彼女の音が聞こえない。 顎を反らして天井を仰ぎ見た伊号は、霞掛かった意識の中、耳障りながらも洗練されているエレキギターのリフを 無意識に求めていた。アンプにケーブルを繋ぐ金属音、電源を入れたアンプから零れる細かなノイズ、耳で聞いた 言葉をなぞっているために異様に発音が良い英語の歌詞、自分以外の全てを拒絶している音楽、そして、彼女の 気配。寝返りを打とうにも首から下は動かないので、伊号は目を動かした。 竜ヶ崎の自室は、緩やかに朝を迎えていた。大きな窓を覆うロールカーテンを透かして差し込んでくる日差しが、 シーツの波がたゆたうベッドを温めている。真夏の暴力的な鋭さは衰え、日に日に優しくなりつつあった。竜ヶ崎は いつものように誰よりも早く目を覚まし、寝惚けている波号にしがみつかれている。伊号には背を向けていて、糊の 効いた白いワイシャツを着た広く厚い背が見えている。俯きがちなので太い背骨が浮き上がり、肩胛骨がやや前に 出ているので、本でも読んでいるのかもしれない。綺麗にアイロンが掛かったスラックスを履いた足は軽く組まれ、 革靴を履いたつま先がベッドの端から見え隠れしている。彼の左手は腰の辺りにしがみついた波号を支えていて、 波号の肩に添えられた大きな手の指の曲げ方は、深い愛情を感じさせた。 「局長」 寝起きなので掠れた声で呟いた伊号に、竜ヶ崎は振り向いた。 「起きたかい、伊号」 「ロッキーは?」 いつもなら、同じようにこのベッドで竜ヶ崎と戯れているはずなのに。 「君らしくもないね。既に知っている情報を、再確認するとは」 竜ヶ崎は右手に広げていた本を閉じ、サイドテーブルに置いた。 「彼女がどうなったのかも、伊号の能力であれば十秒足らずで知り得られるはずだろう? 存分に変異体管理局の データベースを詮索したまえ、誰も咎めはしないよ。この私が許すのだからね」 「……知りたくねーし」 伊号が顔を背けると、竜ヶ崎は波号を腰から離させた。 「ますます君らしくないね、伊号。ならば、教えてやろう」 竜ヶ崎は腰を上げ、顔を背けている伊号の傍に膝を付いた。柔軟なスプリングが軋み、シーツが歪む。 「呂号は活動限界を迎えてしまったのだよ」 筋肉が張った腕に易々と持ち上げられた伊号は、竜ヶ崎の膝の上に座らされた。 「だが、悲観することはないよ、伊号。呂号は廃棄処分されると言っても、何も殺すわけではない。これまで、呂号が 命懸けで培った甲型生体兵器の実働データ、音波操作能力を参考にして生み出された科学技術、インベーダーの 本土侵略を退けてくれた実績、と、彼女の功績は実に素晴らしいものなのだよ」 「でも、ロッキーは追い出されんだろ?」 竜ヶ崎の指に寝乱れた髪を梳かれながら、伊号が目を伏せると、竜ヶ崎は低く笑った。 「それは語弊があるな。呂号は移送されるのだよ、保護施設にね」 「でも、あたしらは戦うことしか能がねーし。戦っていなきゃ、生きてる意味がねーし」 「そんなことはないよ、伊号」 竜ヶ崎の皮膚の厚い手が、伊号の白い頬をなぞる。 「君達は美しい芸術品だ。これまで私が成し得てきたものの中でも、特に完成されている。伊号も、波号も、もちろん 呂号もだ。誰も出来損ないではないよ」 「そこまで言うんなら、なんでロッキーをここに置いておかねーの?」 「おや、意外だね。伊号は呂号を疎んでいたのではなかったのかい?」 骨格の太い指先が曲がり、伊号の子供らしい丸みが抜け切らない顎を縁取る。 「……別に」 「相変わらず、素直ではないな。だが、そこが君の愛らしさでもあるのだが」 竜ヶ崎は伊号を厚い胸にもたせかけ、薄いワンピースの裾を整えてやった。 「私を恨んでもいいのだよ、伊号」 「なんで?」 「理由なら片手で足りないほどあるではないか。君の脳を改造し、実の親から引き離し、本名を奪ってコードネームを 与え、対インベーダー作戦の最前線に配置し、最強の生体兵器として日々酷使されているのだから。そして、今、 君の掛け替えのない友人をも奪ってしまったのだからね」 「だから、別に友達じゃねーし。でも、あたしが局長を恨むことなんてねーよ。きっと、ロッキーも」 「そうかい?」 竜ヶ崎は言葉尻に笑みを含め、伊号の髪に櫛を入れた。 「そういえば、ロッキーの本名ってなんてーの? この際だから聞いてみるけどさ」 赤いメッシュとシャギーが入った髪を丁寧に梳かれながら、伊号が問うと、竜ヶ崎は答えた。 「下の名前はともかく、名字は伊号も聞き覚えのある名だと思うがね」 竜ヶ崎が口にした名に、伊号は少なからず驚いた。やっぱりか、と思ったのは、心のどこかでは予想が付いていた からなのだろう。だが、それを呂号本人にも彼女にも追求したことはなかったし、ただでさえ心を閉ざしている呂号を 完全に怒らせるのが嫌だから尋ねなかった。けれど、こうなってしまうと知っていたのなら、一度でも踏み込んだ話を するべきだった。伊号も呂号も社会的に抹殺された身分であることに変わりはなく、戦闘では競い合っていたが、 同じ目線で物事を感じ取っている唯一無二の人間だった。採光ゴーグルとヘッドギアが邪魔をしていたので素顔を 見たことはなく、伊号も見せたことはなかったが、それもまた惜しかった。任務を離れたら、生体兵器でも何でもない 同世代の少女同士で話をしてみたかった。話題が噛み合うことはないだろうが、少しでもいいから普通というものを 知っておきたかった。だが、もう、何一つ出来やしない。 呂号は捨てられたのだから。 ディスポーザブル・ヒーロー。 今日という日に、この上なく相応しい選曲だ。つま先でタップしてリズムを取りつつ、呂号は体に染み付いたコードを 押さえてリフを奏でていた。だが、それは現実のものではなく、腕の中に愛用のリッケンバッカーが収まっていると 仮定した上での行動だった。ディスポーザブル・ヒーロー、すなわち、使い捨ての英雄。戦争に駆り出されていく若き 兵士の悲哀を歌った歌だが、背筋を逆立てるリフと脳内麻薬を誘引するドラムが作り上げているヘヴィメタルには 変わりない。だが、今の自分の格好は、御世辞にもその歌に相応しいとは言い難かった。 採光ゴーグルを外されても、両目には眩しい光が飛び込んでくる。体を包んでいる服は、使い込まれたレザーでも なければ、チェーンが付いたホットパンツでもなければ、ピンヒールの編み上げブーツでもない。白く薄っぺらいだけで 飾り気も何もない服だ。検査を受けるたびに着せられていた服に似ているが、根本的に違うのは両手を拘束する 手錠があることだ。チェーンの幅があるのでエレキギターを奏でる格好だけは出来るが、長さが足りないので本物 だったら満足に弾けないだろう。だが、メタルに目覚めてからは肌身離さずにいたエレキギターが手元にないのは 手持ち無沙汰で、呂号は空想の中のエレキギターを掻き鳴らし続けていた。 分厚いドアがノックされると、硬い音が柔らかく反響して鼓膜に至った。呂号は不本意ながら空想のエレキギターを 消して目を向けると、ひたすらに白い壁の一部が長方形に区切られ、その部分だけ光の加減が変化した。部屋の 中よりもドアの外は光量が少ないらしく、見通しが利かない。もっとも、見えるものは光だけであって、光の反射が ないものは何が何だか一切解らないのだが。呂号が見えない目を凝らしていると、足音が近付いてきた。 「なかなか似合っているじゃないか、呂号」 金属的な響きを伴った男の声と、六百キロ以上もの体重が載ったライダースブーツが擦れる音。 「あのイカれたメタルファッションに比べれば、年相応って感じなのよね」 水を通しているような弾力を帯びた女の声と、硬く尖ったヒールが床を小突く音。 「僕に何か用か」 虎鉄と芙蓉に視線を向けずに呂号が返すと、虎鉄は大股に歩み寄ってきた。 「用事って程のものじゃないさ、なあ芙蓉?」 「私達よりも優れているはずなのに耐用年数が短すぎる甲型生体兵器にお別れをしに来たのよ、ねえ虎鉄?」 芙蓉は足元をほんの少し溶かして移動しているのか、波紋のような水音が床に広がった。 「ああ。本当に短い間だったがな」 虎鉄の冷たい手が呂号の襟首を掴み、軽々と持ち上げた。 「なんだよこりゃあ、馬鹿みたいに軽い体じゃないか。こんなガキよりも、俺達の能力は下だってのか?」 「書類の上ではそうなのよね。やっぱり、大量破壊兵器の方が価値が高いって思われがちなのよね」 芙蓉は虎鉄に寄り添って呂号を見上げているのか、粘り気のある視線が届いた。呂号の足元は一メートル以上も 浮いていて、つま先は床どころか壁にも触れていない。頭を反らしていなければ頸動脈と気道が狭まってしまうので 顎を上げていると、虎鉄の太く硬い指がぐいっと呂号の顎を押さえて無理に目線を下げさせた。 「おい、なんとか言えよ。それとも何か、良い歌でも聴かせてくれるってのか?」 「ギターとアンプがなかったら、あなたの能力なんて何の役にも立たないのよね。あなたの音波操作能力は、音波を 媒介するツールがなければ、ただの生意気な歌に過ぎないのよね。うふふふ、可愛いのよね」 芙蓉の滑らかなグローブを填めた手が、つるりと呂号の腕を撫でる。 「あら、細いこと。こんな腕で、よくもこれまでエレキギターなんか弾けていたわね。でも、あのエレキギターも、ドラムも、 アンプも、シンセサイザーも、スタジオも、CDのコレクションも、全部ぜぇーんぶ私達のものになるのよね。でも、私も 虎鉄も音楽なんて出来やしないから、能力の試験対象になるだけなのよね」 「僕のものを壊すのか」 これには不快感を覚えた呂号が眉根を曲げると、虎鉄はヘルメットを被った顔を寄せてきた。 「いいや、違う。この世の中にお前のものなんかない、あれは最初から変異体管理局の備品に過ぎなかったんだ。 お前自身が備品なんだから、備品が備品を所有出来るわけがないだろ。馬鹿言ってんじゃねぇぞ」 「それぐらい当の昔に自覚している。お前達に言われるまでもない。僕はそこまで馬鹿じゃない」 「いいや、馬鹿だな。お前も備品ってことは、生体兵器であるがために法律がほとんど適応されない俺と芙蓉が お前をどうしようと、誰も何も文句を言わないってことだよ!」 虎鉄の腕が突っ張り、呂号の背が壁に押し付けられる。硬い手のひらが喉を潰し、息を詰めてくる。 「……くぁっ」 「死にたくなければ、俺達に刃向かってみたらどうだ?」 自殺防止にクッションが張られた壁と虎鉄の腕の間に挟まれた呂号は声を出そうとするが、喉が塞がれたために 呼吸すらも上手く出来なかった。抵抗しようと両手を上げようとするが、虎鉄に触れては両手が鋼鉄と化してしまう。 両足も素足だし、呂号では虎鉄ほどの体重の持ち主を動かせるとは到底思えない。漆黒のヘルメットがすぐ目の前 にあるらしく、バイザーに反射した光の筋が見えない目を刺してくる。ごきり、と虎鉄の親指の尖端が呂号の喉骨を 抉り、息苦しさと吐き気が込み上がってくる。見えないはずの目が眩みかけた時、声がした。 「聞こえるか、呂号。手荒な真似をしてすまん」 それは、先程までの剣幕とは正反対の虎鉄の声だった。呂号は涙の滲む目を瞬かせた。 「聞こえているようだな。だが、この状態も長くは持たない。手短に済ます」 何を、と唇を開きかけた呂号に、虎鉄は捲し立てた。その声は、骨を直接揺さぶった音として耳に届いていた。 「これから、お前は沖縄近海の離島のミュータント保護施設に移送されるが、そんな場所に行ってしまえば、お前は 二度と自由を味わえなくなる。だから、俺と芙蓉が輸送用のヘリに細工し、故障するようにしておいた。GPSの目的 地は保養所のある島に変更した。あの島に行けば、生き延びられるはずだ。ヘッドギアの記録装置を俺と芙蓉の力で 再生させて中身を見たが、助けてくれる当てもあるようだからな。甚平君のことだから、必ずまたあの遺跡を見に来る はずだ。彼なら忌部島に連れて行ってくれるはずだ、どうか生き延びてくれ。これから着せられる拘束衣と手錠には 芙蓉が手を加えてあるから、少し抵抗すればバラバラになるはずだ。ヘリには、俺の私物だがフェルナンデスの ZO−3を積んでおいた。少しは役に立つはずだ」 呂号が文句を言いたげに唇を歪めると、虎鉄は手を緩めて呂号を床に投げ出した。呂号は激しく咳き込んで喉と 気道を開いて呼吸を取り戻してから、涙の滲んだ目を上げて虎鉄を睨んだ。 「……何だと?」 「一人前に言い返すだけの根性はあったか」 また元の調子に戻った虎鉄が一笑すると、たぷん、と水音をさせながら芙蓉が滑り降りてきた。 「やれるものなら、やってみるのよね。呂号ちゃん?」 芙蓉の生温い手が呂号の髪から耳元までぬるりと撫でると、水が耳の穴を浸食して鼓膜を塞ぎ、また声がした。 「今までが今までだったから、私達のことを信じてくれなくてもいい。だけどね、あなたが生きるためにはそれ以外の 手段がないのよ。それだけは解って、お願いだから」 耳の穴から水が抜ける直前に、芙蓉はひどく懐かしい名で呂号に囁きかけた。どうしてその名を知っているんだ、と 問い掛けたくて呂号は腰を浮かせかけたが、虎鉄は呂号を蹴って容易く転ばせた。 「器物損壊で懲罰を喰らいたくないからな、この辺で失礼するぜ」 虎鉄は肩を揺すって笑い、芙蓉はにゅるりと体を引っ込めて虎鉄の傍に戻った。 「じゃあねぇん。素敵な余生を送るといいのよねぇん」 ひらひらと手を振っているらしく、芙蓉の周囲に反響する音が波状に変化した。呂号は二人を引き留めようと腕を 伸ばしかけたが、分厚いドアが閉められて施錠され、壁とドアの間にシリンダーが差し込まれる摩擦音が聞こえた。 どうしてその名前を知っている。甲型生体兵器となってからは、誰にも言わず、誰にも呼ばせず、自分の中だけに 押し込めていた本名なのに。憎らしくて疎ましく、忘れたくてたまらないのに、どうしても切り捨てられなかった名だ。 これまでは敵意も興味も抱いていなかった虎鉄と芙蓉に強烈な執着を感じて、呂号は二人が消えていったドアまで 這い寄ろうとするが、息苦しさが残っていたのでその場に座り込んで咳き込んだ。生理的な涙に混じる感情的な涙を 白衣の袖に染み込ませながら、呂号は背を丸めて震えた。嬉しさよりも恐ろしさが勝り、腕に爪を立てた。 希望なんて、欲しくない。 10 10/14 |