Metallic Guy




第三話 長い、長い一日



シャーペンの芯を、無駄に伸ばしてはまた中に戻していた。
自分でやってるくせに、ノック音がやかましい。
目の前の解答用紙の解答欄は埋まらないままで、隣に置いたノートには走り書きの計算式が並んでいる。
宿題の量はそれなりの量があるけど、それ以前にまず、面倒なのだ。
でもこれをきちんとしないと、二学期の始めにあるテストがまるでダメになってしまう。
まるで書き進まない解答用紙から目を外し、体を伸ばした。

目の前には、ずっと正座したままのインパルサーがいた。

あたしはその姿に、ちょっと苛立ってしまった。でも、こいつには宿題も何もないのだから、呑気でいて当たり前だ。
よく漫画とかだと、こういう場合にはロボットに宿題をやらせてえらい目に、てなことが多い。
だけどあたし達の場合は、やらせるまえに、シャーペンもテーブルも解答用紙もぐしゃっと粉砕される。
粉砕されたら後が大変だから、そういうお約束に持ち込むことすら出来ないのだ。
それにインパルサーは日本語が読めないから、問題が読めない。数字以外はさっぱりと読めないのに、ちゃんと聞けて話せていることは不思議だけど。
隣に置いたマグカップに半分くらい残っているアイスカフェオレは、氷が全部溶けてしまっている。
水っぽくなったそれを傾け、飲み干した。薄くて、正直おいしくない。
あたしはコップを置くと、不意にインパルサーと目が合った。
ゴーグルの色は、オレンジからレモンイエローに戻っている。


「あのさ」

と、あたしが言い終わる前に、インパルサーが言った。

「あの、由佳さん」

あたしの言葉の後半は、由佳さん、に潰された。
インパルサーは、ちょっと語気を強めていた。

「僕の訓練、お願いして良いでしょうか」


あたしとしては、宿題の方を優先させたかった。
でも、やろうと思えば宿題はいつでも出来るし、やってやれないことはないかもしれない。
何をするにも不自由なインパルサーを、なんとかする方を先にするのが道理なのだろう。
あたしはしばらくインパルサーと宿題を天秤に掛けていた。
宿題は当然面倒だが、インパルサーの訓練というのは、百回膨らませた紙風船を百回潰すことなのだ。
でも彼は膨らますことが出来ないから、当然あたしが膨らますことになる。
正直なところ、どっちも面倒なのは確かだ。

「そうだなぁ…」

あたしはシャーペンを解答用紙の上に転がし、身を乗り出した。
とりあえず、結論は出た。

「それじゃ、パルの訓練しよっか」

「ありがとうございます」

と、インパルサーはあたしへ敬礼した。

天秤の結果は、インパルサーだった。
どうせ面倒なのは変わらないのだから、こっちを先にやった方がいい。
壊されるものが、減るのだから。
宿題は、たぶんなんとかなるだろう。




訓練を始めて、あたしは二十回やったところでもううんざりした。
テーブルに置いた広告の裏には、カラーペンで書いた正の字が四つ並んでいる。
その隣にもう一つ横線を書き、手渡された紙風船を見た。
十何回も酷使された二号は、すっかりよれよれになっている。一号は、始めてたったの二回で破れた。
だけど、涼平が置いていった替えもそんなに多くないから、そう簡単に交換するわけにはいかない。
ぐしゃぐしゃに曲がっている吹き込み口に息を吹き込んで膨らませると、表面が波打った球体が出来た。
ぽん、と投げられたそれを、インパルサーはゆっくりと手を広げて受け止める。
慎重に指先を曲げていくが、すぐに力が入りすぎて潰れた。
ばりっ、と小さく紙の破ける音がした。

あたしは五つ目の正の字の一画目を書き、破れた紙風船を受け取った。
既に力尽きてしまった紙風船一号の隣に紙風船二号を置き、三号を手にする。
それを膨らました後、あたしは呟いた。

「…空しい」


「そうですか?」

と、インパルサーはちょっと楽しげな声を発した。

「僕は面白いですよ、この訓練」

「そりゃ、パルは潰す方だからそうなんだよ」

あたしは紙風船三号を彼に渡す。

「あたしは膨らます方だもん」


「そういうものなんですか」

ゆっくりと、インパルサーは手渡された紙風船に触れた。
色とりどりの球体に、太い機械の指が沿っていく。
でも指先が完全に沿ってしまう前に、ばすん、と紙風船を押し潰してしまった。
あたしは彼の両手を開かせ、無惨な紙っぺらに戻ってしまった紙風船を、ひょいと外した。
また正の字に一本足してから、膨らませ直して彼に渡す。

「そういうもんよ」


今度は、インパルサーは手を広げていた。
なるべく力を入れないようにしているのか、指がちょっと曲がっている。
内側が、上と左右に三分割されている手のひらが、紙風船に触れる。
彼はいからせていた肩からちょっと力を抜き、また指を沿わせていく。
その様子を凝視しながら、あたしは期待していた。今度は上手く行きそうだ、頑張れパル。
真剣な表情をしているであろうマスクフェイスが、じっと紙風船を睨んでいる。
ちゃんと持つためなのか、指の角度がちょっときつくなった。
が、それがいけなかったらしい。
また力が入ってしまったのか、紙風船は一気に潰されてしまった。ぐしゃっ、と軽い音がする。

「惜しい…」

あたしは頬杖を付きながら、呟いた。
インパルサーはというと、がっくりと肩を落としている。

「難しいですねぇ…」

「あと七十八回だから、頑張っていくしかないでしょ」

「はい」

インパルサーは頷き、あたしへ向き直った。

「パワーリミットプログラムが出来るまで、頑張ります」




とにかく、本当に頑張るしかなかった。


三十回目は、ちょっとだけ進歩があった。
一気に潰すことはなくなって、でも潰す勢いは強いから、紙風船は四号になった。

四十回目は、またほんの少しだけ進歩していた。
潰す勢いは弱くなってきていたけど、潰していることには代わりはない。

五十回目は、あたしは本気でうんざりしていた。
もういい加減に眠たくなってきていたけど、根性と気合いで付き合っていた。頑張れ、パルもあたしも。

六十回目は、ちょっとインパルサーは慣れてきたっぽい。
でも、慣れてきたからこそ加減を失敗して、いくつもいくつも紙風船が破られた。油断大敵ってやつだ。

七十回目は、インパルサーはへこたれそうになっていた。
無惨な紙風船の残骸を見ながら、紙風船十二号と戦っていた。あたしの意識は、もう半分朦朧としていた。

八十回目は、紙風船の交代がなくなった。
多少よれてはいるものの、紙風船十二号はまだまだ大丈夫だった。インパルサーは、確実に進歩している。

九十回目は、インパルサーの集中力が最高潮だった。
ただ無言になって、必死に紙風船十二号を破るまいと戦っている。そして、九十九回目が無事に過ぎた。


犠牲となった紙風船一号から十一号が、テーブルの上にずらっと並んでいる。

二十個目の正の字に、四本目の線を書いた。
あたしは背中を伸ばして、息を吐いた。ぎりぎり、起きている。
隣で紙風船十二号を睨むインパルサーは、あたしがそれを膨らますのを待っている。
いつも以上にきっちり正座していて、彼としては酷使してきた指先が、膝をぐっと握っていた。
あたしは、彼を見上げる。

「パル」

「はい」

「次で、ちゃんとプログラムは出来るの?」

「出来ます。テストデータの量はぎりぎりですが、作ってみせます」

真剣な声が、マリンブルーのマスクの奥から出ている。

「僕は、これ以上由佳さんの手を煩わせたくはありません」


おお、やけに男らしい。
今までに比べたら、大分言うことも態度もしっかりしてきた。
元々はこうだったのかもしれないけど、あの情けなくて良く泣く彼しか知らなかったあたしにとっては新鮮だ。
あたしは頷くと、拳を握った。

「よっし、最後の一回、行ってみようか!」

「了解!」

インパルサーは敬礼する。
あたしは大きく息を吸ってから、紙風船を一息で膨らませた。あたしも、さすがに慣れてきている。
それをぽんと投げると、インパルサーはゆっくりと紙風船を受け取った。

ふわふわする紙の球体を、大きな両手が挟む。
伸ばしていた指先を沿わせていくと、ぱり、と紙が押される音がした。
でもそれで破られることはなく、指先は紙を掴んでいく。
彼は集中したときの癖なのか、両肩のアーマーが上がっている。
更に力が込められ、マリンブルーのかっちりした指を繋ぐ関節が曲がって、指先の腹が紙に埋まった。

ぱり、と小さく紙が動いた音だけだった。


ちょっと前ならこれでもすぐに紙をぶち抜いていて、紙風船を交換しなきゃならなかっただろう。
でも、紙風船は無事だ。破られてはいない。
インパルサーはそのまま指を広げて、優しく紙風船を包むようにしていく。
そして、両手首が、それぞれ逆方向にちょっとだけ捻られた。
潰れない。まだ、加減は出来ている。
彼はそのまま、指先をぐっと押し込んでいった。紙がぱりぱり鳴って、徐々にへこんでいく。
ゆっくりと空気が抜けていって、ぺったんこになる。
紙風船を挟んでいた両手を広げると、潰れたそれが、ぱさっと床に落ちた。
穴は、開いていなかった。


彼も緊張していたが、あたしも妙に緊張していた。
その落ちた紙風船を拾い、インパルサーはテーブルの上に乗せた。
レモンイエローのゴーグルが、あたしを見下ろした。
あたしはそれを見つめる。

「データ…出来た?」

「はい。多少足りてない部分はありますが、それはあとでも補填出来る部分です。重要なデータは、全て」

満足げに、インパルサーは肩を下ろした。
あたしはなんとなく嬉しくなった。

「良かったぁ」



すいっと、インパルサーの右手が挙がった。
それは、真っ直ぐにあたしへ向けられている。
あたしは握手を求めるような彼の手と、彼の顔を見比べた。
インパルサーは、ゴーグルの向こうからあたしを見据えている。

「由佳さん」

「はい?」

あたしは、返事をしてから気付いた。
これじゃ、いつもと逆だ。
インパルサーはあたしを見据えたまま、あの真剣な声で続けた。

「試してみますか?」


「…ためす?」

と、あたしが呟くと、彼は頷いた。

「はい」




訓練の結果を、あたしに確かめろと言うのか。
確かに、百回紙風船を潰して、インパルサーの力加減はかなり上手くなった。
本人の言葉を信用すれば、データも出来ていて、たぶん失敗することはなさそうだ。
でも、まだ完全じゃない。たぶんが付く。
インパルサーが、そう言っていたのだから。

その上で、確かめろということだ。


あたしは、自分の右手を開いた。
完全じゃないから、下手をしたらこれがぐしゃっと行くかもしれない。
行ったら、嫌だ。痛いのは誰だって嫌いだ。
目の前に差し出されたままの手は、あたしを待っている。
その持ち主は、じっと、動きを止めてあたしが手を出すのを待っている。
レモンイエローのゴーグルが陰っていて、その奥にある目みたいなモノが見開かれていた。

あたしは、開いた右手を一度握った。
それを胸に当てる。



彼は、あたしを試している。
そう思った。
正直なところ、少しだけ怖くなっていた。きっと、今まで感じていなかっただけだ。
インパルサーは確かに悪いロボットじゃないし、気が弱くて情けないところもあるけど、いいやつだ。
でも、あの力は怖い。
さすがにマシンソルジャー、戦闘用ロボットだからということもあるし、あの握力は凄まじい。
もしパワーリミッターの制御が上手く行っていなかったら、あたしの手が、ちゃんと戻ってくる保証はない。
インパルサーは、ずっとあたしを待っている。
右手を挙げたまま、じっとしている。
あたしが、手を出すと信じているのだろうか。

だったら、あたしもパルを信じよう。
信じなくて、何がコマンダーだというのだ。


ゆっくり手を伸ばして、マリンブルーの硬い手のひらに納めた。
ずっと動かしていたためなのか、その指の間はちょっとだけ温かい。
彼は、手を動かさない。あたしの手が入っても握ろうとはしない。
あたしはインパルサーの手を、握った。

「いいよ」


そう言ったものの、やっぱりまだ怖かった。
冷たくて硬い指先があたしの手に絡んで、ゆっくり手のひらを掴む。
あたしは、その光景を見つめる。
彼へ目を向けると、インパルサーは、じっとあたしを見ていた。




聞こえていたはずなのに、聞こえていなかったセミの声がする。

相変わらず、やかましい。
たまにそれを掻き消すように、車が通っていく。

二つの騒音が混じって、片方が消えた。
インパルサーはあたしの手を放さないまま、言った。

「ありがとうございます」

あたしの体温で生温くなった指先が、手のひらから外された。
彼はそれを引っ込め、嬉しそうな声を発した。

「僕を信じてくれて」


やっぱり試されていた。
あたしは自分の右手が無事なことを確かめた途端、やけに気が抜けた。
その右手を下ろしながら、苦笑する。

「ちょっと怖かったけどね」


「これ、僕が書いて良いですか?」

インパルサーは、二十個目の正の字を指した。
それは最後の線が書いていなくて、字は完成していなかった。
あたしは彼にカラーペンを渡し、最後の線を書く場所を指した。

「いいよ。ここに、横の線引くの」

「ここ…ですか?」

彼はあたしの顔を見、そして指先を見た。
あたしは頷いて、指を離す。
インパルサーはカラーペンを握るようにして持っていたので、あたしはそれを直した。
ちゃんと持たせると、彼は今度こそ線を引かんとペン先を広告紙に当てた。

きゅっ、と引かれた正の字の最後の線は、多少歪んで長かった。

カラーペンを置いて、インパルサーはちょっと困ったようにあたしの書いた字と見比べている。
彼の書いた最後の一画は、あたしが書いたものの二倍くらいあったからだ。
あたしは少し笑い、その線を指でなぞる。

「ま、いいか」

「いいんですか?」

「うん」

あたしは、妙に嬉しくなっていた。
インパルサーの訓練を全部終えたからなのか、それともあたしが彼を信じることが出来たからだろうか。
何にせよ、とにかく満足した気分で、おまけに嬉しくて仕方なかった。

いきなり、忘れかけていた眠気が戻ってきた。
緊張したのもあるし、散々紙風船を膨らましていたせいで集中力が切れてしまったのだ。
あたしは背後のソファーに乗ると、体を丸める。
本気で眠たかったのだ。

そこから先は、記憶にない。




薄く目を開いて動かすと、レースカーテンの向こうの空が見えた。
なんとも、鮮やかなオレンジ色だった。
エアコンを弱めることを忘れたため、リビング中の空気がひんやりと乾いていて、喉と目がちょっと痛い。
足元を見ると、正座したインパルサーが、頭から床に突っ込んで眠っていた。昨日の朝方と同じだ。
そのやりづらそうな姿勢を横目に、あたしはダイニングカウンターの上の時計に目を向けた。


「もう、五時か…」

早い。

宿題をまともにやる時間は、結局なかった。
あたしは無性にやりきれない気分になりながら、ぐしゃぐしゃになった髪を掻き上げた。
さて、ここで新たな問題が現れた。
お昼は適当に素麺を茹でた、という記憶がある。
でもさすがに、夜は麺類じゃもたない。
もうちょっとしっかりしたご飯を作って、食べなければならないけれど、面倒だ。
だけど冷蔵庫の中には余り物はなく、というか、母さんが残していかなかった。用意周到だ。
だからといって、今更外に出て買ってくる気も起きない。

「どーするかなぁ…」

あたしはそんなことを呟きながら、またソファーの上に転がった。
まだ眠い。
でもこれ以上寝たら、絶対に七時を過ぎてしまう。
なんとか起き上がってソファーから降り、インパルサーを見下ろした。

頭から床に突っ伏したまま、平和そうに眠っている。
なんでそんなに平和そうなのか、あたしにはさっぱり解らなかった。
背中に伸びている二枚の翼が、夕陽を浴びて赤紫になっていた。
インパルサーが眠っている位置は、丁度あたしとダイニングキッチンの間だ。


これをまたぐべきか、またがざるべきか。
どうでもいいことではあるけれど、結構悩んでしまった。







04 3/11