鬼蜘蛛姫




第一話 怨嗟の紡ぎ糸



 天守閣の瓦屋根を、八本足が掴む。
 いつのまにか降り始めた雨粒が額を叩き、不揃いな肢体を薄く濡らしていく。暗澹たる雲が立ち込めた城下町は 静まり返っていて、城の異変に気付いた人々が店を閉め、戸を塞ぎ、息を殺している。城の至るところでは篝火が 燃え盛り、黒い煙が幾筋も立ち上っている。矢筒を担いで弓を携えた弓兵が矢狭間の向こうに潜み、城内の様子を いくつもの目が窺っている。城のどこかから、経文を唱える声が流れている。乳母らしき女が本丸の前で這い蹲り、 必死に祈りを捧げ続けている。大方、久勝の命令で八重姫を迎え撃とうとしているのだろうが、何をしようと無駄だ。 矢を射られた程度で貫ける体でもなければ、経文如きに痛め付けられる魂でもない。城内に飛び降りて暴れ、人々を 殺して回ってもよいが、それでは余計な時間を食ってしまう。雲の切れ目から垣間見える西日は、今正に山間へ 没しようとしている。だが、この天守閣には久勝はいない。匂いがしないからだ。いかに篝火を焚いて黒煙を広げ、 雨が降ろうとも、妖怪が嗅ぎ分けている匂いは濁らない。八重姫が感じ取っている久勝の匂いは、生き物としての 匂いだけではないからだ。現世の者はまず知らないであろう、魂そのものの匂いだからだ。
 久勝の居所は、天守閣でも本丸でもなく二の丸だった。素早く屋根から屋根へと飛び移った八重姫は、二の丸の 中庭に飛び降りた。がぢゃっ、と着地の衝撃で玉砂利が跳ね上がって飛び散ると、槍を握って突っ立っていた足軽 が振り返り様に絶叫した。どうやら、気が立ちすぎているせいで気配を消すことを忘れてしまったらしい。八重姫は 自戒したが、一人に見つかればもう手遅れだ。仕方ないので足を振るって足軽の首を刎ねてから、二の丸の縁側 から室内に突っ込んだ。何奴か、と叫んだ侍が一斉に駆けてきたが、八重姫は彼らと自分の間に瞬時に巣を張り、 斬り掛かってこようとした侍の体を細切れに切り裂いた。先頭の一団は最初の一人が肉片と化したことに気付き、 後退せよと言おうとしたが、一斉に駆けてきたために勢いが止まらなかったのか、侍達は巣に雪崩れ込んできた。 そして、一人残らず切り裂かれ、辺りにはどろりとした血溜まりと生臭い無数の肉片が散らばった。
 爪先を振るって巣を切り落とし、力を失わせてから、八重姫は刀を手にしたまま千切れ飛んだ腕を踏み付けて、 二の丸の奥の間へと向かった。侍達が駆けてきた方向を辿っていけば、久勝の居場所に出るはずだ。襖と障子を 破りながら押し進んでいくと、漆塗りの膳を持った腰元が腰を抜かして倒れたので、その胸を足で踏み抜いて肝を 潰した。朱塗りの膳から転げ落ちたのは、温かな飴湯が入った椀だった。
 襖を一枚開け、また一枚開け、更に一枚開けた先に、金地に松の襖の間が現れた。八重姫は赤黒い足跡を床に 残しながら、両の前足でその襖を開け放った。途端に女の悲鳴が上がり、見るからに質の良い着物を着た若い女が 様々な年嵩の女達に囲まれた。奥方であろう女の腕には、産まれて間もない赤子が抱かれている。その赤子に糸を 吐き付けようと八重姫が口を開いた時、襖の影から刃が翻った。

「つぇいっ!」

 それは、久勝に他ならなかった。八重姫は本能的に半身を引くが、髪が一束切れ、散った。

「久勝や。そなたの望み、叶えたもうたえ」

 切られた髪を一瞥し、八重姫は八つの目を全て開いた。

「心して迎え撃つと申した! 儂の妻子には手出しはさせぬ!」

 久勝は妻子を背にしながら、八重姫の正面に回り込む。面頬に隠れた面差しは、鬼気迫っている。

「わらわがそこまで憎いかえ。見てみい、この首はそなたが望んだものぞ」

 右手に下げた貞元の首を揺らしながら、八重姫は一歩一歩、久勝との間を詰めていく。

「ほうれ!」

 八重姫が兜ごと首を放り投げると、女達はぎゃあと叫んで更に逃げた。八重姫の様子を気にしつつ、床に転げた 首を刀の先で転がした久勝は、兜の意匠と額に付いている古傷でそれが貞元だと確認した。

「……確かに。この額飾り、この古傷、蜂狩貞元の首に違いない」

「では、約束を果たしてもらおうかえ」

 八重姫は上半身を倒し、久勝の目の前に顔を突き出した。久勝は構え直し、睨み返してくる。

「何が望みだ」

「そなたの世継ぎをくれぬかえ」

「それは」

 明らかに狼狽した久勝に、八重姫は恐怖と憎悪を混ぜた表情の奥方を見やった。

「くれぬのであれば、こうするまでよ」

 ぴぃんっ、と板張りの隙間から一本の糸が跳ねた。久勝の切っ先に切られた髪にも妖力は充ち満ちているので、 如何様にも操れるのだ。髪を結び合わせた黒く細い糸は奥方の足元から頭上に向けてしなり、恐怖が驚愕に変化 した直後、奥方の右半身と左半身が互い違いにずれた。裾の長い上等の着物に汚らしい臓物が零れ落ち、脳漿が 障子戸を黄色く濡らす。その腕の中に抱かれている赤子は攻撃を加えなかったので無傷だが、奥方の両断した体が ずれていったせいで両腕が開き、赤子は床に転げ落ちた。強かに背を打ち付けた赤子は、泣き喚いた。

「咲!」

 久勝は仰天して奥方に振り返るが、奥方は既に絶命していた。腰元や乳母は赤子を拾おうとするが、手があまりに 震えるために赤子を掴むことすら適わなかった。久勝は柄が折れかねないほど握り締め、刀を上げる。

「おのれ妖怪!」

「そなたが悪うぞえ。わらわとの約束を、守ろうとせぬからよ。呪うてやる。呪うてやる。呪うてやる……」

 久勝の刀を握り締めた八重姫は、力任せに刀を曲げ、久勝を凝視する。

「そなたの行く末はわらわのものぞ。故に、そなたの世継ぎはわらわのものぞ。その女の代わりを宛がい、更なる子を 作ろうとすれば、わらわの糸が伸びよう。そなたが交わるべきはわらわのみ。下らぬ人間の女ではないわ」

「……く」

 がちがちと刀が震え、鍔が手っ甲に当たる。久勝は曲げた唇の下から、呻きを漏らす。

「そなたの呪いは、我が身で全て受けようぞ。それもこれも、全ては儂の心の弱さから始まったことよ」

「ならば、その子はもらっていこうかえ」

 答えに満足した八重姫は久勝の刀から手を離し、泣き喚く赤子を拾い上げた。腰元と乳母達は追い縋ろうとしたが、 久勝が弱々しく制止すると、女達は悔しげではあったが引き下がった。

「名は何と申す」

 柔らかな産着に包まれた赤子を抱いた八重姫が問うと、久勝は絞り出すように答えた。

「菊千代と申す」

「そうか。だが、その名も今日限りよ。そうだのう、糸丸とでも名付けようぞ。これは、そなたとわらわの子ぞ」

 八重姫がころころと笑うと、久勝は刀を床に突き立てて慟哭した。

「好きにせい!」

 ぎゃあぎゃあと赤子は力一杯泣いている。目鼻立ちが出来上がっていない顔をしわくちゃにして小さな手を握り、 涙と鼻水を垂れ流している。ただの赤子であれば、その場で首を喰い千切ってしまうだろうが、久勝の種で出来た 赤子だと思うと途端に愛おしさが湧いてくる。頬を擦り寄せてやると頼りない肉の感触が返り、赤子独特の幼い匂いが 立ち上る。久勝は最早立ち上がることすら出来ず、慟哭を繰り返していた。
 二の丸から庭に出ると、槍を持った足軽が八重姫を待ち受けていたが、その腕に抱かれている赤子を見るとすぐに 槍の穂先を下げた。弓兵達も皆大人しく、矢の一本も飛んでこなかった。彼らの憎悪と悔恨が漲る眼差しを一心に 浴びながら、悠々と城内を歩いていると、久勝の奥方になったような気分になってくる。これ見よがしに遅い足取り で二の丸を後にした八重姫は、降りしきる雨の中、朱色の着物を赤子に被せてから八重山へと跳ねた。
 こんなにも清々しい気分になったのは、果たして何百年ぶりであろうか。




 冷たい雨が、意識を引き戻してくれた。
 まだ生きているようだ。白玉は妖怪として生まれたことをこの上なく感謝した。これでただの人間であれば、ただの 狐であれば、二度と目覚めなかったに違いない。自分の血と貞元の血が泥に混じり合い、澱の如く溜まっている。 無数の傷が付けられた背中には糸で依られた針が突き刺さったままで、このまま放っておけば傷が深まるだけだ。 抜くのが困難だろう、となれば、また狐火で燃やすまでだ。

「お前様……」

 しとどに降る雨が、首を切り取られた貞元を叩いていた。なぜ、彼がこのような目に遭わなければならないのか。 そもそも、先の戦とて貞元の本意ではなかった。奥州の戦国大名である伊達氏に逆らえず、やむなく部下を率いて 参戦したのだ。勝ち目など端からなく、生きて帰れれば御の字といった具合だった。そして、命からがら逃げ延びた ところで、荒井家は貞元に妖怪を差し向けてきた。貞元の背後に見え隠れしている伊達氏に目を付けられないため だろうが、穏便な解決法などいくらでもあっただろうに。心臓が抉り抜かれるような苦しさが、白玉を苛む。

「お前様ぁ……」

 青白い炎が拳から溢れ出し、背中の針を焼き尽くしたが、無数の傷と着物の穴は癒えなかった。

「ああ、ああ、お前様……」

 泥の中を這いずって貞元の死体に縋った白玉は、雨に涙を混ぜながら、頭をもたせかける。と、その時、白玉の 耳に雨音とは異なる音が届いた。心臓の鼓動よりも遙かに鈍く、重たく、人間には聞こえぬ音。魂の躍動だ。

「お前様!?」

 白玉は身を起こし、貞元を凝視した。血の気は完全に失せ、貞元の屈強な体は石仏の如く強張っているが、鎧が かすかに競り合っている。貞元の体が震えている。生き返ったわけではないが、貞元はまだ死んだわけではない。 魂が肉体にこびり付き、動かしているのだ。せめてもの助けになればと、白玉は貞元の首の切断面に舌を這わせ、 注げる限りの妖力を注ぎ込んだ。筋肉の舌触りは堅く、傷んだ血の味はおぞましいが、白玉にとっては糖蜜よりも 甘美な味わいだった。どれほどの間、注ぎ続けただろうか。妖力の底が見え始めた頃、死体が再度動いた。

「ぐ……」

 口と喉を失ったが故に、以前よりも濁った声色で貞元は声を発した。

「お前様ぁっ!」

 歓喜した白玉が貞元を抱き寄せると、貞元は困惑した様子で身を起こした。

「儂は……死んだのではないのか。のう、白玉」

「左様でごぜぇやす。お前様は、人間としての生は終えられてしまいやした。けども、白玉はお前様にはまだ死んで ほしゅうなかったんでやす。だから、こうして」

 白玉は貞元の大きな手を自身の頬に添え、とろりと弛緩した。

「儂は誰に殺されたのだ」

 上等の陶器のように滑らかな白玉の頬を慈しみながら貞元が呟くと、白玉は目を伏せた。

「解りませぬ。けども、荒井の手の者に違ぇありやせん」

「荒井か」

「へえ」

 白玉が頷くと、貞元は泥に埋まりかけていた刀を引き抜き、雷鳴の如く怒鳴った。

「そうか荒井か! 儂や皆を陥れたばかりか、殺しおったのは! ええい恨めしい、恨めしいぞ荒井めが!」

「お前様?」

 貞元らしからぬ言葉の荒さに白玉は若干臆した。白玉の知る貞元は、勇猛でありながら温厚な人格の持ち主だ。 怒りに任せて語気を荒げることはあっても、言葉遣いは柔らかい。それが、なぜ。

「これほどの仕打ちを受けて黙っておれるか! ただでは済まさぬ! 荒井の一族徒党、いや、この地の者を全て 切り捨てて地獄に叩き落としてくれるわ!」

 泥まみれの刀を握り締めた手の握力は凄まじく、柄が真っ二つにへし折れた。

「我が身を震わすこの怒り、この恨み、この憎しみ、どうしてくれようぞ!」

 へし折れた刀の柄を一層強い握り締めたのだろう、一息で粉砕されて木片が飛び散った。

「ああ、ああぁ……」

 なんということをしてしまったのだ。己の過ちに今更ながら気付いた白玉は、袖で目元を覆った。無念を抱えて命を 落とした人間に妖力を与えて蘇らせれば、怨霊と化すのが世の常ではないか。増して、理不尽な目に立て続けに 遭い、恨み辛みを宿していたのであれば尚更だ。だから、これは貞元ではなく荒井久勝への恨み辛みの固まりだ。 けれど、それでも嬉しいと思ってしまったのは妖怪の性かもしれぬ。貞元が死して怨霊と化したことで、それまでは 決して越えることが出来なかった生きる世界の隔たりを易々と越えられたのだから。

「白玉や」

「はい、お前様」

 白玉が貞元の足にしなだれかかると、貞元は屍臭が漂う指先で白玉を愛でた。

「そなたは儂に力を貸してくれるな?」

「ええ、もちろんでさぁ。白玉は、どこもかしこもお前様のものでごぜぇやす」

「ならば……まずは儂に力を寄越せい。何も得ずにおると、はらわたが煮えてしまいそうなのだ」

 片膝を折った貞元は、顔が存在していた部分を押さえた。白玉は再び妖力を注ごうとするが、目眩を起こした。

「申し訳ありやせん、お前様。今しばらく、白玉に時間を下さいやせ」

「待てぬ!」

 貞元は虚ろな空間を強く握り、肩を怒らせた。白玉はその手に縋り、懇願する。

「どうかお気を静めて下され、お前様」

「待てぬと言っておるのが、解らぬのかぁっ!」

 白玉を強引に振り払った貞元は、首の根本から荒々しい呼気を吐き出しながら、ぎこちない動作で部下達の亡骸に 歩み寄っていった。何某かの妖怪の仕業で切り刻まれた血肉を鷲掴みにすると首の切断面にねじ込み、苦悶の 言葉を吐きながらも喰らっていった。貞元の本意とは反した行動なのだろう、しきりに彼は繰り返している。喰いとう ない、喰いとうない、と。だが、人間ではなくなった貞元が己を保つためにはそれ相応のものが必要だ。心が求めて いなくとも、魂が求めてしまうのだ。数人分の屍肉を喰らった貞元ははたと我に返り、その場に座り込み、獣の如く 吼えた。白玉はふらつきながら貞元の傍らに寄り添うと、これまでと同じように指を絡め合わせた。
 共に、修羅の道を歩もうではないか。





 


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