鬼蜘蛛姫




第十四話 修羅の巣



 折檻されたい。
 雨の中、体の芯にじんとした熱を感じながら玉はひた走っていた。きっと、蜂狩貞元は荒井久勝から見初められた と知るや否や、玉を責め抜くだろう。身も心も貞元のものだというのに、憎んでならぬ久勝の妻に成り下がろうとして いるのだから責めてくれないわけがない。責めてくれなければ責めてくれと懇願する。二股の尻尾を丸めて尻を高く 掲げ、突き出してみせる。長らく貞元を味わっていなかったが故に、疼いてたまらない。

「お前様ぁっ……」

 水飴の如く甘ったるく糸を引くような声を出しながら、玉は駆け抜けるうち、次第に変化が解けて妖狐の白玉へと 戻っていった。だが、誰も白玉を視認出来はしない。妖怪に戻った時点で白玉は白玉という概念に過ぎず、貞元を 思う気持ちを抱いていなければ痩せ衰えた狐でしかないのだから。
 白玉が着物と姿を拝借した遊女の環は、きっと貞元に焦がれていたのだろう。そうでなければ、白玉が貞元にここ まで焦がれるわけがない。妖狐は人間を誑かすものであり、人間が誑かされたのは狐に違いない、という固定観念 があるからこそ狐は自在に化けられる。生前の貞元が、環は狐であれ、と思ったのかもしれない。だから、所詮は 白玉の恋情は環からの借り物だ。どれほど焦がれても、愛しても、貫かれても、虐げられても、白玉本人の感覚と なるわけではない。どうしようもなく空しい時間の積み重ねだが、それでいいのだと思うしかない。妖怪は妖怪の分を 越えるわけもなく、人間になれるはずもないのだから。
 荒井久勝と鬼蜘蛛の八重姫よりも、貞元と白玉は幸せなのだと思う。貞元は本条藩の人々から恐れられるうちに 概念が固まり、白玉が注いだ妖力で恨み辛みを煮詰め、怨霊を超えた妖怪と化した。だから、白玉はそんな貞元に 寄り添えるようになり、貞元もまた強烈に欲していなくとも白玉に触れられるようになった。荒井久勝を間近から観察 してみたところ、どうもあの男は常世と現世の境目を越えようと画策しているらしい。けれど、白玉と貞元の間には、 そんなものは立ちはだかっていない。生きられはせずとも、永遠に寄り添っていられるのだから。
 息を荒げながら、白い着物の裾と足を泥だらけにした白玉は無縁寺に辿り着いた。重たく垂れ込めた雨雲は夜の 如き暗さを作り出し、遠くから雷鳴が聞こえてくる。白玉はんっと粘つく唾を飲み下してから、濡れた石段に足を掛けて 昇っていった。境内に入ると、枯れかけた木の上に愛して止まぬ男の当世具足が引っ掛かっていた。

「お前様!?」

 白玉が慌てて駆け寄ると、当世具足は水を吸うように障気を寄せ集めて凝らせ、兜の下に面頬を貼り付かせる。

「……白玉や」

「お前様、そのお姿はどうなさったんですかい?」

 白玉が詰め寄ると、貞元は鎧の隙間に溜まった雨水を幾筋も落としながら、身を軋ませる。

「鴉天狗に、してやられたわい」

 貞元の声色は乾き切り、衰えてすらいる。白玉は彼の頭上に目を凝らし、貞元を吊しているものを見定めた。それは あの忌々しい蜘蛛の糸であった。すぐさま狐火を吹き付けて糸を焼き切ると、貞元は自由を取り戻したが受け身 を取る余力すらなかったのか、無様に泥溜まりに転げ落ちた。白玉は駆け寄り、怨霊を抱き起こす。

「ああ、お労しや……」

「儂の刀は、どこにある」

 貞元は力を欲して手を伸ばすが、雨粒に叩かれるばかりであった。

「お前様の刀が鴉天狗に奪われたんですかい? だったら、白玉が探してきますよぉ」

 貞元を安心させようと白玉が笑顔を浮かべると、貞元の眼球のない目は妖狐を捉える。

「否。その必要はあらず」

「ですけど、お前様ぁ」

 白玉が貞元に寄り添うと、空を掴み損ねていた手が戻ってきた。それは白玉の細い首を鷲掴みにし、喉に親指を 抉り込ませてくる。そう、これだ。これを待っていたのだ。白玉は舌を突き出して喘ぎながら、期待に胸を弾ませる。 冷たく硬い指が首筋の太い血管を押さえ、薄く汗ばんだ肌の下でどくどくと脈打つ。死体の腐臭に勝る臭気を帯びた 吐息を漏らしながら顔を寄せてきた貞元は、白玉の髪の間から飛び出した獣の耳に口元を寄せる。

「白玉や。そなた、荒井久勝に見初められたな?」

「な、なぜぇ、お解りにぃっ……」

「儂の影の中には、妖怪崩れの亡者共が詰まっておるのだ。城下の影に滑り込ませた奴らの眼を通じれば、そなた の様子を探ることなど造作もなきこと」

「は、はひぃ」

 嬉しさと苦痛で喘いだ白玉に、貞元は首の骨を折らんばかりに力を込める。

「実に喜ばしいことだのう」

「ぐひぇっ!?」

 貞元の親指で顎を押し上げられて仰け反った白玉は、首の筋が伸びきってしまい、視界が逆さになった。

「これでまた、儂は荒井久勝を恨まねばならぬようになる」

 鉄柱のような強張りを持つ指に責められ、みしみしと下顎が軋み、肌が破れそうになる。

「白玉。そなたは実に素晴らしい女であった。具合も良い、見栄えも良い、儂の性分を受け止めてくれるばかりか、 悦ぶと来ている。それは否応なく儂を満たすが、共に苦しめるのだ」

 いつになく穏やかに、貞元は語る。首の筋が伸びきったためにだらりと手足を垂らした白玉を軽く持ち上げると、 枯れ果てた木に押し付ける。乱れた裾の間から零れた二本の尾が、筆のように泥溜まりを擦る。

「確かに儂は虐げる女を欲しておったわ。殴り付け、蹴り付けるほどに尻尾を振って擦り寄ってくる雌犬の如き都合 の良い女をな。しかしだ、過ぎた酒は病を招くが如く、過ぎた快楽は儂を堕落させた」

 貞元は左手で白玉の髪を掴むと、みぢり、と引っ張る。

「儂が最も恨まねばならぬのは荒井久勝でもなければ鬼蜘蛛の姫でもなく、白玉、そなたであった」

「お、まえ、さまぁっ……」

 こんなにも愛しているのに、ひたすらにやりたいようにさせてきたのに、何故。白玉は目尻に涙を溜めながら、唇を 開閉させたが喉にも腹にも力が届かず、声とは言い難い空気が零れた。

「だが、そなたを恨む気にはなれぬ。愛おしいからよ。しかし、生かしておくべきではない。故に」

 その言葉に歓喜した白玉は唇を吊り上げて笑みを作ろうとしたが、顔の筋も上手く働かなくなっていた。貞元は名残 惜しむかのように白玉の体を腕に収めたが、離した途端に首の根本をねじ曲げた。呆気なく鎖骨が折れて肩と腕 の骨に繋がる筋が千切れ、血潮が泥を生温くする。めぎめぎと首の骨が引き抜かれていき、細い筋で繋がっていた 肺袋と肋骨が首の根本に開いた穴で刮ぎ落とされる。続いて肝と胃袋に繋がる管が裂け、内容物が汚らしく辺りに 散らばる。貞元の左手が骨盤を捻って股関節を外すと、首から下が肉の袋となって崩れ落ちる。

「儂の刀となれ」

 貞元の手には、首以外は背骨だけとなった妖狐が収まっていた。白玉は懸命に唇を開閉させ、声が出ないまでも 精一杯意志を伝えようとする。ああなんて嬉しい、白玉は幸せ者でさぁ、どうぞお好きに、と繰り返す。痛みはまるで 感じない、辛くないと自分で自分に言い聞かせているからだ。そうでなかったら白玉には価値はない、貞元をたらし 込み、陥れ、銜え込んでこその妖狐なのだ。血が絡み付く背骨の下で弛緩している己の肉体は、いつしか遊女の姿 を失って痩せ衰えた狐に戻っていた。もちろん、そちらも首が外れていて背骨が引き抜かれている。
 貞元の顔は見えない。血が抜けているばかりか妖力も貞元に吸い取られているので、目が利かなくなってきた。 面頬の下にあったはずの顔が上手く思い出せない。厳つい面持ちではあるが人を惹き付けるものを持った豪傑で あり、屈強な骨格に分厚い筋肉を纏った勇猛果敢な武士であり、男臭さの固まりであったはずなのに、ここにいる のは黒い影を凝固させた貞元の絞り滓だ。誰かを恨んでいなければ動けない、何かを憎んでいなければ刀すらも 振るえない、哀れな武士の成れの果てだ。だが、そうさせたのは白玉だ。そうすることしか出来ないからだ。

「良いな」

 その言葉に否定など許されるはずもなく、白玉はこくんと頷いた。貞元は白玉の頭蓋骨に指をめり込ませるように 力を込め、甲冑の隙間から障気を溢れ出させる。無縁寺は黒い霧に覆い隠されると、雨粒すらも避け、雨音は遙か 彼方で囁く程度となった。貞元の力が白玉の隅々にまで行き渡っていく。引き抜かれた背骨に絡み付いた黒い障気 は背骨を砕き、溶かし、熱し、一振りの白銀の刃へと変化させる。それは白玉の頭部にも及び、乱れた髪から外れて 落ちかけた何本ものかんざしが溶け合って鍔となり、髪が捻れて撚り合って柄となり、脳髄と頭蓋骨と目玉と鼻と耳と 歯と舌と骨という骨が芯となる。一陣の風が吹き、障気が晴れると、貞元に手には白き刀が携えられていた。
 無縁寺の境内を出た貞元の影から、一歩踏み出すごとに亡者が現れる。それはかつて、貞元が喰い漁った百鬼 夜行の者達であり、猥雑とした行軍を始めた。貞元の足元に絡み付いてきた大百足は主の足が浮いた隙にその下 に滑り込んで馬の代わりとなり、手足の生えた欠けた茶碗や箸を握ってちんとんしゃんと軽快に打ち鳴らし、網剪り がハサミを振るって主を鼓舞する。煙々羅が渦を巻いて障気を広げ、城下町を暗澹たる世界に落とし込む。火の輪 入道が火を噴きながら転がり、泥を跳ねながら露払いをする。貞元は大百足の背に腰を下ろし、愛し抜いた妖狐で 成した白い刀を見つめる。白玉はそうあるべき者であったが故に貞元を愛していた、そうあるべき者であったがために 貞元を堕とした。恨まれても文句は言えない。いや、むしろ恨んでほしい。貞元の血肉となれるのなら。

「白玉……」

 白銀の刃に面頬を寄せ、貞元は慈しむ。

「お前様ぁ」

 白玉は貞元に擦り寄ろうとしたが、炎で炙ったかのような刀身が僅かに歪んだのみであった。

「あの忌まわしき蜘蛛女の糸と鴉天狗の小賢しい謀によって戒められておる間、儂は絶えず飢えと渇きに襲われて おった。終わりなき辛み、潰えぬ恨み、果てぬ闇……」

 面頬の口の部分から伸びた腐肉の如き舌が刃をなぞると、恐るべき切れ味で舌先は二つに割れる。

「その深淵の底でも、そなたを求めて止まなかったぞ、白玉」

「白玉もでございまさぁん」

「だが、その底にて儂は気付いたのだ。儂は荒井久勝への恨みがあるからこそ儂で在るが、荒井久勝への恨みを 果たしてしまえばどうなるか。恨み辛みを果たせば儂は霧散し、白玉と袂を分かつこととなろう」

 裂けた舌で刃の側面を舐め、血よりも濁った体液を幾筋も絡ませる。 

「しかし、果たせぬままに朽ちるわけにはならぬ。……共に果てようぞ、白玉」

「はい、お前様」

 白玉はいつになく甘く囁き、きちりと刃を傾けて貞元の頬に寄り添う。貞元は目元と思しき部分を細めると、白い刀を 担いで顎をしゃくって本条城を示した。影が膨張し、ぎちぎち、げちげち、ごきごき、と呻きながら百鬼夜行の者達が 更に溢れ出してくる。雨脚が強くなってきたからだろう、城下町に出ている人間は一人もいない。時折外の様子を 覗く者がいたが、簾を上げて目を見せたところに睨め付ける。途端にその人間は口を開け、魂が引き摺り出されて くる。貞元は白い刀を軽く振るってその魂を絡めると、一息に飲み込む。
 腹の足しにすらならないが、空きっ腹で暴れ回るよりもマシだろう。先の割れた舌で唇を舐めてから、貞元は片膝を 立てて大百足が反り上がらせた外骨格に背を預ける。本条城が何やら騒がしいが、どうせ相手はただの人間だ、 気に掛けるほどのものでもない。問題があるとすれば、黒い刀である。鴉天狗の九郎丸が貞元から奪い去った 黒い刀は、貞元の感覚によれば鬼蜘蛛の八重姫の手元にあるとみていいだろう。八重姫の糸に妖力を注ぎ込めば 手繰り寄せられないでもないが、八重姫の手元に預けておいた方が面白くなるかもしれない。荒井久勝がどれほど 人間離れした情念の持ち主であろうとも、人間の範疇からは逃れられない。どうせ挑むのならば、正真正銘の妖怪 である八重姫が良い。生前では成し得なかった、一世一代の大勝負を仕掛けてやろうではないか。
 これぞ、武士もののふの在り方だ。




 鈴が鳴り続けている。
 ちり、ちり、ちり、ちり、ちり、ちり、と一定の間隔を置きながら揺れている。その鈴の音は洞窟に跳ね返り、幾重もの 音となって八重姫の上に降り注いでくる。粘ついた己の血の海に背を沈めたまま、無様に腹を曝したまま、虚ろに 八つの目を血溜まりに沈ませていた。あれからどれほどの時が過ぎたのであろうか。少なくとも、丸一日は過ぎて いるとみて間違いはない。夢現に感じたのは、誰かに渇望されているということだ。
 八本足を蠢かせて洞窟の内壁に引っ掛け、苦心しつつも体の上下を直す。かつては落人の姫君の肉体を上半身 として据えていた頭部には荒い切断面が残り、斬られきらなかった背骨の端が肉の中から覗いている。痛みはそこ かしこにあるが、最も痛みが激しいのは魂であった。なぜこんなに苦しいのか、見定めようとするも頭がふらつき、 記憶がぼやけている。たたらを踏んだ八重姫が倒れ込むと、乾いた木が砕けて小屋が儚く潰れる。

「おぉぉ……」

 八つの目にまとわりついていた血が障子紙に吸い取られると、それが見えた。八重姫が斬られる寸前まで糸丸が 勉学に励んでいた名残が残っており、硯には墨が入っていたが干涸らびており、筆も乾き切っていた。糸丸のため に縫った着物が小屋の隅に積み重なり、糸丸が赤子であった頃から使い通しであるムシロが折り畳んである。だが、 それらを使う子はいない。この三年間、守り通してきた我が子が。荒井久勝の胤であるからこそ愛おしくてたまらない 糸丸が。それを連れ去ったのは早川政充だとはかすかに覚えているが、どこに行ったというのだ。
 ちり、ちり、ちり。八重姫が憤怒に駆られている最中も、鈴は鳴り続ける。それが愛する男からの合図だということ も忘れるほどの苛立ちに、八重姫は音源と思しき棚に足を振り下ろして叩き潰した。

「ええい黙らぬか!」

 呆気なく木片が飛び散り、そこに収めていたものも散る。八重山を通った物売りを襲って奪い取った化粧道具の 数々が弧を描き、白粉が、紅入れが、柘植の櫛が天井に当たって跳ね返る。

「この……っ!」

 八重姫は上等な帯と着物が破れるのも構わずに鈴を引っ張り出し、捻り潰そうとして我に返った。

「おおおおおおおぉっ!」

 今、自分は何をしようとしたのだ。これを潰してしまえば、荒井久勝との繋がりが途切れてしまう。住む世界が違う がために結ばれなかった男との絆が失われてしまう。八重姫に激情とは異なる感情を与えてくれた男との接点を、 己の手で壊そうとしてしまった。それも、あのような幼子のために。あれは久勝の子ではあるが、久勝そのものでは なく、久勝の気を惹きたいがために、家族を成さんがために奪い取った子なのだ。だから、重きを置くべきは久勝で あり糸丸ではないのだ。八重姫は激しく喘ぎながら、のそりと小屋から這い出す。

「屠らねばならぬ」

 あの子を、久勝の分身と思うが故に愛してきた糸丸を。

「屠らねば、わらわは」

 八重姫が八重姫たるものが、崩れ去るやもしれぬ。そんな危機感に駆られるがあまりに、八重姫は洞窟の片隅で 障気を渦巻かせている黒い刀に迫っていった。あの刀には一つ目入道の丹厳の肝が使われているばかりか、数多 の亡者が刃の内で蠢いている。それを使えば、八重姫は一時ではあるが力を取り戻せるであろう。

「ああ、恨めしい」

 自分が人間にさえ生まれていれば、こんなことには。八重姫は前足で黒い刀を掴むと、躊躇いもなく頭部の傷口 へとねじ込み、柄さえも没させた。黒い刀は火中で熱した石の如く、八重姫の内で猛烈な異物感と共に半分以上が 抜け落ちた体液を沸騰させてくる。恨み辛みには慣れ親しんだものではあったが、これまでのような充足感はあまり 味わえず、代わりに空虚感が訪れた。腹を膨らませているのに、妖力を昂ぶらせようとしているのに、これから久勝 の元に出向こうというのに。着物や化粧で着飾れないからか、女としてあるべきものを斬り落とされたからか、醜悪な 蜘蛛の姿でしかないからか。否。
 その答えが胸中で形となる前に、八重姫は洞窟から這い出し、八本足を曲げて跳躍した。叢雲の力が増大しつつ あるのだろう、雨雲は日光をほとんど遮って湿った闇をもたらしている。時折、青白い稲光が駆け抜けるのは、チヨの 身に何かがあったからかもしれぬ。だが、叢雲に構っている暇はない。八重姫は八重山の木々を足掛かりにして 跳ね、春祭りで荒れ狂う叢雲が地滑りを起こした斜面に埋まる大岩を蹴って跳ね、麓の農家の茅葺き屋根を蹴って 跳ね、出来る限り高所を選んで跳躍を繰り返しながら、城下町を目指した。
 鈴の音は、聞こえない。





 


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