鬼蜘蛛姫




第四話 過ぎ去りし綻び



 ぐい呑みから溢れるほど、酒が注がれた。
 それを顔に寄せると、覚えのある酒精がつんと鼻に抜ける。面頬を付けたことでようやく顔らしい形になった顔に 親指をねじ込んで口の位置に横長の穴を開けると、強引に開き、酒を流し込んだ。甘い麹の香りを含んだ心地良い 熱が干涸らびた喉を通り、胃袋の中に収まる。じわりと広がった快感は骨の隅々に行き渡り、思わず声を漏らして しまうほど素晴らしかった。蜂狩貞元が無造作に空っぽのぐい呑みを突き出すと、すかさず白玉が酌をする。

「はあい、お前様ぁん」

 御機嫌な白玉は徳利を傾け、ぐい呑みを酒で満たした。貞元は、再び酒を呷る。

「うむ」

「これ、妖狐。その酒の元手は拙僧の金だ、こちらにも寄越さぬか」

「何さ、酒を買いに行ったのはあたしじゃねぇかい」

「だが、金を出したのは拙僧だ」

 少々不満げな態度を示したのは、二人の真向かいで胡座を掻いている巨躯の僧侶だった。一つ目入道の丹厳で ある。白玉はあからさまにむっとしたが、貞元に促され、渋々酌をした。だが、かなりぞんざいだったので丹厳の手 にあるぐい呑みからはぼたぼたと零れて枯れ葉に吸い取られた。丹厳は牙が覗く口を尖らせ、酒を啜る。

「仮にも坊主だろうに、酒なんか飲むんじゃありやせんぜ。生臭ぇったらありゃしねぇ」

 白玉は徳利に栓をして抱えてから、貞元にしなだれかかった。白地に芍薬の着物の襟元がはだけていて、白い 胸の間には再び魂と肝を納め、白玉は本来の肉体を取り戻していた。なので、これまでと同じく遊女の格好に化けて いるが、魂と肝のみで化けたことが応えているのか、耳と尻尾は出しっぱなしになっていた。ふさふさとした二股の 尻尾はしきりに揺れ、目元に紅を差した眼は丹厳を疎ましそうに睨んでいる。

「して、丹厳とやら」

 貞元は二杯目の酒を啜り、味わいながら、面頬の奥から目を上げた。だが、その眼差しは眼球から注がれている ものではなく、面頬に縁取られた目元の底に宿る禍々しい光によるものだった。日も高いはずではあるが、貞元の 回りだけは光すらも歪むほどの邪気が渦巻き、彼の血肉である亡霊が絶え間なく漂っている。蜘蛛妖怪が張った糸 に囲まれているはずなのに、貞元も白玉も不自由を感じてはいないようだった。それどころか、不自由なりの自由と いうべきものを味わい尽くしている。淡い炎の尾を引く人魂をぐい呑みで受けた貞元は、すかさず人魂を啜る。

「儂にいかなる用向きだ」

「貞元様の首と兜と面頬を取り返してくれたことだけは礼を言いやすが、それだけでさぁ」

 白玉は耳と尻尾を立て、警戒心を剥き出しにする。貞元は白玉の毛並みに指を通しつつ、丹厳を見据える。

「そなたは生粋の妖怪であろう。見たところ、随分と時を長らえているようだが、そんな輩は儂のような若輩者に頼る までもなかろうに。そなたらの尺度で申せば、一年前に怨霊と化した儂など赤子も同然ではないか。儂を利用する 腹積もりであろうが、その目的如何によっては考えぬでもないぞ」

「そこまで解っておるなら、なぜ拙僧を酒の席に招いた」

 丹厳が問い返すと、貞元は人魂が溶け切った酒を口に含む。

「決まり切ったこと。儂もそなたを利用したいからだ」

「ははははは、道理だ」

 丹厳は上体を反らして哄笑した後、空になったぐい呑みを白玉に向けた。

「妖狐、もう一つ頼めぬか」

「嫌だよぉ。あたしは貞元様にしかお酌しねぇんでさぁ」

 白玉が紅を差した唇を尖らせて拗ねると、貞元が白玉の尖った耳を撫で付けた。

「ならば、儂から頼もうではないか。これ、白玉や」

「お前様がそう仰るってんなら、仕方ねぇでやすけど」

 ざらついた手で耳を撫で付けられる感覚に身震いした白玉は、徳利の栓を抜いて丹厳のぐい呑みに差し出すと、 溢れる一歩手前まで注いだ。丹厳はぐい呑みに手を添えてありがたそうに受け取って、口を付けた。酒精混じりの 熱いため息を吐いた丹厳は、少々胡座を崩してから背を丸め、二人にぐいと顔を近寄せた。

「では、お話しいたそうか」

 耳元まで裂けた口元を綻ばせ、獣じみた牙を覗かせる。

「実はだな、拙僧は百年前にこの地に住まう娘に心を奪われた。その娘を拙僧のものにしようと策を講じたのだが、 今一つ上手く事が運ばなくてな。今度こそ手に入れるべく、再びこの地に足を踏み入れたが、その娘は水神どのの 懐に入ってしまった。相手が土地神とあらば、拙僧如きでは手を出せぬ」

「だからって、貞元様に頼るんじゃねぇや。惚れた女のことぐれぇ、自力でなんとかしなせぇな」

 白玉が毒突くと、貞元は白玉を制した。

「それも道理やもしれぬが、少し落ち着け。して、おぬしは儂に何を求める」

「うむ」

 丹厳はぐい呑みを呷って酒を飲み干してから、菅笠に隠れた一つ目を見開いた。

「儂の見立てによると、その水神どのは貞元どのの御命を奪った蜘蛛妖怪と通じているようなのだ」

「ほう?」

 やや興味を示した貞元に、丹厳は畳み掛ける。

「儂は無縁寺の坊主という名目で人界に紛れているが、暮らし向きは呆れるほど退屈でな。寺と墓場の掃除の合間 に外に出ては、水神どのの隙がないかと探っていたのだが、時折空を舞う鴉天狗を見つけたのだ。そやつは人の 姿に化けることもあれば、ただの鴉に化けていることもあるが、鴉天狗以外の何物でもない。土地に根付いた妖怪 であるのならば水神どのとも繋がりがあるはずだ、と踏み、鴉天狗の戻っていった山に向かったのだが、水神どの の縄張りである叢雲山には一歩も入れぬ始末。仕方なしに隣り合った八重山を訪れてみたのだが、こちらもこちら で蜘蛛の糸だらけで、ろくろく進めんかった。だが、ここまで来て見失うのは勘弁と滅多に使わぬ妖術を用いて背を 伸ばし、辺りを見越してみた。すると、鴉天狗がぎゃあぎゃあと騒いで何やら愚痴を零しておる。相手はなんと水神 どのであり、鴉天狗の愚痴の中身は鬼蜘蛛の姫とやらがいかに横暴か、というものだった」

「とどのつまり、その鬼蜘蛛の姫とやらが儂と白玉に牙を剥いたのだな?」

 貞元は抑揚こそ平坦ではあったが、込み上がった怒りでみしりとぐい呑みを軋ませた。

「いかにも。拙僧が知るところに依れば、荒井久勝が貞元どのの首を奪ってから一年も経った後に首塚を立てると 言い出したのは、その鬼蜘蛛の姫による呪いが下々に知れるのを恐れたためとか。城から城下に広まった、御家 存亡の危機の噂は不確かであるからな。貞元どのが死人であることをいいことに、鬼蜘蛛の姫が成した罪を被せた のだ。更に申せば、荒井久勝の嫡男を奪い去っていったのも貞元どのだ、と言い張っておるとかなんとか」

 丹厳の言葉に、白玉は毛を逆立てる。

「なんでぇそりゃあ!? 貞元様を馬鹿にするにも程度がありゃあせんかい!」

「それらは全て、鬼蜘蛛の姫の所業か?」

 ヒビの走ったぐい呑みを握り潰した貞元は、荒く息を吐いた。丹厳は薄く笑ってから、頷く。

「いかにも」

「奴らは憎み合っておるのか、通じ合っておるのか……。いずれにせよ、どちらも屠らねばなるまい」

 怒りと屈辱に声色を震わせながらも、貞元は必死に平静を保っていた。白玉は彼を案じ、縋る。

「お前様、お気を確かに」

「一息には殺さぬぞ、荒井久勝。楽しみが失せるではないか」

 貞元は腕にしがみついている白玉の顎をなぞり、ふっくらとした唇に指を添える。

「はい、お前様」

 とろりと目を細めた白玉が同意すると、貞元は白玉を愛でてやりつつ、丹厳に向いた。

「生臭坊主。そなたは、水神に囚われた娘さえ手に入れられればそれでいいのだな?」

「最初から、そう申しておるではないか」

 丹厳が口の端を引きつらせると、貞元は言った。

「ならば、そのように手筈を整えようではないか。少々気の長い計り事となるが、良いか」

「構わぬ」

 丹厳が了承すると、貞元は白玉に命じた。

「白玉や。そなたも良いか」

「お前様のためでやしたら、どんなことでも」

 白玉が尻尾を振って貞元に擦り寄ると、貞元は二人に今後の身の振り方を伝えた。自分に割り当てられた役目 を知らされた白玉は戸惑ったが、貞元に説き伏せられると素直に受け入れた。丹厳にもまた、役目が与えられたが、 それほど面倒な役どころではなかった。三人が膝を突き合わせながら、計り事の摺り合わせをしていると、樹上に 黒い影が過ぎった。鴉である。白玉は腰を浮かせて身構えかけたが、貞元は彼女を制して命じた。何もするな、と。 白玉は不満げだったが、貞元から酒を勧められると喜んで飲み干した。
 いくらか饒舌になった貞元とへべれけになった白玉に、また酒を持ってくる、と言い残してから丹厳は腰を上げて 蜘蛛の巣が張り巡らされた一角を後にした。空っぽの徳利をぶら下げながら、八重山の山中を歩いていく。辺りに 鬼蜘蛛の姫が成した罠が至るところに据えられていたが、魂と肝のみで若い娘に化けていた白玉が罠の抜け道を 見つけ出してくれており、獣の匂いという道標が染み付いていた。そのおかげで、丹厳は行きも帰りも鬼蜘蛛の姫 には感知されずに済んでいた。小柄な妖狐が通る分には充分な広さでも、巨躯の一つ目入道が通るには狭い場所が いくつもあったが、そこは妖怪なのである程度融通が利いた。
 どうにかこうにか鬼蜘蛛の姫が張った罠を擦り抜け、八重山を無事に下りた丹厳は、菅笠で顔を覆い隠して顔形 を人間らしいものに変えてから歩き出した。丹厳の後を追ってきたのか、先程と同じ鴉が上空で輪を描いていたが、 見なかったことにして足を進めた。敵の手の内を知り尽くしていないのだから、下手に接触しない方が良い。
 八重山の麓の集落に入った丹厳は、僧侶らしく農民達と挨拶を交わしながらあの橋に向かった。遠き昔に惚れた 娘を人柱として埋めさせるために人間共に造らせた、叢雲川を横切る細長い橋だ。娘にはまだ会えそうにないが、 袂にある彼女を奉った塚に念仏を上げていこうと歩調を早めると、その橋に立派な馬に跨った侍が通り掛かった。 丹厳は道を譲るべく身を引くと、侍は手綱を引いて馬を制してから丹厳を見下ろしてきた。

「これはこれは、丹厳ではないか」

「赤城様ではありませぬか。如何なさいましたかな」

 丹厳は菅笠を外し、馬上の赤城鷹之進を見上げた。鷹之進は空いている手で、八重山を示す。

「いや何、遠乗りに来たついでに敵情視察にでも参ろうかと思ってな」

「いかに赤城様であろうと、それはお勧め出来ませぬ。鬼蜘蛛の姫に見つかれば最後、屠られかねませぬ」

 丹厳が首を横に振ると、鷹之進は渋った。

「しかしだな」

「どうしてもと仰るのでございましたら、隣の叢雲山から参るのはいかがでしょう。八重山と比べて山道もなだらかで ござりますし、敵情視察というのであれば、地形や道順が見て取れるそちらの方がよろしゅうございましょう」

「ふむ。一理ある」

 鷹之進は納得したらしく、馬の鼻先を八重山から叢雲山へと変えた。

「ならば、そなたも申す通りに叢雲山を目指してみるとしよう。さらばだ!」

 猛々しく馬を走らせた鷹之進は、叢雲山に通じる道を辿っていった。丹厳は深々と頭を下げていたが、蹄の音が 遠のいていくと顔を上げた。思っていたよりも早く、事が運んでくれそうだ。鷹之進が走らせている馬の匂いを白玉が 嗅ぎ付けるだろう。そうすれば貞元が命じ、白玉を動かしてくれるはずだ。どちらかといえば常世に踏み入らせるのは 早川政充の方が適役だと思っていたが、赤城鷹之進でも特に支障はないだろう。
 農民達の興味が馬上の侍から外れ、再び田畑に戻った頃、丹厳は橋の袂に下りた。農業用水でもある川の水を 徳利に汲んでから、人柱となった娘の真上に立てられた小さな塚に掛けて濡らした。底に残っていた少しばかりの 酒精が立ち上り、鼻先をくすぐると、薄れかけていた酔いが戻ってきた。
 あの娘に酔いしれる時が待ち遠しい。





 


11 8/10