南海インベーダーズ




ウェルカム・ホーム



 項より少し上、生え際と肌の境目。
 真新しい傷が痛みを生じ、かすかな血の匂いが鼻先を掠める。止血と殺菌の効果がある膏薬を貼られた首筋を 気にしながら、呂号は廊下を歩いていた。一歩、一歩、ピンヒールで踏み締めていくが、新築の匂いがする校舎の 床板には木目の節があり、たまにヒールが引っ掛かりそうになる。それが原因で転んでしまっては情けなさすぎる ので、呂号は真正面に向いている格好をしながら足元に細心の注意を払っていた。
 生徒のいない校舎には不要だとしか思えない職員室を出て右に向き、約三十歩。手を伸ばして最初に触れたのは 窓で、次は窓枠、その次は壁だった。ささくれを指先に刺してしまえばギターの演奏に差し障りが出てしまうので、 出来るだけ慎重に手のひらを這わせると引き戸の取っ手が見つかった。呂号はそれを横に引いて開けると、ぷんと カビ臭い空気が流れてきた。古臭くて野暮ったいが、どこか心安らぐ匂いだ。呂号は後ろ手に引き戸を閉めて室内 を見回すが、月明かり以外の光源が見当たらなかった。大方、甚平は読書に熱中するあまりに明かりを付けるのを 忘れてしまったのだろう。甚平らしいが、正直言って迷惑だ。

「おい。暗いぞ」

 呂号が不躾な言葉を投げると、遮蔽物が規則正しく並んでいる部屋の隅でごそごそと物音がした。

「あ、う、うん。ごめん、今、付ける」

 紙が捲られる音、厚い本が重なる音、マッチを擦る音と火が灯る音。それが終わると、光が目に届いた。

「あ、えと、で、どうだった? ゾゾに、体、診てもらったんだよね?」

 ランプを手にした甚平は不安げに呂号を見下ろしてきたのか、エラが開閉する音も近付いた。

「僕は死ぬ」

 率直な結論を言い切った呂号に、甚平は苦笑した。

「あ、ああ、うん、まあ、そりゃ、生けとし生ける者はいずれ死ぬ運命にあるから、間違いじゃないけど」

 甚平は呂号の肩に軽く手を添え、促した。呂号はレザージャケット越しに触れる太い指が示す先に、歩いた。

「ゾゾは面倒な言い回しで細々と説明してくれたが要点を掻い摘めばそうなる」

「あ、まあ、うん。そうだけどさ。その説明が大事っていうか」

 甚平は呂号を椅子に座らせて、自分も向かいに座り、ランプを置いた。呂号はその上に両足を投げ出した。

「あいつは僕が思っていた以上に博識だ。だから僕の語彙が追い付かない。僕の首に尻尾の先を突っ込んだだけで 何が解るのかはさっぱりだがきっと何かが解ったんだろう。ゾゾが言うには僕の脳は例の肉片のせいで常に圧迫 されている状態にあるらしい。視神経も圧迫されているから神経の伝達が鈍って視力の回復も遅れているのだと。 チュウスイシンケイだとかゼントウヨウだとかノウカンだとか他にも色々言っていたが意味が解らなかった。彼とやら の肉片が僕の肉体に免疫反応を起こさないようにしているからアクセイシュヨウとして認識されずにいるとも言った。 だがこのまま放置しておけば彼とやらの肉片がセイタイカッセイを失って異物と化して僕の命を脅かすとも言った」

「あ、あー、うん。そうだよね、うん、それが道理っていうか」

「そうか甚平には意味が解るのか。ならば続けよう。彼とやらの肉片が僕やイッチーやはーちゃんの能力を最大限に 引き出している理由は彼とやらの肉片が僕らの能力を向上させているのではなく僕ら自身の免疫能力の結果に 過ぎないのだそうだ。僕や甚平を含めたミュータントは大なり小なりの機能障害を生まれ持った人間が状況に適応 した結果で能力を得ているのだとゾゾは言っていた。局長はその免疫を利用して僕らの能力を著しく増幅させた のだとも。だがそれが人間というデリケートな種族にとっては負担であることにはなんら変わりなく過剰に能力を行使し 続ければ老化速度が一気に速まってしまうのだとも言っていた」

「あ、うん、うん。それも道理っていうか」

「だからゾゾはこうも言った。僕だけでなくお前達全員のセイタイセンジョウを行わなければ十数年もせずに全員が 死んでしまうと。特に……乙型一号が良くないと。乙型一号は秀でて強力な能力を持っているがそれ故に消耗も早く 脳細胞の劣化も早い。現時点では本人の若さと体力と生命力があるから補えているが現在のペースで能力を行使 していては死期が数十年早まってしまうのだとも。だからその事態を防ぐためにも彼の復活が不可欠なのだとも」

「あ……うん」

 ぎし、と椅子の背もたれが軋み、甚平は背を丸めたようだった。

「あ、えと、それについては僕も薄々感じていたっていうか、僕じゃなくても感じるっていうか。うん……」

 甚平は口の中でもごもごと舌を動かしていたが、口を開いた。

「僕もだけど、その、姿形が人間から懸け離れても、僕達は所詮は人間の器から脱しきれないっていうか、根本的な 部分はただの人間に過ぎないっていうか。海に潜っていても、やっぱり、うん、そういうことは感じる。僕は水陸両用 だけど、長々と海中に潜っていると落ち着かないっていうか、場違いな気がするんだよ。で、僕の周りを泳いでいる 魚やサメを見たりするんだけど、皆、その世界で生きてきたから気後れなんてするわけがないし、ありのままの姿で 生きている。だけど、僕は違う。サメの皮を被った、ただの人間に過ぎない。だから、僕はサメにはなりきれないし、 サメになろうだなんて思えない。おこがましいから」

「だが僕やお前は人間ではない」

「そう、うん、それなんだよね」

 甚平はテーブルに載せたランプをずらしたのか、光源が移動した。続いて、べらべらと紙が捲られた。

「それを踏まえて考えると、もうちょっとだけ事態が変わってくるっていうか。竜ヶ崎全司郎っていうか、本家の御前様 っていうかの目的って、単純にニライカナイに行くだけじゃないような気がする」

「だがゾゾはそれについて何も否定しなかった。局長は理想郷に至る道を開きたいのだと。甚平はどう思う」

「あ、うん。僕が思うに、この出来事の肝って、やっぱり龍ノ御子じゃないかなぁ」

「それについてはゾゾは何も話したがらない。僕も聞いてみた。だが黙っていただけだった」

「うん、そうなの。だから、僕も最終的な判断が出来ないっていうか、解りかねるっていうか……」

 甚平は埃っぽい匂いがする本のページを開き、鼻先を押し付けるようにして覗き込んだらしく、影絵が動いた。

「あ、えと、忌部島の郷土史に寄れば、その龍ノ御子になったって人、えと、名前は竜ヶ崎ハツっていう女性だけど、 その人は生きながらにして神になったとか書いてあるけど、要するに境界を越えたってことなんだろうなぁ。あ、境界 っていうのは、現世、つまり、この世と、常世、つまり、あの世の境目って意味ね。簡単に言うと。んで、その境界を 越えるっていうのは、その当時の人智を越えた知識を得るとか、神隠しに遭って行方不明になっちゃったとか、人身 御供として神様に捧げられるとか、色々ある。でも、このハツって人のことについては、ほとんど書いていない。他の 項目、要するに竜ヶ崎家と滝ノ沢家と忌部家の御三家の繁栄とか家系図とかがだらだら書いてあるけど、肝心要の 部分は、龍ノ御子と成りて儀来河内へ至る道を開いて呉れた、ってだけ。短いね。これは書いていないっていうか、 本当は書くべきことを知らないから書けないんじゃないだろうか。だとすると……」

「だとすると?」

「うん。竜ヶ崎全司郎が僕らを叩き潰す機会なんて、いくらでもあったっていうか、ないわけがないっていうかだった のに、直接攻撃を仕掛けてきたのは、虎鉄さんと芙蓉さんが一度だけっていうはちょっと変だなって気がしないでも なかったんだけど、そう思うと腑に落ちる」

「まどろっこしい。結論から言え」

「あ、ああ、うん。えと、その、竜ヶ崎全司郎は、ニライカナイへの行き方を知らないんじゃないだろうか」

「だが本家の御前様だぞ」

「うん、そう、本家の御前様。でも、なんで、この島の名前は忌部島なの? 本家の御前様って言うからには、一族の 頂点にいるわけで、となると、忌部島の所有者が分家である忌部家なのはおかしいっていうか」

「言われてみればそうだ」

「でしょ? だけど、忌部さんに聞いてもよく解らないし、知りたくもないって言っていた。まあ、あの人は色々と複雑な 背景を背負っているから、自分の血族に嫌悪感を持つのは仕方ないとは思うけど、曲がりなりにも忌部家の御前様 なんだからもうちょっと自分の家系について知っておくべきっていうか。その辺についても、また調べなきゃなぁ」

「また保養所のある島の海底遺跡に行くつもりか」

「あ、いや、そっちはもういい。調べることは大体調べ終わったから、今度は本土に行って調べたいけど、毎度毎度 紀乃ちゃんに頼むのは悪いし、平気な顔はしているけど疲れているだろうし……。まあ、いずれ機会は訪れるはず だから、その時を待った方がいいかなぁ」

「機会? 何かアテでもあるのか」

「アテっていうほどのものじゃないけど、うん、勘って言った方が正しいかな。根拠もないし。でも、近いうちに竜ヶ崎 全司郎は僕らに接触してくると思うんだ。露乃ちゃんの一件もそうだけど、ここ最近、なんか動きが派手なんだよね。 この前、僕と紀乃ちゃんと忌部さんの三人でフィールドワークに出掛けた時も、紀乃ちゃん目掛けて機銃掃射をした ぐらいだから、じっとしているとは思えない。まあ、どういう形で、までかは解らないけど。でも、まあ、うん、その機会 がなかったら、また海底を歩いて本土まで行けばいいんだけど。ちょっと時間掛かるけど」

「歩くのか。泳ぐんじゃなくて」

「あ、うん、そう。だって、僕、泳げないから」

「サメなのにか」

「そう、サメなのに。だから、僕はサメの皮を被った人間なんだ」

 恥じらいと照れを交えて、甚平は笑った。呂号は笑うべきか笑わないべきかと考えたが、結局、反応しないことに した。笑ってやるのが筋なのだろうが、生憎、そこまでの愛想は持ち合わせていなかった。甚平は自虐しているが、 彼なりに自尊心があるはずだ。笑うのは容易いが、それが嘲笑になってはよくない。他のインベーダー達とまともな 関係を築きたいとも思っていないが、甚平は少し違った。紀乃の従兄弟だと言っていたから、呂号にとっても甚平は 従兄弟なのだ。紀乃には親近感も血の繋がりも感じないが、甚平はこれまでにも接してきたからだろう、近付いても 気を張らずに済んでいた。過剰に触れてこないことも、呂号と適度に距離を置いてくれることも、この人になら気を 許してもいいと思える理由だ。呂号は立ち上がり、本棚に立てかけておいたギターケースを開けた。

「何が聴きたい。J−POP以外でだ」

「あ、うん、えと。露乃ちゃんが好きなのでいいよ。僕は、その、音楽はさっぱりだから」

「その答えを大いに惜しむんだな。僕のギターは世界に通じるのだから」

 呂号は大口を叩いて照れを隠し、じゃらりとエレキギターの弦を爪で弾いた。離島とはいえ、夜中なので他の面々に 気を遣い、呂号はエレキギターに内蔵されているアンプの電源を入れずに弾くことにした。聴力と能力が衰えても 完璧な音感は備わっているので、チューニングも正確だ。楽譜も歌詞も忘れるわけがない。呂号は深呼吸して肺に 新鮮な空気を溜め込み、滑らかにイントロを弾き始めた。メタリカのウェルカム・ホーム。副題はサナトリウム。
 穏やかだが音程の低いバラードが図書室を満たし、跳ね返り、鼓膜を叩いてくる。エレキギターの音量に合わせて 声を張らずに歌いながら、呂号は甚平の反応が気になって仕方なかった。リクエストされた場合を除き、今まで誰かに 聴かせるために歌ったことはほとんどない。飽くまでも自分が楽しむために、自分を喜ばせるために、自分に届く音を 遮って自分の世界を作り上げるために、歌っていた。だが今は、付き合いの良い甚平にお返しをしなければと思った から歌わずにはいられなくなった。感情を外に出すのはどうにも苦手だが、歌となると別だった。
 ウェルカム・ホームの歌詞は、隔離施設という閉ざされた世界に沈んだ男が、厳かに己の死を見つめている内容 である。死を疎むどころか親しみを覚え、さながら親交の深い友人のように思っている。変異体管理局側に付いて いようとも、インベーダー側に屈そうとも、いずれ訪れるであろう死の意味は変わらない。ただ、死する場所が違うと いうだけだ。自分は戦って死ぬべきであり、そうなるものだとばかり信じていた。ついこの前まで味方だった竜ヶ崎ら と敵対するのは抵抗があり、心から慕ってきた男を易々と蔑めるものでもない。けれど、どちらに向いていようとも、 死に神の鎌が首に掛けられている状態であることになんら変わりはない。
 その瞬間を恐れないために、歌うのだ。




 夢は見なかった。
 日溜まりの暖かさと若干埃っぽいがふっくらとした布団の心地良さに包まれて、呂号は目を開いた。手を伸ばすと エレキギターが触れ、ぴん、と弦が小さく鳴った。いつのまに寝入ったのだろう、と見えないなりに目を瞬かせながら 起き上がると、レザージャケットを脱いでタンクトップ一枚になった背中にヒレが引っ掛かった。手で探りながら後ろに 向くと、布団からはサメの形をした影がはみ出していた。更に確かめてみると、甚平は布団の上ではなく、床の上で 丸まって寝入っていた。どうやら、ひとしきり歌った後に寝入ってしまった呂号に布団を譲ってくれた上、当の本人は 文句も言わずに床で眠ったらしい。気が良いというか、弱いというか、優しすぎるというか。

「……ふん」

 呂号は寝乱れた髪に指を通しながら、顔を背けた。カーテンを閉め忘れていたのか、朝日が容赦なく降り注いで きた。すると、廊下側の窓から差し込む光が足音に合わせて途切れ、引き戸が開かれた。

「なんだ、こっちで寝ちゃったの? 私の部屋に来れば良かったのに」

 声の主は紀乃で、体の周囲に何かを浮かばせながら図書室に入ってきた。

「悪いか」

 編み上げブーツを履きながら呂号が反射的に言い返すと、紀乃は苦笑した。

「悪くはないけど、なんだかなぁって感じ。呂号、そんなに甚にいのことが好きなの? ちょっと意外」

「好きなわけがあるか。やりやすい相手だというだけだ」

「それが好きってことなんだってば」

「そうなのか?」

「そうなんだよ。悪いことじゃないけど、程々にね。甚にいは大人しくていい人だけど、一応、男の人だから」

「なぜだ」

「なぜってそりゃあ、うん……」

 紀乃は曖昧な語気になり、呂号の腕に軽く手を掛けて引っ張った。

「その続きはお風呂で話そうか。布ナプキンの使い方もちゃんと教えたいし。呂号は私と同い年なんだから、生理が 来るでしょ? 用意しておかないと大変なことになっちゃうからさ」

「そんなものは僕には必要ない。僕に触るな」

 紀乃の手を振り払い、呂号は足早に歩いた。手のひらには姉の体温と薄く浮いた汗の湿り気が貼り付いていて、 むず痒かった。背後からは、紀乃が気落ちしている気配が伝わってくる。呂号のピンヒールの高い足音に重なり、 紀乃のサンダルの足音が聞こえてくる。本音を言えば、紀乃のことは家族だと思いたかった。甚平のように親しみを 感じられているように、紀乃に対しても尖っていない感情を抱けるはずだ。だが、甲型生体兵器として戦っているうちに 染み付いた意地とプライドは簡単に消え去るものでもなく、対インベーダー作戦に際して徹底的に教え込まれた 軍事教育による価値観も抜けていない。敵だと思わなければ死ぬ。戦わなければやられる。やり返さなければ 日本が、世界が滅びてしまいかねない。国土と国民と首都を守る盾。盾であり矛。史上最強の大量破壊兵器。
 外に設置された風呂場に通じる引き戸を開けて、呂号は一旦足を止めた。紀乃の足音は遠く、落ち込んだ様子で 歩いてくる。表情こそ見えなかったが、紀乃は泣きそうな気配がしていた。強烈な罪悪感に駆られた呂号は、一瞬、 駆け戻ろうとしたがヒールを敷居に引っ掛けてしまい、思い止まった。呂号は再び進行方向に向くと、大股に歩いて 紀乃との距離を広げたが、意地とプライドで込み上がるものを押し潰した。
 姉は侵略者で、自分は生体兵器だからだ。





 


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