鬼蜘蛛姫




第十一話 毒心を縛るべからず



 ふと、幼い頃のことを思い出した。
 蜂狩貞元は痺れと震えが止まらぬ手足を引き摺って縁側に辿り着くと、当世具足を緩められる限り緩めて全身に 充ち満ちている亡霊を外に出そうと尽力していた。だが、既に貞元の血肉と化している者達は貞元から解放される ことを望むどころか、圧倒的な支配を望んでしがみついてきた。彼らの朽ちた魂が貞元の魂に歯を立てるたび痛みが 走り、手足が引きつる。しかし、こんなものは虫に刺されたよりも軽い苦痛だ。辛いのはこれからだ。
 怨霊にあるまじき和やかさで日向に当たっていると、年端もいかぬ幼子だった頃の思い出が過ぎり、獣や人間を 痛め付けることに執着するようになった原因も思い起こした。人目を引きたいわけでもなければ、世継ぎとなるべく 日々勉学や武術に勤しまねばならぬ身の上を憂いたわけでもなく、苛立ち紛れでもなかった。単純に、自分という男 が強いのかどうかを確かめたかったからである。男は強い、男であれ、男でこそ、と、物心付く前から周囲の人間は 男を強調していた。全部で六人いる貞元の兄妹は、貞元以外は皆が女だったので、世継ぎである貞元が姉や妹に 流されまいとしていたのだろう。それは立派に成功したが、反面、貞元は自分自身に過剰なまでに男を求めるように なってしまった。それ故、誰かに甘えたり、泣き言を零したり、弱ったりすることが一切出来なくなった。気晴らしでさえ も力に頼るものとなり、その結果が弱者に対する暴力だった。我ながら、浅はかではあるのだが。

「白玉……」

 妖狐への恋慕を連ねながら、貞元は背中を引きつらせた。

「儂の白玉や」

 虐げれば虐げるほど、白玉は悦ぶ。尻尾を振って甘えてくる。その様が可愛らしいから、虐げずにはいられない。 白玉が悦んでくれるからだ。白玉が一言でも、痛い、嫌だ、とでも言ってくれれば拳も振り上げない。首も絞めない。 無遠慮に体を探ったりはしない。無理に貫いたりもしない。しかし、白玉が求めてくる。生前もいくらか葛藤を覚えて いたが、今ほどではない。あの頃は人間と妖怪という隔たりがあり、どれほど貞元が虐げようとも白玉に止めを刺す ことは出来なかったからだ。だが、今の貞元は世にもおぞましい怨霊であり、白玉のような妖怪も呆気なく殺すことが 出来てしまうだろう。まかり間違って白玉を屠ってしまったら、今度こそ立ち直れまい。

「うう、ううぅ」

 呻きを漏らしながら、貞元は顔を覆う。数多の恨み辛みで膨れ上がった体は一声零すたびに軋み、もっと恨めと 叫んでくる。憎め、怒れ、狂おしくあれと願ってくる。それもそうだろう、貞元は彼ら亡霊の恨み辛みを引き受けると 口約束したも同然だからだ。それを力に変えることが出来たとしても、それらを受け止めずにいられるわけがない。 酒に溺れるようになったのは、体の内から聞こえ続ける声から少しでも遠ざかるためだ。ひどく酔ってさえいれば、 亡霊達の声は遠ざかってくれる。だから、あまり強くもない酒を切らさないようにしていたのだ。

「……儂は死すべきか」

 否、既に一度死んでいる。ならばこう言うべきだろう、亡ぶべきだ、と。

「許せ、白玉よ」

 貞元はふらつく膝を伸ばし、立ち上がった。板がささくれ立っている縁側に亡霊混じりの体液を零しながら、本堂に 戻る。辺りが薄暗くなったためにぐっと闇が深くなった屋内では、貞元が正気に戻る手前で吐き戻した酒や血肉が 床にこびり付いて干涸らびていた。唸りを上げて飛び回る蠅の数は減りはせず、それどころか増えているような気も してくる。よろけた拍子に乾いた骨を踏み潰し、破片が散る。
 貞元を亡ぼせるものがあるとすれば、それは丹厳の肝の他はないであろう。貞元も恨み辛みの固まりではある が、丹厳の肝にもそれと差して変わらぬ強さの恨み辛みが詰め込まれていた。どうせ、あれを刀に鍛え上げること など出来はしないのだ。かといって、あのろくでもない生臭坊主の丹厳を蘇らせたくもない。故に、丹厳の肝は貞元 に死を与えるために使うべきだ。真っ当な使い道があるとすれば、それしかない。
 震えが過ぎて、腰まで抜けてしまいそうだ。これが収まったら、次は苦痛の嵐が待ち受けている。その前に自分の 息の根を止めてしまわねばならぬ。貞元は喰い散らかした骸に紛れている肝を探そうと目を配ると、本堂に凝った 暗がりに紛れている輩を見咎めた。それは鴉天狗であり、やる気なく抱えた錫杖の尖端に肝を突き刺していた。

「応」

 その肝を寄越してくれ、と貞元が手を差し伸べかけると、鴉天狗は睨め付けてきた。

「おいおい落ち武者どの、その気迫のなさはなんだってんだい」

「解るか」

 自嘲を込めて貞元が呟くと、九郎丸は肝を突き刺している錫杖を鳴らした。

「俺をなんだと思ってやがる、天下の鴉天狗様だぜ? あんたの妖力が足りねぇことぐらいは、見なくても解らぁな。 んで、そんな体のあんたがこの肝をどうしようってんだい。刀に鍛え上げることなんて出来ねぇだろ?」

「それをもらい受けたのはこの儂ぞ。儂に寄越してくれれば、それで良い」

 貞元は一度深く息を吸おうとしたが、喉が上手く開かずに詰まった。九郎丸は、悠長に腕を組む。

「全くもってあんたらしくもねぇな。素直に自分の手で毟り取りゃいいじゃねぇか? え?」

 九郎丸は錫杖を蹴り上げて一回転させてから、鉄環が揺れる尖端を貞元の鼻面に突き付けてきた。

「俺はよ、あんたが滅法強い化け物になってくれるっつうから手助けしたんじゃねぇか。それがなんだい、あの妖狐が いなくなっちまったと思ったら途端に腑抜けちまって。どうしようもねぇ野郎だな」

「どうとでも言うが良い」

 最早言い返す気力もない貞元は膝を折り、崩れ落ちた。九郎丸は面食らい、目を丸める。

「なんだよおい、言い返しもしねぇで膝を折るのか? それでもあんたは武士の端くれか?」

「そうだとも。それ故、儂にも誇りというものはある」

 故に、これ以上無益な殺生を重ねる前に亡ぶべきなのだ。貞元はその旨を伝えるべく口を開きかけたが、恐れて いた苦痛が襲い掛かってきた。はらわたが捻られて千切られるが如く、頭蓋を叩き割られて脳髄を啜り出されるか の如く、手足の骨を粉々に砕かれるが如く、全身隈無く切り裂かれて血を搾り取られるが如く。苦痛のない部分は 一つもなく、悲鳴すら上げられなかった。喉から出るのは醜く掠れた風ばかりで、開きっぱなしの口からは胃液の ような刺激臭を伴う体液が際限なく漏れていた。のたうち回るたびに当世具足が弛み、外れ、落ちる。

「ははぁ。亡霊を喰い損なったから、妖力が足りねぇんだな?」

 九郎丸は貞元の異変の理由を察したようだが、手を打とうとはしなかった。それどころか、それまで貞元が座って いた金剛玉座にこれ見よがしに座る始末だった。肝を手の中で弄びながら、九郎丸はクチバシを開く。

「不便なこったねぇ、自力で妖力を成せんとは」

 かひ、けひっ、と咳き込むたびに体が綻び、着物の下でぷつんと肌が弾けて崩れた肉が流れ出る。

「……こ」

 根本から外れた左足をそのままに、貞元は溶けて崩れそうな手で床を掴んで這いずった。

「殺してくれ」

 辛うじて口に出せたが、それは言葉というには弱すぎた。また、喋っている途中で舌が抜けて落ちてしまったので、 最後まで言えたかどうかすら怪しかった。すると、途端に九郎丸があからさまに不快感を示した。本堂の隅から大股 に歩み寄ってきた鴉天狗は、片手に肝を持ったまま、錫杖で思い切り貞元の頭を貫いた。兜どころか面頬も外れて いたので、卵を潰すよりも容易いことだった。汚らしい飛沫が辺りに飛び散り、鴉天狗の顔にもいくらか飛ぶ。

「殺してくれ、だァアアアッ?」

 苛立ちのあまりに声色を若干裏返しながら、鴉天狗は錫杖を捻る。下顎が割れ、喉に至る。

「冗談じゃねぇや! 俺はそんな甘ったれた文句を聞くために、手前に媚び売ったんじゃねぇぞ!」

 力強く叩き付けられた錫杖が首の骨を砕き、貞元の頭を外させた。九郎丸はそれを蹴り上げて手中に収めると、 錫杖で貞元の首から下を虐げながらも顔を突き合わせてきた。貞元は朦朧とした視界の中で、激昂する鴉天狗を 見つめるしかなかった。抵抗する余力など、当の昔に霧散していたからだ。

「俺はあんたを利用してぇんだ! それだけなんだよ、こン畜生がっ!」

 九郎丸は振りかぶると、貞元の首を強かに床に叩き付けた。穴の空いていた頭蓋は情けなく潰れ、脳髄代わりの どろりと粘る体液が広がった。山伏装束がはち切れんばかりに羽根を膨らませている九郎丸は、悔しげにクチバシ を擦り合わせていたが、再び金剛玉座に座って胡座を掻いた。

「俺が出来てあんたが出来ねぇことを俺がする、あんたが出来て俺が出来ねぇことをあんたがする、そいつでもって 万事解決じゃねぇかい。それをなんだよ、女々しい泣き言言いやがって。クソッ垂れが。馬鹿な殿様と蜘蛛女を骨の髄 まで恨んでんじゃねぇのかよ」

 ぺっ、と九郎丸は唾を吐き捨ててから、顔に付いた腐敗汁を指で拭った。煮詰めすぎた芋にも劣らぬほどに原型を 失った頭を手で探りながら、貞元は打ち震えていた。どちらも心の底から恨んではいる。しかし、蜂狩貞元という 人間を失いたくないと心の片隅で思ってしまったからだ。白玉も愛しているし幸せにしたいと思う。だが、怨霊と化して 醜悪に長らえれば長らえるほどに蜂狩貞元は変貌していく。藩主でも武士でも男ですらない、恨み辛みが渦巻く 一介の化け物となるのだ。握り締められるほども残っていないだろうが、人間らしさが在るうちに足掻いてみたい。 白玉を残して往くのはやるせないが、それもまた彼女の幸せのためなのだ。貞元は今一度、手を伸ばす。
 が、その手の甲を無慈悲に錫杖が破った。貞元の腐り落ちかけた右手は床に縫い付けられ、じゃらり、と頭上で 鉄環が擦れ合う。九郎丸の姿は見えない。それもそのはず、貞元の目はどちらも潰れているからだ。

「怨霊になったっつうことは、あんたは他人を恨むことしか出来ねぇっつうことなんだよ」

 九郎丸が足を組んだのか、金剛玉座が軋み、衣擦れの音がした。

「それが妖怪だ。人間がそういうモンだって考えるから、こういう形になる。自分で望んで、なれるもんじゃあねぇ」

「ならば、そなたは誰に」

「俺の場合は、八雲姫様に違いねぇだろうさ。あんたの場合は、恐らくあの妖狐だ」

「白玉、が、儂を」

「そうだ。俺達は、人間でもねぇし獣でもねぇ。ただの概念、つまりは他人の考えたことで出来上がってる朧みてぇな 代物なんだよ。それをひっくるめて妖怪っつうんだ。叢雲の爺ィ、神ってぇのもそんなに遠いもんじゃあねぇ。だから、 あんたもそうなんだよ、落ち武者どの。妖怪風情が人間になろうだなんて、高望みなんてするもんじゃねぇ」

 九郎丸のいきり立っていた語気がやや弱まり、翼を縮めたのか、羽根が擦れ合った。

「あんたは元々人間だったかもしれねぇが、それはそれなんだよ。未練なんて持つもんじゃあねぇや」

「ならば、鴉天狗。そなたはどうなのだ」

 原型を失いつつある体に残された妖力を振り絞り、貞元が呟くと、九郎丸は自嘲した。

「未練がありまくりだから、俺はこうなっちまってんじゃねぇか。この際だから教えてやらぁ、俺があんたに生臭坊主の 肝を持ってきてやった理由をよ。俺は、あんたと女狐が荒井久勝と鬼蜘蛛の姫を殺そうが潰そうが消そうが心底 どうでもいいんだが、鬼蜘蛛の姫を姫たらしめているものを奪い返さにゃならねぇんだよ。だが、俺は鬼蜘蛛の姫 とは妖怪の格っつうかが違いすぎるみてぇでな、てんで歯が立たねぇ。だからよ、俺はあんたの力が借りてぇんだよ。 あんたは妖怪としちゃあ新参者だが、そこら中から亡霊を掻き集めたおかげで恨み辛みの力が物凄ぇことになって いやがるんだ。だから、全力の一撃だったら通じるに違いねぇ。だが、あんたの手を借りるわけにはいかねぇ。八雲 姫様をお救いするのは、この俺なんだからな」

 九郎丸は語り終えると、ああ、と苦しげに呻いた。

「だがよ、その瞬間を考えるだけで、俺の豆粒みてぇな肝は縮み上がってどうしようもねぇんだ。本当のことを言うと あんたの手を借りたくて仕方ねぇ。八雲姫様に刃を向けるなんざ、以ての外だからだ。けど、俺じゃなきゃ、姫様は 救ってやれやしねぇし、救えなかった償いが出来やしねぇんだ。けど、けど、けどよぉっ……」

 九郎丸の声色は徐々に弱まり、遠のいた。それから長く沈黙が続き、喘ぐような吐息が繰り返された。洟を啜る かのような水音も聞こえ、こんちきしょうめ、と九郎丸が誰に向けたわけでもない悪態を吐いた。

「これでおあいこだ、落ち武者どの」

 声色を落ち着けた九郎丸は、ぐぢゅう、と丹厳の肝を握り締めた。

「あんたが下らねぇ妄執に取り憑かれちまっていたことを、俺は女狐には言わねぇし、言う気なんて更々ねぇ。だが、 その代わりにあんたも俺が垂れ流した妄言を肝ん中にでも仕舞っておいてくれや」

 腐りかけた肉が弄ばれ、にちゃにちゃと耳障りな水音が響く。

「これに懲りたら、二度と人間なんざ羨むもんじゃねぇぞ。あんな半端な連中は、羨むだけ損だ」

 九郎丸が立ち上がる。高下駄が床を踏んだ拍子に骨片を踏んだのか、乾いたものが砕け散る。

「刀を一から鍛えるってぇのは、さすがに骨が折れるだろうと思ってよ。いいものを拾ってきてやったぜ」

 その言葉が終わらぬうちに、貞元の溶けきった体の芯に刀が突き立てられる。

「こいつぁよ、あんたと女狐が罠に嵌めて死なせた侍の刀よ。モノは悪くねぇし、恨みも充分だ。使えるよなぁ?」

 ぎ、と刀が捻られると、溶けきっていない貞元の肝に冴え渡った刃が触れる。

「使えねぇとは言わせねぇぞ、蜂狩貞元!」

 前触れもなく激昂した九郎丸は、丹厳の肝を貞元の肝に叩き付けた。干涸らびかけた肉の袋が触れた途端に 並々ならぬ憎悪が迸り、凝っていた妖力も染み出し、溶けた体に行き渡る。それは亡霊を百も喰った際に得る力に 等しく、肉が波打ち、骨が張り、はらわたが煮え滾る。当世具足を引き寄せるように形を成していく手足は脈打ち、 その度に全身が痙攣する。穴の空いていた頭蓋が塞がり、目玉が填り、面頬が貼り付く。胸に突き立てられている 刀の刀身が、煤で炙られたかのように黒々と濁っていく。それらが収まると、貞元は膝を付いた。
 束の間の正気は清々しかったが、再び滾った狂気に勝る快楽はなかった。耳障りな言葉を連ねていた鴉天狗に 一瞥をくれると、胸から引き抜いた刀を突き付け、躊躇いもなく振るう。鮮やかに羽根を纏った首を切り裂いた刃は 鮮血に彩られ、懐かしい鉄錆の匂いと共に生温い血飛沫が吹き上がった。首から下が慌てふためいているので、 死んではいないようだが試し斬りには不充分である。鴉の首を一つ飛ばしたところで、何になるというのか。
 ああ、恨めしい。





 


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