純情戦士ミラキュルン




素晴らしき未来への門出! 正義と悪のウェディング!



 やるせなさは、空虚さに変わった。
 複眼の奥に生じた痛みと胸中の違和感は薄らぐどころか重みを増し、レピデュルスの全神経を痛め付けていた。 戦闘で感じる苦痛とは正反対の感覚だったが、良いものではなかった。気を逸らしても、またすぐに蘇った。
 芽依子は去ったわけではない、と自分の言葉で亜矢に言い聞かせた。物理的にも、精神的にも、それは事実だ。 大神家のメイドを退職して悪の秘密結社ジャールを離れても、芽依子の皆に対する思いは変わらない。大人の女性 となった芽依子が、同じ人生を歩むことを望んだ相手、速人の妻として生きるようになっただけだ。誰しもに訪れる 変化であり、誰もが乗り越えてきた変化であり、レピデュルスの周囲では頻繁に起きていたことだ。地球創成期も、 ヴォルフガング家に仕えていた時も、大神家に仕えるようになってもそうだった。だから、そんなことには慣れ切って いるはずだ。それなのに、胸郭の奥底から広がる重みが振り払えなかった。
 週が明けて月曜日になり、レピデュルスはいつものようにジャール本社へと出勤したが、いつもと違うことをした。 芽依子の代わりとなる新しい使用人の目星が付くまでの間、レピデュルスが大神家で働くことになった。当然、その 間はジャールで総務の仕事が出来なくなるため、先週末までの仕事の整理と引き継ぎを行っていた。引き継ぎ相手 は名護で、彼はこれまでも総務の仕事を手伝ってくれていて要領も解っているので問題はない。書類整理のついで にデスク回りも整理したが、元から几帳面な性分なので、思っていたよりも荒れていなかった。

「いいわねぇん、ハワイで五日間の新婚旅行……」

 収支報告書を作っていたアラーニャが足を止め、ほうっとため息を零した。

「全くでさぁ。今頃はどうしてやすかねぇ、新婚のお二方は」

 ファルコが羨むと、パンツァーがぎしぎしと肩を揺すった。

「そりゃあよろしくやってるだろうぜ、誰の邪魔も入らねぇんだから」

「あぁん、いいよねぇ。南の島って、それだけでなんかこう素敵だもの」

 思い出しちゃうわあの亜熱帯、とカメリーが体色を変化させながら身悶えると、名護が顔をしかめた。

「変なことまで思い出さないでくれる?」

「でも、やけに安直な行き先だよな。あの二人らしくない気がするけど」

 大神、もとい、ヴェアヴォルフが自分のデスクで書類を捌きながら呟くと、名護が向いた。

「だからこそじゃないのかな。あの二人は徹底して普通らしさを求めているから、新婚旅行もオーソドックスさを重視した んでしょ。僕からしてみれば、充分二人らしい選択だよ」

「そういう名護さんはどこだったのよ、弓子さんとの新婚旅行?」

 ひとしきり悶えてから本来の体色に戻ったカメリーが問うと、名護は答えた。

「フランスに十日間だったよ。僕はフランス語はさっぱり出来ないけど、弓ちゃんはああ見えても出来るから」

「ほんっと、いいわねぇん」

 悩ましげに身をくねらせるアラーニャに、パンツァーはおずおずと単眼を向けた。

「やっぱり、その、お前さんもそういうのがいいのか?」

「そりゃあ、生きている間に一度は余所の国に行ってみたいって思うわぁ。でも、無理してまで行きたいとは思わない わねぇん。一緒に行く相手が問題なのよぉ、相手がぁ」

 うふふふふふ、とアラーニャは恥じらい混じりの笑みを零したので、ヴェアヴォルフがにやけた。

「二人とも、今年の分の有休はまだまだあるからな」

「ばっ、馬鹿言っちゃいけねぇや、このクソ忙しい時期に」

 パンツァーは椅子を回してアラーニャに背を向け、自分の仕事を再開した。

「そういう若旦那はぁ、美花ちゃんとどこに行きたいのかしらぁ?」

 アラーニャが八つの目を上向けてヴェアヴォルフに聞き返すと、ヴェアヴォルフは尖った耳を引っ掻いた。

「そりゃ、まぁ、その時に話し合って決めるよ」

「それがよろしゅうごぜぇやす、若旦那。まあ、俺には縁のねぇ話ですがねぇ」

 外回り先で使う書類をカバンに入れながらファルコがぼやくと、カメリーが丸まった尻尾を振った。

「解らないよん。兄貴はまだお若いんだし、いずれ出会いがあるんじゃなくて?」

「そうよぉ、ファルちゃあん。うっかり焦ったりしてぇ、変なの引っ掛かっちゃダメよぉ」

 アラーニャが足先を振ってみせると、ファルコは首を竦めた。

「それぐれぇ解ってまさぁ。俺だってろくな人生歩んじゃいねぇんだ、それぐらいは見極められるってぇの」

「どうした、レピデュルス?」

 ヴェアヴォルフは雑談にも混じらずに黙々と書類整理を続けるレピデュルスを見やり、訝った。

「若旦那のお気を割かれるほどのことではございません。ですので、どうぞ御安心を」

 端を揃えた書類の束を名護に渡してから、レピデュルスはヴェアヴォルフに返した。

「芽依子さんがいなくなって一番寂しいくせに、無理するな」

 ヴェアヴォルフは椅子を引いて立ち上がり、レピデュルスに近付いた。

「御心配されるほどのことではございません。膨大な時間を長らえてきた私めには、慣れたものでございます」

 レピデュルスはヴェアヴォルフと向かい合い、平坦に答えた。

「どこがだよ」

 ヴェアヴォルフは呆れた素振りで腕を組み、片耳を曲げた。

「芽依子さんが速人君と結婚するって報告してきてから、ずっと変じゃないか」

「いえ、そのようなことは」

「指摘しなかっただけだ。そういうことを言ったって、認めるような性格じゃないことぐらい、とっくに知っている。それに、 芽依子さんに余計な気を遣わせないためでもあったからな。レピデュルスが寂しがる、なんて言ったら、あの人 のことだ、速人君との結婚を渋るか迷うかしちゃうだろう。そうなっちまったら、これまでの色々が台無しになっちまう と思ってな。芽依子さんは気を遣いすぎなんだよ、それが長所なんだけど」

「そうなのですか?」

「そうだよ。結婚する前に、芽依子さんが一度俺に相談しに来たぐらいだよ」

 ヴェアヴォルフは軍服の下から伸びる尻尾を立て、腰に両手を当てた。

「レピデュルスの仕事を増やしてしまうからメイドを辞めない方がいいんじゃないか、世界征服に専念出来なくなる から結婚もしない方がいいんじゃないか、新居にも移らない方がいいんじゃないか、とか、まあとにかく色々とな。俺は 芽依子さん自身の幸せを優先した方が良いって言ったし、その通りになったけど、これじゃ速人君が可哀想だ」

「それは何故にございますか?」

「なぜってそりゃ、説明した方がいいかな?」

 ヴェアヴォルフが社員達を見回すと、カメリーが長い舌をべろんと伸ばした。

「しない方がいいんじゃないの?」

「そうねぇ、それがいいわぁ。そういうことはぁ、御自分で理解して頂かなきゃあ」

 アラーニャが頷くと、パンツァーは排気筒から黒煙を噴いた。

「仕事やら何やらは要領良いくせに、肝心なところはダメたぁなぁ」

「それはそれ、これはこれってやつだよ」

 引き継いだ仕事の確認をしながら名護が笑うと、ドアを開けかけたファルコが振り返った。

「こればっかりは、外野がごちゃごちゃ言うもんじゃありやせんからねぇ。そいじゃ、行ってきやす」

「ああ、行ってらっしゃい」

 ヴェアヴォルフはファルコを見送り、アラーニャから必要書類を受け取って自分のデスクに戻っていった。程なくして パンツァーも外回りの仕事に出掛け、カメリーも業界誌で連載中の記事を書くための取材に行った。名護はそれ まで行っていた事務と平行して総務の仕事も行って、アラーニャは収支報告書の作成を続けた。ヴェアヴォルフは これまでミラキュルンとの決闘を行った怪人からの報告書を読み直しては、難しい顔をしていた。レピデュルスは総務 の名の下に集まった雑多な仕事の整理を続けつつ、ヴェアヴォルフの言葉の意味を考えた。どうすれば良かった のか、一体何が良くなかったのか、手が止まるほど深く考え込んだが答えは出てこなかった。
 芽依子から慕われていることは、とても嬉しい。心配されるほど思われていたと知ると、その嬉しさは増してくる。 そのままでいても、なんら問題はないではないか。それどころか、芽依子の心根の優しさが感じられる良いことだ。 そこまで考えた時、レピデュルスは書類を取り落とした。一角を崩された砂山のように、緩やかに解けた。

「ああ、そうか……」

 胸郭の内側だけで消えるほどの声量で漏らしてから、レピデュルスは自分の愚かさに恥じ入って首を横に振った。 気付こうと思えばいつでも気付けたことだが、それを気付こうとしなかったのは芽依子に甘えていたからだ。むしろ、 気付かないまま、目を逸らしていたかった。春の柔らかな海水のような気持ちに身を浸していたかった。変わらない ものもなく、変えられないものもない。レピデュルス自身も、変わらないようでいて変わっていたのだ。
 昔の自分では、こんな気持ちは抱かなかっただろう。




 新婚旅行から戻った二人は、大神邸を訪問した。
 速人に連れ添って歩く芽依子は、それまでとは明らかに違っていた。服装もだが、面差しには自信が満ちていた。 それまでの芽依子であれば打ち消していた表情も、言葉も、態度も、速人がいるから表に曝け出せるようだった。 玄関先で二人を出迎えたレピデュルスは、リビングに案内するまでのほんの僅かの間にそれらを感じ取っていた。 リビングに入った速人と芽依子が鞘香と弓子に挨拶すると、二人は喜んで新婚夫婦を出迎え、座るように促した。 レピデュルスは一礼してから、キッチンで二人のために紅茶を淹れ、菓子を添えてからリビングに戻った。

「やっぱりいいなぁ、海外旅行ー。あー、またフランスでもどこでも行きたぁい」

 テーブル一杯にハワイ旅行のお土産を広げながら弓子が羨むと、鞘香が笑った。

「行ける時が来たら行けばいいわよ。誰も止めやしないんだから」

「写真が出来上がったら、またお見せしに来ますので」

 芽依子が言うと、弓子はすぐさま身を乗り出した。

「うん、見る見る! 待ってるから!」

「どうもありがとうございます」

 レピデュルスが紅茶とチェリーケーキを出すと、速人が会釈したので、レピデュルスは盆を下げた。

「こちらこそ、ありがとうございます。お二人の大切な思い出を分けて頂いているのですから」

「いえ、そんな……」

 芽依子は謙遜し、照れた。初夏らしいブルーの七分袖のブラウスから伸びている腕は、うっすら日に焼けていた。 以前は仕事の邪魔にならないようにとショートカットにしていた髪も、ウェディングドレスを着るために伸ばした長さを 保っていた。怪人体のみならず人間体でも感じられた目付きの鋭さも和らぎ、心中の穏やかさが滲んでいた。

「少し、よろしいでしょうか」

 レピデュルスが鞘香と弓子に断ると、二人は快諾した。

「ええ、よくってよ。さあ、あなたも座りなさい、レピデュルス」

「ほらほら、こっち」

 弓子は体をずらして場所を空けると、レピデュルスの腕を引いて座らせ、芽依子と向き直らせた。

「よく来てくれた、芽依子」

「はい。以前と変わらずに扱って頂いて、誠に嬉しゅうございます」

 芽依子はメイドの顔に戻って一礼したので、レピデュルスはそれを制した。

「もう良いのだ、芽依子。君の仕事は全て私が引き継いでいるのだから、君はメイドではなく、大神家の大切な来客 なのだ。だから、来客らしく振る舞えば良い」

「ですが、私は」

「今の君は大神家の使用人ではなく、速人君の妻、野々宮芽依子なのだよ。だが、私はそれを受け入れるまで少々 時間が掛かってしまったようでな。私の中では、あの日の夜に出会った十六歳の芽依子で止まっていたようなのだ。 もちろん、その日から先の芽依子も芽依子だと認識しているし、君が立派に成長する様を見るのは誇らしかったが、 私は無意識のうちに、心の内に芽依子の形をした化石を造り出そうとしていたようなのだ」

 黒く滑らかな複眼の端が、芽依子が膝の上できつく手を組むのを捉えた。

「披露宴で言ったように、私は芽依子を心から愛している。それは親愛の情であり、親子の情にも近い。だが、時が 過ぎれば芽依子も変わる。石と化して時を長らえてきたためか、心の片隅で芽依子の変化を畏怖していたようだ。 だから、私は芽依子と速人君の結婚を喜ぶ気持ちはありながらも、心からの祝福は出来ずにいた」

「え……」

 レピデュルスが吐露した真意に、芽依子は戸惑いとも悲しみとも付かない顔をした。

「私ばかりか、大神家の皆様が慈しんで愛してくれた娘が結婚することを祝ってやるどころか、速人君に渡してしまう のを惜しんでしまった。それを愛だと言ってくれるな。親の真似事をしていたばかりか、自らの力で成長した娘を育て 上げたつもりでいる、愚かな男の見苦しいエゴでしかないのだから」

「そんなことは」

 腰を浮かせかけた芽依子に、レピデュルスは首を横に振った。

「私が気に掛けすぎているから、芽依子も私に気に掛けてしまうのだ。そんなに単純なことに気付けぬとは、四天王の 名が泣いてしまうな。芽依子が思い、慕い、敬うべきは速人君なのだ。私のことを忘れろとは言わぬ、だが、距離 を置こう。私の内で出来上がりつつあった芽依子の化石が解け、新たな芽依子を形作るためにも」

「そんな、寂しいこと、言わないで下さい……」

 脱力するようにソファーに座り直した芽依子は、目を潤ませた。

「寂しいことなどない。君の傍には、速人君がいるではないか」

 レピデュルスはソファーから立ち上がり、盆を手にした。

「一つ、言い忘れていたことがある」

「はい」

 芽依子が声を詰まらせながら返事をすると、レピデュルスは芽依子を見下ろした。

「結婚、おめでとう」

 複眼の奥の痛みが一際増したレピデュルスは、挨拶もそこそこにリビングから出たが、キッチンに戻れなかった。 隠れる場所を見つけてしまえば、痛みを声にしてしまう。太い針で神経を抉られ、刺されるような感覚だった。裏口 に繋がる廊下に立ち尽くしたレピデュルスは、複眼を押さえ、ぎちぎちと腹部の口も噛み合わせて軋ませた。甲殻類 故に涙腺もなく、涙が出ないことなど解っている。それなのに、今にも目元から体液が出てきてしまいそうだ。言葉に すらならない呻きを胸郭から細切れに零したレピデュルスは、堪えきれなくなり、ずるりと床に座り込んだ。
 涙が出ないことは途方もない苦痛だ。安易に流せる体液がないというだけなのに、胸の重苦しさは発散されない。 格好悪くならない分、それ以上に情けない。腹部に並ぶ小さな吸排気口を幾度も動かすが、痛みは紛れない。痛み の根本は喪失であり、渇望だった。突き放した途端に芽依子を求めてしまうこともまた、情けない。胸と言わず体中 で暴れる感情を吐き出す術を持たないレピデュルスは、かつて芽依子に破壊された左腕を握り締めた。それでも、 ヴォルフガングの墓前での戦いで出来なかったことを成し、芽依子の結婚を心から祝ってやれたのだ。嵐のような 感情の奔流の中でもそれだけが清々しく、唯一の救いのように思えたが、解決になるわけではない。

「レピデュルスさん」

 頭上から声を掛けられたレピデュルスが複眼を上げると、速人が立っていた。

「すまん」

 何を言ったものかと迷った末にレピデュルスが謝ると、速人はレピデュルスを見下ろしてきた。

「俺のことがそんなに気に食わないんでしたら、殴ってもらっても構いませんけど」

「それは出来ん。芽依子が悲しんでしまう」

「だけど、このままじゃ俺もすっきりしませんから。それに、こっちなら」

 手のひらに拳を叩き付けた瞬間、速人はマッハマンに変身していた。

「ヒーローと怪人なんですから、何の問題もないでしょう?」

「だが……」

 それでも、何も。レピデュルスが渋ると、速人、もとい、マッハマンは M を横長にした赤いゴーグルを陰らせた。

「芽依子を守るのはこの俺だ、あなたじゃない。それを思い知らせてやりますよ」

「ならば、私も全力を出そう。我が娘を守るに相応しい力の主か、今一度、確かめてやろうではないか」

 この淀みも、感情の奔流も、拳に交えてぶつけよう。レピデュルスは立ち上がり、拳を固めた。

「ジャールが四天王の一人、甲殻のレピデュルスを舐めてもらっては困る」

「ああ、欠片も侮るつもりはない!」

 マッハマンが裏庭に身を躍らせると、レピデュルスが続く。音速戦士に相応しく、一瞬で屋敷の上空に出ていた。 レピデュルスはレイピアを使うべきか否かを頭の片隅で考えたが、長物が通じるような相手ではないと思い直した。 美しく整えられた裏庭の木々を乱さぬように駆け抜けたレピデュルスは、壁に足を掛け、屋根まで駆け上がった。

「芽依子、芽依子、芽依子、ってよぉっ!」

 背部のブースターを作動させて飛び出したマッハマンは、屋根の上のレピデュルスにラリアットを喰らわせた。

「これが妬かずにいられるかぁあああっ!」

 首と肩を薙ぎ払われたレピデュルスは空中に投げ飛ばされたが、転身し、蹴りに態勢を変えた。

「ヒーローたる者が、なんと子供染みたことを!」

 急降下したレピデュルスはマッハマンの頭を狙い澄ますと、真っ直ぐに伸ばした足をバトルマスクに直撃させた。 その衝撃でマッハマンは仰け反りかけたがすぐ姿勢を戻し、応戦するべくレピデュルスに飛び掛かってきた。素早く 繰り出される拳を捌きながらマッハマンの隙を探すが、さすがにヒーローだけあって攻防は的確だ。だが、完璧では ない。レピデュルスは石化させた右腕でマッハマンの拳を敢えて浴び、攻撃の衝撃をもろに返した。拳を通じて骨に 至った痺れで一瞬マッハマンが身動いだ間を見逃さず、レピデュルスは石化させた拳を放った。

「君はそれでも芽依子の夫かぁっ!」

 石化能力で最大限に硬化させた拳がバトルマスクにめり込むと、マッハマンは足元が揺らいだ。

「ぐっ……」

 だが、屋根から落ちずに踏み止まった。マッハマンは強烈な打撃の余韻が残る頭を振るってから、反撃に転じた。 流れるような動作で踏み込んできたマッハマンは、上体を捻って足を振り回し、レピデュルスに叩き付けた。右肩と 腕に受けた打撃を受け流せなかったレピデュルスは屋根の上を転げたが、膝を擦り付け、端で止まった。が、すぐ さま追撃が訪れた。瞬時に間合いを詰めたマッハマンは、レピデュルスの顎を下から拳で突き上げた。

「この際だから、言っておくが!」

 強烈なアッパーを浴びて宙に高く舞ったレピデュルスを追い、マッハマンは上昇する。

「俺は最初っから面白くなかった! 芽依子が俺に惚れてるって解っていても、最後の最後であんたが出てくる からだぁああああああっ!」

 落下しかけたレピデュルスを回し蹴りで叩き上げてから、マッハマンは更に追う。

「婚約した時も! 結婚式の時も! 新居を探した時も! 新婚旅行の時も! でもって今日も!」

 俯せに吹き飛ばされたレピデュルスの腹部を掴んだマッハマンは、ブースターを噴いて制動を掛けた。

「芽依子が考えていたのは、いつだってあんたのことなんだぁあああああああっ!」

 大きく振りかぶったマッハマンは、レピデュルスを地上へと投げ付けた。

「おっ……!」

 このままでは裏庭に直撃する。レピデュルスは身を捻って受け身の姿勢を取ろうとするが、落下速度が早すぎて 間に合わない。屋根が過ぎ、二階の窓が過ぎ、裏庭の整えられた庭木が迫った瞬間、レピデュルスの背中が何者 かに受け止められた。それは、薄灰色の体毛に覆われた華奢な腕だった。同時に背後で空気が柔らかく叩かれ、 恐るべき落下速度が相殺された。

「何をしているんですか、あなたは!」

 芽依子、もとい、ナイトメアは受け止めたレピデュルスを地上に降ろしてから、夫に叫んだ。

「何って……」

 急に勢いを失ったマッハマンが屋根に下りると、ナイトメアはレピデュルスを背で庇った。

「何もだってもないでしょう! 今日は新婚旅行の話をしに来ただけなのに、どうしてレピデュルスさんと戦っている んですか! しかも鷹男さんみたいなやり方と理由で! レピデュルスさんの何が不満なんですか!」

「あー、だから、そういうのだよ!」

 屋根から飛び降りて新妻の前に着地したマッハマンは、苛立った口調で捲し立てた。

「不満じゃない、不満に思う要素がない、だから余計に気になるんだよ!」

「仲違いする理由もなければ、必要もないでしょう! いいから、さっさと変身解除して下さい!」

 ナイトメアがマッハマンに詰め寄ると、マッハマンもナイトメアに詰め寄った。

「してたまるか! 今の俺はすっげぇ格好悪いんだぞ、変身解除したらもっと格好悪くなっちまう!」

「ヒーローが細かいことをごちゃごちゃ気にしている方が余程格好悪いです!」

 負けじとナイトメアが言い返すが、マッハマンも譲らない。

「そりゃお互い様だろうが! 何かってーとこの人のことしか気にしないんだからなぁ、お前は!」

「大事にして下さった方に気を配らないのは申し訳ないからです! 当たり前のことじゃないですか!」

「んじゃ何か、俺がミラキュルンに細々構っていたのが面白くないって言ったのはどこの誰だ、なあナイトメア!」

「そっ、それはそれでしょう! 私とレピデュルスさんの間柄は、マッハマンとミラキュルンのとは違いますから!」

「似たようなものだろ! 昔のことを思い出すだけならまだいいが、勝手に不機嫌になって拗ねたのはどこの誰だ!  忘れたとは言わせないからな!」

「マッハマンこそ、私が若旦那様の御部屋に上がらせて頂いた時の話をした後に随分怒ったじゃないですか!」

「内容がアレじゃ当たり前の反応だろ! いくら未遂でも、ありゃないだろ!」

「だから、あれは作戦だったって言ったでしょう! マッハマンがそんなに嫉妬深いだなんて知りませんでした!」

「俺だって、お前がミラキュルンにまで妬くほど独占欲が強いとは思わなかったよ!」

「妻が夫を独占して何が悪いんですか!」

「じゃあ俺も言わせてもらうが、自分の嫁に近すぎる男に妬いて何が悪いんだ!」

「男って、レピデュルスさんはそういう方じゃありません! 無性ですし!」

「無性だろうが両性具有だろうが、人格が男なら男だ! 大体、結婚したんだから優先順位が変わったはずだ!」

「だったら、マッハマンも変わったはずですよ! どうして私もそうだって思ってくれないんですか!」

 ナイトメアは張り上げていた声を若干上擦らせ、牙の生えた口元を歪めた。

「確かにレピデュルスさんは大事ですよ! 大神家の皆様と同じように大事です! でも、今の私にとっての一番は マッハマン、速人さんなんです! だから、こうやって結婚したんじゃないですか! レピデュルスさんのことが気に なって仕方なかったのは、マッハマンと一緒になることを納得されていないんじゃないかって、ずっと不安だったから なんですよ! そうしたら、やっぱりこうなったじゃないですか!」

「俺は……ただ……」

 面白くなかったからで、とマッハマンが小さく呟くと、ナイトメアは俯いて翼を下げた。

「それだけの理由で、戦うことになってしまうんですか?」

「なるのだよ、ナイトメア」

 立ち上がったレピデュルスは、外骨格に付いたマッハマンのブーツ跡や砂埃を払った。

「すまなかったな。私が確かな態度を取らずにいたから、ナイトメアまでもが心を痛めてしまった。だが、君がマッハ マンと結婚することに、心の底では納得していなかったのだ。ナイトメアがそう望むのならと、当たり障りのない言葉 を述べたが本心ではなかった。それが長々と燻ってしまったのだ」

 だが、とレピデュルスは石化を解いた拳を開き、握り直した。

「たったの一撃ではあったが、私はマッハマンを殴り付けることが出来た。おかげで、胸のつかえが消えてくれた。 事を荒立ててしまい、申し訳なかったな。二人とも、これからも仲良くしたまえ。無論、私になど構わずに」

「はい……」

 ナイトメアが居たたまれなさそうに肩を縮めると、マッハマンもバトルマスクの下で苦笑した。

「してますよ。だから、こんなことになっちゃったんじゃないですか」

「気持ちが落ち着いたらリビングに戻りたまえ。旅行の話を、存分に聞かせてもらおうではないか」

 レピデュルスはマッハマンの打撃を受けた腕や肩をさすって、裏口に置いたままの盆を拾ってリビングに戻った。 リビングから事の次第を見守っていた鞘香と弓子にマッハマンとの戦いが終わったことを伝え、キッチンに戻った。 紅茶を淹れ直しながら窓から裏庭を窺うと、新婚夫婦は互いの非を認めながらも譲り合う余地を探っていた。少々 言い合った末に決着が付いたらしく、二人は仲直りの証としてバトルマスク越しに熱烈なキスをしていた。これ以上 は見るべきではない、とレピデュルスは窓から身を引いて、二人分の紅茶を温めたカップに注いだ。レピデュルスも ナイトメアと言い合うことはあったが、ナイトメアがあそこまで自分を曝け出してきたことはなかった。
 レピデュルスが紅茶を携えてリビングに戻ると、変身を解いた速人と人間体に戻った芽依子が、ばつが悪そうに 座っていた。レピデュルスは改めて二人に紅茶を出したが、空虚さもやるせなさも喪失感も感じなかった。
 感情の奔流は凪ぎ、最後に残ったのは祝福の気持ちだけだった。







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