鬼蜘蛛姫




第十二話 幸福は絹の如し



 八重姫の縄張りから、出来る限り離れた。
 今の九郎丸に出来ることはそれだけであり、それ以上のことは到底適いそうになかった。羽ばたくたびに翼からは 羽根が抜け落ち、孕める空気も、掴める風も明らかに減っていた。それでも尚、飛ばずにはいられなかった。何か から逃げたくてたまらなかった。行く当てなどないことは解り切っているというのに、この先に進むべき道など端から ないと知っているのに、果てを望まずにはいられない。幸せに繋がる糸が伸びているような気がするからだ。
 八重山と叢雲山と向かい合う山脈に至った九郎丸は、ひどく喘ぎながら翼を折り畳み、山頂の岩場に八雲姫共々 転げ落ちた。上半身だけの姫君を庇って横転し、危うく落ちかけたが、岩場の端に爪を立て辛うじて踏み留まった。 最早、痛みのないところはなかった。岩に打ち付けた頭や翼のみならず、肝も魂も搾り取られるかのようだ。霞んだ 視界をなんとか凝らし、両腕を突っ張って体を起こす。

「ご……御無事でござりまするか、八雲姫様」

 九郎丸は頭部の羽がすっかり抜け落ち、禿頭に近い状態になりながらも、八雲姫を労った。九郎丸の体の下で 仰向けになっている八雲姫は虚ろな目で、視線をいずこへと投げていたが、それが九郎丸のものと交わった。人形 の如き眼差しが震え、醜悪な骨と皮になりつつある鴉天狗を認めると、途端にそれが歪む。

「おのれぇっ!」

 前触れもなく伸びてきた両腕が九郎丸の喉を掴み、細腕らしからぬ剛力で締め上げてくる。

「グゲェッ!?」

 冷え切った両の親指に喉を抉られた九郎丸が仰け反ると、八雲姫は九郎丸を揺さぶってくる。

「そなたさえ、そなたさえいなければっ!」

 八雲姫は下半身が断ち切れた体をくねらせ、九郎丸に飛び掛かると、その勢いのままに馬乗りになる。もっとも、 腰から下がないので汚らしい血の垂れる切断面を鴉天狗の腹に押し付けただけだったが、妖力が削げ落ちている 上に思い掛けないことに動揺しきりの九郎丸にとっては強烈な拘束となった。目玉が零れ落ちんばかりに見開いた 八雲姫は九郎丸の首を上下に揺さぶり、何度となく岩に叩き付けてくる。

「あの方の寵愛さえ受けられれば、わらわの腹から立派な男児を産み落としてくれたものを! それを、そなたのような 阿婆擦れがあの方を銜え込みおって! ええい恨めしいぃいいいっ!」

 頭蓋骨と岩が競り合い、鴉天狗の冷たい血が辺りに散る。ぎぃ、と八雲姫は妖怪じみた呻きを発してから両手の 力を緩め、九郎丸の首を解放した。途端に激しく咳き込んだ九郎丸は、涙目で姫君を仰ぎ見る。

「姫様、よくご覧下さりませ、俺は……」

「お、おぉおぉおおおおっ!」

 八雲姫は顔を覆って喚き、髪を振り乱しながら顔を掻き毟る。爪を立てて皮を剥ぐように、荒々しく美しく整った顔 に赤く細い痣を重ねていく。そのうちに血が滲み始め、爪先には刮げ取った皮膚が溜まり、睫毛の抜け落ちた瞼の まなじりから濁った汁が垂れ落ちてきた。それは九郎丸の素肌を叩き、猛烈な熱と臭気をもたらした。

「おのれ父上、おのれぇええええっ!」

 鉄を擦り合わせるかのような叫声を放ち、八雲姫は頬骨が露出するのも厭わずに顔を掻き毟り続ける。

「父上さえあのような愚行に走らなければ、わらわは平氏に名を残す子を産み落とせていたはずぞえ! 穢らわしい 源氏になど寝返りおって、わらわが刀さえ握られればその首を跳ね飛ばしてくれたものを!」

 八雲姫が頭を大きく振るたびに滴る腐敗汁を疎む余裕はなく、九郎丸はがちがちとクチバシを打ち鳴らしていた。 これがあの、慈悲深く愛情に溢れていた八雲姫なのか。否、これは八重姫のせいだ。あのような化け蜘蛛の一部と 化していたがために、八雲姫の澄み切った御魂がひどく濁ってしまっただけなのだ。だとすれば、一刻も早く清めて やらなければ。だが、どうやって。九郎丸もまた穢れの固まりとも言うべき妖怪であり、愛する姫を憎悪の泥沼から 掬い上げてやることは土台無理だ。他の方法もあるかもしれない。だが、頭はまるで回らない。蜂狩貞元を惑わし、 八重姫の隙を衝き、八雲姫を忌まわしき戒めから解き放った悪知恵は一切働かない。生まれてこの方感じたことの ない恐怖が、体の隅々まで広がっている。それは怯えと共に痺れをもたらし、手足の力を奪い去っていく。

「なぜわらわを求めてくれぬ! ええい実近め、一度でもわらわに触れさえすれば望んで差し出してくれたものを!  何が武士ぞ、何が貴族ぞ、そうである前にそなたとわらわは男と女、雄と雌ではないかえ! なんという屈辱かえ、 この恨み、わらわは忘れはせぬぞ! 女を辱めぬこともまた、辱めであると知れぇえええええっ!」

 八雲姫は猛り狂う。その言葉に九郎丸はただただ苦しくなるばかりであり、八雲姫を慰める言葉など思い付くわけ がなかった。純潔を保ったまま命を落とした八雲姫を誇りに思っていたし、そうであったからこそ九郎丸は八雲姫への 忠義を揺らがせずに何百年も貫いてきた。初々しい生娘である姫君を染めるのは己の黒なのだと、強固な忠心と 妄執の如き愛情の狭間に潜めながらも信じていた。だが、そうではないのだ。八雲姫は姫君である以前に一人の 女であり、女としての幸せも渇望していたのだ。

「鴉めが」

 顔を掻き毟る手を止めた八雲姫は九郎丸を見下ろしたが、上下の瞼が剥がれ落ちたため、潰れた目玉が熟れた 木の実が枝から外れるように零れ落ちた。目玉と眼窩を繋ぐ筋から滴った腐敗汁が九郎丸のクチバシに触れると、 不気味に泡立ち、細い煙が幾筋も立ち上る。それが八雲姫のおぞましい形相に帯び、山風に消える。

「そなたのような獣に手を差し伸べたのが、そもそもの誤りであったのやもしれぬな」

 首筋に絡む目玉を無造作に引き千切った八雲姫は、それを握り潰し、口元を奇妙に歪める。

「何度、そなたを縊り殺そうと思ったか解らぬえ」

 ひたすらに、苦痛が続く。

「そなたにさえ出会わねば、そなたなどに目を留めねば」

 ぶちり、ぶつり、と無造作に残り少ない羽根が毟られていく。

「思えば、そなたは天狗であったぞえ。そなたに惑わされたりせねば、わらわもまた惑わなかったであろう」

 毟られた羽根が、八雲姫の手中で溶ける。

「ああ……憎らしや」

 素肌が曝け出された鴉天狗を睨み付け、八雲姫は片方の目尻から血混じりの涙を漏らす。それが嬉しいと思える だけ、九郎丸はまだ幸せだった。理由はどうあれ、自分がただの鴉から鴉天狗に至れたのは八雲姫がそう思って くれていたからなのだ。天狗を視認出来たのも、見初められたのも、修行出来たのも、妖力を得られたのも、悲願を 果たして八雲姫を解放することが叶ったのも、鴉天狗になれたからこそである。
 そこに恐怖はない。己の力量のなさに対する途方もない悔しさと情けなさと、女の幸せを渇望して止まぬ姫君への 海より深い哀れみと、首を絞められても羽根を毟られても暴言を吐かれても憎まれても尚揺らがない、八雲姫への 忠義があるだけだった。九郎丸の知る八雲姫とは懸け離れているが、これもまた愛して止まぬ姫君の一部なのだ。 否定してはならない、蔑んではならない、増して恐れてもならない。なぜなら、主の所業を受け止めてこその忠臣で あり、九郎丸に出来る最大にして最強の愛情表現だからである。
 ひとしきり、八雲姫は九郎丸を虐げ続けた。八雲姫の口から零れる言葉はいつしか人間のそれからは懸け離れ、 獣がもごもごと口を開閉させているだけのような音ばかりが続いた。滅茶苦茶に爪を立てた顔には本来の美しさは 欠片も残らず、獣や蛆に食い荒らされた屍そのものとなった。豊かな黒髪も束で抜け落ち、九郎丸の素肌に絡んで 失った羽根を補うかのように黒を与えてくれた。元々は白かった行者装束には最早白はなく、血と腐敗汁の染みが 広がって裾から滴るほどであった。けれど、それでも九郎丸は幸福だった。絶え間ない苦痛はいつしか甘き快感に 成り代わり、鴉天狗の復讐心に煮凝っていた魂を暖めてくれた。
 岩に爪を立てているであろう手付きの指先には肉もなければ爪もなく、皮も筋も剥がれ落ちて小枝の如き骨が、 岩をこりこりと擦っていた。下顎の部分に辛うじて貼り付いていた皮も肉ごとずるりと剥がれて九郎丸の胸に落ち、 触れた部分から煮立って黒い煙を上げる。優しくも暖かな過去の夢を見ていた九郎丸は、胸が焼け焦げていく熱を 感じて意識を引き戻した。瞼のなくなった目を上げると、九郎丸に跨っている八雲姫は骸骨となり、恨み言を漏らす 口はかたかたと歯が鳴るだけであり、赤黒く染まった行者装束は肋骨に隙間なく貼り付いて提灯の骨組みのような 形を浮き上がらせ、薄っぺらい骨盤が九郎丸の腰に載っていた。

「姫様」

 鴉天狗とは言い難い形相の九郎丸は体を起こし、恐る恐る、八雲姫に手を差し伸べる。

「なんと御労しい御姿か」

 けれど、それでも尚、愛おしいと思える。数本の髪が頭頂部から跳ねている髑髏は空虚な眼窩を九郎丸に据え、 かこかこと頼りなく歯を打ち鳴らす。やはりその下顎の骨は細く、大人に成り切れていなかったのと、満足に食べる ことが出来なかったからか歯は全体的に小振りだ。無礼を承知で濡れた行者装束を剥がしてやり、弓形に曲がった 背骨が頸椎を支えており、それに鳥篭の如き華奢な肋骨がくっついている。その下の腹部はがらんどうで、一度も 子を孕めなかったために骨盤は綺麗なままだった。
 山頂に一筋の光が差す。重く垂れ込めている雲が途切れ、隙間から降ってきた光は愛しい姫君を明るく照らし、 純白の骨を絹のように煌めかせてくれた。地面に埋められたこともなければ燃やされたこともない骨はどこもかしこも 清らかで、惚れ惚れするほどだ。九郎丸は目眩がするほどの愛おしさに駆られ、腕の骨をそっと指の腹でなぞろうと したが、軽く触れた途端に八雲姫の骨は容易く砕け散った。力など入れていない、入れるわけがない。思わぬことに 慌てた九郎丸は、腕の骨から外れた八雲姫の手首から下を受け止めようと手のひらを差し出したが、手のひらに 収めた瞬間に粉となって吹き下ろしに掻き消される。

「あぁ、あああああっ!」

 絶叫した九郎丸が両手を握り締めるが、前後に揺れていた骸骨がしなだれかかってきた。目を上げた九郎丸は 触れてはいけないと自戒しようとしたが、八雲姫を岩に倒れ込ませることなど到底出来るはずもなく、すぐさま腕を 広げて骨だけとなった姫君を受け止める。だが、その途端に口に含んだ砂糖菓子のように砕けていく。

「姫様、姫様、姫様」

 誰も彼もを呪いながら、八雲姫が果ててしまう。九郎丸は今にも抜け落ちてしまいかねないクチバシを食い縛って 力一杯抱き締めたい衝動を堪えながら、八雲姫をひたすら想った。自分が妖怪でなければ、人間であったならば、 八雲姫を幸福に出来たであろうに。いや、人間であったとしても、八雲姫の目に留まったかどうかは解らない。精々 寝殿造りに出入りする下働きであり、八雲姫の目に入ることすらも許されない身分であろう。鴉に生まれ落ちたから こそ鴉天狗になれたのであり、鴉天狗になれたからこそ、八雲姫を忌まわしき八重姫から救い出せたのだ。そんな ふうに考えるのはあまりにも都合が良すぎるが、そうでも考えなければ魂まで潰れてしまいそうだった。

「お慕い申しておりまする」

 一握の粉となって膝の上に降り積もる八雲姫に、九郎丸は汚らしく涙を散らす。愛している、などという言葉を口に 出来るわけがない。そもそも、自分などが愛していい相手ではない。受け身を貫いたのは八雲姫が高貴な生まれで あったからであり、気高さの表れだ。九郎丸に寵愛を与えてくれたのは寂しさを紛らわすためであり、九郎丸を天狗 だと恨んだのは思うように生きられない腹立たしさからであり、咎めるべき事柄ではない。それどころか、そういった 関心を注がれていたのだと思うと一層嬉しくなる。九郎丸は八雲姫の骨の粉を膝の上から集めると、皮が剥がれて 筋と骨が覗いている手のひらに載せたが、半分以上が貼り付いてしまった。震える膝を伸ばして立ち上がり、岩の 上からその骨の粉を風に散らしてやると、九郎丸は噎び泣いた。
 せめてもの慰めとして行者装束を掴むが、それもまた腐り切り、手にした傍から糸を引いて崩れていく。汚れた布 の固まりにしがみつきながら、九郎丸は人でもなければ獣でもない声を上げて泣きに泣いた。八雲姫は救われない どころか、鴉天狗となった九郎丸に接したことで一層恨みを深めた。そんなことでは成仏出来るはずもなく、粉々の 骨を埋葬していないのだから落ち着くはずもなく、風に散らしたために八雲姫の怨念はどこまでもどこまでも広がって いくことであろう。名も持たず、形も持たず、力も持たず、ただの一筋の念となって風に混じるだけだ。
 だが、それでいいのだろう。




 広がった雨雲を伝い、水神は鴉天狗の元に赴いた。
 鉛色の雲間から思い出したように滴る雨粒でまばらに濡れた岩の上に、弱り切った鴉が横たわっていた。その傍 にはどす黒いものが染み付いており、何百年と雨が降ろうとも剥がれ落ちないであろう怨念がこびり付いているの だと知った。その主が誰であるかは考えるまでもなく、その怨念を払う気も追う気も更々なかった。叢雲が九郎丸の 後を追ってきたのは、その行く末を正してやるためであり、九郎丸と彼が思って止まぬ相手を怨念から解放すること でもなければ癒すことでもないからだ。神が守護するのは信仰してくれる人間だけであり、妖怪ではないからだ。

「ふむ」

 雨雲の膨張と共にそれなりの体積を持った叢雲は、体を横たえ、平たく広い岩を取り巻く。

「これ、鴉天狗」

 叢雲はヒゲの先で干涸らびそうな鴉を小突くと、薄い瞼がひくりと震えた。まだ息はあるようだが、妖怪としての力は まるで失われている。恐らく、九郎丸が鴉天狗たり得ていられたのは、八重姫の上半身であった姫君のおかげなの だろう。しかし、その姫君が消え去った今、九郎丸を常世に繋ぎ止められるものはない。

「いや……まるでおらぬわけではない」

 チヨと糸丸、そして糸丸を攫っていったであろう侍、早川政充は九郎丸が鴉天狗であった頃を知っている。彼らに この干涸らびかけた鴉を差し出し、九郎丸、との名を呼んでやれば再び妖怪となれるであろう。生きている人間の 口から言わせるのが最も効果的だが、叢雲には人間に働きかける力はない。ならば、チヨを頼るしかないだろう。

「ならば、我が妻を追わねば」

 叢雲は岩の平面に顎を置き、目を瞬かせる。九郎丸を鴉天狗にしてやりたいのは、別に九郎丸という男が惜しい わけではなく、単純に妖怪同士の縄張りの都合なのだ。人間が思い描いた概念に過ぎなくとも、互いに競り合って いれば一定の均衡が生まれる。人間が八重姫を恐れるがあまりに、山越えの前に叢雲が奉られている神社に参拝 するように、誰かが何かを行えばどこかに誰かの思いが向かう。そして、概念が重なって妖怪の力が確固たるものと なって土地に根付いていく。九郎丸はその一端を担っており、縄張りらしい縄張りは持っていないが鴉天狗が 出るという話は本条藩のどこにでもある。八重姫に対する恐怖よりも薄くはあるが、その分範囲が広く、鴉天狗から 目を付けられたくないがために叢雲を信仰する者もいないわけではない。つまり、三竦みのような状態なのだ。
 その均衡を崩したのが、一つ目入道の丹厳であり、怨霊の蜂狩貞元であり、妖狐の白玉である。叢雲は直接彼ら に手を下す力はなく元よりそのつもりはない。妖怪とは土地に根付いてこそ成立するものであり、土地から弾かれて しまえば妖怪として成り立たなくなる。いかに怨念を募らせようと、人間を手玉に取って画策しようと、土地から拒絶 されれば一巻の終わりなのである。一種の自浄作用とでもいうのだろうか。
 だが、こうも考えられる。丹厳は流れ者の妖怪であり、蜂狩貞元は本条藩に流れ着いた落ち武者であり、白玉は その貞元に寄り添ってきた余所者であり、 彼らの存在はこの土地では不安定極まりないはずである。丹厳に根を与えていたのは他ならぬチヨであり、チヨが 丹厳を恐れると共に恨んでいたからこそ、俗にまみれた一つ目入道は再び本条藩に足を踏み入れられた。ならば、 蜂狩貞元と白玉の場合は、荒井久勝であると思って良いだろう。本を正せば荒井久勝が八重姫をそそのかしたから こそ騒動が巻き起こっているのであり、それさえなければ、それなりに平穏無事な日々が続いていたはずだ。
 
「ならば、討つべきは荒井久勝であろう」

 だが、誰が。何をどうやって。怨嗟の連鎖を元から断ち切るにしても、方法が思い付かない。叢雲は己の浅はかさを 一笑してから、ヒゲの先に息も絶え絶えの小さな鴉を絡め取り、そっと口の中に収めた。すると、鴉の羽根に付着 していた八雲姫の怨念が舌を刺してきたが、ぐっと堪えて吐き出さなかった。
 いつしか雨は強まっていた。湿り気を帯びていく田畑の上を横切って元在る場所へ戻りながら、叢雲は視線を遠くに 投げていた。糸丸を助け出すために下界に出向いたチヨは、果たして無事でいるであろうか。彼女もまた概念の形 ではあるが、それは叢雲らとは根本的に違う。普通の人間として生きていた過去があり、氷室ではチヨ本人の骸 が凍り付いていたのであり、明確な時間を背負っている。左目も眼帯で隠してしまえばどうということもなく、ぱっと 見ただけで彼女が生きている人間でないことに気付く者はそうそういないであろう。火も起こせ、物にも触れられ、現世 と常世の狭間で揺らぐチヨであれば荒井久勝を手に掛けることも叶うかもしれないが、ともすれば糸丸の姉となって 全く別の土地で暮らすことも出来るかもしれないのだ、とふと思った。
 チヨは糸丸の答えを聞くと言った。齢三歳の幼子であろうと自意識を持った人間であり、それなりの知性を備えた 糸丸がそうしたいと判断すれば、チヨはそれに従うだろう。だが、そこでまた新たな疑問と衝突する。

「何故、鬼蜘蛛の姫は糸丸を育てられたのであろうか」

 八重姫は鬼蜘蛛の名に相応しい人喰い妖怪であり、人喰い妖怪の寄せ集めであり、人間の子供を育てるなどと いうのは以ての外だ。だが、八重姫は本条城から糸丸を攫って今日まで立派に育ててきた。それは確かな事実で あり、糸丸は正真正銘の人間であり、疑う余地はない。しかし、誰かが八重姫にそうあってほしいと望まなければ、 そんなことは有り得ない。それ以前に、鬼蜘蛛の八重姫に子供を育ててほしいと願うような人間はどこにいるので あろうか。叢雲が人間であれば、まずそんなことは考えない。そもそも、蜘蛛妖怪が子供を育てるものか。女郎蜘蛛は 子蜘蛛を操って人間を惑わすが、それは女郎蜘蛛自身の子蜘蛛であって人間の子供とは懸け離れている代物だ。 それに、普通の感覚であれば我が子を鬼蜘蛛の姫の腕に抱かせたいとは思わないし、思うはずがない。荒井久勝の 名がふと叢雲の頭を過ぎったが、荒井久勝は八重姫の難を最も受けている立場にある。その荒井久勝が、八重姫に 大事な嫡男を渡すはずがあるものか。糸丸が死してしまえば、荒井家は亡んでしまうのだから。
 あまり考えすぎるものではない。叢雲はするりと山頂の岩場から離れると、雨脚を次第に強めつつある雲の下に 沿って下界を目指した。目を凝らし、八重山の中腹に凝っている黒い障気を見据える。木々を枯らしながら立ち上る 濁った筋の底には、無様にひっくり返って腹を曝している巨体の蜘蛛がいる。このまま力を失ってしまえば、八重姫は どうなるのであろうか。八雲姫を欠いたために分離して元の蜘蛛妖怪に戻るのか、概念としての形を失って崩れ去る のか、それとも。叢雲は目元を顰め、上唇を捲り上げて太い牙を剥いた。
 ざらりとした不安が、ウロコを波打たせた。





 


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