この国には、八百万の神が存在する。 現地で暮らすと資料や書物だけでは感じ取れなかったことが肌で感じられ、その意味が理解出来るようになった。 日々の生活を支える物資だけでなく、日用品、調理器具、果ては穀物の一粒に至るまで人々は神を見出している。 ヴォルフガングが長年暮らしていた祖国ドイツも、もちろん信仰や宗教はあったが、その方向性は全く違っている。 興味は尽きなかったが、好奇心のままに調べ回ることは出来なかった。戦時中であり、任を受けた軍人だからだ。 それさえなかったら、と不満を抱きながら、ヴォルフガングは祖国から送られてきた指令書を広げて睨んでいた。 今度の任務も、経済支援の交渉だ。怪人故に言語の壁が薄いヴォルフガングだからこそ、交渉役に指名された。 人ならざる者達は、人ならざる者であるが故に共通の言葉を持っている。だから、母国語が違っても容易に会話が 成立する。誰から何を教わったわけでもなく、同種族でもないのに、言葉を交わし合えばすんなりと意味が通じる。 それは人間に対しても同じことだが、ヴォルフガングは日本語が堪能というわけではなくむしろ不得手なのである。 口頭であれば通じるが、読み書きはまるで出来ない。だから、普段は、日本語の文書はレピデュルスに読み上げて もらっている。五億年以上の年月を長らえてきた彼は、地上に存在する言語を全て解読出来るそうで、楔形文字や 象形文字も呼吸するように読める。どれほど文明が進化しても言語体系の根本は不変だからだ、なのだそうだが、 ヴォルフガングには到底出来ない芸当だった。 「弱ったな」 ヴォルフガングは文机に日本軍からの書類を投げ、尖った耳を引っ掻いた。 「さっぱり読めん」 レピデュルスの名を呼ぼうとしたが、寸前で縦に長い口を閉じた。当のレピデュルスは外出しているのだ。戦時下 にあるこの国では、都会であればあるほど食料の入手が困難なので、遠出して食料の調達に行っている。この家の 主であり、同居人である大神冴が実家から持ち出した上等の着物を抱えて物々交換に向かったのだ。ドイツ軍人で あり大尉ではあるのだが、長年の使用人生活が身に染みているためか、今も使用人らしく振る舞っている。大神家が 雇った使用人もいるので無理に働く必要はないと言ったのだが、レピデュルスはその命令に逆らい続けている。 だが、本来の業務を疎かにされては困る。ヴォルフガングは読めず終いの書類を封筒に戻し、嘆息した。 「あら……」 奥の間と繋がる襖が開き、瞼が開ききっていない冴が顔を出した。 「ヴォルフガング様。お仕事中でしたの?」 「起こしてしまったか、冴さん。御加減は」 ヴォルフガングが振り返ると、冴はぼんやりと答えた。 「昨日の夕方からずっと眠っておりましたから、寝過ぎて頭が痛みますわ。ですけれど、熱は下がりましてよ」 「それは良かった」 ヴォルフガングは冴に笑みを向けようとして、躊躇った。布団から起きてきたばかりの冴は、浴衣が乱れていた。 襟元が崩れて首筋が露わになり、裾が割れて普段は決して見せない素足が垣間見えていて、それが艶めかしい。 奥の間が薄暗いので冴の肌の白さが際立っており、襖の間から零れた空気には汗の匂いが混じっていた。それが 鋭敏な嗅覚をくすぐってきたので、ヴォルフガングは訳の解らない罪悪感に苛まれて顔を背けた。 「あら、いやだ!」 自分の格好に気付いた冴は赤面し、襟元と裾を直して背を向けた。 「着替えてまいりますわ!」 冴は勢い良く襖を閉めると、すぐさま着替え始めたらしく、浴衣の帯を引き抜く音や衣擦れの音が聞こえ始めた。 ヴォルフガングは場所を移動しようかと思ったが、何か勿体ないような気がしたので文机の前から離れなかった。 先日、ヴォルフガングは冴に結婚を申し込んだが、何が変わったわけでもなく、床を共にしたこともなかった。冴も 結婚の意思があることは知ったが、ヴォルフガングへの態度を変えることもなく、会話する内容も変わっていない。 けれど、今はまだそれでいいのだろう。家主と居候、という距離感を保っていた方がやりやすいからだ。 しばらくして襖が開き、夏物の着物に着替えた冴が出てきた。髪を結うための紐と櫛を持って、井戸へ向かった。 ヴォルフガングは何かするべきかと思ったが、やはり何も出来ず、冴が身支度を調えて戻ってくるのを待っていた。 顔を洗い、髪を整えた冴が戻ってきたが、先日のことを思い出して照れに襲われたヴォルフガングは黙っていた。 冴はそれが面白くないのか、むっとしながら台所に向かい、水瓶の水を飲んでから居間へと戻ってきた。 「私、何かいけないことでもしましたの?」 冴はヴォルフガングの傍に座り、膝の上で手を揃えた。 「いや……」 ヴォルフガングは意味もなく両耳を揺らしながら、目線を彷徨わせると、冴は眉を吊り上げた。 「失礼ですわね」 「や、だ、だからそういうつもりではなくてだな」 ヴォルフガングは慌てて取り繕うが、冴と向き合うと先程以上の照れに苛まれ、耳を伏せた。 「困った御方ですわね」 冴もまた目を逸らしたが、日に焼けていない頬に朱が差していた。 「何をどうしたらいいのか解らないのは、私も同じですのに」 熱気混じりの風が緩く吹き込み、軒先に下がった風鈴を涼やかに鳴らし、庭に散らばる青葉がかすかに動いた。 所在をなくした指先で紺色の着流しの襟元を正したヴォルフガングは、恐る恐る目を動かして冴の横顔を窺った。 冴は畳の目をいじり、小さな唇を尖らせている。ヴォルフガングの反応が薄かったからだろう。だが、話題がない。 間を持たせられない。戦争や軍隊の話をしたところで、冴を楽しませるどころか、怖がらせてしまうだけだ。さてどう したものか、と考え込んでしまったヴォルフガングがますます黙り込むと、不意に尻尾を握られた。 「くおっ!?」 敏感な部位に訪れた刺激にヴォルフガングが驚くと、尻尾を握った冴はつんと顔を背けた。 「ごめんあそばせ」 「すまん、それだけはちょっと」 ヴォルフガングが尻尾を引き抜こうとすると、冴は尻尾を掴む手に力を込めてきた。 「尚更ですわ。この私を蔑ろにした罰でしてよ」 「すまなかった。だから、尻尾だけはどうか」 ヴォルフガングが懇願すると、冴は不満げではあったが、ヴォルフガングの太く立派な尻尾を解放した。 「でしたら、私の御相手をなさって下さいませんこと?」 「う……」 それが目下の問題なのだが。ヴォルフガングは毛並みが乱れた尻尾を抱えて守りつつ、言葉を詰まらせた。冴は 余程焦れているのかヴォルフガングとの間隔を狭めようとしてくるが、ヴォルフガングは腰を引いてしまった。それが 余計に冴の気に障ってしまったらしく、ヴォルフガングが腰を引くほどに近付いてきて、唇を曲げていた。攻防を 繰り返した末にヴォルフガングは襖まで追い詰められ、鮮烈な日差しを浴びた冴はますます頬を染めた。なぜここ まで必死になるのだ、と思ったが考えるまでもないことだった。レピデュルスが外出しているからだ。ヴォルフガング の使用人であり側近であるレピデュルスは、買い物と軍務以外では家を空けることはない。大神家が雇った使用人 とは違い、レピデュルスは常に二人の視界の隅に控えている。体は弱いのに気が強い冴は誰かの目があると意地 を張ってしまうらしく、ヴォルフガングに近付いてくることすらない。だから、冴から迫られると嬉しいのだが、ヴォルフ ガングは嬉しすぎるがために困り果ててしまう。その結果、動けなくなる。 「お逃げにならないで」 冴は手を伸ばし、ヴォルフガングの灰色の体毛に覆われた手に触れてこようとした。 「いや、私は……」 ヴォルフガングは冴の指が触れかけた手を下げ、半身を引いたその時、物音を聞き付けて両耳を立てた。 「どうかなさいまして?」 冴に問われ、ヴォルフガングは腰を上げた。 「来客だ」 生け垣の向こうから下駄を転がす足音が近付き、軋みを立てながら門が開かれた。 「こちらが大神冴様のお宅でございましょうか」 ころり、と下駄の歯で敷石を踏んだ主は、死に装束のような白い着物で身を包んだ女だった。 「突然の訪問、失礼いたします。私、大神針太郎様から御依頼を受けまして遣わされました霊媒師にございます」 「針太郎と言うと、確か」 その名にヴォルフガングは聞き覚えがあった。大神家の本宅である屋敷に住んでいる、冴の父親の弟の名前だ。 つまり、冴の叔父である。袖に何かの印が刻まれた白い着物の女は吊り上がった目を細め、丁寧に一礼した。 「お上がりしてもよろしゅうございますか」 「ああ、構わんが」 かなり怪しい人物だったがはねつけると面倒なことになりそうだと思い、ヴォルフガングは家へと促した。 「叔父様が?」 冴は意外そうに目を丸めて、白い着物の女を見つめた。大神針太郎は冴にはほとんど干渉してこない男だ。商売 の手を広げるために海外に出張している冴の父親に代わって冴の世話をする立場ではあるが、実際には放逐して いる。冴が本宅を出てここに住むと言っても、ヴォルフガングらを住まわせると言っても、一切反対しなかった。良く 言えば寛大で、悪く言えば無関心だ。冴の父親の大神装輔は商売気が多く活動的だが、針太郎は正反対だ。 座卓に座った白い着物の女の前には、使用人の女性が淹れた緑茶とレピデュルスが作った洋菓子が出された。 冴は白い着物の女と距離を取るためにヴォルフガングの斜め後ろに座ったが、その顔は明らかに不安げだった。 今し方桐の棺から起き上がってきたかのような格好の女には生気がなく、血が通っているかどうかも怪しかった。 陰影がなければ存在感自体が薄らぐほど肌は白いが、その唇に載った紅の色は血のように鮮烈で、強烈だった。 吊り上がった目と、すっと高い鼻に、カミソリで梳いたように薄い唇が付いた顔は美しいが人外じみた迫力がある。 顔の部品の配置は悪くないのだが、どれをとっても異様であり、白装束のせいで纏う雰囲気も彼岸のそれだった。 そして、その顔も白に囲まれていた。髪は白い布が巻き付けられて隠され、後れ毛が額に数本落ちているだけだ。 両耳までもが布に包まれているが、布の両端が硬く角張っていて、その部分だけは中身が入っているかのようだ。 人か、或いは人外か。ヴォルフガングは鼻を利かせようとしたが、淹れたての茶の匂いが強すぎて紛れていた。 勘繰るよりも真っ向から聞くべきだろうか、だがそれでは失礼では、と思案しつつ、ヴォルフガングは茶を啜った。 「私の名は、九尾珠子と申します」 九尾珠子は細い指を揃えて礼をし、勿体を付けるように重たい動作で頭を上げた。 「せっかくお上がり頂いたところで何ですけれど、私には悪霊払いなど必要ございませんわ」 冴が不信感を露わにすると、珠子は薄い唇を綻ばせた。 「いいえ、ございます。針太郎様から窺ったように、確かに冴様には悪いモノが憑いております」 珠子の視線が滑らかに移動し、ヴォルフガングを捉えた。 「ほら、そこに」 「何を仰いますの。ヴォルフガング様はれっきとした軍人ですわ、そのようなものではなくってよ」 冴は言葉を続けるが、珠子は冴を一瞥してから、またヴォルフガングを見つめた。 「それは思い違いにございます、冴様。どこをどう見ても」 「ですから!」 冴が腰を浮かせそうになったので、ヴォルフガングは冴を制し、珠子と向き合った。 「確かに私は異物だが、私がこの家に止まっているのは任務のためだ。勘違いしないで頂きたい」 「勘違いなどではございません」 珠子は首も動かさずにヴォルフガングを見据え、金属質な声を連ねた。 「どこをどう見ても、あなたは犬神ではございませぬか」 「イヌガミ?」 聞き慣れない単語にヴォルフガングが聞き返すと、冴がむくれた。 「そんなもの、どうでもよろしくってよ。ヴォルフガング様はオオカミですわ、イヌなどではなくってよ」 「同類にございます」 珠子は膝をずらして冴に向き直ると、薄い瞼を上げた。 「冴様のお母様である大神サキ様は、犬神筋ではございませぬか」 言葉の意味が解らないヴォルフガングが黙り、冴が戸惑うと、会話の間を埋めるように珠子は唇を動かした。 「針太郎様より、サキ様は四国の出だと聞きました。そして、失礼だとは存じておりましたが、私の知るツテで御実家 について調べ上げました。サキ様の御実家は古き時代より栄えた資産家にございますが、それは皆、犬神がいた が故のこと。犬神を使役して他者を陥れ、害を成し、資産を成し上げたのでございます。嘘ではございません。犬神 に憑かれたと仰る方は何人もおりました。畑の実りが悪くなったのも、家畜が病で死んだのも、家人が狂ったのも、 金銭が懐に止まらないのも、皆、全て」 珠子はぬるりと眼球を動かし、灰色の人狼を映した。 「犬神による呪いにございます」 かきり、と揺れ損なった風鈴のガラスの芯が縁を擦った。遠くから聞こえてくる笛の音が、胸中をざわめかせる。 珠子の声色は冷たくも涼やかで滑舌も良いため、疑いの余地を与えるよりも早く頭の中に染み渡る。犬神がどんな ものか、ヴォルフガングには今一つ見当は付かなかったが、使役する魔性の類だとは理解出来た。ヴォルフガング の祖先である人狼族も野生のオオカミを手足のように使っていたが、それとは系統が違うようだ。悪しき精霊、とで も言うべきか。だが、ヴォルフガングはイヌでもなければ神などでもない、人狼族の末裔だ。多少の能力はあるが、 呪いを行使する力はない。謂われのないことばかりで、さすがにヴォルフガングも苛立った。 「あなたが犬神でなければ何なのでしょう」 珠子の声だけが、重みのある熱気の籠もる居間に広がっては消えていく。 「本来、犬神とは豆粒のように小さなものでございますが、あなたは目に見える姿を得た犬神にございます」 「では聞くが、その犬神とは何をするモノなのだ?」 話の筋は見えたが本題が掴めないヴォルフガングが尋ねると、珠子は淀みなく答えた。 「犬神は犬神筋の者によって使役され、家に富をもたらすものですが、その富は他者より奪い取ったものなので ございます。装輔様の代になってから大神家が一段と栄えるようになったのも、そのためでございましょう。ですが、 そのままでは、犬神はあらゆる者に害をもたらしましょう。そう、たとえば」 珠子はふいと目を動かし、生け垣の外を見やった。 「入院していたがために冴様が通えなかった女学校の生徒達や、活動写真で華やぐ女優達や、街角で見かけた 同年代の健康な娘といった者達に、害が及びましょう。犬神は使役されるモノではございますが、犬神筋の者の恨み 辛みを目聡く感じては動いてしまいます。無用な被害がもたらされる前に、犬神を祓うべきなのでございます」 「私は帝国軍人だ。そのような狼藉は」 「そう、せぬという確証はございますか」 珠子はぴんと糸を張るように声色を強め、ヴォルフガングの言葉を遮った。 「あなたは冴様の傍におられます人ならざるモノ、犬神ではないという保証はございません。そして、あなたはこちら側 の方ではございません」 夏の日差しに白んだ畳の縁に、珠子は境界線を引くように指を滑らせた。 「人の世と人ならざる者を隔てる境界が失われて久しい現世では、人が魔に魅入られることも、魔が人に魅入られる ことも、それほど珍しいことではございません。かくいう私も人ではございません。父は人ですが母は古き妖狐です ので、私の肉と骨を潤す血の半分はあちら側のものでございます。ですが、あちら側は所詮あちら側。人には到底 理解しがたい価値観を持ち、文化が発達した今も人を見下す者もおります。目を掛けた者だけが特別であり、それ 以外は人ですらないと申す者も少なくはありません。それは、あなたとて例外とは言えないかもしれないのでござい ます。増して、あなたは上位軍人にございます。人を殺すことに躊躇いなど残っておられないでしょう。だから、今は 犬神でなくとも、いずれ犬神となるかもしれないのでございます。あなたにその意志がなくとも」 珠子は指を袖に戻し、膝の上で揃えた。 「……それは、叔父様が仰ったことですの?」 珠子が話し終えたのを見計らって冴が口を開くと、珠子は吊り上がった目を細めた。 「冴様の身を案じてのことにございます。そして、それを、祓い清めるのが私の仕事でございます」 珠子は弓をしならせるように口元を広げると、一対の獣じみた牙が覗いた。 「あなたのお力では抗えてしまうかもしれませぬが、少しばかり、私の幻術に惑わされて下さりませ」 白い袖から伸びた白い指先が白い光を擦り抜けて、ヴォルフガングの灰色の毛並みに埋もれた眉間に触れた。 触れた部分から電気に似た痺れが一瞬走ったが、それだけだった。珠子は袖を引いて指を収め、立ち上がった。 「御邪魔いたしました。また明日、こちらに御邪魔させて頂きます」 珠子は足袋を畳に擦らせながら居間を後にし、礼儀正しくからころと下駄を鳴らして出ていった。何をされたのか 今一つ解らず、ヴォルフガングは冷たい指の感触が残る眉間をさすり、余韻を拭い取った。冴は縁側から首を出し、 珠子の背を目で追っていたが、彼女が角を曲がって見えなくなるとほうっと息を緩めた。幻術と言ったが、目に 映る景色は何も変わらない。虚仮威しだ、とヴォルフガングは笑いを噛み殺しつつ腰を上げた。悪魔払いと称した 手品師は、どの世界にでもいる。きっと珠子もそういった輩に違いない。不安を抱くことはない。 明日の夜まで、冴と二人きりだ。だから、今はそれを楽しむべきだ。 09 11/9 |