Metallic Guy




第六話 嵐、去らず



「いい名じゃないですか」

他人事だからだろうか。
インパルサーは、とても楽しそうに言った。

「ボルの助」


この結構古風な響きの名前は、リボルバーを相当苦しめていた。
理解しよう、受け入れようと思っているらしいのだが、理解しきれないらしい。
あたしも同じだ。鈴音のネーミングセンスが、こんなに不思議なものだったとは知らなかった。
リボルバーは頭を抱え、あたし達へ背を向けて唸っている。
ブースターやら色々と付いたその大きな背の中央に、001の数字があった。どこにあるかと思ったら。
その001に、こん、と鈴音は拳を当てる。

「ブルーソニックもああ言ってるじゃないの」

「いや…その」

ぎしり、とインパルサーより幾分重そうな金属の軋む音。
顔を上げたリボルバーは、腕を組んだ。

「ボルの…助…」


「そう。ボルの助」

鈴音は満足そうな笑顔で、リボルバーを見下ろす。

「またはボルちゃん」


今度は、別の意味で嫌な呼び名が出てきた。マジですか、鈴ちゃん。
愛称を付けたら、いかついはずのリボルバーに変な可愛さが出てきて、余計におかしい。
さすがにこれはインパルサーも変だと思ったのか、首を捻る。

「ちゃん…?」

「鈴ちゃん、なんでそうなるの?」

「私がこいつに愛着持てるような名前考えてみたら、そうなっちゃったのよ」

「…愛?」

「そう、愛情。だってボルの助、愛愛うるさいから、私もそれに対抗してみようかなと思って」

いや、対抗しなくてもいいだろ。
あたしはそう突っ込みたかったけど、妙に満足そうな鈴音には何も言えなかった。言えない雰囲気なのだ。
確かにそれは、間違っている訳じゃない。むしろ、良い考えかも知れない。
彼らには意思があるし、立派に個人として生きているから、愛情を持って接した方がいい方向に行くだろう。
でも、だからといってそれを呼び名で表すのはどうなんだろうか。

「鈴ちゃん、マジ?」

「マジ」

にやりと笑い、鈴音は頷いた。
ああ、この顔は。もしかしてとは思うけど、鈴ちゃん、あなた。

「今まで散々迷惑掛けられたんだもの、これくらいの恥ずかしさは堪えてもらわないと」


鈴ちゃん。
あなたって人は、あなたって人は。
さりげない、いや、さりげありすぎる。ささやかというには過激な、まぁ要するに。

「復讐ですかい」

と、あたしが呟くと、鈴音は笑う。

「ささやかなもんでしょ」


がっくりと肩を落としたリボルバーは、まだ何か呟いている。
そこだけ、どんよりと空気が重たくなっていて、鈴音とはまた違った意味での近寄りがたい雰囲気だ。
インパルサーは彼の肩を、励ますようにぽんぽんと叩く。でも、リボルバーはまるで反応しない。
もう一度間を置いてから、インパルサーはリボルバーの肩辺りを叩いた。

すると、リボルバーは唐突にすっくと立ち上がった。
ただでさえでかい胸板を張り、両腕を高々と突き出した。その拍子に銃身が上向いて、どん、と天井を突く。
だけど、リボルバーはそれを気にしてはいない。

「…ぅわはっはっはぁー!」

よく解らない笑い声を上げ、リボルバーは鈴音に向き直った。

「そうだな、これも愛だ、愛だと思えば万事解決だぁ! スズ姉さん、オレは姉さんの愛をしかと受け止めたぁ!」


でも、リボルバーの声はどこか泣きそうなものに聞こえた。たぶん、なんとか堪えてるんだろう。
狡猾そうな笑みを浮かべたまま、鈴音はリボルバーの前に立つ。リボルバーは、また敬礼した。
鈴音は、薄い唇だけで笑っていた。目は、笑っていない。

「叫ぶな」


ああ、怖い。
鈴ちゃんは今、結構怒っているのだ。
叫ぶなと何度も言っているのに、リボルバーは声を上げることを止めないからだ。
あたしは鈴音の前で情けなさそうな、でも嬉しそうな、複雑な表情をしているリボルバーを眺めた。
彼もまた、これから大変だろう。なにしろ、色んな意味で素晴らしい親友がコマンダーになったのだから。
鈴音はにやりとしたまま、言った。

「もう二度と叫ぶんじゃないわよ、ボルの助」

「イエッサ」

恐縮した様子で、リボルバーは答えた。


インパルサーは、あたしへ顔を向けた。

「鈴音さんも、フレイムリボルバーを止められるんですね」

「止めるっていうか…むしろ、押し切ってない?」

あたしはそう呟き、半ば睨み合いの状態の二人を眺めた。
鴨居を遥かに超えた身長のリボルバーと、その三分の二程の身長の鈴音。
鈴音に射竦められているリボルバーはやりづらそうに、でも、凄く嬉しそうな目をしている。
それは恋心ですか。レッドフレイムリボルバー。
いつか彼は、あの定番で使い古されすぎたあのセリフを言いそうだ、いや、近いうちに絶対に言うだろう。


「惚れた弱みだ」

言った。あたしは、またくらっときた。
本気なのか、リボルバーはやけにカッコ付けている。

「スズ姉さん、オレは例えスクラップになろうともあなたに付いていくことを」

「誓う?」

「そりゃあもちろん」

と、条件反射でリボルバーは頷いた。
鈴音は心底満足そうに、笑う。

「ボルの助。それ、忘れないでね」

「イエッサ」



「見事な主従関係ですね」

隣に座ったインパルサーが、その辺りにあったジャスカイザーのおもちゃをいじっていた。
結構面倒な変形ロボットなのだけど、それを簡単に変形させている。
あたしはその構造が今ひとつ解らないので、じっと彼の手元を見た。

「良く出来るね、そんなこと」

「簡単ですから」

そう言って、インパルサーはロボットになったジャスカイザーに、サンダードリラーを合体させた。
ドリルを開いた肩に填めて、胸を開いて別のアーマーを付ける。着々と、ジャスカイザーはパワーアップしていく。
割と細かい作業なのに、パルは太い指で易々としてしまう。相変わらず、器用なことだ。
腕を付け替えて、これまた合体させた武器を持たせた。
彼はその手足を動かして遊びながら、リボルバーを見上げる。

「あの、由佳さん」

「恋の次は愛?」

「よく解りますね」

「あんたと一緒にいると、結構パターン掴めるもん」

「はぁ。で、そのアイってなんですか?」

「とにかく大好きー、っていうか、大事っていうか、じんわりする好きだと思うの。あたしは」

「では、そのジンワリではないスキというのは」

「それが恋なんじゃない? 保証はないけど」

「ジンワリでない好き、ですか」

インパルサーが、手の中のサンダージャスカイザーを足元に置いた。

「じゃ、僕は由佳さんにコイをしているということになりますね」


悪気のない声。
ずっと何かを言い合っていた鈴音とリボルバーも、動きを止めている。
あたしはじっとこちらを見るレモンイエローのゴーグルに、ぽかんと口を開けていた。

「…は?」

「僕が由佳さんに感じる好きの中に、嬉しいとか、落ち着かないとか、苦しいとか、色々と混ざっていまして」

と、インパルサーは照れくさそうに頬を掻く。

「だから、コイが一番合っているかなと。あの、これ間違ってますか?」


間違ってるとか、間違ってないとか、そういう問題ではない。
普通の人間には一度か二度は告白されたことはあったけど、まさかロボットに告白される日が来るとは。
しかもこんな夜中。は、あんまり関係ないか。
神田といいパルといい、もしかして今は、人生で一番もてる時期なんだろうか、あたしは。
とにかくあたしは驚いたのと混乱したのとで、何を言うべきかいまいち解らなかった。
あたしは目の前にある、丸くて青いヘルメットじみた頭を、かこん、と軽く殴る。
拳が痛く、骨がじんと来る。

「なんでいきなり、そんなこと言うのよ」

無性に恥ずかしくて、仕方なかった。
インパルサーはあたしに殴られたまま、ぎしっ、と頬の辺りを掻いている。

「整理出来ないんです」

「どういう意味よ」

「最初は、この星で得たデータの量が増えすぎてしまってメモリーバンクの容量が狭まったから、コアブロックに直結しているエモーショナルに混乱が生じたのかな、とか思ったんです」

淡々と、でも、どこか申し訳なさそうな声だ。

「そう思って、色々としてみました。データを減らして、容量を増やすためにメモリーバンクの未使用ブロックに接続してみたりとか、当分は使わないであろうプログラムを縮小化させてみたりとか、しました。でも、僕のエモーショナルは定まりません。むしろ、混乱が激しくなりました」


恋愛は計算出来ない、とは良く言ったものだ。
ロボットでも、それは出来ないようだ。
でも、なぜいきなりあたしになんて。それがまず、解らない。

「でも、元々パルには感情があったんだし、そういう感情はあったんじゃ」

「いいえ。マスターコマンダーは恋愛を最も愚かしい行為だと言い、恋愛感情に結び付くであろう感情を、一切プログラムしませんでした。だからそれは、有り得ません」


「…ボルの助は?」

あたしは、恐る恐るリボルバーを見上げた。
彼は正座したまま俯いている、インパルサーの後ろにやってきた。
そしておもむろに、その丸い頭を大きな手でがしりと掴む。

「こいつと同じだ。メモリーバンクを洗いざらい捜して、出てきた言葉が愛だっつったろ」



つまり。


「予想外の出来事、ってこと?」

あたしが考えをまとめるより先に、鈴音が言った。
額を指先で押さえ、考えるような顔をしている。
そしてロボット二人を見、呟く。

「どういうこと?」

「僕の方が説明して頂きたいです」

インパルサーが、リボルバーの手の下から顔を上げた。

「どうしたらいいか、まるで解らなくて。メインジェネレーターの辺りに摩耗と似た感覚があったので、念のためボディデータをサーチしてみましたけど、どこにも異常は見当たりませんでした。メインジェネレーターの稼動率もおかしいかなとか思って調べてみましたけど、これもまた異常はないんです」


要するに、胸が痛くてどきどきするということらしい。切ないのも、混じっているのかも知れない。

あたしはますます混乱して、頭が痛くなってきそうだった。
そうか、だから今日の昼間、パルは近付いてきたあたしを避けたりしたんだ。胸が痛いから。
どきどきして落ち着かないから、あんなにはっきりしない返事をしたんだ。
もう訳が解らない。
あたしは、俯いたままのインパルサーに言った。

「ねぇ、どうして」

「僕にも解りません。ただ、由佳さんの隣にいただけです」

「あたしにもわかんないよ」

本気で解らない。もう、ぐっちゃぐちゃだ。
外の雨音は弱まっていて、ぱたぱたと瓦屋根を軽く叩く音だけだ。
鈴音はあたしの肩に軽く手を置き、インパルサーをこんと小突いた。

「いきなりそういうの、軽々しく言うもんじゃないよ。ブルーソニック」

「はい」

「ボルの助もね」

「イエッサ」

そう返事をしてから、リボルバーはぎょっとした顔になる。
もういきなり愛してるとか言うな、と言われたのと同じだからだ。
鈴音はやっぱり、凄い。こういうときだというのに。
あたしは自分の握った手と太股を見下ろしていたけど、それがぼやけてくる。まずい。
ぱたっ、と手の上に落ちたのは、自分の涙だった。なんでこんなときに、出てきてしまうのだ。
鈴音はそれに気付いて、ぽんぽんと頭を叩いてくれた。

「そりゃ、前置きがないなら困るよねぇ。心の準備も何もだもの」

あたしは頷いた。
リボルバーに頭を抑え付けられているインパルサーは、消え入りそうな声で言った。

「由佳さん。…ごめんなさい」


「ちょっと、驚いただけだから」

あたしは目元を擦ってから、深く息を吐いた。
インパルサーを見、苦笑する。

「でも、あたしはまだあんたのことそういう目で見ないし、見られない」

「はい」

「だからさ」

こん、と硬くていい音がした。
あたしの手が、無意識にインパルサーを小突いていた。癖になったらしい。
こちらを見上げるレモンイエローのゴーグルと、その奥にある横長五角形の目を見下ろした。

「パルがあたしにどうしても言わなきゃならない状況になったら、今度こそ正々堂々と真正面からダイレクトに」

あたしは、自分でも変な言い回しだと思った。
でも、こうでもしないと言える気がしなかったのだ。

「告りに来なさい」



「了解しました」

と、インパルサーが敬礼した。
だがすぐにその手を下ろし、首をかしげる。

「コクリ…ってなんですか?」

「告白の略。さっきみたいなことを言うときのことを指すの」

そう説明してから、あたしは凄く空しくなった。
なんでこんなことを説明しなきゃならない相手に、好かれたのだろう。しかもアニメ好きだ。
気付いてみたら、どんどんラブコメ路線にマッハの速度で突っ込んでないか、あたしとパルは。
いや、もう突っ込んでいるどころかあからさまなラブコメになっている。なんてことだ。
あたしは一挙に気力が削げ、ぱたんと横に畳の上に倒れてしまった。

「あんた、恋愛する気ある?」

「あるといえばあるかもしれませんが…」

斜め下から見上げたインパルサーは、気恥ずかしげに言った。

「これから、色々と教えて頂ければありがたいです」


「鈴ちゃーん…」

あたしは、隣に座る鈴音を見上げた。
鈴音は苦笑した。

「ま、頑張れ。私はボルの助で手一杯だし」

「うん」

あたしは起き上がり、深くため息を吐いた。
前髪をまとめていたヘアピンを外して、トートバッグを引き寄せて中に突っ込む。
色々な意味でぐったりしてはいたものの、気が張っていたから起きていたようなものだったのだ。
だから気が抜けた途端に眠たくなり、あたしは鈴音のベッドによじ上った。
もう一度、背中からぱたんと倒れた。

鈴音が何か言ってきた気がするけど、その後の記憶はない。





目を開けて、見慣れぬ天井にちょっと混乱した。
だけど、すぐに思い出した。
ここは鈴音の部屋だった、と。掛け時計を見上げ、時間を確認した。

午前五時前、あたしにしてはまた相当な早起きだ。

枕元の携帯を探ろうとしたけど、先に手に触れたのはやたらに角張った感触だった。
試しにそれを掴んで引き寄せてみると、ド派手な原色のロボットがやってきた。
両肩にドリルを乗せて、背中にもまたでっかい戦闘機みたいなのを背負っている。

「…ジャスカイザー?」

そう呟き、ジャスカイザーをまた枕元に置き、あたしは起き上がった。
体の上に掛けてあったタオルケットを剥がし、ベッドから降りる。
右側で眠る鈴音は、やはり昨日のことで疲れていたのか、実に気持ちよさげにしている。
美人の寝姿は、なんと可愛いのだろうか。あたしは、そんなことを本気で思った。
ベッドの両脇には、それぞれの部下が、それぞれのコマンダーの隣に転がっていた。
インパルサーはいつものように、下半身は正座したままで頭から床に突っ込んでいる。
対するリボルバーは腕を組んで胡座を掻いていて、時代劇でよく見る見張りの侍のような格好をしている。
でもよく見るとそれは、両腕の銃身が支えになっているから床に突っ込まないだけで、多少前傾姿勢だ。
どうやら、あの変な寝相はヒューマニックマシンソルジャー共通のようだ。

昨日のことは、よく覚えている。
それ程、パルがあたしに恋をしていると言ったことが衝撃だったのだ。
隣で安らかに眠るインパルサーのゴーグルは、機能を落としているからなのか、レモンイエローが失せている。
ベッドから降りてその隣にしゃがみ込む。
ぴんと上向いている、マリンブルーの翼を指で弾いた。

「起きてー」

すぐに、インパルサーは反応した。
ゴーグルに光を戻し、何かを動かすような音を内側からさせる。
そして起き上がり、きっちりと正座した。

「おはようございます」

「鈴ちゃーん」

一応、鈴音に呼びかけてみた。起きない。
そういえば、鈴音はやたら寝付きと寝起きだけはいいあたしとは逆に、寝付きも寝起きも悪いのだ。
代わりにリボルバーが顔を上げ、ばきん、と首関節を鳴らした。

「もうサンライズか?」

「うん、朝。誰かに見つかる前に、帰ろうと思って」

「帰るって…ああ、ブルーコマンダーのライフスペースにか」

「そう。朝方なら、人も少ないだろうし。鈴ちゃんが起きたら、帰ったって言っておいて」

「解った」

そう頷き、リボルバーは立ち上がった。
ばきん、と盛大に鳴ったのは関節だろう。騒がしい。

「ソニックインパルサー。てめぇ、本気でどうかしたんじゃねぇのか? リペアに失敗したのか、もしかして」

「アンチグラビトンコントローラーのリミッターが焼けたので、交換しました」

「てめぇ、備品持ってたか? アステロイドベルトから吹っ飛ばされたときに、全部ばらまいてったじゃねぇか」

「だから武器をばらして、その中身を使いました」

「…それだよ」

くあー、と変な声を上げながらリボルバーは額を抑えた。
がつんがつん、とインパルサーのスカイブルーの胸板を叩く。

「ウェポンシリーズのリミッターにはそりゃ互換性はあるがよ、変なもんで代用するなよ…」

「何か問題でも」

「武器のリミッターは強すぎる、っててめぇはツラぁ晒してるときによく言ってたじゃねぇか」

どん、ともう一度強くリボルバーはインパルサーを突く。
いや、突くというかあからさまに胸の辺りを殴った。んな乱暴な。

「そんなにアンチグラビトンエネルギーを押さえ込まれた状態で、まともに戦えるのかよ」

「僕は…」

インパルサーは、ちょっと言葉に詰まった。

「そうですね。でも、あなたとの約束は守りますよ」

「下手なハンデ付けられたら、オレはてめぇを粉々にしてやるからな」

「僕も手加減なんてされたら、承知しませんから」

いやに男らしいやり取り。
というか、これは既に男の世界というか戦士の世界というか、とにかくあたしには理解出来ない世界だ。
二人の、まるで太さの違う腕同士がぶつかる。もう一度それをしてから、最後に拳をぶつけ合った。
ばっきん、と物凄い音が空気を揺らす。正直朝からうるさいぞ、あんたら。

荷物は既にまとめておいたので、レインコートも乾いた服も畳んでトートバッグの中に入れておいた。
あたしは、おかげで昨日よりも膨らんだトートバッグを抱えて、インパルサーの翼をぐいっと引っ張る。

「行くよ」

「あ、はい」

障子を開けて廊下に出、外と中を隔てている重い雨戸に手を掛けた。
なんとか力を入れて重い雨戸を少し開くと、インパルサーがその間に手を入れた。
途端にがらっと勢い良く雨戸は開き、きらきらと朝露の輝く庭が視界に飛び込んできた。力の差、凄いなぁ。
空は、昨日の荒れに荒れた天気が嘘みたいな、すかっと爽やかすぎる程の快晴だ。天気予報は正しかった。
縁側と庭の間にある段差にサンダルを置いて、それを履く。
スナップを止めてから立ち上がると、ふわっと体が浮き上がる。インパルサーがあたしを抱えたのだ。
しかしこのお姫様抱っこも、以前よりもっとやりづらく感じてしまう。ええい、こいつがあんなことを言うから。
その浮かんだ状態から、あたしはリボルバーに軽く手を振る。

「じゃね、ボルの助。鈴ちゃんによろしくね」

「おう」

リボルバーは片手を挙げ、親指を立てる。もう、ボルの助に慣れてしまったらしい。
インパルサーは池の上をするりと飛び、一気に上昇した。
鈴音の家を真上から見ると、やはりでかい。うちなんか、比べものにならない程の大邸宅だ。
あたしはうちの方向を指すと、インパルサーは、了解、と頷いて加速した。




朝の風を受けながら、あたしとパルは飛んでいく。
彼のマリンブルーはやっぱり濃すぎて、空の中に馴染むどころか目立っている。
ひんやりとした爽やかな空気が、心地よい。寝起きの目が冴えていく。
あたしは朝起きてから何も食べていないことを思い出して、ちょっとぐったりした。
インパルサーの横顔が、目の前にある。
マリンブルーのマスクの上に目立つレモンイエローのゴーグルが、ぎらりと朝日を映して眩しい。
その眩しい光に、つい見とれてしまった。

突然、インパルサーが動きを止めた。

「由佳さん」


「…何?」

「真下を」

言われるまま、あたしは真下の住宅街を見下ろした。
朝焼けと薄もやの中に、似たような家々の色違いの屋根が続いている。
それらの間を細く分けている塀の間に、見慣れたジャージ姿があった。
なぜ見慣れていたのか。それはジャージが、うちの高校のものだったからだろう。
呆然とあたし達を見上げている、その姿は。



「…神田君」


あたしの口から、そんな呟きが漏れていた。
そうだ。考えてみたら、今まで誰にも見つからなかった方が奇跡なんだ。
インパルサーは小さな声で言う。

「降りますか?」

あたしは首を振る。

「ひとまずうちに帰るしかないよ。これ以上、人に見られたら困る」

「了解しました」

インパルサーは頷いた。



うちへと向かうため、またインパルサーは推進する。
神田から距離を開けてしまう前に、もう一度見下ろした。
紛れもなく神田だ。
見覚えのある優しげな顔立ちに高めの身長、スポーツ刈りの硬そうな髪。
呆然とした表情で、インパルサーを…いや、あたしを見つめている。
彼は何か言おうとしていたようだが、ただ見送るだけだった。

遠くに見える高層ビルが、朝靄の中でぎらりと輝いている。
ごちゃごちゃした街の朝っぱらの光景って、なんでこんなに綺麗なんだろう。
妙に悠長に、そんなことを考えていた。


ああ。

きっと、あたしは開き直ったんだろうな。







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