妻の顔が見えなかった。 白い布を被せられているからだ。その布は糊が効きすぎていて肌が痛かろうと思ったが、剥がせなかった。 すぐにでも剥がして、呼吸を楽にしてやりたい。青ざめた肌を暖めてやりたい。痩せた体を抱き締めてやりたい。 けれど、何も出来なかった。手足の筋肉が弛緩し、骨の代わりに鉄の棒をねじ込まれたかのように硬直していた。 窓を叩く雨音が冷たすぎて、震えが起きる。喉の奥が引きつり、唸り声にすらならなかったものが僅かに漏れた。 「御臨終です」 愛妻の脈拍を確かめてから腕時計を見て時刻を確認した後、医者は告げた。 「大旦那様」 レピデュルスがヴォルフガングの背後に寄り添うが、ヴォルフガングは側近の姿すらも目に入らなかった。 「奥様のお顔を拝見なさいませ。明後日には、もう……」 そこから先はレピデュルスも言えずに、外骨格を軋ませながら俯いた。 「斬彦様の御様子を見てまいります」 レピデュルスは重たく頭を上げ、寝室を後にした。 「さえ」 ようやく出てきた言葉は、妻の名だった。 「冴……」 ヴォルフガングはぎこちなく腕を伸ばし、布団の下から少し出ている妻の手を取った。 「冴」 その手応えは、今朝までの妻の手とは違っていた。薄い肌の下には脱力した筋肉しかなく、反応は返らない。手を 握ると、精一杯の力で握り返して微笑みかけてくれた。だが、優しい声を放つ唇は閉ざされ、白い布の下だ。妻の手 を持ち上げると、だらりと手首が下がって指が広がる。触れている間にも、妻からは生きた温度は抜けていく。 「おぉお……」 何を言おうとしても言葉にならなかった。ヴォルフガングは愛妻の冷えゆく手を握り締め、項垂れた。疎開先から 都会に戻り、戦火で焼け落ちた家に代わって引っ越した異人館での日々は早々に終わりを迎えた。息子を産んで からと言うもの、一段と体の弱った冴はヴォルフガングの故郷を見たいと譫言のように繰り返した。だが、寝ている だけでも身の辛い冴を長旅には連れていけない。だから、ヴォルフガングは故郷のことを話した。ヴォルフガングが 子供の頃のこと、貧乏貴族時代のこと、軍人時代のこと、人ならざる家族達との日々のことを。それで冴が満足して くれたか解らなくてたまらなく不安だったから、故郷の屋敷に似た雰囲気の異人館をなけなしの財産で買い取った。 昼は車椅子を押して庭に連れ出し、夜は寄り添って語らい、冴が求めるものは全て与えて注げるだけ愛を注いだ。 冴は幸せだと言いながら、いつも泣いた。斬彦が泣くたびに乳が張るが、自力で抱き上げて吸わせられないことを 悔しがっていた。ヴォルフガングの傍にいながら、愛に応えられないことを苦しんでいた。弱っていくばかりの自分を 責めていた。泣かないでくれ、と哀願すると、ヴォルフガングの優しさで冴は一層涙ぐんだ。 冴がいてくれれば、それだけで充分だった。起き上がれなくても、働けなくても、痩せていっても、冴は冴なのだ。 存分に母になれなくても、妻らしいことを出来なくても、ヴォルフガングには冴に勝る妻は存在しない。だから、この 日が訪れることをずっと恐れていた。夜が来るたびに朝を恐れ、朝を迎えるたびに夜を恐れていた。冴がいる今日 という日が終わらずに永遠に繰り返すことを願ったが、その願いはとうとう叶わなかった。 そして、今朝。昨夜、いつものようにヴォルフガングと共に床に付いた冴は、それきり目を覚まさなくなった。声を 掛けても目を開かず、みるみるうちに体温が抜けた。病人のそれだが愛おしい匂いが死の匂いに変わった。 「あ、あ、あ、あぁああ……」 それなのに、何事もなく生き続けている自分が憎たらしい。 「冴、冴、冴!」 目を覚ましてくれ。また名を呼び返してくれ。甘えた声で、ヴォルフガング様、と呼んでくれ。 「冴!」 けれど、妻は二度と目を覚まさない。ヴォルフガングは床板に涙を散らしながら、頭を抱えて突っ伏した。心臓が 抉り出されるように痛い。内臓が引き千切れるほど苦しい。脳髄が煮詰まるほど熱い。魂が濁りそうだ。 「冴……」 愛おしく、美しく、儚き妻よ。 「冴ぇええ……」 他の言葉を出すことすら嫌だった。冴以外のことを考えるのが嫌だった。冴の居ない世界など感じたくなかった。 ヴォルフガングは布団の下から零れ出た冴の手を取り、自身の体温を分け与えるかのように額に当てた。それが 何の意味も成さないことは重々承知している。抜け殻だと解っている。それでも、冴に触れていたかった。妻の手を 握ったまま、震える指で妻の顔を隠す布を剥がした。薄い影の下から現れた妻は、静かに眠っていた。苦しまずに 逝ったことだけが、唯一の救いだろう。ヴォルフガングは冴の痩けた頬をなぞってから、口付けをした。 柔らかな氷だった。 桐の箱で眠っていた妻は、底冷えする墓石の下で眠るようになった。 四十九日の法要を終えた後、冴の細い骨を入れたからだ。空の骨箱を手放せず、墓地から離れられなかった。 憔悴しきったヴォルフガングに代わって、親戚や大神家の知り合いの人間達はレピデュルスが相手をしてくれた。 最低限の礼儀も通せない自分が心底情けないが、冴が生きた時間が遠のいていく空しさで心身に力が入らない。 親戚の者達や僧侶を見送ってから戻ってきたレピデュルスは、大神家の墓前で座り込んでいる主に近付いた。 「大旦那様」 寝入った斬彦を抱いたレピデュルスは、ヴォルフガングの背後に膝を付いた。 「針太郎様より、言伝を仰せつかりました」 「なんだ」 「針太郎様は、大神家の名を大旦那様に一任されました。そして、生前の装輔様が成し上げた資産にも執着が ないとのことで、装輔様の資産は斬彦坊っちゃまを育てるために使ってくれと仰られました。いかがなさいますか」 「つまり、私に大神家を継げと?」 「その通りにございます。針太郎様の申し出をお引き受けすれば、大旦那様が当主となられるのでございます」 「よく解らん人だな」 ヴォルフガングは、そんな感想しか抱けなかった。冴の叔父である大神針太郎は掴み所のない男だった。疎開先 から異人館に引っ越して間もなく、針太郎が冴と斬彦の顔を見るために訪れた際に多少言葉を交わした。そこで、 針太郎がいわゆる放蕩息子だと知った。若い頃から旅に出てばかりで、実家には寄り付かなかった。兄の装輔から 世話を頼まれていた冴を実質的に放任していたのも、自身がしてきたようにしただけだったのだろう。だから、冴は 短い人生の終局を思うように生きることが出来た。そのことについては、素直に感謝すべきだろう。 大神家とその資産を外国人であるヴォルフガングに丸投げしたのは、冴の忘れ形見への心遣いなのだろう。冴の 血を継いだ息子、斬彦を育てるためには金は欠かせない。大神家の資産をヴォルフガングが引き継がなければ、 ヴォルフガングとレピデュルスと共に路頭に迷うのは間違いない。来日する際に祖国から持ち出したヴォルフガング 自身の資産は、異人館を買い上げた時に既に底を突いていたからだ。 「その方が、冴も喜ぶかもしれんな」 ヴォルフガングは半身をずらし、側近に向いた。 「私が大神家の当主となろう。そして、私達の手で、斬彦を立派に育てるのだ」 「承知いたしました、大旦那様」 レピデュルスが体を折り曲げるほど深く頭を下げた後、上げると、ヴォルフガングは肩を怒らせていた。 「だが、そんなものは、私の想像だ。冴が本当に喜んでくれているかどうかなど、私になど解るはずもない」 冴に訊きたい。冴に問いたい。冴から答えを得たい。だが、その冴は。 「冴……」 感情の塊が腹の底から迫り上がり、ヴォルフガングはがしゃりと玉砂利を殴り付けて慟哭した。 「おぉおおおおおおおっ!」 咆哮に咆哮を連ね、ヴォルフガングは両の拳を振り下ろした。 「ぐおぉああああああぁぁぁぁっ!」 愛し合えたと思ったら、もう失ってしまった。この世の何よりも愛した妻は、二年少々の時間を共有しただけで骨に なった。その命を保てるものなら、どんなものでも差し出した。この身も血も肉も骨も力も命も魂も。だが、ヴォルフ ガングにはそんな力はない。人ならざる者として生まれたが、生死を凌駕するほどの力はない。神でもなく、悪魔で もなく、知恵の実を囓った獣に過ぎない。戦うための力は持っていても、救うための力はない。 だくだくと涙が迫り上がり、雨のように石畳を叩く。泣いてどうにかなるものではないと知っていても止められない。 泣かなければ、何かが壊れてしまう。冴と出会ってから、己の内側に積み重ねてきたものが崩れてしまかねない。 いや、既に壊れているのかもしれない。この手で冴の遺骨を収めたのに、どこかで冴が生きていてくれたらと願って しまう。死した冴は冴であって冴でなく、葬った冴とは異なる冴が生きているはずだ、と世迷い言が頭を過ぎる。冴の いない世界の冷たさがおぞましく、冴と知り合う以前の自分は自分ではないような気がしてしまうほどだった。 愛しすぎている、とヴォルフガングの心の奥底で別の自分が冷ややかに言った。けれど、愛しすぎるほど愛したとは 思えない、これでもまだ愛し足りない、とまた別の自分が悲劇を嘆いている。それはどちらも正しく、否定する余地 はない。けれど、その愛を向けるべき矛先が失われているのでは無意味な苦悩だ。 かつて、世界は美しかった。だが、今の世界は鈍色だ。 斬彦が泣いている。レピデュルスがあやしている。 隣接した部屋でのことなのに、まるで遠い場所での出来事のように思える。壁も、扉も、全てが分厚く感じる。日々 が虚ろに過ぎ去っていく。ヴォルフガングの内を滑り抜けるばかりで、ただただ無益に時計の針が巡る。暑いのか、 寒いのか、明るいのか、暗いのか、寂しいのか、辛いのか、そのどれもが掴み取れずに崩れていった。果てのない 不安が神経を蝕み、擦り切れた言葉ばかりが耳を掠め、物を食べても酒を飲んでも味など感じない。 隣室の側近に声を掛けることもせずに、ヴォルフガングは妻の寝床であった寝台を離れて薄暗い街に向かった。 目的もなければ、理由もない。妻が連れ添っていない不自然さを拭える瞬間を望む一方で、それを恐れてもいた。 死の匂いが立ち込めている街は、戦火による傷を繕い切れていない。終戦を迎えたばかりでは無理もなかった。 それぞれの日常に戻るべく、人々は藻掻いている。今日を生き延びる食料を手に入れることに、皆、必死だった。 ヴォルフガングらは、戦前戦中に大神装輔が貯め込んだ資産で当分は飢えることもなく食べていける。この状況下 では喜ばしいことかもしれないが、今、動かなくても飢えることがないということは無気力を増長させる。 物資と人間が行き交う闇市を通り過ぎて裏路地に入ると、塵芥や人間が吹き溜まり、空気がずしりと淀んでいた。 独特の生臭さに鋭敏な嗅覚が刺激され、ヴォルフガングは強張っていた表情筋を僅かに動かして鼻先をしかめた。 臭気の発生源は、極彩色の際どい絵がでかでかと描かれた看板を掲げている粗末な小屋、見せ物小屋であった。 見せ物小屋の前では、闇市を行き交う客を一人でも呼び込もうと、男が声を張り上げて口上を並べ立てていた。 「親の因果が子に報い、生まれてきたのがこの子でござい……」 オオカミ少女。ヘビ女。ネコ男。おどろおどろしい絵の中で、異形が娘と絡み合っている。 「さあさあよってらっしゃい見てらっしゃい、見ないと一生の大損だよ!」 看板に描かれた絵はあながち嘘ではないようだ、とヴォルフガングは認識した。獣の匂いが漂っている。それも、 一つや二つではない。特に鼻を突く鶏の血臭に始まって、獣人の匂い、人外の気配、人間の息吹がする。この中に いる者達は、日銭を稼ぐために自らを見せ物にしている。そうでもしなければ、生きていけないからだ。生きる意欲が あるだけ余程良い。ヴォルフガングのように絶望の海に浸って怠惰に呼吸しているわけではない。生臭く饐えた 血臭が獣の血を騒がせるが、欲望にまでは至らない。それが空しかったが、空しさすら希薄だった。彼らの生への 執着を見せつけられると、余計に無気力な自分に嫌気が差してしまい、見せ物小屋に背を向けた。 すると、極彩色とは異なる色彩が視界を過ぎった。薄暗く濁った空にはまるで馴染まない場違いな明るさがあり、 太陽光を凝固させたような異質な物体だ。なぜかそれが気になって、ヴォルフガングは再度見た。 ぎらぎらとした金色の男。尾羽を思わせる七色の襟巻きを首に巻き、妙な光沢のある金色の覆面を付けている。 背中にはやはり金色のマントが閃き、裏地は銀色だった。この御時世では、見かけることすらない色ばかりだった。 男の体躯は平均的な日本人のそれだが、全身を包み込んでいる金色の衣装から見て取れる体形は逞しかった。 金色の男は仮面舞踏会で被るかのような赤い羽根の仮面で目元も覆い隠していて、表情は窺い知れなかった。 「なんだぁ、あいつ?」 呼び込みの男も異様な存在に気付き、ヴォルフガングと同じように目線を上げた。 「てぇあっ!」 電柱の上に立っていた金色の男は軽やかに跳躍し、金色のマントを広げながら着地した。 「我が名は鳳凰仮面! 天より遣わされし、不死なる正義の者!」 何を言っているのか全く解らず、ヴォルフガングは口を半開きにした。格好もおかしいが、言動は更におかしい。 「現世の淀みであり、世俗の穢れの極みである者共よ! 今、ここに、我が正義を受けよ!」 鳳凰仮面なる金色の男は見せ物小屋を指して叫ぶと、まるで翼を広げるように両腕を広げた。 「鳳凰翼扇!」 突然、突風が巻き起こった。だが、それもただの風ではなく、金粉のような細かな光が入り混じった奇妙な風だ。 いきなり砂埃を浴びせられて目を閉じたヴォルフガングは、暴風が止んでから目を開けると、風景が一変していた。 見せ物小屋の壁と屋根が全て吹き飛び、極彩色の看板は真っ二つに割れ、見世物小屋で働く者達の姿が露わに なっていた。艶やかな着物を着た娘、両腕のない男、矮躯の女、人ならざる者達が、訳の解らない事態に動揺して 逃げ惑っては悲鳴を上げていた。 「見つけたぞ!」 鳳凰仮面は若い娘を見定めると、駆け出した。その娘は着物をはだけさせながら逃げるが、すぐに掴まった。 「あんた何なんだよぉっ、離してぇっ!」 じたばたと暴れる娘を脇に抱えた鳳凰仮面は、やたらと誇らしげに言った。 「君はこいつらに拐かされたのだ。御両親が心配しておられる」 「嫌だぁっ、あんな家に帰りたくない! ボロ切れみたいに働くよりも、源ちゃんや皆といる方が幸せなんだぁっ!」 娘は髪を振り乱して鳳凰仮面の腕を剥がそうとするが、鳳凰仮面はそれ以上の力で娘を抱え込んだ。 「つまらぬことを吹き込まれたと見える。さあ、もう大丈夫だ。この私が君を」 「いやだぁあああああっ! あたしは源ちゃんのお嫁になるんだぁああああっ!」 娘は絶叫しながら、ネコの男に向けて腕を伸ばした。 「お竹!」 衣装を脱ぎ捨てたネコの男は娘を奪い返そうと駆け出すが、鳳凰仮面は宙を飛び、電柱の上に立った。 「獣は獣、人は人として生きることこそが世の理。あるべき者をあるべき場所に戻すだけではないか」 「いやあああああっ!」 「お竹ぇえええっ!」 「はははははははは、正義とは斯くも勝利するものなのだ!」 娘が叫ぶ。男が猛る。鳳凰仮面は笑う。 「では、さらばだ!」 派手なマントを翻して飛び去っていく鳳凰仮面に、ヴォルフガングの粘ついた心中で泡が立つほどの熱が起きた。 冴との日々を否定されたような気分になり、鬱屈とした日々の中でも忘れなかった冴への愛が激情に変わった。 気付いた時には、体が動いていた。一息に跳躍し、トタン屋根の家並みの上を飛んでいく鳳凰仮面を見据えた。 鳳凰仮面の脇では、娘が暴れている。源ちゃん、源ちゃん、と何度も繰り返し、地上からはネコの男が追っている。 ヴォルフガングは空中を蹴って加速し、久しく使っていなかった人ならざる者の力を拳に込めながら喉の奥で唸る。 一瞬で鳳凰仮面の背後に迫ったヴォルフガングは、振り向いた鳳凰仮面を思い切り殴り付けた。 「ぐおっ!?」 反撃を受けると思っていなかった鳳凰仮面は反撃出来ずに大きく仰け反ってしまい、腕が緩んで娘が落下した。 ヴォルフガングは屋根に叩き付けられる寸前の娘を受け止め、屋根に立たせてから、屋根を蹴って再度跳躍した。 頭に受けた衝撃が抜けないのか、鳳凰仮面は宙に止まっている。その隙を逃さず、ヴォルフガングは技を使った。 「カタストローフェシュラァアアアクッ!」 破滅の一撃と名付けたこの技は、元々は土壌を掘り起こしやすくするために地面に叩き込んで土を砕く技だった。 だが、戦いを経てからは用途が変わった。ヴォルフガングは鳳凰仮面の頭部を鷲掴みにして、地面に叩き込んだ。 屋根より高い位置から背中から落とされた鳳凰仮面は抗えず、ヴォルフガングの技をまともに受けた。鳳凰仮面の 頭部を中心に地面が円形に抉れ、衝撃波が巻き起こる。それが収まると、鳳凰仮面は気絶していた。無様に手足 を投げ出した鳳凰仮面の上に舞い上がった砂や小石が落ち、ヴォルフガングは膨らませた尻尾を揺すった。 「……笑わせるな」 鳳凰仮面の頭部から手を外し、ヴォルフガングは牙を剥いた。 「貴様如きに何が解る! 何も解らぬくせに、大義名分を振り翳して、他者の世界を踏み躙るな!」 「あんた、一体なんなんだ?」 娘を抱えて屋根の上から飛び降りたネコの男に問われ、ヴォルフガングは少し痺れた右手を振った。 「君達と同じような者だ。生きる場所が少し違うだけで、根底は何も変わらん」 「あ、ありがとう! 助けてくれてありがとう!」 目元に涙を溜めた娘は、震えながらも礼を述べた。ネコの男も、ヴォルフガングに頭を下げた。 「あんたは恩人だ、オオカミの旦那!」 「余計なことではなかったかな」 大したことをしたわけではないのでヴォルフガングが謙遜すると、ネコの男は首を横に振った。 「そんなこたぁねぇよ! 俺には、あんたみたいなことは出来ない!」 「そうか、ならば良かった」 ヴォルフガングは少しばかり目元を緩めると、昏倒している鳳凰仮面を引き摺り上げて担いだ。 「これは適当に処理しておく。騒がせて済まなかった」 二人や見せ物小屋の者達からの礼の言葉を背に受けながら、ヴォルフガングは裏通りの更に奥へと向かった。 礼を言われるのは悪い気分はしない。しばらく歩いたが、鳳凰仮面は重傷らしく、身動き一つしなかった。こんな輩 を本邸に連れて帰るつもりもなければ手当をするつもりもなかったので、手近なゴミ溜めに放り込んだ。その拍子に 金色の覆面と赤い羽根の仮面がずれたので、正体を暴いてやろうかと思ったが、結局暴かなかった。見せ物小屋の 者達のように、この男にもこの男の世界がある。ヴォルフガングは踵を返し、帰路を辿っていった。 久し振りに空気の味が解った。空の色がよく見えた。地面の感触が足の裏に伝わってきた。音を、温度を、痛み を感じる。ヴォルフガングは日が落ちても活気の止まぬ闇市の雑踏を抜け、家路を急いだ。 側近に、息子に、そして妻に会いたくてたまらなくなった。 09 11/16 |