Event




ハマは恋えているか



 なんでこんなことに必死になっているのだろう。
 他人なんかどうでもいいじゃない、カンタロスから目を離すわけにはいかないのに、あの子とは厳密にはまだ友達 にはなっていないし、それ以前に、と繭は自分の行動の理由を求めずにはいられなかった。足を止めて振り返り、 ヒエムスを見捨てて引き返したい。だが、足が止められない。疑問符ばかりが浮かび、息が上がる。
 繭は背が低いので、視点も低く、人混みの間からでしかヒエムスの姿を捉えられない。なので、何度も人間や人外 にぶつかりそうになりながらも擦り抜け、ひらひらと靡くリボンを追い掛けていく。そのリボンの端が路地を曲がり、 通りを横切り、店に入るかと思いきや通り抜けていく。その危うさに、繭は胸が痛くなる。
 ヒエムスの足が止まったのは、雑貨店の前だった。ようやく小さな背に追い付いた繭は、店の中に入ろうとする少女 の腕を掴んだ。華奢というよりも脆弱というべき細さの子供の腕が、薄い布の下に入っている。思い掛けないこと に驚いたのか、ヒエムスの肩がびくんとした。繭は額に滲んだ汗を拭ってから、ヒエムスの腕を握る。

「……あ」

 気まずげに眉を下げたヒエムスに、繭は呼吸を整えてから強く言った。

「どこ、行くの」

「繭さんこそ、どうして私を」

「どうって、そりゃ」

 あんなにも思い遣り、大事にしてくれる人が傍にいるのに、迷惑を掛けるのか。繭は安堵よりも先に腹立たしさが 立ち、唇を歪めた。その衝動に任せて細すぎる腕をへし折ってしまいかねないので、ヒエムスの腕を解放してやって から、繭は深く息を吸って吐いた。自分なりに幸せだと思っていたのに、カンタロスと出会えたことで居場所を見つける ことが出来たと信じていたのに、似たような境遇なのに由佳もヒエムスも繭とは大違いだ。痛め付けられるような こともなければ、虫の卵を孕んでいなければならないわけでもないし、その卵が孵化したら死ぬという恐怖も絶望も 何もない。それが、たまらなく妬ましい。だが、そんな醜悪なものを子供にぶつけるべきではない。

「お辛いのですか?」

 ヒエムスは黙り込んでしまった繭を見上げ、心配してきた。

「辛いなんてことはないよ。昔から、そうだから」

 少女の眼差しから顔を背け、繭は胸を押さえる。他人を羨むから辛くなる。誰かと自分を比べるから、どうでもいい ことで悲しくなるし、寂しくなるし、空しくなる。だから、何も感じなかったことにすればいい。

「繭さん、沢山食べておられましたものね。私のせいですわ、申し訳ありません」

 ヒエムスは繭の手を取り、導いた。繭はその手を振り払いたかったが、思いの外ヒエムスの力が強かったことも あり、出来なかった。ヒエムスの目的地であろう雑貨店から程近い場所にあるベンチに至り、座るようにと促された ので、繭は腰を下ろした。ヒエムスもスカートの裾を整えながら、その隣に腰掛ける。繭よりも一回りは背が小さい ヒエムスは、服装も相まって西洋人形のような趣がある。少し乱れた巻き毛を直し、少女は呟く。

「情けない話ですけれど、今になって御父様や御姉様方に申し訳なくなってしまいましたの」

「あ、そういえば、用事があったから一緒に来られなくなったって」

「ええ。ですけれど、それは嘘ですわ」

 ヒエムスは長い睫毛を伏せ、憂う。澄み切った青い瞳が、ほのかに潤む。

「御姉様方に、そう仰ってもらえるようにお願いいたしましたの。そうでもしなければ、あの方と同じ時間を過ごせない と思いましたの。いえ、そうではありませんわね……。あの方が私を見てくれているかどうか、私は本当にあの方の 特別なのかどうか、不安になってしまいましたの。見ての通り、私は子供ですわ。あと五年もすれば成人して手足も 伸びきって大人になれますけれど、五年はとても長いですわ。五年が過ぎれば、その分あの方との年の差も開いて しまいますし、その間に何が起きるのか解りませんもの。説明しづらいので割愛いたしますけど、私とあの方には、 因縁がありますの。それがあるから、あの方は私を思っていて、私もあの方を思っている、と錯覚しているかもしれ ないとも考えてしまいますの。だって、あの方はママですもの。私達家族を支えてくれる、大事なママさんですわ」

 伏せた瞼を瞬かせ、ヒエムスは膝の上で手を握り締める。

「だから、私は繭さんが羨ましゅうございますわ」

「え」

 繭が面食らうと、ヒエムスは繭を見上げてきた。

「カンタロスさんは、器用ではありませんのね。それと、女性の扱い方を根本的に存じておられませんわ。だから、 繭さんに気を遣おうにも、どうやればいいのかが解っておられませんのね」

「え、あ、そう、なの?」

「そうですわよ。外側から見ていると、とてもよく解りますわ。そうでもなければ、デートの相手がいる男性にいちいち 突っ掛かりませんわよ。自分以外の男性は全て敵だとでも思っておられるのかしら」

「うん。絶対に思っている。というか、そういう生き物だから」

「虫ですものね」

「虫だからね」

 腰を落ち着けて話したからか、繭の心中は凪いできた。ヒエムスは繭に寄り添い、目元を拭う。

「ありがとうございます、繭さん。聞いて頂けたおかげで、少しは落ち着きましたわ」

「え、いや、私は別に」

 腹の中で凝っていた淀んだ感情を持て余して、繭は口籠もった。ヒエムスを追い掛けた動機は善意でもなんでも ないし、元を正せば嫉妬から生じた苛立ちだ。自分の立場に胡座を掻いている少女が許し難く、だが、当人にそんな ことを言えるはずもないので、ヒエムスの話を聞くことになっただけだ。不幸中の幸いとでも言おうか。
 真意を言わないべきだよなぁ、と思いつつ、繭はヒエムスに誘われるがままに雑貨店に入った。中国雑貨全般を 扱っている店だったが、特に品揃えが良いのは翡翠で作った小物だった。これが目当てでしたの、とヒエムスは 嬉々として翡翠の小物のコーナーに向かった。どうやら、事前に調べておいたらしい。十二支をモチーフにした翡翠 のストラップの中から、迷わずウサギを選んだ。繭も自分へのお土産になるものはないかと店内を見て回ったが、 ぴんと来るものは見当たらなかったので、何も買わず終いだった。
 結局、会計したのはヒエムスだけだった。繭は満足げなヒエムスを伴って店内を出ると、障害物に激突した。何事 かとぎょっとすると、馴染み深い爪先が首に添えられた。その爪の側面が顎を押し上げ、視線を上げさせる。

「おい」

 カンタロスだった。黒い複眼の上で触角が苛立たしげに曲がり、語気には怒りが漲っていた。

「俺の視界から失せるんじゃねぇ。でもって、その布の固まりに近付くな。甘ったるい匂いが女王に移るんだよ」

「まあ、失礼ですわね」

 ヒエムスはむっとしたが、カンタロスの影から現れたミイムに気付くと俯いた。

「ひーちゃん、最初に言うことはなんですかぁ?」

 ミイムは腰を曲げてヒエムスに顔を寄せるが、笑っていなかった。ヒエムスは肩を縮め、おずおずと目を上げる。

「急にいなくなって、すみませんでしたわ。御心配お掛けいたしましたわ」

「だったらいいですぅ。んで、今日はまたどうして迷子になったんですかぁ?」

 途端に笑顔に戻ったミイムに、ヒエムスは買った品物が入った袋を抱き締めてそっぽを向いた。

「それは後でお話しいたしますわ。出来れば、観覧車の中がよろしくてよ」

「いやあ、何かと思いましたよ。いきなりカンタロスさんが飛び出していって、空を行き交う人外という人外にケンカを 売り始めた時は……。おかげで、収拾を付けるために余計なエネルギーを消耗しました」

 由佳と連れ立ってやってきたインパルサーは、どことなく薄汚れている上に疲れていた。インパルサーを励まして やるためなのか、由佳は彼と手を繋いでいた。由佳の倍近い大きさの銀色の手もまた、砂埃で汚れていた。

「な……何があったの?」

 繭が躊躇いがちに尋ねると、由佳はなんともいえない眼差しでカンタロスを見やる。

「カンタロスは繭ちゃんがいなくなってすぐに捜しに行ったんだけど、繭ちゃんが攫われたものだと頭から決め付けて いたもんだから、目に映るものが全部敵だと認識しちゃってさぁ。だから、誰彼構わず襲い掛かっちゃって。本格的 な戦闘になる前に、パルがカンタロスを含めた全員を軽くスタンさせて事の次第を説明したから、中華街が壊れる ようなことにならなくて済んだけど……。心配性にも限度ってものがあるよ」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」

 居たたまれなくなった繭は謝り倒したが、当の本人は繭の顎を掴んで離そうとしない。

「女王の自覚が足りねぇ。俺の女王でいるつもりなら、ちったぁ弁えろ」

「DVモラハラ低脳クソ昆虫にだけは言われたくないですぅ」

 ミイムが渋面を作ると、繭は否定出来ずに頬を歪めた。すると、カンタロスは顎を開き、細長い舌を伸ばしてきた。 その意図を察した繭は慌てて歯を食い縛ったが、カンタロスの力には勝てず、下顎を押されて歯を開かせられた。 引きつった唇の間から滑り込んできた、冷たくもぬるついた舌が一息に喉元まで入り、噎せそうになる。人型昆虫 特有の体液の匂いと異物感を粘膜で感じていると、入ってきた時と同様に勢い良く舌を引き抜かれ、顎を押さえて いた爪も外れた。繭を離したカンタロスは、ぬるりと舌を収めて顎を閉ざす。

「馬鹿」

「あ?」

「大人しくしてくれないと、体液あげない。ハンバーグも作ってあげない」

「あぁ?」

「観覧車、一緒に乗ってくれないと、もう二度と合体してあげない」

「……は?」

 訳が解らないのか、カンタロスはしきりに触角を上下させる。繭は口元を拭い、背を向ける。

「それと、探してくれたんだ。私のこと」

「俺の女王だ。俺以外の誰のものにもされてたまるか」

「うん。そうだね」

 顔を伏せながら、繭は口角を上げた。舌にこびり付いた苦味のある体液を嚥下すると、満腹感とは違った充足感 がじわりと広がってくる。カンタロスは自分を追い掛けてきてくれた。その事実だけで、今し方まで淀んでいたものが 拭われていく。由佳のように全力で愛されることもなく、ヒエムスのように思い切り慈しまれることもないが、見つけて もらえるのだ。幼い頃、迷子になっても親に見つけてもらえず、泣きながら自宅に歩いて帰った際の辛さと寂しさが 未だに振り払えていなかったからだ。だから、人混みに消えていくヒエムスの後ろ姿が過去の自分に重なってしまい、 思わず飛び出してしまったのだ。だが、これからは大丈夫だろう。
 腹が割け、幼虫が飛び出す時までは。




 そして、最後の目的地である、よこはまコスモワールドに到着した。
 入場料は必要ないが、乗り物に一つ乗るごとに料金が必要なシステムの遊園地である。一番目立つのは、当然 ながら全高112.5メートルの大観覧車だ。水中突入型ジェットコースター、急流滑り、スピニングコースター、円形 の遊具が回転するアトラクション、子供向けのローラーコースター、飛行船型のゴンドラ、サイクルモノレール、鏡の 迷宮、ビックリハウス、お化け屋敷、アイスワールド、ゲームセンター、といったラインナップだ。
 遊園地に来たのは初めてではないが、誰かと一緒にいるのは初めてだ。中学時代の修学旅行の日程で遊園地に 行ったのだが、班行動で回らなければならないのに、繭は一人取り残されてしまったからだ。見知らぬ場所を一人で 歩き回れる気力も体力もなかったから、遊具で遊ぶこともなくお土産も買わなかった。買っていったところで、両親は 受け取りもしないからだ。だから、繭は感動すらしていた。カンタロスが暴れ出さないようにするために、彼の中右足を 掴んでいたが、無意識にその手に力が籠もっていった。

「重力ありきの環境だからこそ、楽しめる遊具ですわね」

 ヒエムスは小さな体を仰け反らせ、悲鳴を撒き散らしながら駆け抜けていくスピニングコースターを見送った。

「見てみてひーちゃん、くまさんカステラですぅ! ぼっ、ボク、ちょっと買ってきますぅ!」

 インフォメーションの横にある屋台を指して目を輝かせたミイムは、威勢良く駆けていった。

「あらまあ」

 ヒエムスは目を丸め、由佳もミイムの背を見送る。

「可愛い形をした御菓子ってたまんないよねー、解る解る」

「ですけれど、可愛いからこそ食べづらいのも事実ですわよ、由佳さん」

「うんうん。中華街にあったパンダまん、おいしそうだったんだけど、もー可愛くって可愛くってさぁー」

「目が合うと食べられませんわよねぇ」

「でも、食べないと傷んじゃうし、冷めちゃうしねー。だけど、可愛いからつい買っちゃう」

「悪循環ですわね」

「全くだよ」

 と、由佳がヒエムスと笑い合うと、インパルサーは戦々恐々とした。

「では由佳さん、この前、僕が作ってさしあげたネコの形のミルクプリンは……」

「小一時間悩んじゃった。でも、結局は食べたんだけどね。勿体ないし」

 由佳の答えにインパルサーは頭を抱え、僕の判断は間違っていたのですか、ですがあのプリンの型を買い逃す ことは出来なかったんです、と変なことを嘆いていた。くまさんカステラを山ほど買ってきたミイムが満ち足りた顔で 戻ってきたので、その甘くて可愛い御菓子を食べながら、どの乗り物に乗ろうかと話し合った。

「カワイイってのが解らねぇ」

 べたべたしやがる、とぼやきながらも、カンタロスはくまさんカステラを貪った。

「つうか、なんでカワイイってのだと喰い気が失せるんだ? 喰い物は喰い物だろ、形がなんだろうと関係ねぇ」

「意外な人から意外な言葉が出ましたですぅ」

 ミイムはもそもそとくまさんカステラを咀嚼し、嚥下してから言った。

「とおっても解りやすく言えば、こうですわ。カンタロスさんは繭さんをお食べになれないでしょ?」

 にこやかにヒエムスが説明したので、繭は思わず噎せた。咳き込む繭を見、カンタロスは不思議がる。

「俺が女王を喰わねぇのは、女王を喰うと卵が死ぬからだ。それ以外に何がある」

 ますます解らねぇな、とツノをあらぬ方向に曲げてから、カンタロスは残り少なくなったくまさんカステラを取ろうと 紙袋に爪を突っ込んだ。だが、紙袋が破けてしまったので、繭は底に数個だけ残っていたくまさんカステラを出して カンタロスに渡してやった。こんがりとキツネ色に焼けたくまさんが、荒々しい顎に噛み砕かれて補食されていった。 人型昆虫には可愛いという価値観がないのは当たり前ではあるけど、と繭はちょっと残念だった。
 それから、食べに食べたくまさんカステラが落ち着くまではああだこうだと話し合ったが、アトラクションの趣味は 合わなかったので、最終的には別行動になった。最初からそうしておくべきだったと誰もが思ったが、敢えて口には しなかった。繭はくまさんカステラの残骸を顎に付けたままだったカンタロスの口元を拭いてやってから、真っ先に アイスワールドに入った。マイナス三〇度の低温の中では、カンタロスは体温が下がって大人しくなるからだ。そして、 繭の目論見は見事成功し、アイスワールドを出てからも体温が上がらなかったカンタロスは、繭に促されるままに アトラクションに乗ってくれた。徐々にグロッキーになっていく人型昆虫を横目に、繭はこの上なく満足した。
 やっと、まともにデートらしいことが出来た。





 



14 3/3






Copyright(c)2004-2014 artemis All rights reserved.