純情戦士ミラキュルン




家族の肖像



 一週間後。空き部屋をアトリエ代わりにして、作業が始まった。
 大神家の誰かが使っていたであろう古いイーゼルが立てられ、大判のキャンバスが載せられ、様々な道具が持ち 込まれた。冴には何に使うのか全く解らない道具や大量の筆の数々に興味が湧き、豆吉が準備をする様を眺めて しまった。ヴォルフガングとレピデュルスはある程度は解っているようだったが、豆吉の立場を守るために冴に対して これといって説明しなかった。描きもしないのにあれは何でこれは何でと説明されてしまっては、いかにも善人な 豆吉であろうとも嫌気が差してくるだろう。
 絵の具が落ちても汚れないように、と古びた板を引いた畳の上にイーゼルを置き、その後ろに豆吉が腰掛けた。 その真正面には土蔵から出てきた舶来ものの椅子が置かれ、天井からは深い赤の布が吊され、背景が作られた。 そこに、とっておきの着物を着て髪を華やかに結い上げて化粧をした冴と軍服姿のヴォルフガングが収まった。 久々に見る夫の軍服姿に、冴は惚れ惚れした。普段着でも充分男らしいが厳つい軍服を着ると一層引き締まる。 冴がヴォルフガングについ見取れてしまっていると、キャンバスの後ろから顔を出した豆吉が木炭で冴を指した。

「すみませんがね、奥様。こっち、向いててもらえやせんか」

「ごめんあそばせ」

 冴は表情を取り繕い、豆吉へと向いた。

「ここが一番重要なんでごぜぇやすから、ちゃあんと気を入れてもらわねぇと」

 豆吉は慣れた手付きで木炭を動かし、薄く線を引いた。

「ですがねぇ、大旦那様。最初の日に言ったように、俺にゃあ普段の仕事もありやすんで、うんざりするほど時間は 掛かっちまいますよ。おまけにキャンバスがデカいもんだから、その分手を動かす量も多いし、変に凝り性なもんで早く 描けねぇんですよ。本当に、それでもよろしいんですかい」

「良いから、頼んだのではないか」

 ヴォルフガングは直立不動の姿勢を保ったまま、豆吉を見下ろした。

「出来れば、私よりも妻に手を掛けてくれまいか。そのための肖像画なのだからな」

「それは不公平ですわ。ヴォルフガング様の方こそ、御立派に描いて頂かないと」

 冴は夫を見上げて言い返したが、慌てて豆吉に向き直った。

「仲がよろしいのは結構でさぁ」

 豆吉はくつくつと笑ってから、木炭をキャンバスに滑らせた。

「しかし、大旦那様。階級章からすると大層偉い軍人のようですが、戦地ってのはどんなところですかい」

「この世の地獄だ。戻りたくもない」

 ヴォルフガングが即答すると、豆吉は木炭を動かす手を止めた。

「するってぇと、うちの若旦那も生きながらにして地獄に行っちまったってことですかねぇ」

「近しい方が出征されたのか?」

「へえ。俺の奉公先の、庄屋の跡継ぎの若旦那でさぁ。ついでに言えば、俺の絵の師匠でごぜぇやす」

 豆吉は木炭に汚れた指先を見、ほんの少し耳を伏せた。

「昔っから大人しくて優しい御方でねぇ、本を読むのがお好きで、放っておけば丸一日部屋に籠もっておられるような 御方でやんした。絵を描くのがまた御上手で、学校の先生に勧められて都会の美術学校に進学した矢先に赤紙が 届いちまいやしてねぇ。この道具も、絵の具も、本当は若旦那のものなんですが、傷ませないために使ってくれって 頼まれたんでやんすよ」

 布の切れ端でキャンバスを拭って線を消してから、豆吉は新たな線を引いた。

「行けるもんなら俺が代わりに戦地に行きたかったんですが、生憎、御国は俺らみたいなものを人としては認識して おりやせんからねぇ。動物の延長線上にいるよく解らねぇモノ、っちゅうだけで戸籍も何もありやせん。六科っちゅう 名字も、豆吉っちゅう名前も、奉公先から頂いたもんでしてねぇ。それがなきゃ、俺は野山を駆けずり回るタヌキどん でしかありやせん」

 黒い線を重ねてヴォルフガングの輪郭を取りながら、豆吉は自嘲気味に口元を広げた。

「そういうところじゃ、大旦那様がちぃっと羨ましいかもしれやせんなぁ。戦地に駆り出されている分、少なくとも、人間に 近い扱いをされておられるんですから」

「私はただ、旧い生き物だというだけだよ」

 ヴォルフガングは緩やかに首を振ってから、元の姿勢に戻した。

「私の一族は、近代文明が発展する以前から土地に根ざして生きてきた。片田舎の貧弱な領土を収める貧乏貴族 として、何百年も人の中に混じって生きるうち、それらしい立場を得られたと言うだけだ。先の戦いで戦果を上げた のも、立ち回り方を弁えていただけだ。佐官にされたのも、上への取り入り方が上手かっただけだ。ただ、それだけ のことだ。私は人ではないし、人にはなれんよ」

 だが、とヴォルフガングは、冴の肩に手を添えた。

「人でないからこそ、私は冴の素晴らしさが身に染みて解るのだ」

「その通りにございます、大旦那様。そして、その逆もまた然り。冴様が人間であらせられるからこそ、大旦那様の 素晴らしさを理解して頂けたのでございます」

 部屋の隅で事の次第を見守っていたレピデュルスが頷くと、豆吉は木炭に汚れていない指で耳を引っ掻いた。

「だとしたら、いずれ俺にも奥様のような可愛い嫁さんが来やてくれやすかねぇ?」

「来ますわよ。だって、豆吉さんもヴォルフガング様に負けず劣らずふっかふかですもの」

 冴が微笑むと、豆吉は照れくさそうに尻尾を揺らした。

「だとええんですがねぇ」

「ヴォルフガング様の魅力はそれだけではございませんけれど、ふかふかの毛並みは本当に素晴らしいですわ」

 冴が肩に載せられた夫の手に頭を傾けようとすると、おっと、と豆吉が制した。

「大旦那様も奥様も、さっきと同じ格好をして下せぇな。じゃないと、描くに描けやせんぜ」

 ヴォルフガングは名残惜しげに妻から手を外すと、冴も夫の温もりが遠のいてしまうのが寂しかったが我慢した。 表情も元に戻して同じ格好になると、豆吉は、そうそうそれでよろしゅうごぜぇやす、と言いながら木炭を動かした。 レピデュルスが火鉢に炭を入れて火を灯す頃になると、障子から差し込む日差しが傾いていき、色を変えていた。 日が落ちても豆吉の下書きは終わらず、明日も来ると言い残し、豆吉は奉公先へ帰っていった。長時間同じ格好を していたため、冴は緊張で強張った手足を伸ばすと、ヴォルフガングが横抱きに抱き上げた。

「何をなさいますの?」

 前触れのない行動に冴が目を丸めると、ヴォルフガングは照れ臭そうに片耳を伏せた。

「これほど近くにいたのに触れられなかったのだ、私とて溜まりもする」

「では、ごゆっくり。私めは夕餉の支度をしてまいります」

 レピデュルスはいやに丁寧な礼をすると、胸郭から笑みを零しながら部屋を後にした。

「気を遣われたな」

 ヴォルフガングが肩を竦めると、冴は火照ってきた頬を押さえた。

「というより、お膳立てされたという方が相応しくありませんこと?」

「ならば、それを楽しむまでだ」

 ヴォルフガングは椅子に腰を下ろすと、冴を膝の上に座らせた。

「顔を見せておくれ、我が妻よ」

「もう……」

 冴は恥じらって目を伏せたが、ヴォルフガングの大きく厚い手が頬に添えられたので目を上げた。妊娠したことで 僅かばかり丸みを増した頬を暖めるように包み込まれ、丸みを確かめるように何度もなぞられる。肌を掠める灰色 の体毛がくすぐったく、時折引っ掛かりそうになる爪先が硬く、足の下からは高めの体温が染み入る。夫の背後では 冬毛になって一層毛並みが増した尻尾が大きく振られ、顔には出さずとも喜んでいるのだと解った。

「冴」

 ヴォルフガングの手が顎の下に及ぶと、冴は首を上げた。

「はい、ヴォルフガング様」

 背を引き寄せられた冴は、柔らかく唇を塞がれた。ヴォルフガングの唇は獣そのものの顔に見合った硬さだった。 一息で肉を引き裂ける太い牙の感触もありありと感じられ、しっとりと濡れた鼻が冴の頬に触れ、少し冷たかった。 生粋のオオカミなのでイヌよりも若干細長く窄まっているマズルの長さの分だけ、夫との距離が開いている。それが 惜しくなった冴は両腕を伸ばし、軍服の襟元に収まりきらなかった灰色の体毛に手を掛けて腰を浮かせた。

「焦らずとも良い」

 ヴォルフガングは冴の唇を解放してから、冴を座り直させた。

「ですけれど」

 冴が不満を零すと、ヴォルフガングは冴の顎を軽く押し、鮮やかな紅が載った唇を開かせた。

「君は良い匂いがする。母の匂いだ」

「や、ぅん……」

 冴が照れる余裕も与えずにヴォルフガングは舌を滑り込ませてきたので、冴は夫のざらついた舌に舌を絡めた。 夫が好んで求めてくる行為だが、冴は未だに慣れない。体を開かれるよりも余程恥ずかしいと思うからだ。マズルの 長さに比例した長さの舌で冴の口中を探られるが、羞恥が勝り、されるがままになった。

「ひゃひっ」

 舌を引き抜かれたと思ったらべろりと頬を舐められ、冴はびくっとした。

「白粉と紅、それと君の味だ」

 満足げに舌を戻したヴォルフガングに、冴は真っ赤になった。

「んぁ、あ、もう、あなたという御方は!」

「風呂に入れば化粧は落としてしまうだろう。その前に味わうだけ味わってしまわねば」

「あっ、あなたは私をお食べになる気ですの!」

「それも良いかもしれんな」

 冴の必死の反抗にも、ヴォルフガングは笑うだけだった。 

「困った御方」

 冴は舐められた頬を拭ってから、俯き、ヴォルフガングの胸に顔を埋めた。

「だったら、今度は君が私を困らせておくれ」

 ヴォルフガングは冴の腹部に大きな手を被せ、ほとんど力を入れずに撫でた。

「君の内からどんな子が産まれてくるのか、楽しみで仕方ないのだよ。私の血が濃いのか、それとも君の血が濃い のか、男か、女か、考えることは尽きない。だが、産まれたら、私は何をどうすることも出来ん。私は妻を娶ったのは 君が初めてで、孕ませたのも君が初めてだから、我が子など抱いたこともない。一日でも早く産まれてほしいと思う 傍ら、父親になるための時間が十二分に欲しいとも思う。だが、こんなにも素晴らしき悩みはない」

「私もですわ。母親になれるだなんて、思ってもみませんでしたもの」

 夫の手に自分の手を重ね、冴は顔を綻ばせた。

「大事な大事な子ですもの、一緒に育ててまいりましょう」

 夫の手を離さないために冴は力を込めた。まだ見ぬ我が子を愛しく思う気持ちは強烈で、会いたくてたまらない。 だが、それ以上に不安でもあった。幸せで満ち足りすぎていて、何かの拍子に崩れてしまいそうだからだ。結婚など 出来ないと思っていた。母になどなれるわけがないと思っていた。だが、ヴォルフガングは全て叶えた。病気がちで 布団に寝ているしか能がない冴に愛を囁き、温もりを与えてくれ、彼の精で命までもを与えてくれた。
 漠然とした不安が徐々に形を成していく。この手が離れ、この温もりが遠のき、失せる日がとてつもなく怖い。長く 生きられないことは重々承知している。子を産めば、ただでさえ先の短い寿命が削れることも解っている。けれど、 我が子を産まなければ、愛した男の血を残せない。血を残せなければ妻として娶られた意味がない。子を諦めれば 冴の時間は長くなるかもしれないが、子を産まなければヴォルフガングの時間は途切れてしまう。
 静かに泣き出した冴を、ヴォルフガングは何も言わずに支えてくれた。苦しくないように、と背中をさすってくれた。 夫の毛並みよりも若干明るい灰色の軍服に涙を吸い込ませながら、冴は幸福の代償に怯え、震えた。息苦しくなる ほど切なくなった冴は、夢中で夫を求め、先程夫がしてくれたように舌を伸ばして口付けをした。
 与えられるものは、欠片一つ余さずに与えてしまいたい。




 息が苦しい。胸が詰まる。頭が、腹が、全てが痛い。
 無意識に宙に伸びた手が、暖かく大きな手に受け止められた。浅い呼吸を繰り返しながら、冴は僅かに瞼を開く。 天井、電灯、障子、そして、夫。灰色の毛並みに覆われた顔を見ただけで緊張が緩み、目尻から涙が伝い落ちた。 下腹部が痛く、血の匂いが充満している。聞き慣れない甲高い泣き声が繰り返され、小さなものが叫んでいる。

「冴」

 焦りが滲んだ声で名を呼ばれ、冴は目を動かした。

「はい……」

「よく頑張った、偉いぞ」

 じっとりと脂汗が滲んだ頬を撫でられ、冴は痛みを堪えながら頬を緩めた。

「嬉しゅうございますわ」

 ぎゃあぎゃあと何かが泣いている。乳飲み子だ。冴は涙で歪んだ視界を動かして、その声の主を視界に捉えた。 年老いた産婆が産湯に浸けているのは、夫よりも黒っぽい毛並みに覆われた小さな子イヌ、いや、オオカミだった。 冴の腹から出た血や体液を洗い流されると、ますますイヌだ。けれど、泣き声はイヌではなく人間の泣き声だ。それ だけが、冴の血によるものだった。それ以外は全て夫で出来ていて、なんとなく悔しいがそれ以上に嬉しい。
 汚れを洗い流された新生児は綺麗な布に包まれ、冴の傍に置かれた。冴は重たく首を動かし、我が子を見やる。 ヴォルフガングをそっくり小さくしたような外見の赤子には、小さな小さな性器が付いていた。男だ。黒灰色の毛並み は産湯を浴びて濡れているが、乾いてしまえば夫のようにふかふかの毛並みになるだろう。

「ああ……」

 庭木からぼたりと雪が落ちた。春が近いからか、障子を透かして差し込んでいる日差しは確かな熱を持っていた。 いつのまにか、朝を過ぎて昼になっていたらしい。産気付いたのは昨日の夕方だったが、記憶は飛び飛びだった。 痛みのあまりに泣いて叫んで暴れ回ったことは朧気に覚えているが、肝心の産み落とした瞬間は覚えていない。

「偉い、本当に偉いぞ」

 ヴォルフガングは泣き顔にも見える笑顔になり、小さな我が子に指を伸ばした。

「どこからどう見ても、私の子だ」

「ええ、あなたの子ですわ、ヴォルフガング様」

 冴は頷き、精一杯笑顔を作った。 

「私とあなたが、この世に生きた証ですわ」

 痛みが遠のかないように、冴は腹部に意識を向けた。また眠りに落ちてしまえば二度と目覚めない気がしていた。 だから、己を保つことに必死だった。産んだばかりの息子を腕に抱いてすらいないのに、黄泉に旅立ちたくはない。 夫の体温は心地良すぎて、瞼が下がりそうになる。何か、何かないか、と冴は目を動かして部屋の中を見回した。 だが、鈍い頭痛と恐ろしいまでの貧血で視界が暗くなり、冴は不安に駆られたが夫に知られまいと堪えた。ヴォルフ ガングは産まれたばかりの我が子を愛おしみ、喜びに満たされている。それに水を差してしまいたくない。けれど、 不安が重たくのしかかってくる。冴はシーツを握り締めようとしたが、まるで手に力が入らなかった。

「大旦那様」

 襖が開き、産婆と入れ替わりにレピデュルスが入ってきた。

「おお、レピデュルス! 産まれたぞ、私と冴の子だ! 男だぞ!」

 ヴォルフガングは盛大に尻尾を振りながら腰を上げ、側近に近付いた。

「それはおめでたいことにございます。冴様も、よくぞ頑張られました」

 レピデュルスは表情の出ない顔を綻ばせるように、ヒゲに似た外骨格を揺らした。

「いえ、そうではありませんな。奥様とお呼びするべきでございましょう」

 二人の声が遠くなり、世界が暗くなっていく。ああ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。

「でしたら、豆吉さんには事を急いでもらわねばなりませんな。奥様と大旦那様の肖像なのでございますから」

「肖像……」

 まだ、あの絵は出来上がっていない。キャンバスに塗られた下地が露出していて、輪郭しか出来ていない。

「わたくしと、あなたの」

 見たい。どうしてもあの絵が。冴は深く息を吸い、力を込めて吐き出してから、二人を見上げた。

「私、絵を見とうございますわ」

「おお、そうか!」

 ヴォルフガングは歓喜し、冴の枕元に膝を付いた。

「では、すぐに作業部屋から運んでこよう! 待っていろ、すぐだぞ! 手伝え、レピデュルス!」

「承知いたしました、大旦那様」

 レピデュルスは胸に手を当てて深々と礼をし、冴にも礼をしてからヴォルフガングと共に出ていった。

「お待ちしておりますわ、ヴォルフガング様」

 冴は閉じた襖に笑みを向けてから、泣き止まない我が子をそっと撫でた。

「あなたもご覧なさい、私と御父様の肖像ですわ」

 触れた指先に伝わる赤子の体温は火のように熱く、視界に光が戻り、絵を運び出してくる二人の声も耳に戻った。 障子を通り抜けて降り注ぐ日差しが眩しく、天井が白んでいる。未完成の肖像画が来るのは、間もなくだろう。冴は 渾身の力で上体を起こすと、黒灰色の体毛と耳と尻尾の生えた息子を危なっかしい手付きで持ち上げた。据わって いない首を支えて、柔らかすぎて不安さえ覚える体を抱くと、予想以上の重さが訪れて驚いてしまった。十月十日も 掛けて腹の中で育てた我が子とようやく出会えた嬉しさと充足感に、冴は満面の笑みと共に涙を零した。
 死にたくない。肖像画が出来上がるまでは、息子が立派に成長するまでは、何が何でも命を手放したくない。夫と レピデュルスと共に生き続けて、息子を含めた新たな肖像画を描いてもらうまでは、現世で長らえていたい。だが、 それは無理だと自覚している。今だって、息子を抱いているだけで限界で乳を含ませることすら出来ない。嬉しいのに 悲しく、辛いのに幸せで、やるせないのにこの上ない。冴は息子に頬を寄せ、その体温を噛み締めた。
 もっと、もっと、生きていたい。






09 11/12