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ハマは恋えているか



 日も暮れかけた頃、大観覧車に乗った。
 当然のことながら、カップルごとでゴンドラは別である。最初に乗ったのはインパルサーと由佳で、続いてミイムと ヒエムス、最後にカンタロスと繭だった。係員がドアを開けてくれたので、インパルサーにエスコートされながら由佳は ゴンドラの中に入った。店員八名のゴンドラだけあって、中は広いのでインパルサーの体格でもすんなりと収まった。 後続のゴンドラに乗ったミイムとヒエムスと手を振り合ってから、由佳は座席に腰掛けた。

「観覧車に乗るの、久し振りかもしんないな」

「僕は初めてです」

「そりゃそうでしょ」

「自力ではない手段で上昇していく感覚はなんだか不思議ですけど、でも、わくわくしますね」

 インパルサーは窓に両手を貼り付け、徐々に夜へと移り変わりつつあるみなとみらいを見下ろした。夕日がビルの 谷間に吸い込まれていき、鮮烈な西日が狭い空間を貫いていく。インパルサーの背中は、カンタロスからアッパーを 喰らったのでほんの少し塗装が剥げていて、銀色のブースターも爪の形に抉れていた。普通の金属よりも遙かに 頑丈なインパルサーに傷を付けられるのだから、カンタロスのパワーも並大抵ではない。

「十五分したら、下に降りなきゃならないんだね」

 由佳はインパルサーを手招くと、隣り合って座り、その青い胸装甲に頭を預ける。

「ですが、十五分もありますので。それだけあれば、由佳さんといくらでも思い出を作れます」

 インパルサーは由佳の手を取り、柔らかく握り締める。硬く冷たい手を握り返しながら、由佳はビル群を見やる。

「魔法ってさ、パルの感覚だとどういうものなの? あたしはそういうのに明るくないから、暗黒総統ヴェアヴォルフが 使った魔法がどういう意味で凄いものなのか、なんでそうなるのかっていう理屈が解らないんだよ。よくあるじゃん、 優れた科学は魔法と変わらない、って。だけど、どこが違うのかすら解ってないから、余計に解らなくなるんだ」

「そうですね……。僕達の感覚、というか、惑星ユニオンには魔法に準じた技術や科学を魔法として扱っていた歴史 はないわけではありませんが、魔法と科学は別物ですね。魔法とは、知的生命体であれば誰しもが持ち得る未知 への恐怖、異端への嫌悪、差別の正当化、とでも言いましょうか。地球で言うところの魔女狩りに近いものは、僕達 の、いえ、お父さんのいた世界にもありましたからね。それがあったから、僕達が生まれたわけですが」

「なんか、ごめん」

「いえ、お気になさらず。ですから、ヴェアヴォルフさんが用いた魔法の効果とは、人間だけでなく僕達の中にも存在 している差別意識を弱めるか、それ自体を取り払うものだったのでしょう。他人と己を比較することは、自我を確立 させるためには不可欠なことであり、それがあるからこそ人間は進歩を続けたのですが、それ故に生まれた軋轢も 数え切れませんからね。ですが、それが正しいかどうかが解るのは、これからですね」

「なんでもかんでも横並びにするのは、さすがに乱暴だよね。その状態が長く続けば、人外と動物の境目もそのうち 消えてなくなっちゃいそうだし。そうなったら、食糧絡みの問題が一杯起きそうだもんね」

 でもさ、と由佳はインパルサーを上目に見上げる。

「魔法でも使わなかったら、こんなこと、出来なかった。誰にも気兼ねしないで遊び回って、中華街に行って、遊園地 で遊んで、観覧車に乗るなんてこと、有り得ないじゃん」

「ええ。ですが、由佳さんのチャイナドレス姿を拝めたので、この理不尽な状況を許せてしまいそうです」

「あー……なんか、ごめん。ウェストがさ、ちょっとだけ、本当にちょっとだけだけど、増えちゃっててさ……」

「由佳さんの最大の魅力は、体全体の柔らかな曲線にあるのですから、何の問題もありません!」

「遠回しに貶めているよね、それ。だからさ、パル。お菓子作りはちょっとだけ遠慮してもらえる?」

「なっ、なぜですか由佳さぁん!」

 動揺したインパルサーが腰を浮かせると、由佳はいつになく強く言った。由々しき問題だからだ。

「命令! このままだと確実に太るから!」

「りょっ……りょおかいしました……」

 インパルサーは力なく敬礼し、よろけながら座り直した。そこまでショックを受けることのほどなのか、と由佳は 少々呆れたが、彼なりの愛情表現を受け続けていては体重が止めどなく増えてしまうのだ。彼の手料理も御菓子も おいしいのだが、おいしいからこそ食べてしまうし、おいしいものは総じてカロリーが高いからである。由佳としても、 出来ることなら存分に食べたいのだが、食べ過ぎて体形が崩れては元も子もない。インパルサーは由佳の体重が 増えても変わらずに愛してくれるだろうが、だからといって気を抜くわけにはいかない。女子高生なのだから。

「魔法は解けるものだよね」

 前触れもなく切なさに襲われ、由佳はインパルサーに寄り掛かった。

「夢もいずれ終わります」

「だけど、終わってほしくない。観覧車が止まらなきゃいいのに。夜が終わらなきゃいいのに」

 由佳が硬い胸に縋ると、インパルサーはその肩に腕を回して抱き寄せる。

「その命令を叶えられないのが、空しいです」

「出来たら、していた?」

「愚問です」

「だろうね」

 彼の内部から滲み出す機械熱を味わいながら、由佳は目を細める。大観覧車がゆっくりと回転すると、ゴンドラの 角度が変わり、その度にぎしりと接続部分が軋む。いつしか頂点に近付いていて、見晴らしが更に良くなった。彼の 腕の中から見る景色とは一味違う夜景に、訳もなく悲しくなる。楽しかった分、満ち足りていた分、終わってしまうの が辛いからだ。軽い駆動音の後、マスクを開き、インパルサーが人間じみた素顔を曝す。

「先程の魔法の定義ですが」

 整った面差しを綻ばせながら、インパルサーは由佳の顎を軽く持ち上げ、目線を合わせる。

「多少なりとも感情を与えられていたとはいえ、僕に兵器の領分を越えた行動を取らせてしまうほどの感情の揺らぎを 与えて下さった由佳さんは、さしずめ魔女でしょう。但し、その魔法は僕にしか効きません。僕以外の誰にも」

「キスなんかしたら、その魔法が解けちゃうでしょ」

 由佳はインパルサーの素顔に触れ、輪郭をなぞる。金属でありながらも弾力のある素肌は、やはり冷たい。

「大丈夫ですよ。由佳さんに触れて頂くたびに、僕は魔法に掛かってしまうので」

「……馬鹿」

 気障ったらしすぎて笑えてくる言い回しだが、当人は至って真剣なのだ。それが微笑ましく、愛おしく、由佳は少し 腰を浮かせて身を乗り出した。そうでもしないと、近付けないからだ。肩に回されていた手が腰に回ると、その手の 力強さにぞくりとする。思わず声が出そうになり、喉の奥で押さえ込む。
 冷たくも優しい唇が由佳の唇を塞ぎ、ほのかに機械油の匂いが鼻を突く。ここから先はない。これから先に進んだ としても、互いに苦しむだけだと知っている。解っている。見えている。それでも愛さずにいられないのは、恋という毒 を飲み込んだからだ。惜しみなく愛情を注ぎ合いながら、次第に近付いてくる地上を恐れた。
 自由になれるのは、空の中だけだ。




 世界が黄昏れていく。
 影が濃くなり、闇が忍び寄り、空が色を変える。埋立地に建ち並ぶビルの窓明かりが目立つようになり、大観覧車 のイルミネーションも点灯したのか、ゴンドラの中にもカラフルな光が入り込んでくる。風に千切られた薄い雲の奧 に、月が見え隠れしている。全ては終わるからこそ美しいのだと、完結するからこそ出来上がっているのだと、自覚 すればするほどに寂寥に苛まれる。ヒエムスはつま先の丸いエナメルのパンプスを見下ろしながら、あの雑貨店で 買った品物が入っている袋を抱き締めていた。ミイムはヒエムスの向かい側に座り、景色を楽しんでいる。

「観覧車を降りたら、電車を乗り換えて東京駅まで行かなきゃならないですぅ。東京月面間の路線はまだまだ 本数が少ないですからぁ、うっかり乗り逃しちゃうと後が大変ですぅ」

 向かい側の座席に座るミイムは、中華街で買い込んだお土産が詰まったリュックサックを一瞥する。

「もう終わりなんですねぇ。今日は楽しいことばっかりでしたぁ」

「そうですわね」

「くまさんカステラと似た感じの焼き型を探すためにぃ、今度は東急ハンズにでも行ってみるですぅ。パンダまんもぉ、 ハリネズミまんもぉ、やろうと思えば作れちゃいそうですぅ。おやつのレパートリーが増えそうですぅ」

「そうですわね」

「今度は皆で来るですぅ。横浜は広いですからぁ、一日じゃ回りきれないですぅ」

「そうですわね」

「ひーちゃん、疲れちゃいましたか?」

 ミイムはヒエムスを窺い、眉を下げる。いざとなると気後れしてしまい、ヒエムスは目を伏せる。

「そのようなことはございませんわ。ですけれど、こうして二人きりになると、何をお話していいのか解りかねてしまい ますの。話したいことも、話すべきことも、一杯ございますのに……」

「いつもは皆が一緒ですからねぇ。二人きりになっても、コロニーの中に必ず誰かがいますぅ。だから、本当の意味 での二人きりになれることは、滅多にないですからねぇ。ひーちゃんがそう感じるのも解りますぅ」

 ミイムは西日に半身を照らされながら、ヒエムスを見やる。陰と陽。

「ボクがあの悪の秘密結社の総統で、魔法を使えたとしたら、ボクはこういう形の魔法にはしなかった。彼がそういう 魔法を使えるのは、世界そのものを愛している証拠なんだ。そうでなければ、人間を含めたりはしないし、人外だけを 優遇してしまうだろうからね。だから、ボクはママにはなれても、それ以外にはなれそうにない」

 甘ったるい語尾を収め、青年らしい口調に改めたミイムは静かに憂えた。その言葉を否定しようとしたが、ヒエムスは 複雑な思いを言い表せるような語彙が見つからなかったので、押し黙った。ごんごんと観覧車が回転する音、その 回転に従って角度が変わるたびにゴンドラと観覧車を繋ぐ部品が軋み、ローラーコースターの威勢の良い走行音と 乗客達の悲鳴が撒き散らされる。ごめんね、とミイムは切なげに許しを乞うた。

「ボーイフレンドになりきれなくて」

「あ……」

「いつものくせでママになっちゃったんですぅ。ひーちゃんがボクをデートに誘ってくれたってことは、他の皆の様子から 気付いていたんだけど、そういう時だけ都合良く男になるのはどうかと思っちゃったんですぅ」

「わ、わたくし、は」

 いつものママでも、男として振る舞ってくれても、どちらでも良かった。ヒエムスは目線を彷徨わせ、火照ってくる頬 に触れた。自分の心臓の音が鼓膜に跳ね返り、観覧車の駆動音が遠のいていく。座席が高すぎるので遊んでいる つま先を寄せ、体を縮める。こうなることを望んでいたから、そうなるように手を回したのに、いざ思い描いた場面が 訪れると怯えてしまうのはなぜだ。体と共に心も幼くなり、子供になったからか。

「だから、次はボクからデートのお誘いをするですぅ。その時は、ちゃんとエスコートするですぅ」

 ミイムは腰を上げてヒエムスの前にやってくると、片膝を付く。ヒエムスは躊躇いながらも、右手を差し出す。

「私でよろしいの?」

「何度も言ったじゃないですかぁ。ボクのお姫様だって」

「あうっ、あれは」

「そっか、言葉の綾だと思われちゃうんですかぁ。仕方ないですぅ、普段がコレですからねぇ」

 ヒエムスの小さな右手を右手で優しく包んだミイムは、その手の甲に唇を弱く触れさせる。

「これでも、ボクを疑う?」

「……いいえ」

 するりと解かれた右手の滑らかさに、ヒエムスは息が詰まりそうになる。ミイムは腰を上げると、ヒエムスの隣に 座り直してきた。その距離の近さに戸惑いながらも、ヒエムスはこの機を逃すべきではないと意を決し、袋を探って 翡翠のストラップを取り出してミイムの膝に置いた。目を見て話すことなんて、出来そうにない。

「差し上げますわ」

「綺麗な石ですぅ。これ、ウサギさんですかぁ?」

「十二支の一つですわ。私は十二支について詳しく存じ上げておりませんけども、ウサギはウサギですもの」

「ありがとう、ひーちゃん。大事にしますぅ。それと、一つ訊いてもいいですかぁ?」

「なんなりと」

「君が選んだチャイナドレスの色、あれってボクの髪の色だったんですかぁ?」

「だとしたら、どうなさいますの」

「光栄だね。最上級の栄誉だ」

 そう言って、ミイムは体を少し傾けてきた。ヒエムスとの距離が失せ、暖かくも華奢な体が寄り添う。渾名ではなく 名前で呼ばれると、訳もなく心がざわめく。動揺のようで混乱のようでもあり、熱波にも似ていた。それだけこの人を 意識しているのだと痛感し、ヒエムスは目を伏せた。二人分の影が狭いゴンドラの窓を塞ぎ、翳らせる。
 東京駅から発車した月面行きの列車が、夜空を横切っていった。




 生温い娯楽は終わった。
 人間の頭を容易く噛み砕ける筋力を備えた顎が目の前で開き切り、その端から体液を細く垂らしながら、細長く 黄色い舌が喉にまで入り込んでくる。彼は飢えている。他でもない自分に飢えている。その事実が否応なく優越感 を生み出し、繭は息苦しさと嘔吐反射で涙目になりながらも満ち足りていた。ぐじゅるぐじゅるぐじゅる、とカンタロス の舌が繭の体液を欲して暴れ回る。胸と腹の外骨格の隙間からはみ出している神経糸も、物欲しそうに繭の足と 腕に絡み付いている。六本の足によって硬い床に縫い付けられた繭は、顎を上げると、舌が引き抜かれた。

「体液、足りる?」

 小さく咳き込んでから、繭は自分を組み敷いている巨体の虫を見上げる。

「足りねぇ」

「でも、ここじゃダメ。時間がないし、狭いし……」

「足りねぇ」

「もう……」

 繭は口元を手の甲で拭い、目元も拭おうとしたが、カンタロスの舌が頬から目尻に掛けて這い上がってきた。

「ひゃうっ」

 べっとりとした冷たい感触と耳元で起きた粘ついた水音に、繭は反射的に悲鳴を零した。唾液を味わうだけでは 気が済まないから涙も欲したのだろうが、あまりにも唐突すぎた。カンタロスは繭を中両足で抱き起こすと、上両足 で繭の上半身と下半身を拘束した。神経糸の尖端がフレアスカートの裾から入り込んだが、タイツに阻まれたのか、 あまり深入りはしてこなかった。それでいいのだと思う反面、ちょっとだけ落胆してしまった。
 足りない、足りない、足りない。譫言のように繰り返しながら、カンタロスは繭の体液だけでなく、肌にも細長い舌 をまとわりつかせてくる。元々抵抗する気もないので、繭はカンタロスのされるがままになっていた。下手に抗って 服を破かれてしまったら、帰るのが大変だからだ。だから、ポンチョを脱いでブラウスのボタンも外してやると、彼の 食い付きは更に良くなった。実際、肩や上腕を浅く噛まれもしたのだが。

「帰りたくない、なぁ」

 カンタロスの複眼に映る自分の在られもない姿を見、繭は照れ混じりに呟いた。 

「巣にか。それとも、俺が王の中の王になる道にか」

「どっちも」

 また肩を噛まれ、熱い違和感が走った。うっすらとだが皮膚が裂けたのだ。そこから滲み出した真新しい血液を、 カンタロスは舐め上げる。滲み出した分だけ舐め、絡め取り、飲み下した。舐められるほどに傷口が開いて新たに 痛みが起きるが、繭はそれを嫌だとは思わなかった。触角に髪を探られながら、とろりと弛緩する。

「どうしてだろう。今、凄く幸せなのに。普通に生きられて、凄く嬉しいのに。誰とも戦わずに済むから体も楽なのに、 なんだか足りない。足りなくなっちゃうよ」

「俺の女王だからだ」

「……うん、そうだね」

 その一言で、全てを言い表せる。繭は自ら舌を出してカンタロスの舌と絡め合ってから、息を弾ませた。人型昆虫 が繁栄のためにはいかなる手段も厭わない種族であるように、人間また快楽のためにはいかなる犠牲も厭わない 種族だ。そして繭は、孤独の恐怖よりも暴力を伴った快楽を選んだのだ。だから、彼を愛して止まない。
 友達が出来た。その友達と一緒に遊んだ。一杯お喋りして、記念写真も撮って、買い物もして、観光もして、繭が 長年抱いていた願望が成就した。だが、終わってしまえば気が済んでしまう。敵を殺し尽くせば戦闘本能が落ち着く ように、満たされればどうでもよくなる。繭は薄い胸にカンタロスの頭部を抱き、ゴンドラの外の夜を見据えた。
 平和は充分味わった。だから。




 黒い炎が、古びた魔導書を包んだ。
 女の絶叫にも似た異音がページの間から迸り、鼓膜に突き刺さる。分厚い表紙が焼き尽くされて灰に変わると、 表紙よりも先に黒く縮れていたページが崩れて上昇気流で舞い上げられる。飛び散る灰は渦を巻いていたが、地面 に描いた魔法陣の外側へは出てこなかった。予め施しておいた障壁の魔法が、無事に発動している証拠だ。マント を翻したヴェアヴォルフは、古い魔法言語を口にして黒い炎を盛らせると、古びた魔導書は程なくして燃え尽きた。 魔法陣の外へ熱風こそ出てこなかったが、一瞬、熱気が押し寄せる。

「暗きものを総て統べる男よ」

 年代物の煙管を口の端に挟んだ女が、魔法陣の向こう側に立つ。古の魔導師のようなローブ姿だった。

「それがお前の出した結論、いや、結末か」

「何か不都合でもあるのか」

 暗黒総統ヴェアヴォルフは軍帽の鍔を上げ、女を見据えようとするが、輪郭が定まらない。見えているはずなのに 実体はないような、実体があるはずなのに重みがないような、手応えのなさを覚える。女は煙管を吸い込んで煙を 緩く吐き出し、茶色の瞳でオオカミ怪人を捉える。

「いや、これといって。それは私の落書きのような魔導書だ、惜しくもなんともない。だが、問おう。隔たりのない世界 とは、お前が望んで求めていたものではなかったのか?」

「違いすぎて反吐が出る」

「その理由は?」

「去勢された獣は家畜にすら劣るからだ」

「なるほど。お前達は知恵の実を囓った獣にして、ヘビをも飲み下した者達だ。獣であると共に人であり、人であると 共に魔性でもある。しかして理性を宿す反面、本能に抗わずに繁栄を望む。相反する精神と肉体に安寧をもたらそう とはせずに、敢えて拮抗させ、そこから生じる摩擦や衝突を成長の糧とするか。これは興味深い事例だ」

 女はくつくつと喉を鳴らして笑い、長い袖の中で腕を組む。

「安直だがそれ故に実直な答えだ。ならば、総てを統べる男よ、お前は何を望む」

「問われたからには応じよう、魔性の者よ! 我が大望、それは怪人の怪人による怪人のための世界征服だ!」

 ヴェアヴォルフが盛大にマントを翻してポーズを決めると、女、ヴァトラ・ヴァトラスは笑んだ。

「素晴らしい。思いがけぬ進化、仮定すらしていなかった進歩、想像すら及ばなかった未来だ。お前のような僥倖に 出会えるからこそ、私の旅は終わりそうもない。終わらせられるわけでもないのだがね」

 魔導書が燃え尽きるのと同時に、女の姿も掻き消えた。ヴェアヴォルフが舞い上げたマントが背中に落ち着いた のと、ほぼ同時だった。すると、魔導書の残骸である灰がビル風に呷られて飛び散ったので、慌てて障壁の魔法を 行使してビルの屋上を囲んだ。迂闊に灰を撒き散らしてしまえば、近所トラブルになりかねない。
 悪の秘密結社ジャールの本社が入っている雑居ビルの屋上で、ヴェアヴォルフは消火用に用意していたバケツの 水を魔法陣に掛けた。ぶすぶすと燻っていた魔導書の黒い火も収まり、チョークで書いた魔法陣も消えた。その様を 見守っていたカブトエビ怪人、レピデュルスが声を掛けてきた。

「苦心して見つけ出してきた魔導書ですが、所有者は若旦那です。ですので、魔導書をどうなさろうとも、若旦那の 御自由です。甘んじて受け止めましょうぞ。ですが、ヴァトラ・ヴァトラスとお会い出来るとは思ってもみませんでした。 あの方がいかなる存在であるかは、大旦那様の御友人である吸血鬼から窺っておりましたが、こうして直に接すると 我々の理解の範疇を越えた御相手であると感じざるを得ませんでした。浅学ではありますが、私も魔法を扱う身で ございますので」

「とんでもない魔法だが、とんでもなさすぎて俺の手に負えるもんじゃなかったしな。ヴァトラ・ヴァトラスにしてもだ。 だから、魔導書は二度と使わない。世界征服するなら、やはり自力でなければ」

「若旦那が生まれ持った魔力と魔法の才覚は、自力ではないのですか?」

「魔導書を使っちゃったから、自力とは言い難いだろ。食材の宅配便みたいなもんで、既に下拵えが済んだものを レシピ通りに作るだけじゃ面白くもなんともないからな。あの世界は俺が抱いていた理想に近いものではあったが、 近いだけで同じってわけじゃないからな。夜が明けたら、全部元通りだ。そうなったら、世界征服もまた一から始める しかないな。……まあ、その一にすら到達しているかどうかも怪しいんだが」

「喩えが所帯染みておりますね」

「誰のせいだ、誰の」

「私でございます」

「とにかく、まあ、なんだ。古の魔法にて世界を変えるという世界征服作戦は、今、この瞬間に終わった! そして、 今、この瞬間から怪人の覇道を切り開くための戦いも再び始まるのだ! 俺の魔法如きで腰砕けになるほど軟弱な 正義しか持たないヒーローよ、そのヒーローでもなければ怪人でもない人間や人外共よ、そして、我が配下であり 世界征服への礎である怪人達よ! 暗黒総統ヴェアヴォルフによって支配された世界にこそ、真の幸福と平穏が 約束されているのだと心しておけ! ふははははははははははははははは!」

 東側の空から昇る朝日を一心に浴びながら、ヴェアヴォルフは高笑いした。が、早朝なので心持ち控えめである。 いやあれでもよかったかな、魔導書を燃やしちゃったのはさすがに恰好付けすぎたかな、といった後悔がちらほらと 脳裏を過ぎったが、ヴェアヴォルフは更に高笑いして雑念を掻き消した。
 隔たりのない世界は平べったく和やかであるように見えるが、その分、奥行きもなければ深みもない。ヒーローが いなくなれば怪人の存在意義はなくなり、怪人がいなくなればヒーローは害となり、そのどちらでもない人外は己の 足場を見失いかねず、人間は異種に対しての恐れを失う。安易な理想など、現実にすべきではないのだ。
 だから、ヒーローとの戦いは終わらない。ミラキュルンとの戦いも続けなければならない。ヴェアヴォルフは意味も なく胸を張ると、口角を上げて太い牙を覗かせた。人間とそうでない者の間にある隔たりという壁の前に、信念という 足場を連ね、重ね、紡いでいけば、いずれ乗り越えられるだろう。そして、その先には。
 野々宮美花の心という、征したい世界がある。




 夢は終わり、魔法も終われども。
 人の過ちと人ならざる者の罪は許されず、業に魂を焦がす。
 黒き炎が夜明けをもたらし、月の異境は封じられ、現世に隔たりが甦ろうとも。

 人と人ならざる者は相見え、惹かれ合うのである。








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