鬼蜘蛛姫




第八話 織り成された姦計



 雨脚は強まるばかりであった。
 大粒の雫が矢のように降り注ぎ、ありとあらゆるものを殴打する。春にしては異様に冷たく、足元から這い上がる 冷気は真冬の厳しさを思い起こさせるほどだった。激しすぎる雨が弾け飛んでいるため、霧が立ち込めたかのよう に視界が白んでいる。逃げ惑う農民達の悲鳴は雷鳴混じりの雨音に掻き消され、大名行列を成していた人間共の ざわめきがかすかに耳に届いてきた。誰か赤城を討ち取れ、それは無理だ、赤城に太刀打ち出来るほどの腕前は 早川しか持ち合わせてはおらぬが肝心要の早川がおらぬのだ、と弱気な言葉ばかりが行き交った。
 赤城鷹之進は、最早正気を失っていた。雨に打たれても尚感じ取れる妖狐の匂いは強烈で、鷹之進の目は左右 に揺れている。足元も酩酊したかのようにふらついているが、並々ならぬ殺気だけは衰えていなかった。小刻みに 震える唇から何度となく零れるのは、玉、という女の名ばかりだった。鷹之進によって叩き割られた御神体は四つに 砕け散り、無惨な姿を晒している。大人の腕で一抱えもあるであろう見事な大きさの翡翠の原石は割られた面から 透き通った青緑を垣間見せていたが、そこからは猛烈な怨念が迸っていた。八重姫でさえも思わず顔を歪めるほど のものであり、豪雨にもそれが含まれていた。叢雲は長らく清く正しい神であったが、それ故、人間に裏切られた際 の怒りは尋常ではないのだろう。八重姫は糸丸を抱きかかえたチヨを横目に見つつ、出るか引くか考えた。
 すると、石段の一箇所で雨が途切れた。御駕籠の傍に朱色の傘が広げられ、その下には紋付き袴を纏った男が 臆することなく立っていた。久勝は具足櫃の担ぎ手に命じて櫃を開かせ、そこから一振りの太刀を取り出させた。

「殿、それだけはなりませぬ。赤城は我らで取り押さえます故」

 八重姫は樹上にするすると昇り、石段を見下ろすと、久勝に跪いた担ぎ手が太刀を渡そうとしていたが別の侍が それを諌めていた。久勝は荒井家の家紋が染め抜かれた羽織を脱ぎ捨てると、その侍を一瞥した。

「先程、そなた達は鷹之進に太刀打ち出来るのは政充だけだと申したな」

「……は」

 歯痒げに俯いた侍に、久勝は家紋入りの太刀を携えて歩みを進めた。

「ならば、儂の方が剣術の腕は上であろう。儂は政充を打ち負かしておるからな」

「お待ちを、お一人では危のうございます故!」

 数人の侍が石段を登っていく久勝に続いたが、傘の下を行く久勝は手を翳し、部下達を制した。

「これ以上、犠牲を増やしとうない。それでなくとも、儂の回りでは人が死にすぎておるのだ」

 久勝のいつになく強い言葉に、侍達は二の足を踏んだ。久勝は傘持ちを促すと、再び石段を登り始めた。空色の 重たさも相まり、久勝の表情は恐ろしく厳しかった。だが、その面差しを注視している八重姫は肝が絹糸で縛られる かのような気持ちに襲われて頬を染めた。糸丸を攫おうとした八重姫に刃を向けた時も男らしいと思ったが、今の 形相は正しく武士に相応しい。あの日以来、剣術の鍛錬を欠かしていないのであれば、きっと腕も上がっていること であろう。万が一にも鷹之進が久勝を傷付けようとするならば、その時は八重姫が糸をついと垂らしてやればいい だけのことである。胸の高鳴りを押さえきれぬまま、八重姫は神社の本殿に向いた。
 頭をかち割られた神主と首を跳ね飛ばされた侍に痛ましげな目を向けた久勝は、本殿に辿り着くと、傘持ちを 早々に下がらせた。途端に久勝の頭上にも豪雨が襲い掛かり、着物の形から襟から何から何まで濡れた。久勝に 気付いた鷹之進は槍を下ろし、一瞬我に返ったようだが、すぐにまたへらりと笑った。

「これはこれは殿ではござりませぬか! ご覧下さい、この赤城鷹之進、穢れた水神を見事討ち取りまして候!」

「儂はそのようなことを命じた覚えはないが」

「命じられるまでもないことでござりまする、万人が万人、この邪神は亡ぶべきと申すでしょうぞ」

「ならば、この社の主とそなたと志を同じくする者もまた、罪深いというのか」

「殿は何を仰っておるのでござりまするか。では、殿もまた、この邪神を崇め奉るのだと?」

 鷹之進の濁った眼差しが定まり、口元が引きつった。久勝は腰を落とし、かちり、と太刀の鍔を上げる。

「ああ、そうだとも。土地に根付いた水神は、長らく我らが本条藩を支えておったのだ。藩主である儂が水神を慕う のは、至極当然のことよ。鷹之進、そなたは何を思い違いしたのかは与り知らぬが、境内で殺生を行い、挙げ句の 果てにその御神体を叩き割るなど言語道断。その命を持って、罪を償え」

「お止め下さいませ、殿。俺は殿とは刃を交えとうございませぬ」

 と、口では言いつつも、鷹之進は気味悪くにやつきながら槍を投げ捨て、帯びていた太刀に手を掛けた。

「加減はせぬぞ、鷹之進」

 久勝は一息に太刀を引き抜くと、真正面に構えた。鷹之進もまた太刀を抜き、構える。降り止まぬ雨に包まれた 両者はしばらく向き合っていたが、鷹之進の荒い呼気が止まった瞬間に久勝は踏み込んだ。鷹之進は真っ直ぐに 刀を振り下ろすが、甲高い金属音と共に火花が散った。鷹之進の懐の一歩手前で踏み止まった久勝は、下方から 鷹之進の刀を受け止めていた。ぐ、と鷹之進が低く唸る。久勝は眉一つ動かさずに、濡れた石畳で滑りがちな足を 不用意に動かさぬように据えると腕を捻った。鷹之進の刀が空を切り、鋭く石畳を叩く。その、直後。

「勝負、有ったな」

 刀を振り抜いた久勝は、鷹之進の背後に躍り出ていた。その刀身には雨とは異なった色味の水気が絡み付き、 柄と鍔に赤黒い染みを作っていた。鷹之進はぐらつきながらも数歩進んだが、崩れ落ちた。滑らかに切り裂かれた 首筋から流れ出した鮮血が当世具足の左半分を汚し、握り締めていた刀も緩んだ手中から外れた。何度か掠れた 吐息と共に言葉らしきものを吐き出したが、程なくして鷹之進は息絶えた。それを察した侍達が石段を駆け上がり、 殿、殿、と久勝の無事を確かめにやってきた。彼らが境内へと至る前に、久勝は懐に手を差し込んでから鷹之進の 死体に近付くと、懐から出したものを鷹之進の血濡れた襟元にねじ込んだ。

「見よ」

 刀を収めた久勝は返り血を浴びた背を向けつつ、鷹之進の襟元を示した。

「これは蜘蛛ではありませぬか! ならば、赤城の乱心は!」

 侍の一人が声高に叫ぶと、他の侍が慌てて取り押さえた。

「押さえぬか、まだ村の者共がおるのかもしれぬのだぞ」

「全く、惜しい男を亡くしたものだ。だが、謀反には違いない。鷹之進に斬られた者達は丁重に葬り、鷹之進は首を 刎ねよ。これまで通り、奴が鬼蜘蛛の姫に操られていたことは民には伏せよ。良いな」

 久勝の淀みない命令に、侍達は従った。その様を見下ろしていた八重姫は、久勝の藩主らしさにまたも肝が鋭く 締め付けられる思いがしたが、今度は切なさも混じっていた。八重姫は鷹之進になど目もくれたことがないという のに、その乱心の原因にされてしまった。だが、ここで境内に飛び降りて久勝に弁解したところで意味はないだろうし、 そんなことをしては久勝の活躍が台無しになってしまうので弁解することを諦めた。
 ふと、八重姫は異変を察した。すぐさま糸丸を抱いたチヨが隠れている枝に戻り、八重姫は二人を抱えて枝から 枝に飛び移った。久勝と鷹之進の斬り合いを目の当たりにして青ざめていたチヨが黙り込んでいたのは、全く持って 都合が良かった。境内から離れた杉の樹上に至った八重姫は、神社の背後である叢雲山の斜面を仰ぎ見た。チヨ もまたそれに気付いたのか、糸丸を抱く腕に力を込めた。激しい雨音に混じって、木の根が千切れる不気味な音が 聞こえてきていた。ごろごろと唸る雷鳴に重なり、腹の底から響く山鳴りも起きている。樹上から見下ろせる集落に 沿って流れている叢雲川は、この豪雨にも関わらず川底が見えてしまうほど水位が下がっていた。遠からず地滑り が起きると見て間違いない。八重姫が険しい眼差しで叢雲山を注視していると、袖が引かれた。

「八重姫様……」

 八重姫の袖を掴んだチヨは雨とも涙とも付かぬもので顔を汚し、しゃくり上げていた。

「あの御侍様は、おらが山ん中でお会いした御侍様だいや。御侍様は八重姫様でねくって、水神様を狙っとったん だいや。おら、そったらこととは知らんで……。水神様が御可哀想だ、あんなことになったのはおらのせいだ、何も かもおらが悪いんだいや。もっとしっかりしとったら、こんなことにならんで済んだがんに」

「泣くのは後回しにせぬか。叢雲を鎮めるのが先決であろうぞ」

 八重姫が冷たく言い放つと、チヨはぐっと奥歯を噛み締めてから、頷いた。

「んだ」

 このまま行けば、叢雲山の地滑りは久勝に襲い掛かる。いかに馬を使おうとも、神社の境内にいる久勝が地滑り から逃げ切るのは難しいであろう。大名行列の者達も急いで引き上げており、土地に慣れている農民達が逃げ道を 案内してくれているが、八重姫の見た限りでは地滑りは集落もろとも飲み込む大きさだ。田畑だけでなく、高台に まで及ぶであろう。となれば、久勝が逃げ出した先に土砂が襲い掛からない保証はない。糸を張ってみたところで、 地滑りまでは到底押さえきれない。それどころか、叢雲の怨念に引き摺られかねない。故に、地滑りから久勝を救う 手立ては叢雲を鎮めてやる他はなさそうだ。だが、どうやって。
 石段を下りて農道に至った大名行列の一団が、急に立ち止まった。八重姫が目を向けると、チヨもそちらに目を 向けた。途端にチヨは右目を見開き、がくがくと震え出した。豪雨の中、笠を被って蓑を羽織っている一人の僧侶が 立ち尽くしていたからだ。薄汚れた袈裟に色味の抜けた法衣には泥水が跳ね返って茶色の水玉を作り、蓑は雫が 垂れ落ちていた。その僧侶は菅笠を少し上げ、左目を布で覆った顔を覗かせた。

「どこに急がれるのですかな、久勝様」

「何奴か!?」

 刀を手に、若い侍が僧侶の前に立ちはだかる。久勝はそれを退かせてから、僧侶を向き直る。

「丹厳どのではないか。そなたこそ、いかがなされた。ここも危ない、早く逃げなされ」

「久勝様は早急に城にお戻り下され。大事な御身に何かあっては困りまする。ですが、拙僧は逃げたりはしませぬ。 法力などは持ち合わせておりませぬが、荒れ狂う神を鎮めるために経の一つでも上げられましょうぞ」

「見上げた心意気であるぞ」 

 だが、危険を感じたらすぐに退け、と久勝は念を押してから、御駕籠に戻った。御駕籠の担ぎ手達が立ち上がると 同時に大名行列も動き出し、ここへお越し下され、と農民達が集まっている高台へと向かっていった。僧侶、丹厳は 大名行列に深々と礼をしていたが、顔を上げた。指先で菅笠を押し上げた時、その顔は片目を覆った人間の男のもの から一つ目入道に変わっていた。それを目にしたチヨの震えは増す一方で、八重姫に縋り付く始末だった。

「ああ嫌だ嫌だ嫌だぁっ……」

「これ」

 八重姫はチヨを引き剥がそうとするが、チヨは八重姫の着物が千切れかねないほど強く握り締めていた。

「あ、あいつだ、あいつがおらをこんな目に遭わしたんだぁ……。おらの左目、喰ったんだぁ……」

「それがどうかしたのかえ。目玉の一つや二つ、どうということもあるまい」

 八重姫はチヨを振り払おうとしたが、暗雲を貫く稲光の閃光を浴びた途端に頭の中に他者の情念が駆け抜けた。 それは叢雲のものだった。百年前、人柱になるために毎日のように叢雲川に水垢離に来ていたチヨは心の底から 叢雲を信じていた。水神様ならきっと助けてくれる、救ってくれる、守ってくれる、傍にいてくれる、痛いことや辛いこと から遠ざけてくれる、と。何に対しての救いなのかはチヨは明言せず、叢雲もチヨの心中に深入りすることもせず、 人柱となった娘を受け入れた。だが、叢雲であれば救ってくれると頑なに信じ抜いた娘を橋の袂に埋めておくの は忍びなくなり、人柱にされてから程なくして掘り起こし、氷室で亡骸を凍り付かせた。それからずっと、叢雲はチヨの 祈った通りのことをした。地中から助け出し、死の淵から救い、川そのものとして哀れな娘の余生を見守り、肉親 の暖かみからは遠く及ばずとも傍に寄り添い、辛い身の上を紛らわすかのようにお喋りに興じるチヨに付き合った。 それは土地に根付いた水神として過ごしていた月日の中で最も騒がしく、忙しなく、落ち着きがなかったが、叢雲に してみれば刺激に満ち溢れた素晴らしいものだった。だから、これからもチヨを見守り続けようと密かに誓っていた が、妖怪の手で叢雲川に引き摺り込まれて殺された娘達の怨念が心身を濁してきた。いつしか、人々は叢雲川を 敬うどころか恐れるようになり、遠ざかりもした。挙げ句の果てに、御神体を打ち砕かれた。チヨと同じかそれ以上に 人々を信じていたのに、信じられていた分だけ信じ抜いていたのに。

「いやあ、愉快、愉快」

 一つ目入道もまた叢雲の情念を感じ取ったようだったが、けたけたと笑うばかりだった。

「そこにおわすのは、鬼蜘蛛の姫とお見受けする。そこの娘を寄越してはくれまいか」

「何故に」

 八重姫は叢雲の情念の凄まじさで頭痛を感じながらも訝ると、一つ目入道は菅笠を外し、放った。

「拙僧は、丹厳と申す一つ目入道である。そこの村娘と夫婦めおととなる契りを交わしたが生き別れ、祝言を挙げる日を今日 まで待ち侘びておったのだ。故に、出迎えに上がった次第」

「そうなのかえ」

 八重姫が背中にしがみつくチヨに問うと、チヨは右目をきつく閉ざして首を横に振った。

「そうではないと申しておるぞえ」

「はて。チヨや、そなたは拙僧しか見えぬはずぞ」

 丹厳が威圧的に錫杖を鳴らすと、チヨの細い肩が跳ねる。

「拙僧からしか幸福は得られぬと、その口で申したはず」

 池の如く溜まった雨水を踏み締め、丹厳は八重姫らが身を隠している杉の木に近付いてくる。

「嘘であったとでも、申すのかね?」

 一際激しい雷鳴が弾け、青白い閃光が鉛色の情景を白ませた。チヨは八重姫の背中に顔を埋めると、ぐっと唇を 噛み締めて嗚咽を殺していた。恐ろしさのあまりに口も利けなくなっただろう、喉は引きつったが声が出ていない。 余程丹厳が嫌いなのだろう、極力目を逸らしている。それどころか、元々していない息まで詰めている。

「答えぬのか。ならば、答えさせてやろうぞ」

 丹厳は錫杖を水溜まりに叩き付け、じゃりぃっ、と鳴らした。妖力を用いたのだろう、水溜まりには砕けた御神体 の翡翠が現れた。雨粒の波紋と錫杖が起こした波を受け、翡翠の原石は見る間に泥まみれになった。チヨは右目を 薄く開き、怖々と丹厳の様子を窺った途端に目を見張った。枝から落ちかねないほど身を乗り出し、叫ぶ。

「止めてくんねっか! 水神様は何も悪いことしとらん!」

「十二分に悪事を働いておるではないか! 拙僧と契りを交わしたそなたを奪い去ったではないか!」

 泥が絡んだ錫杖がひび割れに突き刺され、翡翠の割れ目が更に割れる。

「それを悪と言わず何と言う! さあ、拙僧の元に来るがいい! あの時と同じく、愉悦に浸ろうではないか!」

 翡翠が、砕ける、砕ける、砕ける。

「水神様ぁ……」

 チヨが涙ぐみながら暗雲に支配された空を仰ぐと、それに呼応するように雨脚は僅かに弱まった。

「その口で、他の男の名を呼ぶなぁっ!」

 ただそれだけのことで怒りに駆られた丹厳は錫杖を構え、投げた。雨と泥の飛沫を散らし、鈍い唸りを上げながら、 太い棒が迫ってくる。身動いで逃げることすらままならないチヨは、糸丸だけは守ろうと背を丸めた。だが、それだけ では錫杖は防ぎ切れまい。八重姫は手を振り、妖力で雨水を薙ぎ払うと共に糸を張った。辺り一帯の杉やら何やら に糸が張り付き、瞬く間に出来た巣に錫杖が絡め取られた。その様を見、丹厳は舌打ちする。

「鬼蜘蛛の姫、そなたもまた水神に与するというのか」

「そんなわけがなかろう」

 糸丸を守ろうとしたら、必然的にチヨも守ってしまっただけだ。八重姫が気怠く返すと、丹厳は一笑した。

「ならば、拙僧を邪魔立てするでない。その娘がどうなろうと、鬼蜘蛛の姫にはなんら関わりのないこと」

 それもそうかもしれない、と八重姫は思った。糸丸も随分と大きくなり、体も丈夫になってきた。チヨからは子育て に必要な家事のやり方を一通り教えてもらってあるし、火にしても適当な人間を掴まえてきて起こさせれば特に問題 はないではないか。ならば、糸丸にこれ以上の危険が及ぶ前に処分してしまった方がいい。八重姫は糸丸を抱いて 恐怖と戦っているチヨから糸丸を引き離すと、きょとんと目を丸めた娘と目が合う前にしなやかに腕を振るった。
 絶叫を撒き散らしながら、娘が嵐の中に没した。





 


11 9/9