娘、チヨはむっつりとしていた。 首筋の真新しい傷跡を押さえたまま、鬼蜘蛛の姫と水神を見上げていた。人柱となった後の事の次第を叢雲から 説明され、起こされた理由もきちんと教えられたが、チヨはすぐには納得しなかった。それもそうだろう。八重姫 やら何やらに喰われたり、神託を与えられて巫女となったり、はたまた神に嫁入りしたり、という理由は昔語りなどで よくあることなので腑に落ちるだろうが、子守役を押し付けられてしまったのだから。 今し方まで氷漬けになっていた上に左目を失っていることなど一切感じさせないほど、チヨは表情が力強かった。 農家の娘らしく肌は良く日に焼けていて、背丈は子供ながらも体格はしっかりしていて、手足には薄いながらも確か な筋肉が付いており、さながら駿馬のようだ。女の色気とは程遠いが労働力としては申し分のない娘である。半端な 長さの髪を掻き上げて水気を払ってから、チヨは改めて八重姫と叢雲と向き合った。太く濃い眉と厚めの唇を曲げ、 右目を見開き、人ならざる者達を凝視していたが、さも面倒そうに言った。 「なんでおらが、そげなことせんとならんの。人柱の御役目とは違っとるいや」 「このわらわが頼み申しておるのぞえ。光栄に思え」 八重姫は精一杯へりくだるが、叢雲は目元をしかめた。 「それが他人に物事を頼む態度か。おぬしは本当にどうしようもないのだな」 「そうだ。おらはそりゃ人柱にされるぐらいだすけんに、大したことねぇ娘っこかもしれんけど、妖怪なんぞの赤子を 育てたいわけがねって。見た目は人間かもしれんけど、そんげん、めごくもねぇ」 糸丸を指したチヨは、さも嫌そうに身を引いた。叢雲は一度瞬きしてから、ヒゲの先で糸丸を指す。 「これこれ。この赤子はだな、抱いている女こそ鬼蜘蛛の姫だが、れっきとした人間なのだぞ。藩主殿の嫡男でな、 本条藩の世継ぎとなる子よ。気持ちは解らぬでもないが、そう嫌がるでない」 「うえ? 御殿様の御子なんけ?」 目を丸めたチヨに、叢雲は頷く代わりに瞼を上下させる。 「ああ、その通りだとも」 「なんで御殿様の子が、鬼蜘蛛の姫の子になっとるんけ? まさか、御殿様はこーんな気味の悪い蜘蛛のおなごと 御開帳して子作りしちまったんけ? あんれまあ」 「い、いや、そうではない。今一度聞くがよい、チヨや。その赤子を産み落としたのは鬼蜘蛛の姫ではなく、藩主殿が 娶ったれっきとした人の奥方なのだ」 「そんなら、その奥方様はなんで鬼蜘蛛の姫なんぞに大事な嫡男をお渡しになったんだいや?」 チヨが矢継ぎ早に浴びせてくる疑問に、八重姫は悠長に答えた。 「わらわが奪い取ったまでのこと。あの女は二つに裂いた、その後は知らぬ」 「うわぁ、おっかねぇよう!」 チヨは途端に青ざめて後退るが、氷にぶつかり、その冷たさに飛び上がった。 「ひぇあしゃっけぇ!」 「これ、落ち着かぬか。おぬしが糸丸を育てる手助けさえしてくれれば、鬼蜘蛛の姫もおぬしを喰いはせぬ」 叢雲はヒゲを伸ばしてチヨを抱え込むと、向き直らせた。チヨはヒゲに縋り、震える。 「やんだよう! こげなおっかねぇのと一緒にはおれんよう!」 「我は恐れぬのか」 叢雲が鼻面をチヨに近寄せると、チヨはうねうねと動くヒゲを掴み、ちょっと考えた後に答えた。 「水神様は、なんかおっかねくねぇ。でも……鬼蜘蛛の姫様はおっかねぇんだよう」 「ならば、糸丸も恐れるのかえ」 八重姫が不愉快さを示しつつ、糸丸を抱き寄せると、チヨはヒゲを握り締めながら目を彷徨わせた。 「御殿様の御子なら御無礼のないように扱わんとならねぇし、赤子はおっかねくねぇけど、鬼蜘蛛の姫様だけは どうにもおっかねくてならんすけん。だから、御子だけを置いとってくれたら、子守でもなんでも出来るけんど」 「それはならぬ。糸丸はわらわの子ぞ。片時も離れぬ」 八重姫が眉間を顰めると、チヨはびくっと肩を震わせたが、糸丸の泣き声の弱さに気付いた。 「その子、弱っとる。早うお乳をやらんと、飢え死にしてしまういや」 「飢えるのかえ」 「当ったり前だいや! そったらことも知らんで攫ってきたんけ! 鬼蜘蛛の姫様はそれでもおなごかいや!」 八重姫の他人事のような態度に苛立ったのか、チヨは叢雲のヒゲから手を離さずに八重姫に近付いた。 「ええからおらに寄越せって! 死なせとうねぇんなら!」 「わらわを誰と思うておるのかえ」 「おっかねぇ蜘蛛の化け物だ! でもな、腹空かしてぎゃんぎゃん泣いとる赤子を放っておけるわけなかろって!」 チヨは八重姫の前に立ちはだかると、さあ寄越し、と手を伸ばした。八重姫は少し迷ったが、確かに糸丸の泣き声が 弱くなっているような気がする。糸丸が何かを求めているようだ、とは思っていたが、何を与えればいいのかすら 全く知らなかったので何も与えずにいたのだ。チヨの眼差しは真剣で、怒りすら籠もっている。八重姫はその態度に 些か腹立ちもしたが、背に腹は代えられぬと糸丸を差し出した。チヨは糸丸を受け取ると、自分が着ていた白衣を 脱いで折り畳んで地面に敷いてやり、その上に糸丸を横たえてからおくるみを剥がした。 「あーあーあー……。可哀想になぁ」 チヨは糸丸の下半身を上げさせ、おしめから溢れておくるみの中に零れるほど溜まった糞尿を、白衣の端で器用に 拭い去った。汗まみれで汚れた体も氷から熔けた水で清めてやってから、チヨは素肌に赤子を抱いた。 「代わりのおしめはねぇの?」 「はて」 八重姫が訝ると、叢雲も戸惑った。 「そのようなものは、どこにも」 「そんなら、城下まで買いに行かにゃならんすけん。おらも裸のままじゃいかんし。着物とお足をおくれ」 チヨが手を差し出すと、八重姫は面食らった。 「なんと……!?」 「なんもねぇんじゃ育つものも育たんって! ほれ、おくれ! 飴湯もこさえんとならんし!」 「分を弁えぬか。たかが人間の小娘が、わらわに命じるなどと許されるわけが」 「弁えてねぇのはどっちだいや! 赤んぼは鬼蜘蛛の姫様の玩具じゃねえ! れっきとした生き物だがんに!」 チヨが語気を強めると、八重姫は少々迷ったが、今着ている着物を脱いでチヨに投げた。 「仕方ない。だが、決して汚すでないぞ」 「お足は? お銭がねぇと、なんも買えんすけん」 八重姫の派手な着物を羽織り、一応の体面を整えたチヨが再度要求すると、叢雲が後退した。 「し……しばし待たれよ」 川の流れに沿って巨体を下げた叢雲は、次第に遠のき、頭が見えなくなった。それから半時程が過ぎた頃、流れを 遡るように這い上がってきた龍は、小屋一つなら一息に噛み砕けそうほど大きな顎の間に賽銭箱を挟んでいた。 再び氷室に入ってきた叢雲は、がしゃがしゃと鎧兜の如く鳴る賽銭箱をチヨの前に転がした。 「これで良いか。我を奉る神社の賽銭ではあるが、使うことを我が許す。故に、罰は当たらぬ」 「そんなら、いくらか拝借させてもらういや」 チヨは這い蹲ると、横倒しになった賽銭箱から零れた銭を拾い集め始めた。 「これが飴湯の御代で、これが飴湯を入れる椀の御代で、これが湯を沸かす鍋の御代で、これがおくるみとおしめの 御代で、これが御布団の御代で、これがおらの着物の御代で、あとはまあこの辺で、と」 永楽通宝を必要分だけ掻き集めたチヨは、周囲を見回して細いツタを見つけると、それに通して輪に結んだ。 「ほんなら、城下町に行かにゃならん。けんど、ここがどこだかさっぱり解らね。案内してくれねっか」 「おぬしは本当に……もう……」 チヨの強引さに叢雲が辟易すると、チヨは眉を吊り上げた。 「水神様も鬼蜘蛛の姫様もなんにもせんから、おらがしようとしとるだけやないけ! 文句付けるんじゃねぇ!」 と、啖呵を切ってから、チヨは慌てて取り繕った。 「水神様を悪く言ったわけじゃねすけん、罰は当てんでくんねっか?」 「安心せい。それはせぬ。だが、我は人里へは繋がっておるが、下りられはせぬ。鬼蜘蛛の姫も昨日の今日で城下に 出向くわけにはゆくまい。藩主殿が何もしておらぬとは限らぬ故」 はてどうする、と叢雲が思案していると、八重姫は雨が上がり始めた空を仰ぎ見た。 「わらわに任されよ」 牙の並ぶ口を開いて細い糸を吐き出した八重姫は、それを風に乗せた。しばらくすると、八重山と叢雲山の境目 辺りでぎゃあっと鳥の濁った悲鳴が上がった。同時に、糸がくっと引きつった。八重姫はすかさず糸を巻き取ると、 黒い物体が氷室の前に降ってきた。それは鴉天狗の九郎丸であった。強かに地面に打ち据えられた体を起こし、 頭を撫でさすりながら振り返った九郎丸は、八重姫と叢雲と見ず知らずの人間の娘を見てきょとんとした。 「なんだいこりゃあ」 「九郎丸や。そなたに、この娘の案内を申し遣わすぞえ。城下町に連れて参れ」 八重姫がチヨを示すと、叢雲は瞼を細めた。 「我からも頼み申す」 「なんで俺がそんなことを」 九郎丸が渋ると、八重姫は指に絡めている糸を引いた。すると、九郎丸の首が絞まった。 「クケェエッ!?」 「口答えするでないわ。もう一言でも文句を漏らしてみよ、そなたの首は宙を舞うであろうぞ」 八重姫が糸を更に引こうとすると、九郎丸は慌てふためいた。 「まあ待て、待たれい! 相分かった、その娘を城下町でもどこへでも連れていってしんぜよう!」 「解れば良い。ならば早う参れ、鴉天狗よ。あまり手間を掛けると、本当に赤子が死んでしまうやもしれぬからな」 叢雲が急かすと、九郎丸は糸が少しだけ緩んだ首を押さえ、叢雲を睨んだ。 「このようなことになると知っておったら、鬼蜘蛛の姫をそそのかしはしなかったがな」 「これは鴉天狗なんけ? 昔語りに出てくる大天狗はおっかねぇけど、鴉どんはおっかねくねぇな」 チヨがけたけたと笑ったので、九郎丸は妖怪の自尊心がいくらか傷んだが、仕方なしに羽根を広げた。 「人に化けて参れよ。無用な騒ぎは起こすでない」 チヨを脇に抱えて飛び出そうとした九郎丸に叢雲が忠告すると、九郎丸は言い返した。 「解っておるわい!」 黒い翼を大きく広げて羽ばたいた九郎丸は、鉛色の空に吸い込まれていった。予想以上の高さに参ってしまった チヨが絞め殺されそうな悲鳴を甲高く上げていたが、尾を引くように遠のき、そのうち聞こえなくなった。まるで嵐の ようだった、と叢雲はいくらか安堵して、ヒゲを垂らした。チヨに着物を貸したために肌襦袢を着ただけの体で直接 糸丸を抱くことになった八重姫は、おくるみもなければおしめもない赤子の頼りなさに気圧された。人間とは脆弱な 生き物だと常日頃から感じてはいるが、ここまで弱々しい生き物はそういない。薄皮一枚の下にはぷよぷよとした肉が あり、血がはち切れそうなほど詰まっている。一囓りすれば、いや、爪先でちょいと刺せば破裂するのではないかと 危惧してしまう。チヨの手付きを思い出して後頭部に手を添えると、糸丸は紅葉のような手を広げ、八重姫の乳房を まさぐってきた。八重姫は反射的に糸丸を遠ざけようとしたが、思い直し、片肌を脱いでやった。 糸丸は八重姫の何も出ない乳を口に含むと、ようやく泣き止んだ。単純に口が塞がったからなのだろうが、母親と して認められたような気持ちになってきた。産毛がうっすらと生えた頭を、冷たい手でそろりと撫でる。 「そなたはわらわの子ぞ」 そう言うたびに、本当に自分自身が腹を痛めて生んだかのような気になってくる。これまでに小蜘蛛を産んだこと すらなかったが、産まなくて良かったとつくづく思った。そうでなければ、糸丸に乳を吸われる喜びはここまで強く感じ 取れなかっただろう。久勝の奥方を殺したのは間違いではなかった。大きく裂けた口を綻ばせて牙を覗かせ、母親 らしい慈愛に満ちた笑みとは程遠い凶相を浮かべながら、八重姫は糸丸をゆらりゆらりと揺らした。 時折、九郎丸の首に結わえた糸を引いてやりながら。 11 7/13 |