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最強主人公決定戦 後編



 今日は、どこまで転げ落ちたのだろうか。
 まず、自分の頭を探さなければ。首から上が外れてしまったギルディオスは、手探りで周囲を探ったが目当てのものに 届かなかった。トサカに似た赤い頭飾りが付いた兜は草むらか何かに突っ込んでしまったらしく、視界には草しか見えていない。 だから、この近辺だとは思うのだが、なかなか見つからなかった。首の外れた全身鎧が四つん這いで草むらを探し回る姿は、 我ながら滑稽だとは感じたが背に腹は代えられない。
 伸び放題の雑草を掻き分け、石に蹴躓きながら、ごそごそしていると、いきなり視界が持ち上げられた。そして、 兜を持った者が落ち着いた歩調で近付いてくると、ギルディオスの兜が首に填め込まれた。顔を上げると、ギルディオスの 目の前には、狂気の笑みを貼り付けた仮面を被った銀色の骸骨、ラミアン・ブラドールが立っていた。

「ありがとな、ラミアン」

 ギルディオスは起き上がると、首の填り具合を確かめた。ラミアンは、仮面の下から笑みを零した。

「お気になさらず。慣れたことですので」

「つくづく寝相が悪いな、俺は」

 ギルディオスは草の汁や土が付いた鋼の体を払ってから、背後を見上げた。共和国の片隅にある人ならざる者達の 住まう土地、ゼレイブを見下ろす緩やかな山の斜面には、ギルディオスが転げ落ちたことによるわだちが出来ていた。一直線に 草が潰れていて、土が露出している部分もあるほどだった。ギルディオスが昼寝をしていたのは、斜面のかなり上に位置する 大木の根本だったのだが、恐ろしく豪快な寝返りを打ってしまったらしい。しかし、これは今日が初めてではない。見晴らしと 日当たりのいいところでうとうとしていると、必ず転げ落ちる。平らな場所や屋内であれば、もちろんそんなことはないのだが、 わざわざ斜面を選んで昼寝をするギルディオスが悪いのである。だが、一度高いところでの昼寝の心地良さを知ってしまうと、 なかなか止められないもので、そして今日もまた夕刻まで寝入った末に転げ落ちてしまった。我ながら馬鹿げているが、 気持ちいいのだから仕方ない。

「…夢を見た」

 ギルディオスは汚れた兜を擦りつつ、呟いた。

「余程、深く寝入られていたのでしょうな。私は鋼の身と化してからというもの、魂が露出させられている状態ですので、 心休まる冷たい棺の中であろうともそれほど深く寝入れませぬので、羨ましい限りです」

 ラミアンは魔導金属糸製の銀色のマントを翻し、骸骨の顔に填め込まれた魔導鉱石の目を僅かに光らせた。

「まあ、夢っつっても大した夢じゃねぇけどな。お前らみてぇな面白可笑しい連中が戦い合って、誰が一番強いのかを決める っつうやつだったからな」

 ちなみに俺は三番手だった、とギルディオスが笑うと、ラミアンは意外そうにした。

「それはそれは。ギルディオスどのともあろう御方が、三番手に甘んじられるとは」

「だからよ、ラミアン」

「はい」

「一発やらせろ」

「私にはそのような趣味はございませぬが」

「あー、うん、俺の言い方が悪かった」

 ギルディオスはがりがりとヘルムを引っ掻いてから、自分と共に転げ落ちていたバスタードソードを拾った。

「夢とはいえ、悔しいもんは悔しいんでな。気晴らしさせてくれや、ラミアン」

「私などでよろしいのですか?」

 しゃりぃん、とラミアンが長く鋭い爪を擦り合わせると、ギルディオスは鞘を引き、刃を露わにした。

「お前ぐらいじゃねぇと、俺の相手は務まらねぇよ」

 鞘が投げ捨てられ、雑草に没する。ギルディオスは魔導鉱石に収められた魂にわだかまった感情と衝動を放つため、 剣を振った。ラミアンは骨の如く細い足を曲げて敏捷に跳ね、荒々しい斬撃を軽やかに避け、ギルディオスの背を踏み台に して更に上昇した。ギルディオスは内心で好戦的な笑みを浮かべながら、力任せに足元を踏み切って重たい体を浮かび上がらせ、 ラミアンに追い付いた。マントが滑空翼に変化するラミアンはともかく、ギルディオスは空を飛ぶことは出来ないが、跳ぶことだけは出来る。 縦の円を描くように振り下ろしたバスタードソードはラミアンの爪に挟まれると、細かな火花が散った。その勢いで両者は落下したが、 地面に転げずに姿勢を戻し、ラミアンは俊敏に跳ねて距離を開いた。ギルディオスは腰を落として追撃の間合いを計っていると、 遠くから声が掛かった。

「らみあーん、たいちょーさーん! おゆうはんのじかんだよー!」

 エプロンドレスの裾を持ち上げて西日の中を駆けてきたのは、ラミアンの愛妻、ジョーことジョセフィーヌだった。

「ジョー!」

 ラミアンが戦闘態勢を解いて身を起こすと、ギルディオスも剣を収めた。

「仕方ねぇな、この続きはお預けだな」

「あのね、あのね、きょうはね、がんばったんだよ!」

 ジョーはラミアンの腕を掴み、引っ張った。当の昔に成人していて、実年齢は三十代後半なのだが、その人格は 幼いままで止められているために言動は幼女そのものだ。予知能力を有する異能者であり、制御も出来なければ魔法も 使えないが、高い魔力を有しているので老化が遅く、実年齢よりは一回りは若く見える。

「ならば、丁重に頂こう。気持ちだけではあるがね」

 ラミアンはジョーと共に歩き出そうとすると、ジョーはギルディオスの腕も引っ張った。

「いっしょ、いっしょがいいの!」

「解ってるっての」

 ギルディオスは鞘を拾って剣を収めると、ベルトを肩に掛けてから、ジョーに引っ張られるままに進んだ。ラミアンは ギルディオスと顔を見合わせると、少しばかり肩を竦めた。ギルディオスは笑い返してから、ジョーに従い、ゼレイブの中で 最も大きく古い建物である吸血鬼一家の屋敷に向かった。道中、農作業を終えて帰路を辿るブラッドやヴェイパーやレオナルドに 声を掛けられ、手を振ってやった。民家が集まった場所に入ると、一緒になって遊んでいたリリとロイズに出迎えられ、 一人、離れた場所で魔導書を読み耽っていたヴィクトリアは目も上げなかった。彼女の反応の冷ややかさには慣れているが、 物足りないのは事実だ。ギルディオスはヴィクトリアに、お前も早く来いよ、と言い残してから屋敷に戻った。肩からバスタードソードを 下ろし、夕食の匂いを嗅ぎ、ギルディオスは感じ入った。
 この瞬間のために、己を磨き、長らえてきたのだ。




 はっとして身を起こし、ぎょっとした。
 駅前広場に立つ時計の時刻は午後五時三十分を当の昔に過ぎていて、長針と短針は午後六時手前を指していた。 ミラキュルンは慌てて起き上がり、辺りを見回すと、目の前には宿敵が足を組んで座っていた。ミラキュルンが座っていた ベンチの右半分に腰掛けていた暗黒総統ヴェアヴォルフはマントを脱いでいて、赤い軍服姿を露わにしていたが、軍帽に 隠れた横顔は退屈そうだった。丁寧なことに、彼のマントはミラキュルンの上に掛けられていた。

「えーと…」

 ミラキュルンが恐る恐る声を掛けると、ヴェアヴォルフは振り向いた。

「年頃の娘が街中で爆睡するな」

「すみません、そんなつもりじゃなかったんですけど…」

 ミラキュルンはマントを折り畳んでヴェアヴォルフに返すと、ヴェアヴォルフはそれを受け取った。

「じゃあ、どんなつもりで爆睡していたんだ。こんな人通りの多い場所で」

 ヴェアヴォルフの視線が、すっかり薄暗くなった駅前広場を行き交う人々に向いた。今更ながら羞恥心が湧いた ミラキュルンは俯いたが、寝入ってしまった理由が思い出せなかった。確かに、近頃はテスト勉強やら何やらで忙しくは あったが、そこまで疲れていたとは思わなかった。曲がりなりにもヒーローなのだし、常人の数十倍のスタミナがある はずなのだが、なぜか踏ん張りが効かなかったらしい。

「か、怪人さんは?」

 説明出来なかったミラキュルンが話題を変えようとヴェアヴォルフに尋ねると、ヴェアヴォルフは片耳を曲げた。

「定時で上がるはずだったんだが、トラブルが起きたとかで残業になっちまって、まだ来られないんだ。だから、怪人の 残業が終わるまでは決闘はやろうにも出来ない」

「四天王はいらっしゃらないんですか?」

「ファルコが来るはずだったんだが、来られない理由はさっき言った通りだ」

「はあ…」

 幸か不幸か先方に迷惑は掛けていなかったらしい。安堵し、納得したが、ミラキュルンは気が引けてきた。

「なんか、すみません。もうちょっとちゃんとした戦いをしようって思っていたのに、こんなことになっちゃって」

「全くだ。貴様が寝ている間に襲撃してやろうかと思わないでもなかったが、それは色々な意味でアウトだからな」

 彼の声色は怒っているようではなかったが、かといって好意的でもなかった。それは当たり前である。ヴェアヴォルフ 率いる悪の秘密結社ジャールは純情戦士ミラキュルンを倒そうとしているのであり、名実共に宿敵なのだ。そんな相手が 眠りこけていたのに手を出さないのは、彼の優しさなのだろう。ミラキュルンはなんだか嬉しくなったが、敵が現れても目を 覚まさなかった自分の情けなさにも気付き、心底落ち込んだ。

「ところで、何か夢でも見ていたのか?」

 軍帽を上げたヴェアヴォルフに問われ、ミラキュルンは聞き返した。

「え、あ、はい。面白いんだろうけど色々とおかしな夢を見ました。私、何か、寝言でも言っていましたか?」

「日記帳がどうとうか相合い傘がどうとか」

「ひぃいやああああっ!」

 途端にミラキュルンは絶叫し、飛び立った。おい待てこれから決闘を、と引き留めようとするヴェアヴォルフに振り返る ことすら出来ず、ミラキュルンは出せる限りの速度で空を飛んだ。夢の中で、ミラキュルンは喋る車と合体したはいいが、その 後で恥ずかしい話を思い切り暴露され、負けを認めてしまった。ヒーローなのに敗北してしまった情けなさもだが、それ以上に 凄まじいのは羞恥心だ。ともすれば、あの喋る車には大神剣司と交わしたメールの内容も、と思ってしまうと止まらなくなり、 ミラキュルンは羞恥が収まるまで飛び続け、意味もなく地球を何周もした。
 具体的に強くならなければ。無論、精神的な意味で。




 光の障壁が出現し、爆撃を防いでくれていた。
 それは、悪の魔法少女ダークルリィが得意とする障壁魔法であり、光の障壁の前では当の本人が魔法のステッキを 握り締めて踏ん張っていた。だが、光の障壁が防げているのは、せいぜい彼女の半径十数メートル程度の領域でしかなく、 障壁が途切れた先では相変わらずの爆撃が続いている。火星革命軍の使用する戦闘機が上空を飛び抜けると、ダーク ルリィのコウモリの羽がモチーフのスカートが翻ってガーターベルトを付けた足が露わになった。

「お前さぁ、衣装とパンツのマッチングを考えてこいよ」

 上下逆さまにひっくり返っていたヘルマグナムは、彼女のスカートを覗き込む形になり、成長途中ながらも程良く 脂肪が付いた丸い臀部を覆うショーツを目の当たりにしていた。襟刳りが大きく、ガーターベルトだけでなくチェーンや黒の レースといったゴシックな雰囲気の衣装とは裏腹に、ダークルリィのショーツは腹部まで覆う形の野暮ったいものだった。 しかも、色も地味なベージュだった。

「仕方ないでしょ、冷え性なのよ! わっ、私だってこんなの履きたくないけど、でも冷えるの、下るの、お腹が!」

 黒髪貧乳美少女の悪の魔法少女、ダークルリィは赤面しながら言い返してきた。

「だったらあれだ、腹巻きしろよ」

 起き上がったヘルマグナムが指摘すると、ダークルリィは目線を彷徨わせた。

「それはその、年頃の乙女が超えてはいけない一線のように思えてならないのよ」

「細けぇことを気にしやがって」

「いいから、あんたはさっさと戦いに行きなさいよ! 何よ何よ、せっかく助けに来てあげたってのに気絶しちゃうし、 人のパンツを見ても文句しか言わないし、あーもうっ! これだからロボットなんて嫌い! 大嫌い!」

 ダークルリィは眉を吊り上げ、ヒステリックに喚いた。とかなんとか言うわりに、魔法少女としての戦いを終えた今でも ちょくちょくヘルマグナムらの所属する月面多国籍軍に魔法でワープしてきては、三クール目の出来事ですっかり仲良くなった オペレーターボットのナヴィアとお喋りに興じていたり、ヘルマグナムらが不利な状況に陥ったら率先して行動したりするのだから、 訳が解らない。いわゆるツンデレなのだろうが、ヘルマグナムにはツンデレを理解するために必要な精神構造は備わって おらず、むしろ真っ向から好意を示される方が好ましかった。そう、ちょっと嫉妬深くて記念日を忘れると激怒するけど愛情深い、 愛しの彼女、ナヴィアのような。

「瑠璃子」

 ヘルマグナムはダメージチェックを行った後に両肩のヘルキャノンを上げつつ、彼女の本名を呼んだ。

「えっ、あっ、な、な、何よおぅ! 名前呼ばれたぐらいで、うっ、嬉しくなんてないんだからね!」

 ダークルリィはステッキを握る手が震えるほど赤面し、ヘルマグナムを見上げた。

「今時、そんなベタすぎるツンデレは子供番組でだってお目に掛かれねぇぞ。もうちょっとキャラクター性を考えろ」

 光の障壁の内側から迎撃して敵機を撃ち落としてから、ヘルマグナムは真顔で言い放った。

「ばぁーかぁーあああああっ!」

 ダークルリィは半泣きで絶叫し、光の障壁を解除してテレポートしてしまった。途端にヘルマグナムに集中攻撃が 降り注ぎ、強烈な爆発が起きた。寸でのところで回避したヘルマグナムではあったが、気絶する前に受けた攻撃のせいで 背部のブースターの出力が思うように上がらない。火星革命軍に所属するヒューマノイドの小隊に目を付けられてしまったが、 今度は逃げられそうにない。万事休すか、とヘルマグナムが諦観を抱きかけると、あの声がした。

「ホーリー変身っ!」

 ヘルマグナムよりも若干派手なエフェクトと光を放ちながら、魔法少女の衣装を纏ったのは、ヘルマグナムが所属する 部隊の隊長であるライトニンガーだった。もちろんロボットだ。青と白の装甲がひらひらした衣装に隠され、リボンが付き、羽根が生え、 イヤリングや頭飾りも付き、ピンヒールのタイトなブーツが装着されると、ライトニンガー、もとい、ホーリーライトニンガーはポーズを付けた。

「魔法天使ホーリーライトニンガー! 輝く愛で世界を照らす光の天使!」

 隊長らしく堂々とした声で気の抜けた名を名乗り、ホーリーライトニンガーはステッキを掲げた。

「ホーリーエナージョンクラスターボム!」

 と、魔法少女が使う技にしてはきな臭い技を放ち、眩い光の中から無数の爆弾を生み出した。それが一斉に投下されると、 ヘルマグナムに狙いを定めていた敵部隊は全滅し、周辺の敵も綺麗に撃破された。ホーリーライトニンガーはステッキを下ろすと、 ヘルマグナムの前に降りてきた。

「無事か、ヘルマグナム!」

「ダークルリィと隊長のおかげっすよ。だけど、なんでまた変身なんて…」

 ヘルマグナムが渋い顔をすると、ホーリーライトニンガーはもっと渋い顔をした。

「仕方ないだろう。今の我らは兵力はおろか火力も負けている、使えるものはなんでも使えとの長官命令だ」

「それじゃ、ナヴィアも」

「ああ。ホーリーナヴィアリアとなって、基地周辺を守っている。だから、ヘルマグナム!」

 ホーリーライトニンガーはヘルマグナムの両肩をがっしと掴み、顔を寄せてきた。

「…解りましたよ」

 本当は変身などしたいわけがなかったのだが、長官命令なら仕方ない。ヘルマグナムは渋々承諾し、変身すると、上官と 共に戦線に復帰した。実際、魔法少女の能力は物凄く役に立つ。使い方次第では、先程のような広範囲の絨毯爆撃だけでなく、 ダークルリィのような防御や、仲間の負傷を回復させることも出来る。のだが、戦うためだけに生み出されたヒューマノイドが やる仕事ではないと常々思っている。大体、そんな万能の力があっては命懸けの戦いに有り難みというものがなくなってしまう。
 その他にも言いたいことは山ほどあったが、ホーリーライトニンガーの手前なので我慢し、ヘルマグナム、もとい、ホーリー ヘルマグナムは重火器の代わりにステッキを握り締めた。気絶している最中に見た夢は素晴らしかった。あの世界では、ヘル マグナムは魔法少女の力になど頼らずに自分自身の力で戦い抜いていた。トーナメント戦の結果は散々だったが、それでも 安易な力に溺れるよりは余程いい。それなのに、またこんな世界に戻ってきてしまった。うんざりすることこの上なかったが、 何もせずにいると仲間が全滅してしまうので、ホーリーヘルマグナムは自軍の勝利のために魔法のステッキを振るって きらきらしたエフェクトの魔法を行使した。
 まかり間違って、第二シーズンがなければいいのだが。




 シャッターが押し上げられ、外界の光が差し込んできた。
 車体を舐める日差しは柔らかく、滑り込んできた風は冷ややかだった。イグニッションキーの接近によって自動的に 作動するように設定されているトゥエルブは、程なくして全ての電子回路に通電させて意識を取り戻した。ヘッドライト内に 設置されたカメラに写ったのは、トゥエルブの主である女性、春花だった。

「おはよう、トゥエルブ」

 逆光の中、明るい笑顔を向けてきた春花に、トゥエルブはヘッドライトを瞬かせた。

「おはよう、春花。今日はどのような用件かね」

「せっかくの休日だから、綺麗にしてあげようと思ってさ」

 春花はガレージのシャッターを開けきると、トゥエルブに近付いてきた。その格好は外出着ではなく、汚れても平気な ジャージ姿だった。片手に車内を掃除するための掃除機を下げていて、ガレージの外には既に洗車用のホースが伸び、 準備万端だった。トゥエルブはヘッドライトを消し、ロックを外し、春花を受け入れる姿勢を整えた。
 上機嫌に鼻歌を零しつつ、春花はボンネットを開けてエンジンルームを覗き込んだ。バッテリー液、ブレーキオイル、 冷却水、ウォッシャー液の残り具合を確かめてから、汚れを拭き取り始めた。それが終わると、今度はタイヤの空気圧や ワイパーのパッキンの減り具合も確かめ、フロントとバックのワイパーを立て、丁寧に汚れを拭いた。
 兄からこの車体を譲り受けた時から、春花はとても大事にしてくれている。元々車が好きだったらしいのだが、 自分の車を手に入れてからは愛着を持つようになった。事実、トゥエルブは事細かに手入れをされ、綺麗好きな春花の手で 磨き上げられてから、ドライブに駆り出されている。そして、今日もまた、春花はトゥエルブを手入れしてくれる。それはとても 嬉しいことではあるが、それがいつまで続くのだろう。春花の襟元からは細いチェーンに掛かった小さな宝石が揺れていて、 速水亮也との繋がりを示していた。指輪を填めていたこともあれば、ピアスをしていたこともあり、その度に春花は速水との 交際が順調であると話してくれた。春花が嬉しければトゥエルブも嬉しいが、生臭い感情が思考回路を鈍らせる。人間に 忠実であることを決定付けられた人工知能にあるまじき事態だが、今度ばかりは削除出来ない。トゥエルブという個を支える 疑似人格に、深く食い込んでいるからだった。

「春花」

 トゥエルブが話し掛けると、春花は車内に掛けていた掃除機を止めた。

「ん、なあに?」

「速水氏と結婚するのかね」

「うん」

 春花は快活に答え、頷いた。

「ならば、私は君の良き思い出となろう」

 言いたいことはいくらでもあるはずなのに、音声として変換出来たのはこれだけだった。トゥエルブは、休眠中に 認識したような気がする無作為な情報の羅列、夢の中では己を曝け出せていた。現実的には到底有り得ない方法で、 本来なら誰にも知らせずに削除されていく感情を滾らせ、暴れ回り、我が身を守るために戦った。それもこれも、無事な姿で 春花の元に戻るためだった。だが、その春花はトゥエルブの元から去る。速水と結婚すれば、春花は妻となり、いずれは 母となる身だ。そんな女性に、こんなに派手なスポーツカーは必要ない。それどころか、生真面目すぎて融通の利かない 車載型人工知能など。

「思い出、思い出かぁ…」

 噛み締めるように同じ言葉を繰り返してから、春花はハンドルに額をぶつけた。

「亮也さんはね、トゥエルブも一緒にって言ってくれたんだ。私の最初の車だし、トゥエルブは兄弟みたいなものだから、 ってさ。もちろん、そうするつもりだよ」

 春花の切なげな指先が、革製のハンドルをなぞる。

「でも、いつか、この車は手放さないとね。子供が出来たりしたら、トゥエルブを別の車に積み替えないと」

「的確な判断だ」 

「だけど、そう考えただけで寂しくて寂しくて…」

 結婚したくないわけじゃないけど、と春花はハンドルを抱えて胸を押し付けると、クラクションが短く鳴った。

「まあ、昨日の今日でそうなるってわけじゃないし、うん、まだ当分はトゥエルブを乗り回せる!」

 春花はハンドルを離すと運転席を出ると、さあ次はトランクだ、と後部に回ってトランクを開き、悲鳴を上げた。

「うひゃあ!?」

「どうかしたのか、春花」

 トゥエルブがテールランプに内蔵されたカメラで春花を見上げると、春花はびくびくしてトランクを覗き込んだ。

「…死体、じゃ、ないよね? うん、違う」

 トゥエルブの容積が限られたトランクに押し込められていたのは、バラバラに分解された等身大の人形らしき物体だった。 昼間とはいえ薄暗いガレージでは、やたらに精巧に作られた人形は死体と見間違えても無理はない。春花は掃除機のノズルで ビニール袋に詰め込まれた人形を小突いて、手応えがプラスチックであることを確かめてから、トランクから引き摺り出した。 こんなもの入れた覚えはないんだけど、とぼやきながら、春花は分解された1/1フィギュアをガレージの隅に置き、トランクの 掃除を始めた。注視すれば、人形の正体は1/1のミイムであり、バラバラになったパーツの中にトロフィーが埋もれていたのだが、 春花はそんなことに気付くことすらなく、黙々と掃除を続けた。トゥエルブもまた、フィギュアからは完全に関心を失い、春花に だけ意識を向けていた。春花が速水と結婚してしまえば、こんな蜜月は失われるだろう。だから、今のうちにとくと味わって おかなければ、とトゥエルブは妙な使命感に駆られて春花から受け取る情報を事細かに記録し、記憶容量に保存していった。
 速水亮也と添うまでは、自分が彼女を守り抜かなければ。




 一滴のミルクが波紋を作り、紅茶を波打たせる。
 新人類という名の知的生命体だった頃の感覚が呼び起こされ、ふと懐かしい気持ちになる。今はこんなものを摂取する 必要もなければ、摂取するための臓器もなく、仮想現実が生み出した錯覚であり思い込みでしかないと再確認したが、それでも 心が弾むのは人であった者の性なのだろう。かつての姿、サチコ・ムラタに酷似した姿を維持しながら、アニムスは繊細な ティーカップを傾けた。豊かな香りが鼻に抜け、熱く甘い液体が喉を滑り落ちた。

「とてもおいしいわ」

 アニムスが頬を緩めると、向かい側に座る三本足のトカゲのような外見の老齢の男、ゲオルグは笑みを返した。

「喜んでもらえて何よりだ」

「だって、私のゲオルグですもの」

 ゲオルグの隣に座る成人女性、アリシアは自慢げだった。

「誠に素晴らしき時間であったな」

 アニムスの隣に座るのは、旧い時代の魔導師の服装をした年齢不詳の女性、ヴァトラだった。

「ええ」

 アニムスが品良く頷くと、ゲオルグは単眼の義眼を下げ、無限の情報に構成された仮想宇宙を見下ろした。

「だが、少々乱暴ではなかろうか。彼らは我らとは切り離された物質次元を生きる者達であり、仮想と現実の狭間に 漂う情報生命体である私とアリシアはもとい、量子コンピューターの域を超えた生体コンピューターであるアニムスどの、そして 無限の時空と次元を長らえるヴァトラどのとの接点はないのだから。全ての次元に接触する新たな次元を生み出し、バタフライ エフェクトを回避するための場所を作り上げた上での出来事であろうとも、彼らの存在する次元に介入したことには変わりない」

「楽しかったからいいじゃない。そういうあなただって、生き生きしていたわ。ヴァルハラだって楽しんでいたし、私だって あの子の姿を借りて彼らを導くのはとても面白かったわ。女の子みたいだけど男の子だっていうギャップには、慣れなかったけど」

 アリシアはミルクがたっぷり入った紅茶を啜り、満足げに言った。

「そうとも」

 ヴァトラは煙管の先に刻みタバコを詰めると、魔法で火を灯し、蒸かした。

「異なる次元を生きる者同士が接しても、彼らの脳や精神が次元超越を認識出来るほどの処理能力を得ていないのであれば、 それは夢の範疇に止まるだけのこと。気を揉むほどのことはなかろう、ゲオルグ。我らは観測者として、彼らを見つめ続け、事象を 知覚し続けておればよい。それこそが、彼らの生きる次元を支える作用となる」

「宇宙はそれほど単純でもないけど、ちょっと手を加えただけで崩れるほど弱くもないのよ。だから、そんなに心配しなくても いいわ、ゲオルグ。次元同士が接近しすぎて多少の衝突が起きたとしても、次元そのものの次元修復作用が発生するから、 大した影響は出ないわ。彼らの記憶だって、今回のマルチディメンションが消滅したら消え失せてしまうもの。そうなれば、今回の 出来事を記憶出来るのは私達のような存在だけとなるのがちょっと寂しいけど、そればかりは仕方ないことだから」

 アニムスは頬杖を付き、遠く離れた次元で生きる夫を思い、目を細めた。

「あの人が元気そうで良かったわ」

「いくらか過激ではあったが、有意義な試みであったな。そうか、あれが私の末裔か」

 なかなか面白い輩だったな、とヴァトラが煙管を噛むと、アリシアは彼女のカップにお代わりを注いだ。

「複数の次元に跨った次元とヴァルハラや他の惑星のネットワーク上に形成された仮想現実を融合させることで、仮想現実で ありながら物質世界としての側面も持った次元が出来上がるなんて、とても素敵ね。あの中の誰が一番強いか、というのにも興味が あったけど、仮想現実の境界を越えた世界、仮想次元にはそれ以上に興味があるわね。上手くすれば、私達の世界はもっともっと大きく 広がっていくもの。ヴァルハラとゲオルグと一緒に生きていくのは満ち足りているけど、知的生命体であるために不可欠な要素、 好奇心を失うわけにはいかないわ」

「うむ、そうだな」

 ゲオルグは頷き、主眼で彼女らを見渡した。 

「時間も尽きなければ、情報も尽きない。我らが存在する次元の接点が消失し、我らが互いの存在を認識するために必要な 力場を失う時を迎えるまでは、存分に語り合おうではないか」

「あの子達が行ってしまってからは退屈だったのよ。だから、あなた方が話し相手になって下さって嬉しいわ」

 アニムスが快諾すると、ヴァトラは口の端を綻ばせて紫煙を漂わせた。

「蓄積した情報を開示し、提供し、共有することは新陳代謝と言えよう。数百億年振りに魂の洗濯と参ろうぞ」

「喜んで。どうせ、時間はいくらでもあるんだしね」

 アリシアも笑み、紅茶を傾けた。一連の出来事は、神にも近しいが神には至らぬ者達が作り上げた戯れであると同時に、 異なる世界を重ね合わせて成された、時間軸から乖離された時間の中で繰り広げられた、通常次元では決して有り得ない事象だった。 かつて、それぞれが生きていた次元と時間を接触させたことで生まれた次元の歪みが修復されるまでの間、彼らは観測者となり、 宇宙と次元と時間に規律を与えながら、緩やかに語らった。
 今日もまた、この宇宙は平和である。








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