確かに、在る。 前髪を掻き上げて額を曝し、鏡と向き合いながら、波号は奇妙な感覚に陥っていた。自分の顔が、ちゃんと自分の 顔だと認識出来る。見知らぬ誰かの顔だと思う、嫌な瞬間がない。自分が自分であることを思い出すために時間を 掛ける必要がなくなっている。自分の名前、過去の記憶や経験、感情までもが簡単に思い出せる。それまでは、 歯抜けだったものが何かで埋め合わせられている。隙間だらけなのに尖っていた自分という人格が、不安定なのに 力ばかりを求めていた自分の根幹が、ようやく見定められた。 計り知れない解放感と泣き出しそうなほどの安堵と共に、途方もない罪悪感が膨れ上がる。年代物の三面鏡には 正面と左右の自分が映っていて、見るからに病弱な少女が波号を見つめ返していた。表情は怯えで強張っていて、 母親である一ノ瀬真波の面影が濃く現れていた。真波が実の母親であるとを知ったのは、真波の生体情報を摂取 して体内に蓄積させた時だ。竜ヶ崎の生体組織を摂取したことによって大幅に拡張した波号の能力を生かすには、 波号自身の知識を水増ししなければならなかった。そのために、変異体管理局に勤める局員達からありとあらゆる 知識や記憶を摂取し、対インベーダー作戦の主任である真波からも得た。その際、真波からは波号に対する嫉妬と 憎悪が大量に流れ込んできたので慌てて知識以外を削除したのだが、真波が波号を産んだ際の記憶だけは削除 出来なかった。妾の一族である真波にとっては、母親の相手であった竜ヶ崎を寝取って子供を孕んだことが何よりの 幸福であり、誇りでもあった。だから、波号が腹の中にいる間は愛情深く育てていたが、いざ産んでみると波号が 女だったので愛情が全て憎悪に塗り潰された。自分の娘にさえも嫉妬するのだから、余程、竜ヶ崎は真波の母親と 真波に差を付けていたのだろう。竜ヶ崎の経験と記憶は読み取れていないが、読み取りたくないと心から思う。 「怖い……」 波号は三面鏡の前で両腕を抱き、俯いた。竜ヶ崎邸にて波号に宛がわれた部屋は八畳間の客間だったが、私物は ほとんどなかった。家財道具である三面鏡とタンスと座卓も備え付けられていたもので、仕立ての良い布団だけは 後から運び入れたものだ。隣の客間は伊号の部屋なので、彼女の生命維持には欠かせないケーブルが廊下を 這い回り、絶え間ない電子音が聞こえる。だが、波号の部屋には何もない。竜ヶ崎が読んで聞かせてくれた絵本や、 伊号が好んで読んでいたファッション雑誌や、呂号のエレキギターの音色も聞こえない。秋葉が笑顔を向けて くれることもなければ、山吹が遊んでくれることもなければ、包帯まみれの忌部が相手をしてくれることもない。 「もうやだ、こんなの、元に戻してよ」 波号は三面鏡を閉じ、頭を抱えて座り込んだ。自分でぶち壊しにしたくせに、なんて虫のいいことを言うのだろう。 だが、竜ヶ崎から生体組織を与えられた時は、こんなことになるとは夢にも思わなかった。竜ヶ崎に言われた通りの ことをするのが、かつての波号の幸福だったからだ。君はいい子だね、偉いね、と言ってくれるから、竜ヶ崎にだけは 逆らうまいと心に誓っていた。だから、言われた通りに薬を飲んだ。竜ヶ崎から促されれば、自分から口を開けて 銜えに行った。精一杯、竜ヶ崎を悦ばせる技術を覚えた。呂号のように廃棄処分されたくなくて、伊号よりも自分が 優れていることを見せつけたくて、言われるがままに戦った。秋葉でさえも傷付けた。 「君は、それを後悔している?」 波号の口が勝手に動き、波号ではない声で波号以外の誰かが喋った。 「あなた、誰?」 波号が自分の意志で問い返すと、波号の内にいる誰かは答えた。 「識別名称はヴィ・ジュル。少し前までは電影と呼ばれていた。昨日君が暴走した時、ヴィ・ジュルは友達を守るために 君の能力を制御下に置いた。その際、ヴィ・ジュルは君が生まれつき損なっているものを補うため、君と同化する 道を選んだ。だから、今、ヴィ・ジュルは君であり、君はヴィ・ジュルでもある。同化した際、ヴィ・ジュルは君について 深く深く理解した。君の能力は凄まじいが、それ故に負担が計り知れない。十年間も生存活動が継続出来たことは 奇跡にも値する結果であるが、コピーするたびに君は君自身を失っている。記憶障害は能力の副作用である同時に 君自身を守るための自己防衛措置でもあるが、それも最早限界だ。ヴィ・ジュルはそう判断する」 「やっぱり、あなたもそう思う? 私もね、自分で自分がよく解らなくなっちゃったの。誰かをコピーすると、私は私じゃ なくなるだけじゃなくて、外側の私と内側の私が出来ちゃったんだ。今は内側の方。パパの傍に行ったり、戦ったり すると、私は外側の私だけになっちゃう。でも、それは本当の私じゃない。偽物の私なんだ」 三面鏡を右側だけ開いた波号は、半分だけ映った自分を見る。口が動き、再びヴィ・ジュルが喋る。 「ヴィ・ジュルはこう分析する。君が外側と称した外部人格と内部人格を統合すべきだ。でなければ、人格の根底を 支える脳そのものが致命的な損傷を負う可能性がある。そして、人格統合が完了するまでは、一切能力を使わずに いるべきだ。それまでにコピーした他人の能力も同様だ」 「でも、そんなこと、パパが許してくれないよ」 「それについてはヴィ・ジュルは同意する。ゼン・ゼゼ、通称、竜ヶ崎全司郎は君に対して並々ならぬ執着を抱いて いる。能力の汎用性の高さだけではない、君自身に対してもだ。それが危険であることは、君は理解している」 「うん。だって、私、パパの子供なんでしょ? 主任もパパの子供なんでしょ? だから、私はパパと一緒になっちゃ いけない。私みたいな子供が増えたら嫌だし、また、パパが道具にしちゃったら嫌だから」 「そうだ。だから、ヴィ・ジュルは進言する。今こそ君は戦うべきだ、自分自身と、竜ヶ崎と」 「だけど、私はパパを裏切りたくないよ」 波号は三面鏡の右側を閉じてから、左側を開いて自分を見据えた。 「私がパパから離れたら、イッチーはどうなるの? 自衛隊や、局員さんや、他の人達はどうなるの? それが怖い から、パパの道具でいるの。パパを一番近くで見ていれば、もしかしたら、パパを止められるかもしれないから」 「しかし、ヴィ・ジュルは判断する。君は竜ヶ崎を攻撃出来ない」 「うん」 「そして、こうも判断する。君を愛してくれるのは竜ヶ崎だけだと思っている」 「うん。主任は私を産んだけどお母さんにはなってくれなかったし、むーちゃんと丈二君だって、国防のお仕事だから 私と遊んでくれただけなんだ。むーちゃんと丈二君が本当の家族だったらいいな、って思ったことは一杯あるけど、 でも、無理だもん。だから、私にはパパしかいないの」 三面鏡に映る左半分だけの自分を見、波号は頬を引きつらせた。どれほどいびつであろうと、愛してくれるだけでも 充分だ。産み捨てられたも同然の波号が生きていられるのは、竜ヶ崎が目を掛けてくれたからだ。ミュータントの 中でも特異な能力を引き出してくれて、有効活用してくれた。それ以外に波号が生きる道はないのだと、解り切って いるからだ。けれど、そう思えば思うほどに、暴走した際に半ば故意で並列空間に転送した、住宅街やマンションが 頭を過ぎる。有り触れた家族が有り触れた人生を送っていた場所が羨ましくて、狂おしくて、壊してしまいたくなった からだ。ごく当たり前の幸せは、自分からは最も縁遠い位置にある。それを得られないのなら、いっそ。 「けれど、君はそれについても後悔している。ヴィ・ジュルはそう理解する」 波号の口が別人の声を発すると、波号は目の縁に熱い体液が滲み出た。 「……うん」 妬めば妬むほど、僻めば僻むほど、普通は遠のいていく。一般市民の生活を守るのが甲型生体兵器である波号 の仕事なのに、それに嫉妬して破壊しては本末転倒だ。けれど、今も目に焼き付いて離れない。波号が並列空間に 転送したマンションのベランダで揺れていた洗濯物や、民家の庭に出ていた三輪車や、原色のおもちゃや、窓から 垣間見えた子供の下手な絵や、家族の肖像が。ヴィ・ジュルのおかげだろう、波号の記憶はいつになく鮮明で、 端々まで思い出せるのが嬉しくもあり、非常に辛かった。膝を抱えた波号は背を丸め、目を閉じた。 八畳間は変異体管理局で割り当てられていた自室よりも狭かったが、寒々しさは変わらなかった。九月の初めで 蒸し暑い気候であっても、波号の肌に汗は滲まない。むしろ、鳥肌が立つほどだ。布団の中に潜り込めば、一時は 柔らかな感触に包まれるが、目を覚ませばまた同じことだ。秋葉の元に駆け寄って抱き付きたくなったが、秋葉は 戦いから遠ざけるために傷付けた。一度目は肩を脱臼させ、二度目は背中の皮を浅く切った。その成果だろうか、 近頃、秋葉の姿を見かけない。山吹も姿をくらましたようだし、きっと二人で遠い場所に行ったのだろう。山吹と秋葉 が知らない土地に行き、夫婦になって幸せな家庭を築いていく様は容易に想像出来る。山吹の体が体なので子供 は望めないだろうが、明るい家族になるのは受け合いだ。その光景を間近で見てみたいものだが、二人に迷惑が 掛かるので想像だけで止めよう、と波号は瞼を開いた。すると、廊下が軋み、障子戸に大柄な影が落ちた。 「波号、起きているかい?」 「なあに、パパ?」 思考を中断し、波号は必要以上に幼い口調で問い掛けた。障子戸が開き、竜ヶ崎が見下ろしてくる。 「電影の本体である赤い勾玉、ヴィ・ジュルを知らないかね? あれがなければ、私の本懐は果たせぬのでね」 「知らないよ?」 波号は鼓動が跳ねたが、生体電流を調節して脳波を落ち着かせた。竜ヶ崎は一度瞬きする。 「本当かね?」 「私がパパに嘘なんか吐くわけないもん」 波号が拗ねてみせると、竜ヶ崎は膝を付いて波号と目線を会わせた。 「そうか、それはすまなかったね」 竜ヶ崎の四本指の手が伸び、波号の髪を撫で付けてきた。人間よりも体温の低い指が丸い頬を包み込み、悠長な 仕草でなぞり、顎から首筋まで辿った。ボタンを留めきっていなかったシャツワンピースの襟元に入ると、竜ヶ崎は ざらついた手のひらを薄い胸元に滑り込ませ、波号の幼い体を確かめてくる。 「では、確かめさせてくれるね?」 竜ヶ崎は口調こそ穏やかだが、拒否を許さない威圧感が宿っていた。波号が小さく頷くと、竜ヶ崎は尻尾の尖端で 障子戸を閉め、波号を布団の上に横たえた。障子戸を透かして差し込んでくる昼下がりの逆光を浴びて、竜ヶ崎は 波号を見下ろしてくる。紫色の巨体の中で赤い単眼が目立ち、竜ヶ崎家の家紋が入っている藍色の着流しの裾が 割れて長い尻尾がぬるりと現れた。それが竜ヶ崎の手に変わって波号の薄い胸元に滑り込み、シャツワンピースを 不気味に膨らませながら、胸から腹、腹から太股に這い回る。細く硬い尖端が下着を持ち上げると、ぐ、と最深部に 押し込まれる。異物が体内に侵入してきた痛みと圧迫感で波号が呻くと、竜ヶ崎は厚い瞼を上げた。 「波号。君はヴィ・ジュルを知らない、と言ったね? 言ったはずだね?」 ぐい、と尻尾の尖端が曲がり、波号の狭すぎる胎内を捻る。 「う、ぐぇ……」 腹を裂かれるような痛みと本能的な恐怖で、波号は脂汗を滲ませる。竜ヶ崎は波号の震える体を引き寄せると、 唇を歪めて呻きを堪える波号の耳元で、ねっとりと囁いた。 「では、これは何だね? 君の体液に混じっている生体反応について、どう説明するつもりかね? 珪素生物回路に 他ならないではないか。私に嘘を吐ける立場ではないと重々承知しているはずだろう、波号?」 「う……うそ、じゃ、ないよぉ。そんなの、知らなかっただけだもん。だって、私、あの時、何が何だか解らなくて」 「いや、嘘だね。ヴィ・ジュルの生体反応が馴染み切っている。手に入れるどころか、奴を吸収したのか」 「うぁ、あぁ……」 嘘を吐いていたことを悟られた。波号が苦痛に喘ぐと、竜ヶ崎は口の端を歪めた。 「並列空間に接続出来るほどの空間跳躍能力を使えたことについては、褒めてやろう。それが立証出来なければ、 ワン・ダ・バの生体情報を全てコピーしても、まずニライカナイへは行けん。珪素回路であるヴィ・ジュルがなければ 次元乖離空間跳躍航行技術は使用出来んのだよ。そのヴィ・ジュルの重要性について、私は教え込んだはずだ。 違うかね? それなのに、ヴィ・ジュルを吸収したことを言わずにいるとは、どういうことかね?」 「ご、ごめんな、さ、いぃぎぇっ!」 謝る最中に尻尾が深く押し込まれ、波号は痛みのあまりに痙攣した。 「まあ、ヴィ・ジュルの生体情報を操れる状態となったのだから、ひとまずは良しとしようか。私の生体情報とゾゾの 生体情報を合成し、復元すればいいだけのことなのだからね。後で食事を運んでこさせよう。あの愚かな男の腕は 肉も硬ければ筋が強くてな、食べやすくするだけでも一苦労だったのだよ。だから、存分に味わってくれたまえ」 波号の中心から尻尾を引き抜いた竜ヶ崎は、尖端に絡む体液と薄い血の筋を、丹念に舐め取った。 「はい、パパ」 波号が弱々しく答えると、竜ヶ崎は波号の耳元に口を寄せる。 「食事を済ませたら、粛清を始めよう。私がニライカナイに至るために不要なものは、全て処分しなければ」 「はい、パパ」 波号は涙目で頷くと、竜ヶ崎は満足げに頷き返し、客間を後にした。途端に全身から汗と涙が溢れ出し、波号は 外気が暑いのか寒いのか解らないほどの混乱に襲われた。がちがちと顎は震えて肌は粟立つが、汗が止まらず、 涙混じりの雫がぱたぱたと畳を叩く。下半身には違和感と痛みが残り、まだ尻尾が中に入っているかのようだった。 怖くなんかない、ああいうことをされるのはとても幸せなことだ、と自分に言い聞かせようとするが、ヴィ・ジュルの 声も同時に頭の中に響いてくる。あれは愛情ではない、ただの欲望だ、とヴィ・ジュルは判断する、と。反論したくても、 拭いきれない恐怖が思考を掻き乱してくる。立ち上がろうとしても、膝に力が入らない。助けを乞おうとしても、喉が 痛んで声が出ない。自分自身が認識出来るようになったことで自分の状況も認識出来るようになっていなければ、 こうはならなかっただろう。きっと、竜ヶ崎の寵愛を受けられたことが、途方もない幸福だと信じ込んでいたはずだ。 だが、そうではないのだ。竜ヶ崎のねじ込んだ欲望が鋭い痛みを生み、波号の心中をも抉っていた。 最初から、愛されてなんかいなかったのだ。 はーちゃん、むーちゃん、じょーじくん。 クレヨンを塗りたくった拙い絵の下には、不器用な文字が連なっていた。いつ頃描かれた絵なのかは解らないが、 波号が楽しんで絵を描いたことは見ただけで解る。他の絵の色合いは均等なのに、三人の姿が描かれた絵だけは オレンジや黄色で縁取りが描かれていた。海と空の色は塗り分けていて、雲は白いクレヨンで描かれている。三人は 変異体管理局からも見える海沿いのテーマパークで遊んでいるところらしく、白いお城やジェットコースターらしき ものが背景に描き込んである。波号は風船を持っていて、山吹と秋葉と手を繋いでいる。 どこにでもあるはずの、だが、波号の立場では有り得ない光景だった。人型軍用機の並ぶ格納庫の片隅で、山吹 は波号の幼い絵を穴が空くほど見つめていた。波号の部屋で秋葉が見つけてきた絵で、手放しておくのが怖いほど 惹かれる絵だった。波号は秋葉をサイコキネシスで痛め付けた時、作りものの愛情を気持ち悪いと言った。それは 真理だろうし、山吹もそう思わないでもない。産まれるはずのない我が子の姿を波号に重ねていたことについては、 山吹と秋葉が悪いとしか言いようがない。けれど、様々な出来事を経るうちに、山吹の内側にへばりついた余計な ものが刮げ落ちた。秋葉が結婚の申し込みと同時に頼んできたことは、山吹も心の片隅で考えていたことだった。 守るべきものと救いたいものが増えると、戦意は嫌でも高ぶる。じっとしていられなくなる。 「おい、山吹。仕上がったぞ」 人型軍用機のハンガーにいた虎鉄から声を掛けられ、山吹は画用紙を持ったまま振り返った。 「ああ、どうもっす」 「俺は金属のことはちったぁ解るが、機械についてはさっぱりなんだ。だから、期待はするなよ。機体自体の欠陥の 廃熱不良は直して、冷却水も補充したが、他は手を付けていないも同然なんだからな」 虎鉄は機械油にまみれた手を振り、肩を竦めた。山吹は波号の絵を折り畳み、戦闘服の胸元に入れた。 「それだけでも充分っすよ、充分。んで、あれは何すか?」 山吹は愛機の下半身から胸元にかけて書き殴られた文字を指すと、虎鉄は笑った。 「景気付けだ、気にするな」 Save the Daughter! と、虎鉄の手によるワイルドなノーズアートが書き加えられた山吹丈二専用人型軍用機は、 格納庫で山吹の搭乗を待ち侘びていた。ワン・ダ・バの襲撃時に局員全員が緊急退避した際、人型軍用機は ほとんど搬出されなかったのか、電影のハンガーだけは空いていたが、それ以外は人型軍用機が整備途中で放置 されていた。部品も備品も床に投げ出されていて、作業台から転げ落ちた缶コーヒーが黒い染みを作っていた。 「こっちもいい感じなのよねぇん」 芙蓉は下半身を液状化させ、床を滑りながら移動してきた。その背後からは、同じように足元を溶かされた人型 多脚重機がゆっくりと滑って移動してきた。仇敵であった小松建造を思い出す外見だが、四の五の言っている暇は ない。芙蓉はちゃぽんと跳ねて下半身を元に戻すと、虎鉄と山吹の前に立ち、人型多脚重機に振り返った。 「紀乃が手近な工事現場から拾ってきた機体だけど、本当にこんなので良かったの?」 「それで充分。何の問題もない」 戦闘服に着替えて長い髪を三つ編みにした秋葉は、人型多脚重機を仰ぎ見た。 「現在、局長側の主戦力は波号に限定されている。この数日、伊号が動いた気配もなければ痕跡もない。戦闘部隊 を凌ぎ、本陣である竜ヶ崎邸さえ押さえれば、私達にも勝機はある。しかし、そのためには戦力を拡散させる必要が ある。そのためには、あなた方の協力が不可欠。ゾゾの処置のおかげで、完全ではないが右肩の痛みは沈静化し、 背中の裂傷も塞がりつつある。長時間の戦闘は難しいが、短時間で畳み掛けることは可能」 「要するに、波号を助けるための陽動に街中で一暴れしてこいってことだね。今のままで敵だった相手を助けるのは ちょっと腑に落ちないけど、希代のクソ野郎の竜ヶ崎全司郎から女の子を救い出すって考えれば、やる気は出なくも ないね。やりすぎない程度に頑張るよ」 サイコキネシスで浮遊している紀乃は人型多脚重機の上に乗ると、足を組んだ。 『僕も紀乃姉ちゃんと一緒に戦う! はーちゃんの中には、電影がいるんだもん! はーちゃんを助けるってことは、 電影を助けるってことでもあるんだから!』 格納庫内のスピーカーにヒゲを接触させて喋ったガニガニは、ばちんばちんとハサミを打ち鳴らした。 「でも、無理しちゃダメだよ? ね?」 紀乃はガニガニの上に乗り移ると、その頭部を撫でた。ガニガニは振り上げた鋏脚を下ろし、巨体を縮める。 『う……うん……』 「よしよし、ガニガニは良い子」 紀乃は満面の笑みを浮かべ、ガニガニに硬い外骨格に身を寄せた。ガニガニは紀乃の体温を直接感じ、一瞬、 巨体が揺らいだ。可愛がってもらえてとても嬉しいのだが、嬉しすぎてちょっと恥ずかしい。紀乃はそれを知ってか 知らずか、ガニガニをしきりに可愛い可愛いと褒めてくる。それがむず痒く、ガニガニはこちこちと顎を鳴らした。 「あ、えと、その、僕はパスしてもいいかな」 格納庫の隅にいた甚平が挙手すると、未だに可視状態が保たれている忌部は返した。 「別に構わんさ。俺と翠も、山吹が考えた無謀極まる作戦に参加するつもりはないしな。従って留守番だ」 「あ、いや、その、うん、そういうことじゃないっていうかで」 甚平は両手を横に振ってから、もごもごと口の中で言葉をこね回していたが、躊躇いがちに進言した。 「ああ、う、えと、皆が暴れている最中に、僕は調べることを調べておきたいっていうか。竜ヶ崎って人の部屋とか、 資料室とか、見て回ったら、確認しなきゃならないことが出来たっていうか。だから、その、車も一台借りていこう かなって。でないと、行けそうにない距離だし」 「意外だな、免許あるのか?」 忌部が感心すると、甚平は半歩後退った。 「あ、いや、その、まだ半分。っていうか、仮免。これから学科試験を受ける、ってところで、こんな体になっちゃった から、取るに取れなかったっていうかで。でも、うん、オートマなら運転は出来るから」 「目的地はどこだ。僕も付き合う。どうせ基地にいても暇なんだ」 呂号が問うと、甚平は太い指先で空中に地図を書きながら答えた。 「ああ、うん、その、都内じゃないの。練馬方面っていうか、埼玉に近いかな。そこに忌部の分家があるらしいから、 そこに行けば、僕の目当てのものが見つかるんじゃないかなって。で、でも、その、移動時間も食うし、自衛隊やら 何やらに見つかる可能性も高いから、皆が派手に暴れていてくれなきゃまず行けないっていうか。だから、その」 「いいっすよそんなん、気にしてくれなくても。俺らは俺らで、やりたいことをやるだけっすから」 山吹はグローブを填めた拳を固め、手のひらに打ち付けた。 「私達は利害の一致を理由に一時的に共闘関係を組んだに過ぎず、同胞となったわけではない。故に、はーちゃんの 奪取作戦が終了してしまえば、私達は即座にあなた方と敵対する」 秋葉はヘルメットを脇に抱え、人ならざる面々を見渡した。 「それはそれは。残念ですねぇ、私としては山吹さんと秋葉さんとも仲良くなりたかったのですが」 連絡通路から独特の湿った足音が響き、右腕の切断面に包帯を幾重にも巻き付けているゾゾが格納庫に入って きた。その姿を見た途端、紀乃はガニガニの上から下りてゾゾに駆け寄った。 「ゾゾ! ここはいいから寝ててって言ったじゃない、ちょっと戦ってくるだけなんだから!」 「紀乃さんの柔肌に傷が付けられるかと思うと、不安で不安で寝てなどいられませんよ。右腕さえあれば、おいしい 晩御飯を作ってお待ちしているのですが、そうも行きませんし」 ゾゾは首を横に振るが、紀乃はサイコキネシスでゾゾを浮かばせ、むくれた。 「ケガしてんだから、じっとしてなきゃダメ! 御飯だったら忌部さんと翠さんがなんとかしてくれるし!」 「今度ばかりは紀乃の言う通りだ。お前ほどのものは作れないが、喰えるものは出してやれるからな」 ほれほれ、と忌部は宙に浮いたゾゾを押すと、ゾゾはぐんにょりと尻尾を垂らした。 「仕方ありませんねぇ。ですが、皆さん、気を付けて下さいね」 「解ってるってぇ」 紀乃は軽く指先を振り、ゾゾを格納庫から外に追い出した。忌部は複雑極まる表情の兄夫婦を見、苦笑した。 「気持ちは解るが、諦めろ、兄貴。こうなったらもう、どうにもならん」 「ああ全くだ! 自衛隊だろうが何だろうが、憂さ晴らしにはなってくれるだろうさ!」 虎鉄が大股に歩き出すと、芙蓉がその後を追った。 「はいはい。てっちゃんは寂しいのよねー。紀乃はゾゾに取られちゃったし、露乃も甚平君がお気に入りだし」 馬鹿を言うな、そんなんじゃない、と呂号が珍しく声を荒げたが、信憑性はどこにもなかった。それどころか、甚平は 困ったような嬉しいような半笑いを浮かべて尻尾を丸めている。紀乃も顔を背けたが、明らかに頬が赤かった。 山吹も秋葉も虎鉄の目的を知っているだけに、少しばかり同情してしまった。忌部はさっさと格納庫から引き上げ、 甚平は否定の言葉を吐き続ける呂号を連れて駐車場に向かい、ガニガニはヒゲを上下に振りながら格納庫から 外に出ていった。山吹は秋葉の頬にマスクを付けてから、手を振りつつ、愛機に向かった。秋葉もまた、自分の 機体となる人型多脚重機に向かって歩み出した。 戦いの始まりだ。 10 12/19 |