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父親達の挽歌



 夢らしい夢だった。
 余韻は心身にこびり付き、頭の芯が酒で浮ついている。飲み慣れない酒と見慣れない料理と見知らぬ面々ばかり が出てきた夢だったが、胸の重みは少しだけ軽くなった。蒸気自動車を隠すためと夜露を避けるために張った天幕 から差し込むのは、かすかな朝日だった。狭い車内で縮まっていた体を少しずつ伸ばしながら、ダニエルは天幕を 少しだけ上げて外を窺った。見張りに立っていた面々が、丁度戻ってきたところだった。ギルディオスは前方から、 ラミアンは後方から、朝日と淡い霧を纏った人影が近付いてくる。荷車の中で寝入っていた者達も、二人の気配に 気付いたのか身動きし始めた。ダニエルは蒸気自動車から出ると、埃っぽく湿っぽい朝の空気を肺に入れた。

「よう、ダニー。眠れたか?」

 赤い頭飾りと赤いマントが目立つ全身鎧、ギルディオスはダニエルに声を掛けてきたので、ダニエルは返した。

「それなりに」

「ブリガドーンへの道程はまだ長い。魔力共々、体力も温存して参ろうではないか」

 狂気の笑みの仮面を付けた銀色の骸骨、ラミアンは軽く跳ねてダニエルの頭上を越えると、蒸気自動車と荷車を 隠してある廃屋の屋根に飛び乗った。ギルディオスは首を回してから、両手を頭の後ろで組んだ。

「んじゃ、俺とラミアンは道中では休ませてもらうぜ。いくら体がこれでも、眠くはなるんでな」

「迷うことはあるまい、道標は探すまでもないのだからね」

 ラミアンは仮面を上げ、海峡上空に浮かぶ異物を見定めた。ダニエルもそれに倣い、朝日に白むブリガドーンの 異相を捉えた。膨大な魔導鉱石の固まりである山は変わらず宙に浮いていて、皆の到着を待ち侘びているかのよう だった。切り立った岩の斜面が複雑な反射を生み、砂埃が多く含まれた風には潮の匂いが混ざりつつあった。それ は夢の中で感じたものとは違い、どことなく苦みがあった。ダニエルは夢の余韻で緩んだ神経が一気に張り詰め、 唇をきつく結んだ。無意識に高ぶった異能力が弱い風を作り、天幕を波打たせた。
 享楽と自堕落に満ちた南国での一時は、正しく夢だった。南洋の世界など、話には聞いたことはあったが目にした ことも行ったこともないので想像の産物に過ぎないはずなのに、やけに生々しかった。単眼のリザードマンらしき男、 ゾゾの出す料理は見たこともないものばかりだったが、舌には味が残り、胃にも重みがあるような気がした。年代は ダニエルよりも一回り近く若いが、ややこしい背景を背負っていた虎鉄とマサヨシ。デタラメな強さとデタラメな性格 ではあるが疎みきれない戦士、パワーイーグル。そして、馴染み深いギルディオスと、出来れば顔を合わせたくない 相手であるグレイス。と、そこまで思い出した途端、ダニエルは恐ろしく動揺した。

「うっ!?」

 直後、暴発した念動力が蒸気自動車を真下から持ち上げ、叩き落とした。そのせいで蒸気自動車の後部座席と 牽引するために直結している荷車も上下し、中で眠っていた面々が揺さぶられた。ダニエルは死に直面するよりも 遙かに逼迫した緊張感で心臓が痛み、思わず胸を押さえると、荷車から這い出したブラッドが文句を言った。

「ダニーさん、起こすんならもうちょっと優しくしてくんね? 床板にさぁ、すっげぇ勢いで頭ぶつけたんだけど」

「いやはや、全くだよ」

 荷車から地面に転げ落ちたリチャードは魔導師の衣装を振り、砂埃を払った。

「お前らしくもない。なんか悪い夢でも見たのか?」

 蒸気自動車の後部座席から下りたレオナルドは、怪訝な顔で友人を窺ってきた。ダニエルが答えられずにいる と、高熱の蒸気を噴出しながら、ずんぐりとした人造魔導兵器であるヴェイパーが見下ろしてきた。

「それとも、どこか具合でも悪いの?」

「そうではない、ヴェイパー。ただ、何か物凄く嫌な夢を見たような気がしてな」

 ダニエルが呼吸を整えていると、ギルディオスが荒っぽく背中を叩いてきた。

「気にすんな、そんなもん。それより、さっさとメシにしようや。連合軍が動き出す間に動かねぇとな!」

「そうそう。不安になるのは解るけど、夢なんかにいちいち振り回されていちゃ、現実に追いつけないよ」

 リチャードは至極尤もなことを述べながら、荷車を探って人数分の食料を出し始めた。レオナルドは己の念力発火 能力で火を起こすための木切れを探しに出かけ、ブラッドはかまどを作り、リチャードは炊煙を立ち上らせないための 魔法陣を書き始め、ヴェイパーは水筒を携えてラミアンと共に水場を捜しに行き、ギルディオスは引き続き見張り に立った。ダニエルも自分の役割を全うしようと麻袋から穀物を掬っていると、ギルディオスに襟首を掴まれて耳元 にヘルムを寄せられた。何事かと身動ぐと、ギルディオスは押さえた声色で話し掛けてきた。

「あの夢ってよ、やっぱり本当なのかねぇ?」

「……少佐も覚えておいでなのですか」

 ダニエルも声量を落とすと、ギルディオスは苦笑した。

「一応な。でも、信じられねぇよなぁ、お前とグレイスが親戚になるなんてよ」

「やはり、そう思われますか。私も心からそう思います。あれが真実でないことを願って止みません」

 ダニエルが真顔で答えると、ギルディオスはダニエルを解放した。

「グレイスはともかくとして、娘が増えるのはいいことかもしれねぇぞ? あれで結構可愛いんだぜ、ヴィクトリアは」

「あのおぞましい娘に比べれば、ロイズの方がいくらかマシでは」

「そう思うんだったら、本人に面と向かって言ってやれよ」

 お父さん、と、ギルディオスはダニエルを小突くと、持ち場に戻っていた。ダニエルはギルディオスのガントレット が触れた額を意味もなく擦って、やりづらい気持ちを誤魔化した。そんなことは、今更言われなくても充分解っている。 だが、解っているくせに何もしてこなかった自分が悪いのだ。穀物を入れた器を傾けて鍋に入れると、ヴェイパーと ラミアンが運んでくる水を待ち侘びながら、ロイズを助け出してから言うべき言葉を考えた。だが、大して語彙が多い わけではなく、他人に好意を示すのは不得手の中の不得手なのでかなり苦労した。煮え滾ってきた麦粥が粘るほど 掻き混ぜながら考え込んだ結果、やっと出てきたのは、もう一度釣りに誘うということだった。

「ダニエルよ。そなたは糊でも作るつもりなのであるのかね?」

 蒸気自動車のボンネットの上に載せられたフラスコから、ぐにゅりと赤紫のスライムが迫り出した。

「……すまん」

 ダニエルは平謝りしながら木製のスプーンを上げ、ぼたぼたと垂れ落ちる麦粥を注視した。それが余程可笑しい のか、赤紫のスライム、伯爵はげらげらと笑い転げた。矮小なスライムのわりに低く響きの良い声は廃墟の街並みを 揺さぶり、朝食の支度をしていた者達も当然気付いた。そして、ダニエルが作ってしまった麦粥と思しき白濁した 粘液を見ると、彼らは伯爵の笑いの意味を悟った。レオナルドはダニエルを叱責し、リチャードはダニエルの具合を 本気で心配し、ブラッドは味は変わらないと笑い、ヴェイパーは水を足せばいいのではないかと進言し、ラミアンは 却って消化が良くなると言ってくれた。ギルディオスはダニエルの真意を知っているので、笑いもしなければ責めも しなかったが、黙って肩を抱いてきてくれた。それがまた照れ臭くて、ダニエルは居たたまれなくなった。
 こんなことで、魔導兵器三人衆を倒せるのだろうか。




 木星の影から、太陽が顔を覗かせる。
 それが、木星圏コロニーにおける日の出である。遮光スクリーンとモニターが造り出す人工の青空からは太陽光が 注ぎ、殺風景な自室を照らしてきた。整理整頓されている、というよりは物資自体が少ないベッドルームが明るく なり、光量を感知したカーテンが自動的に開いていく。声色はガンマに似ているが若干抑揚が木星訛りの住宅管理 コンピューターが朝を告げ、現在時刻を伝えてきた。マサヨシは起き上がるのが億劫だったが、上体を起こした。

「おはよう、皆」

 起きてすぐに目を向けたのは、ベッドのサイドボードに置いてある立体写真だった。その中では四人の娘達と二人の 同居人が笑顔を浮かべ、全力で好意を示している。アステロイドベルトのコロニーも太陽系標準時刻を適応して いるので、今頃、皆も起きていることだろう。薄い掛布を剥がしてベッドから下りると、スタンドに吊り下げている軍服 のポケットで私物の情報端末が鳴った。取り出すと、同時に二つの通信が着信していた。イグニスとトニルトスだ。

『おう、マサヨシ。そろそろ起きる頃だと思ってな』

 イグニスの快活な言葉に続き、トニルトスの落ち着いた言葉が聞こえてくる。

『貴様という男の生活は、実に単調であるからな。下劣なルブルミオンでなかろうとも、予想が付けられる』

「違いない。で、何か用か?」

 マサヨシは情報端末をテーブルに置いてから、着替えを出すためにクローゼットを開けた。

『……こういうことを言うのは、家族としてもどうかと思うんだけどさ。でも、お前んちのコンピューターが俺達の無線に びしばし伝えてきたから、無視出来るもんじゃなくってよ』

 やけに歯切れの悪いイグニスに、寝間着から私服に着替えたマサヨシは訝った。

「何のことだ?」

『マサヨシ。昨夜の休眠中に、お前は何度となくサチコがどうの地球がどうのという寝言を繰り返していたのだ。発音が 明瞭だったものだけでも十回、不明瞭だったものは二十二回、海水浴がどうの酒がどうのというのは三回。私は 新人類の脳の構造に対しては造詣が深いわけではないが、正常な反応であるとは思いがたいのだが』

 トニルトスによる平坦な報告を受け、マサヨシはぎくりとした。

「あー……」

 そういえば変な夢を延々と見ていた気がする。異星人が現れて滅亡前の地球に連れて行かれ、南海の孤島にて もてなされ、自分の家族と相違ないほど変わった面々と酒を酌み交わした夢だった。その夢で、マサヨシは強かに 酔っていた。普段はそれほど深酒は飲まないようにしているのだが、広い空と海を見ながら飲むオリオンビールの 味は爽快で、甘くまろやかな泡盛は南洋の郷土料理に合っていたので、注がれるがままに飲んでしまった。ただの 夢だと解っているのに、どことなく頭が鈍い。そして、その夢のクライマックスは、男だらけでフンドシだらけの海水浴 だった。マサヨシはベルトを締め掛けていたスラックスを緩めて中を見下ろし、フンドシではないことを確認した。

「一言で説明するのは難しいんだが、まあ、夢を見ていたんだ。それとこれとは関係ないが、次の週末には海水浴 に行こう。但し、お前達は絶対にサーフィンをするな」

『いちいち言わなくてもいいっての、反省したんだからよ』

 イグニスが肩を竦めたのか、金属音が聞こえた。

『そうか、夢か。ならば、これといって気に掛ける必要もないようだな』

 トニルトスはマサヨシの答えに納得したのか、それ以上は質問してこなかった。マサヨシは軽度の二日酔いに似た 感覚を味わいながら、統一政府軍から支給されたワイシャツに袖を通し、スラックスのファスナーを上げてボタンを 留めてベルトを締めた。二人からの通信の受信先を情報端末からリビングのモニターに切り替えてから、マサヨシは 寝室を後にした。やはり殺風景なリビングのソファーに軍服を引っ掛けると、キッチンの冷蔵庫からパンを出して トースターに突っ込み、スープの入ったボトルを電子レンジに入れて暖め、調理済み食品をテーブルに並べながら、 二人の通信と平行して表示させたホログラフィーで世間の動静を確認した。
 木星基地で新人パイロットの教育に明け暮れているマサヨシは、一週間のうちの五日を官舎で過ごしている。その 間は独身生活も同然で、気楽ではあるが寂しいことこの上ない。機械生命体であるイグニスとトニルトスは、官舎の 敷地内にあるガレージに居を構えているが、マサヨシの住んでいる官舎からは遠いので、コロニーでの生活のよう にはいかない。夜になれば四人の娘達とヤブキとミイムと亜空間通信を交わし、話し込んでいるが、物理的な距離は 狭めようがない。今日の仕事を終えれば、ようやく週末だ。イグニスとトニルトスを連れてHAL2号をぶっ飛ばし、 さっさとアステロイドベルトに帰ろう。そして、あの暑苦しい夢の余韻を振り払ってしまうのだ。
 海水浴の記憶は、娘達との眩しい記憶で塗り潰さねば。




 宇宙空間に翻ったマントに、瞬時に凍結した飛沫が付着する。
 腹部を貫通した金属柱を握り締めるが、グローブの下に滲んだ手汗が滑り、思うように力が入らなかった。バトル スーツは瞬時に塞がって血液の流出と真空への接触を防いだが、それが却って金属柱を固定してしまった。背後 には青く輝く星、地球が浮かんでいる。金属柱が分厚い筋肉と内臓を引き千切って貫通した瞬間、意識が飛び、一瞬 夢を見た気がした。とてつもなく楽しく解放感に溢れている夢だった。現実逃避をするようになったのか、だとすれば ヒーローの名折れだ。パワーイーグルは金属柱を両手で握り、捻り、一息に引き抜いた。

「うぉおおおおおおおおおああああああああぁっ!」

 赤黒く濡れた金属柱が胴体から脱すると、内臓の切れ端も宇宙空間に散った。バトルスーツごと傷口を塞ぐが、 喉の奥に迫り上がった胃液の味が煩わしい。金属柱を薄紙のように潰してから大気圏に放り投げ、流星の一つに させてから、パワーイーグルはバトルマスクの下から目を動かした。今度の敵は、自在な空間超越能力を持っている ミュータントだ。通常空間内であればパワーイーグルも容易く相手に出来るが、並列空間や異次元空間を超越した 攻撃では防ぎようがなかった。先程の金属柱もその一つで、パワーイーグルのバトルスーツの内側から転送され、 易々と腹を貫かれてしまった。塞がり切っていない傷口から垂れる血液が股間から足に伝い落ち、ブーツの内側に 溜まっていく。呼吸を荒げるパワーイーグルの視界の先には、通常空間と並列空間の狭間に捉えられている愛妻、 ピジョンレディの姿があった。頭部と下腹部と膝下は通常空間に出ているがそれ以外は全て並列空間に転送され、 強引に引き摺り出そうとすればピジョンレディの体はバラバラになる。敵を倒せば空間超越能力の制御も失われ、 ピジョンレディも解放されるだろうが、その敵の姿は並列空間にある。かといって、手出しせずにいれば、良いように 嬲られるだけだ。ならば、やるべきことはただ一つ。

「ピジョンレディッ!」

 パワーイーグルは空間の狭間に囚われた愛妻の元に向かい、そのバトルマスクを手で包んだ。

「ええっ、パワーイーグル!」

 ピジョンレディは力強く頷くと、バトルスーツから白い光を放った。パワーイーグルもバトルスーツから金色の光を 放ち、体内に充ち満ちているヒーローの力を高ぶらせた。パワーイーグルは妻の華奢な腰を抱き寄せると、左腕を 高く突き上げてあらん限りの力を解放し、ピジョンレディもまた力を解放した。

「パゥワァアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」

 二人の声が重なり、音が響かないはずの宇宙空間をエネルギーの振動で揺さぶった。

「デェストラクショオオオオオオオオオオオオオンッ!」

 金と白の光が混じり合い、新たな太陽が出現する。通常空間と並列空間もまた強烈なエネルギーを浴びせられ、 軋み、歪み、接触した。途端に強烈な爆発が発生したが、パワーイーグルもピジョンレディも揺さぶられずにその場に 留まっていた。太陽風にも匹敵するエネルギーによる爆風が過ぎ去ると、通常空間と並列空間の接点が見事に 破壊され、ピジョンレディの体は全て通常空間に戻ってきた。パワーイーグルは妻の体を確かめると、ピジョンレディ は夫と手を固く握り合わせてきた。二人は頷いてから、握り合わせた手を掲げる。

「ピィイイイイイイイイイイイッス!」

 ピジョンレディのマントの下から無数の白い羽根が放出され、パワーイーグルの力を纏って金色となる。

「インフィニティブレッドォオオオオオオオオオオオオオオッ!」

 金色の弾幕が、直径数千キロメートルに渡って放たれた。それは、安全な並列空間から乖離して通常空間に体が 剥き出しになったミュータントに襲い掛かり、着弾した。空間超越能力を行使するためには欠かせない演算能力は、 スーパーヒーローの一人や二人なら相手に出来るが、数百万に及ぶ金色の弾丸を凌ぐことは難しかった。しかも、 ピジョンレディは並列空間に肉体の一部が転送されている間に並列空間の特性も掴んでいて、敵が並列空間へと 転送しようものなら、並列空間の内部へも金色の弾丸をばらまいた。情け容赦ない攻撃がひとしきり続いたが、敵は とうとう耐えきれなくなって爆砕した。その余波を浴びながらパワーイーグルは胸を張ろうとしたが、治りきっていない 腹部が引きつった。おまけに出血量も半端ではなく、さすがに目眩がしてきた。

「少し休んでから帰りましょ?」

 ピジョンレディはパワーイーグルの手を取り、導いた。

「う、うむ」

 パワーイーグルは妻に先導され、宇宙空間を飛んだ。程なくして二人が辿り着いたのは、地球に身近でありながら 近寄りがたい衛星、月だった。そのクレーターの一つに着地したピジョンレディは、白い砂が堆積している地面に夫を 横たわらせると、白いグローブを填めた手で傷口を探った。バトルスーツの下では再生したばかりの薄っぺらい 皮膚がぐにゃりと歪み、パワーイーグルは呻きを殺した。千切れた内臓が血液の中で踊り、激痛が走る。

「ちょっと頑張りすぎよ」

 ピジョンレディはパワーイーグルの傍に身を横たえると、その腰に腕を回しながら、傷口に手を添えて再生能力を 注ぎ込んできた。安心感をもたらす温もりが触れ合った部分から広がり、千切れた内臓や筋肉が元に戻っていく。 激痛も和らいできたので、少しだけ余裕を取り戻したパワーイーグルは、ピジョンレディを優しく引き寄せた。

「鳩子」

「なあに?」

 寝室のベッドで戯れている時のような甘えた声色で、ピジョンレディは夫の肩に頭をもたせかけてきた。

「今度、沖縄に行ってみないか。自力で飛ぶんじゃない、ちゃんと飛行機に乗るんだ」

 パワーイーグルの呟きに、ピジョンレディは微笑む。

「美花ちゃんと大神君が一緒に旅行したこと、羨ましくなっちゃったの?」

「それもある。だがな、俺も鳩子も働きすぎているんだ。少しぐらいは、遊んでも構わんだろう」

「ええ、いいわ。あなたとだったら、どんな場所でも最高だもの」

 ピジョンレディはバトルマスクの下で目を細め、夫の太く硬い腕を抱き締める。腕に接する妻の柔らかな体を感じ、 パワーイーグルは戦闘時の高揚とは正反対の高揚感に煽られた。ここが宇宙空間でさえなければ、愛妻に触れて 思い切りキスをしてやるものを。刹那の夢がもたらしたものは、僅かな油断と不思議な充足感だった。
 月から見下ろす地球は、切ないほどに瑞々しかった。ピジョンレディの再生能力で治したのだから、下手な傷口は 残らないだろう。沖縄に行って何をしようかという具体的な案はないが、時には戦いを忘れてしまおう。危なっかしくて たまらなかった娘が独り立ちしようとしているのだから、パワーイーグルも家族を見直して、子供達との距離感を 保てるようにならなければならない。あの夢で思い知らされたのは、いかに自分が不器用か、ということだけだった。 力任せに生きてきたから、力の緩め方を知らないのだ。だから、緩める時は緩めすぎて、込める時は込めすぎて、 上手くいかなかった。ピジョンレディに対する愛も、戦いの中ばかりで示すのはそろそろ終わりにしよう。
 遙か彼方に、沖縄が見えた。




 あれは、とてつもなく悪い夢だ。
 寝起きの気怠い空気の中、虎鉄は短く刈り込んだ髪を掻き乱した。ゾゾの思惑がどうだろうと、結果として虎鉄は ゾゾに利用されただけだ。それも、あのトカゲが愛する娘と心を通じ合わせるために。たかが夢だと思おうとしても、 タバコの吸い殻が手中に入っていた。それをサイドボードの灰皿に突っ込み、ベッドから下りた。鋼鉄化を解除して いるので体は軽かったが、能力を底上げするために日々鍛えている筋肉には僅かに疲労が残っていた。
 ロールスクリーンが上げられた窓には、バイオスーツを半端に着ている芙蓉が立っていた。海上基地から見える 東京湾と、その先にある朝靄に包まれた都心を見つめていた。長い髪の下ではファスナーがぱっくりと開いていて、 艶めかしい背中が露わになっている。虎鉄はその背に近付き、ファスナーを引き上げてやる。

「どうした、溶子」

「てっちゃん、ひどい」

 芙蓉はむくれ、グローブを填めていない手で虎鉄の手を引っぱたいた。虎鉄は思わず手を引き、戸惑う。

「な、何がだ?」

「そりゃ、私の作ったお弁当は総じてアレになっちゃうけど、寝言で言うことないじゃない」

 寝起きから不機嫌な芙蓉は、すっかり拗ねていた。

「悪かったよ。だが、あの弁当は全部食ったじゃないか」

 虎鉄は謝るが、芙蓉は顔を逸らした。

「食べてくれたのは嬉しいけど、あんまりひどいのを普通に食べてもらっちゃうと情けなくなるのよね」

「文句を言うと怒るじゃないか」

「そりゃそうよ。でも、それって嘘と同じなのよね。嫌なら嫌って、ちゃんと言ってほしいのよね」

 芙蓉は虎鉄の前から離れ、ヒールを鳴らしながら足早にドアに向かった。

「いや、いや、嫌ってわけじゃない! ただ、その、見た目がな!」

 虎鉄は慌てて取り繕おうとするが、芙蓉はドアを開けて虎鉄を睨んできた。

「だから、これからきっちり挽回するのよね! 楽しみにしていてね!」

 部屋全体が揺れるほど盛大にドアを閉め、芙蓉の足音は遠のいていった。ということは、芙蓉はこれから朝食を 作るつもりなのだろう。たかが寝言にむきにならなくても、とは思ったが、素直に嬉しかった。虎鉄は愛妻の体温が 染み付いたベッドに腰を下ろしたが、にやけられるほどの余裕はなかった。自宅よりも遙かに広い寝室には、虎鉄と 芙蓉の素顔を隠すヘルメットが並んでいる。これを被ってしまえば、二人は人間ではなくなる。腹の底から憎んで 止まない竜ヶ崎全司郎の配下となり、乙型生体兵器となって、我が子や弟と戦うことに抵抗を覚えないわけがない。 だが、これ以上は黙っていられない。それもこれも、竜ヶ崎全司郎に奪われた家族を取り戻すためだ。
 あの夢は生々しいが、非現実的極まるものだった。虎鉄は今までゾゾ・ゼゼと接触したことは一度もなく、今後の 任務次第で接触する可能性があるかないかだ。だから、ゾゾが紀乃に対して好意を抱いていること自体知っている わけもないのに、夢の中の虎鉄はそれを知り得ていた。恐らく、ゾゾが言っていたように、夢の中の虎鉄も若干未来の 虎鉄なのだろう。それが本当かどうかを確かめる術はないが、そう思う他はない。だが、所詮は夢だ。覚えておく だけの価値があるかどうかも測りかねる。考えるべきこと、立ち向かうべきことは、他にもいくらでもある。それに、 今は芙蓉が作ってくれる朝食に気を向けていたい。戦い始めれば、次はいつ妻の手料理を食べられるかどうかも 解らないのだから。変異体管理局から支給された無駄に広い部屋を見渡しつつ、虎鉄はタバコを銜えた。
 舌の上には、泡盛の甘みがかすかに残っていたような気がした。




 損傷した生体情報と生体組織が、少しずつ修復されていく。
 首には生々しい傷跡が残り、強制的な生体凍結の影響で朧になっていた意識もようやく晴れ渡ってきた。単眼を 瞬かせてから上空を仰ぐと、火山からはゆったりと蒸気が立ち上っている。海鳥が旋回し、太陽の中に小さな影を 作る。太平洋を渡ってきた風が木々を揺さぶり、土の匂いと青臭い植物の匂いが混ざり合った。湿度の高い空気が 冷えた肌を舐め、膨張しながら過ぎ去っていく。硫黄の薄い空気を肺に詰め込んでから、ゾゾは上体を起こした。
 胸がずしりと重たく、その位置に収まっている脳が腫れているような気分だ。それが人間の心というものなのだ、と 感じ入りながら、ゾゾは胸を押さえた。それを手に入れることを望んだのは自分自身であるのに、手に入れた瞬間 から後悔に襲われる。ただの科学者としての視点で見ていた時は、忌部継成の死も竜ヶ崎ハツの自殺も悲しいとは 思わなかった。それどころか、なんて脆い生き物なのだろう、と呆れもした。ハツとの間に産まれた赤子を奪い取り、 本土に渡ったゼン・ゼゼを、無謀な生体改造を行って異種族と交配した愚か者としか見ていなかった。生体分裂体 であり、ワン・ダ・バの生体適合能力者としての立場を弁えない欠陥品だとも。だが、それは違っていたようだ。本土で ハツと共に過ごしていた間に、ゼンは一個の生命体としての自我を確立した。しかし、ゾゾにはそれがどうしても 理解出来なかった。それどころか、生体部品が自我に芽生えるのは気色悪いとしか思わなかった。だから、ゼンに 対して辛辣な態度しか取れなかったのだ。だが、人間的な情緒を無視していてはゼンの愚行を阻めないと判断した ゾゾは、ワン・ダ・バの能力を利用して並列空間を経由して時間と次元を超越し、別の時間軸に存在している人々と 接触して人間的な情緒を得るために不可欠な精神構造を得ると、神経細胞をいくらか組み替えた。その結果。

「私も、いずれ罪を犯すのですか」

 まだ見ぬ未来の者達と話を合わせるために、他の時間軸の自分から記憶を引っ張ってきたが、その自分の脳内は 人間の少女に占められていた。彼女が浮かべる明るい笑顔が瞼の裏に焼き付き、心臓が締め付けられるような 思いが心中をざらつかせる。ゾゾは大きく嘆息してから、忌部島と名付けられたワン・ダ・バを見渡した。
 この島では、まだ見ぬ者達が繁栄する。ワン・ダ・バの多次元空間観測能力を経由して観測した未来では、継成と ハツの血を引く者達が苦しみながらも生き抜こうとしていた。竜ヶ崎全司郎と名乗るようになったゼン・ゼゼが、憎悪に まみれながら己の欲望を貫こうとしていた。それは確定された未来ではないが、観測した時点で未来としての形を 得てしまった。ゾゾが未来を観測しなければ、最悪な未来から逃れられたかもしれないのに。図らずも彼らの運命を 決めてしまったことを深く後悔しながら、砂を払い、立ち上がった。

「とりあえず、お料理の練習でも始めましょうかねぇ」

 ゾゾは振り返り、東側の集落の田畑で実る作物を見下ろした。継成とハツが暮らした家屋には、二人の生活痕が これでもかと残っていた。洗いかけの食器が桶に浸り、洗濯物が潮風に翻り、麻袋からは種籾が数粒零れている。 そのどれもが心中を抉り、突き刺してくる。ゾゾが人間的でさえあれば、二人は今でも幸せに暮らしていただろうに。 だが、後悔するだけ無駄だ。失ったもの、得られなかったもの、奪われたものを取り戻すには、これから訪れる時間を 生き抜いていくしかない。そして、ゾゾの胸中を掻き乱す、あの少女と出会う瞬間を待ち侘びようではないか。

「お名前は、なんと仰いましたっけね」

 思い出せるような気もするが、思い出さない方が良い。その方が、未来への期待が抱ける。ゾゾは彼女に関する 記憶を出来る限り封じ込めてから、熟しすぎて弾けそうなナスの実をもぎ取った。試しに囓ってみたが、味らしい味の ない作物だった。そのナスの残りを口に放り込んで咀嚼しつつ、ゾゾは考えた。料理を覚えるにしても、そういった 文化のないイリ・チ人には料理という概念すら薄い。栄養価の高い果実をそのまま食べるだけなので、味を付ける にしても塩酸溶液や硫黄溶液に浸すぐらいだった。そもそも、アミノ酸を味として認識する味覚がないのだ。一応、 神経細胞をいくらか組み替えたことで味覚らしいものは出来ていたが、それが料理の腕前に繋がるわけではない。 それ以前に、比較対象がない。となれば、本土なり琉球なりに飛んで渡って、食べて覚えるしかないだろう。しかし、 本土は物理的な距離が遠すぎるので、琉球諸島に向かうべきだろう。これまでは人類が生み出した文化や技術に ばかり目を向けていたが、これからはもっと視野を広げていかなければ。
 そして、かの少女と出会う日まで生き延びなければ。








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