告を受けた。
 いつものように書斎で仕事をする斬彦の元に次男の鋭太が訪れ、年明けから始まった戦いの顛末を教えられた。 書斎に次男が来ること自体も珍しかったが、まともに兄の仕事を手伝って、その結果報告をすることも珍しかった。 だから、斬彦もおのずと気が入り、鋭太の語尾上がりの若者言葉で話される出来事に聞き入った。それによると、 鋭太も暗黒参謀ツヴァイヴォルフとして魔法少女まじかるチェリーと殴り合って戦ったのだそうだ。怪人ではあるが 怪人としての身体能力すら持たず、投げやりな生き方の鋭太にしてはかなり珍しい行動だった。だが、近頃の鋭太 はやけに勉強に身を入れるようになったので、それを考慮すれば別段おかしいことでもないだろう。次男は兄姉に 比べれば勤勉さに欠けるが、根は悪くないので、これを切っ掛けに素行が改善するかもしれない。そう思った斬彦 は、子供の頃と変わらず褒めてほしそうに尻尾を振る鋭太を、褒めすぎない程度に褒めてやった。すると、鋭太は 耳をぴんと立てて尻尾も立てたが、口では鬱陶しげなことを言ってから書斎を飛び出していった。

「相変わらずなんだから」

 次男のひねくれ加減に笑みを零しつつ、斬彦は机に広げた原稿と向き直った。

「またかい」

 万年筆のキャップに指を掛けたところでドアがノックされたので、返事をすると、妻が顔を出した。

「やあ、鞘香」

 斬彦が笑みを向けると、柴犬によく似た外見を持つイヌ獣人の妻、鞘香は紅茶と菓子を載せた盆を運んできた。 鞘香は今年で五十二歳になる。長身で手足が長く、着物を嗜むおかげで姿勢も良く、体形にも弛みはない。若い頃 に比べれば胸や尻には年相応の重みが加わっているが、それは程良く丸く、柔らかな曲線を描いていた。マズルの 長さは斬彦よりも短めだが、すっと伸びた鼻筋は知性を窺わせ、栗色の体毛と丸まった尻尾が魅力だ。人間で言う ところの髪のように長く伸ばした体毛は後頭部で丸く結われ、前髪の下の目元は涼やかで品がある。

「あなたのところに鋭太が来るなんて珍しいわね」

 鞘香は書斎に入ってくると、斬彦が向かう机に近付いてきた。

「ここ最近、ジャールがどたばたしていただろう? そのことの話だよ」

 斬彦は書き上がった原稿を束にしてスペースを空けてから、鞘香の盆を置かせた。

「でも、何もあなたが戦いに出ることはなかったんじゃなくて? 今は剣司がジャールを経営しているのよ」

 鞘香は斬彦の傍に立ち、オオカミのそれよりも毛並みが厚い耳を曲げた。

「手が足りなかったのさ。芽依子さんまで駆り出したんだから、余程のことだよ」

 斬彦は長いマズルの中程に引っ掛けていたメガネを外してから、熱い紅茶を啜った。

「それに、僕の戦いは父さんや剣司ほど荒っぽくないから、心配には及ばないよ」

「それならいいんだけど」

 斬彦の傍から離れた鞘香は、本棚に挟まれるように設置された応接セットのソファーに腰を下ろした。

「それにしても、去年は大変だったわね」

「そうだね。あの戦いは、剣司じゃなきゃ凌げない戦いだったね」

 紅茶に添えられたクランベリー入りマフィンを食べた斬彦は、充分味わってから妻に向いた。

「これ、君が作ったのかい? 芽依子さんのものだったら、バターがこんなに多くないから」

「悪い?」

「ううん。珍しいなって思って」

 斬彦は妻の手製のマフィンを味わいながら、照れ臭そうな鞘香の横顔を見やった。

「何か欲しい物でもあるのかい? でも、君も充分稼ぎがあるんだし、僕の許可なんかいらないんじゃない?」

「だったら、そんなことしないで勝手に買ってくるわよ」

「じゃあ、何?」

「来週、バレンタインデーがあるでしょ?」

「うん、そうだね。今年も何か作ってくれるのかい?」

「まあ、手慰みにね」

「それじゃ、余程欲しい物があるんだ」

「だから、まあ……。あるけど……」

 鞘香の元から丸まっている尻尾が揺らされ、ソファーの背もたれを柔らかく叩いた。

「刀一郎さんがベーゼリッターに変身して、精神攻撃系の必殺技を使って、御両親を脅し……じゃなくて、御両親を 説得してくれたでしょ? だから、今年はやっとお会い出来るかもしれないじゃない。そのために、訪問着を新調して おくべきかと思って」

「でも、着物なら沢山あるだろうに」

「あなただって、腐るほど本を買うじゃない」

「中身は全部違うよ」

「背表紙だけなら同じに見えるのよ。フランス語なら解るけど、ドイツ語はよく解らないし」

「それを言ったら、僕も君の選ぶ着物の違いが解らないなぁ」

 マフィンを食べ終えた斬彦は紅茶を傾けると、鞘香はつんと顔を背けた。

「そんなことを言うなら、御菓子を作ってあげないわよ」

「えぇ……」

 斬彦が耳を伏せて落胆を示すと、鞘香は立ち上がった。

「どうしても食べたいなら、芽依子さんに作ってもらいなさい。あの子の方が私より上手ですもの」

「そういう意味じゃないんだけど……」

 斬彦は鞘香を引き留めようとしたが、鞘香は振り返ることもなく、足早に書斎を後にした。

「参ったな」

 次第に遠のいていく妻の足音を聞き取った両耳を更に伏せ、斬彦は背もたれの高い椅子にずるりと沈み込んだ。 御嬢様育ちである鞘香は基本的に料理をしない。出来ないことはなく、むしろ上手いのだがやりたがらない。それは、 着付けの仕事に専念するためであると同時に、メイドである芽依子の仕事を奪わないためでもあった。だから、 鞘香が御菓子を作ってくれるのは本当に珍しいことで、イベントでもなければ有り得ない出来事だ。もちろん、斬彦 は嬉しくて仕方ない。バレンタインデーのプレゼントだって口には出せないが楽しみにしていた。それなのに、あんな ことを言われてしまっては大弱りだ。足の間で尻尾を振りつつ、斬彦は腹の上で手を組んだ。

「どうしたものかな」

 鞘香の機嫌を取るのは難しい。気位が高いから、下手に出すぎてはもっと怒られて口も聞いてくれなくなる。かと いって、攻めすぎても逃げられてしまう。正真正銘のイヌなのに、内面はネコのような難しい女性だ。それが鞘香 の魅力ではあるが、正直厄介だ。だが、愛妻の御菓子をどうしても食べたい心境になっていた。
 近頃、弓子も剣司も鋭太も楽しそうだ。弓子は妊娠したおかげで名護との仲が温まり、幸せの極致にある。剣司 は敵対相手であり初めての恋人である野々宮美花との交際が順調らしく、四天王からそんな話を良く聞く。末っ子 の鋭太も勉強に精を出しているだけでなく、図書館で仲良くなった未来の後輩と親しくしているようだった。
 そんな子供達が、なんだか羨ましい。そう思ったら、大神家の中で斬彦だけが取り残されたような気分になった。 そして、自分も妻と親しくしたいと思ってしまう。けれど、歳が歳なのでそれを言うのはたまらなく恥ずかしい。だから、 バレンタインデーは滅多にない良い機会だ。それを逃してしまえば、妻に近付く機会を失ってしまうだろう。自分 にも他人にも厳しい性格の妻はあまり甘えさせてくれず、斬彦はそんな妻に甘える勇気すら持っていない。けれど、 どうしても妻の作る御菓子を食べたい。斬彦は変な唸りを漏らしながら長らく悩んでいたが、意を決した。
 妻と仲直りしよう。







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