鬼蜘蛛姫




第九話 結ばれた契り



 途方に暮れた叢雲は、夜も更けた頃合いに寝床を抜け出した。
 柔らかくはあるが暖かみのない娘の枕元から這い出すと、以前に比べれば格段に細く短い体を懸命にくねらせて 山道を辿った。神通力さえあれば、空を飛ぶことも出来ないこともなかったのだが。だが、ないものを乞うたところで 手に入るわけではない。女々しい未練を振り切りつつ、叢雲は夜露に濡れた落ち葉が積み重なった山中を無様に 這い蹲って進んだ。夜気を引き裂く獣の咆哮や鳥の叫声も聞こえてきたが、叢雲の気配が近付いた途端にそれら は大人しくなって道を譲ってくれた。そればかりか、木々がざわめいて地中に張った根を曲げ、叢雲が求める道筋 を開いてくれた。威厳などというものは綺麗に失ったものだとばかり思っていたが、神性は宿っているらしい。それを 知ると、少しだけ気持ちが楽になり、心なしか体も軽くなったような気がした。
 二つの山を繋いでいる峠を越え、荒れた獣道を通り過ぎ、再び張り巡らされるようになった糸の隙間を縫うように 進むと、目的地に到着した。それは八重姫と糸丸が住まう洞窟であった。洞窟の入り口には大木が覆い被さるよう に枝葉を広げており、入り口を巧妙に隠していた。大木の枝と地面を繋いでいる糸に気を付けながら、体の細さを 上手く利用して洞窟の捻り込む。夜気とは違った重みを含んだ地面に腹這いになり、進んでいくと、洞窟の奥にある 大岩に載せた小屋が見えてきた。糸丸は当の昔に寝入っているらしく、気配は落ち着いている。しかし、八重姫は 寝付いていないらしく、紡錘つむを回す音が聞こえてきていた。
 苦労して大岩を這い上がった叢雲が戸を叩くと、八重姫は思い切り嫌な顔をした。当然であろう、妖怪といえども 真夜中に尋ねられてはいい気はしない。だが、追い返すのも面倒だと思ったらしく、かなり渋々ではあったが小屋に 迎え入れてくれた。叢雲は障子戸の細い隙間からにゅるりと入り込むと、体を振るって砂を落とし、底冷えする床に とぐろを巻いた。巨大すぎる下半身を小さな住み処に押し込め、糸の固まりを解いて撚り合わせながら紡錘に巻き 付けている八重姫は、八つの目を開いて矮小な水神を威嚇した。

「その姿、わらわは好かぬえ。ウワバミのようではないかえ」

「ほう。そなたは蛇は好かぬのか」

 叢雲が首らしき部分を竦めると、八重姫は口から伸ばした糸を親指と人差し指で撚り合わせ、紡いでいく。

「あのような気味の悪いもの、好きなわけがあるかえ」

「そなたがそれを申すのか。して、糸丸は」

 八重姫の肩越しに、叢雲は目を凝らした。小屋の上に降り注ぐ僅かな月明かりを帯び、幼子はぽっちゃりとした腹 を上下させながら熟睡していた。ムシロを重ねた寝床は寝相の悪さで崩れかけていて、布を丸めた枕は涎を吸って べとべとになっている。掛布を蹴り飛ばしそうだったので、八重姫は一旦糸を紡ぐのを止め、足を一本伸ばして掛布 を掛け直してやった。だが、糸丸は寝言らしきものを漏らしながら寝返りを打ったので、掛け直した意味がなくなって しまった。八重姫は微笑み、もう一度掛け直してやってから、また糸を撚り合わせ始めた。

「わらわに用向きかえ」

 気怠げな八重姫に、叢雲は一度目を閉じてから開いた。

「うむ」

 叢雲は神としての立場と夫に相応しい立ち振る舞いの間で葛藤しつつ、チヨとの件を話した。だが、八重姫にして みればそれが面白いわけがなく、話の途中で幾度となく糸を撚った針を投げ付けられた。叢雲は寸でのところで針 を避け、なんとか最後まで話した。話し終えた頃になると、叢雲の背後の障子戸には糸の針が無数に突き刺さって おり、白い針による剣山が出来上がっていた。叢雲が言葉を収めると、八重姫は糸を撚り合わせるのを止めた。

「……わらわに何を答えよと申すのかえ」

 苛立ちと怒りが妖力を高ぶらせているのだろう、八重姫の長い髪が舞い上がり、不気味にうねった。

「我は女人の心というものを知らぬ。それ故、チヨと行き違ったのではないかと思った次第」

 腰に当たるであろう部分を引きつつ、叢雲が言うと、八重姫は耳元まで裂けた口を広げた。

「わらわがそれをそなたに教えたとしようぞ。しかし、それでそなたが女人の機微を理解したところで、喜ぶのはあの 愚かしい娘だけぞえ。そなたには別段恨みは持っておらぬが、夫婦と成り行く様をこれ見よがしに見せつけられて は腹の虫も収まらぬというものえ。ああ、妬ましい、妬ましい……」

「我にはそなたが妬みに駆られる理由が解らぬ故、妬まれても困惑するのみ」

 八重姫のおぞましい形相に若干気圧されたが叢雲が平静を装うと、八重姫は長い黒髪を操って叢雲の小さな体 に巻き付け、艶々とした細い髪の一本一本で締め上げてきた。その締め付けがウロコから肉に及ぶかと思われた 瞬間、八重姫は不意に黒髪を緩めて叢雲を床に落とした。長い髪も落ち着き、八重姫の肩にふわりと積もる。

「だが、そなたもあの娘も久勝とは通じてはおらぬ。それを今、思い出したぞえ」

「……ならば、良いのであるが」

 髪に締め付けられた後が残る体の表面を擦ってから、叢雲は今一度八重姫と向き直った。八重姫は乱れた黒髪 に軽く櫛を通して整えてから、再び紡錘の前に戻り、からからとコマのように回しながら糸を巻き付けていった。

「不躾なことを申すようではあるが、叢雲、そなたが悪かろうぞ」

「やはりか」

 予想していたとはいえ、言葉にされると辛い。叢雲が目元をしかめると、八重姫は指の間で糸を捻った。

「わらわはいずれ糸丸を連れて本条城に赴き、久勝の妻となる身の上。それ故、あまり遠い話でもなかろう。それら を踏まえて再考してみたが、夫婦というものは連れ合いぞ。支え合わねばならぬ」

「道理である」

 と、叢雲は頷く代わりに一度瞬きをしてから、ふと疑問に駆られた。

「しかし、鬼蜘蛛の姫よ。そなたは荒井の殿に見初められたのか? でなければ、契りを交わしたのか?」

「いや」

「ならば、なぜ妻となる身の上だと言い切るのであるか」

「解り切ったことよの。そう決まっておるからぞえ」

「はて」

 叢雲が首を捻ると、八重姫は頬を染めて着物の袖で顔を隠した。

「ええい、あまりわらわを困らすでないぞえ。ウワバミの分際で。わらわと久勝は若き日に幾度となく逢瀬を交わした ばかりか櫛を贈られたのぞえ、見初められておるのと同じことえ。故に、契りなど今更交わすこともなかろうぞ」

「はあ……」

 だが、荒井久勝は人間の女性との間に子供を設けているではないか。叢雲は八重姫の言い分が頭から尻尾まで おかしいとは思ったが、また針を投げ付けられては困るので口には出さなかった。確かに、叢雲も八重姫が人里に 下っては頻繁に誰かと会っていたことは知っている。その相手が若き日の荒井久勝なのだろうが、その後、八重姫 は荒井久勝の護衛である侍に斬られて手傷を負って帰ってきた。その日のこともよく覚えている。見目麗しい娘に 化けて薄化粧までしていた八重姫は、艶やかな着物ごと袈裟懸けに斬られて髪もざんばらになっていた。八つの目 からはらはらと涙を零し、泥と傷だらけの八本足をぎこちなく動かしながら八重山に戻ってきた。川面に沿って巨体 を浮かばせていた叢雲は、その様を横目に見、またどこぞの人間が呪い殺される、と漠然とした不安を抱いたが、 そんなことは起きる気配もなかった。それどころか、八重姫は山奥に籠もってしまった。それから数年が過ぎて再び 姿を現した八重姫は鬼蜘蛛の名に相応しい振る舞いに戻ったが、その一時だけは生娘のように弱々しかった。
 恐らく、荒井久勝から櫛を贈られたのはその出来事よりも少し前のことだろうが、叢雲からしてみればそれは久勝 が八重姫に仕掛けた罠だとしか思えなかった。鬼蜘蛛の姫の名と恐ろしさは本条藩には広く知れ渡っており、何度 か八重姫を討ち取らんと乗り込んできた侍もいたほどである。だが、それらはことごとく返り討ちに遭い、八重姫の 血肉と化した。本条藩と荒井家を継ぐ久勝ともあろう男が、その話を知らないわけがない。故に、久勝が八重姫に 櫛を贈ったのは嫁に取るという意味ではなく、単純に八重姫を油断させるための道具だったのではないだろうか。 事実、荒井久勝は侍を控えさせていた。そんな目に遭っても尚、久勝を愛する八重姫は一途というか愚直というか。 真相はそんなものだろうと思ったが、叢雲はそれを口には出さなかった。下手なことを言ったらどうなるか、考える までもないからである。八重姫は赤面した頬を隠しつつ、辿々しく尋ねてきた。

「叢雲や。そなたは久勝の欲するものを知らぬかえ」

「知るわけがなかろう」

 相談しに来たはずなのだが、と怪訝に思いつつ叢雲が返すと、八重姫は照れるあまりに俯いた。

「で、では、それを知る時があればわらわに教えてたもれ」

「何故」

「言うまでもなかろうに、喜ばせるためぞえ」

 ああ言ってしもうたえ、と八重姫はため息を零しながら両袖で顔を覆った。鬼蜘蛛の姫が心底久勝に惚れている のは今に始まったことではないが、目の当たりにすると正直言って面倒である。それ以前に、叢雲には荒井久勝の どこに惚れられるのかが解らなかった。荒井久勝は荒井家の当主であり、本条藩の藩主ではあるが、決して有能で あるとは言い難い男である。無能ではないが、民への気配りが足りていないのだ。先代藩主である荒井久崇は武将 としての才は一切なく、武術はからっきしだったが、その分良き藩主となって本条藩を盛り立てようという強い気概が あった。田畑を切り開き、農業用水を引かせ、民の話を良く聞き、家臣達だけではなく兵達とも通じ合って城ばかり か藩全体をまとめていた。だが、当代の久勝は久崇が生涯を掛けて築いた盤石な土壌を生かそうとしないばかりか、 持て余し気味ですらあるようだった。兵の動かし方も鈍く、手を回すのも後手後手だ。事の発端である蜂狩貞元 の一件にしてもそうであるが、荒ぶった叢雲が引き起こした地滑りで田畑や家が押し流された農民達に何の助けも 寄越していない。謀反者である赤城鷹之進の死体は早々に回収し、首を刎ねたというのに。
 八重姫の妄想が大多数を占めている久勝の話を聞き流しながら、叢雲はぐったりして体を横たえた。これでは、 何のためにわざわざ八重姫の元を尋ねたのか解らない。しかし、形だけでも聞いている格好を取っていなければ、 またも逆鱗に触れてしまうだろう。チヨの寝床に帰りたいと心の片隅で願っていたが、八重姫の話は夜空が白んで きても収まるところを知らず、とうとう夜が明けてしまった。
 恋い焦がれる女とは恐ろしいものである。




 夜も明けきらないうちに、叢雲は八重姫の住み処を抜け出した。
 正確には、起き出した糸丸に構い始めた八重姫の隙を衝いて、であるが。行きと同じように山中の木々と獣達に 道を開けてもらいながら、出来る限り早く這っていった。だが、そこは所詮蛇の紛い物に過ぎず、どれだけ急ごうとも なかなか目当ての場所に近付けなかった。そうこうしているうちに日が昇り切り、夜気が遠のいて暖かくなってきた。 となれば、チヨはもう起きているだろうし、仕事も始めているだろう。気の強い彼女のこと、こっぴどく叱られるに違い ない。思わず首を竦めてしまった叢雲は、湿った雑草の狭間で細長い体を身震いさせた。
 チヨの住み処である洞窟に戻ってきた叢雲は、そっと物陰から窺った。だが、土砂に潰されずに済んだかまどに 火は入っておらず、種火の煙すらも立ち上っていない。珍しいこともあるものだ、と思いながら目を動かしていくと、 寝床のムシロの上にチヨが座り込んでいた。目は開いているが表情が虚ろで、口も半開きだった。もしや彼女の魂が 肉体から抜け出しそうなのか、と叢雲は慌てながら近寄ろうとしたが、チヨは唇を結んで拳を固めた。

「いよっし!」

 チヨは勢い良く立ち上がるが、途端に膝を折ってまた座り込んだ。

「ダんメだぁ、出来っこねぇよう、おらがあんなこと出来るわけねぇよーう!」

 一括りにした髪を振り回しながら頭を揺すり、顔を覆う。その仕草は、先程の八重姫にどこか似ていた。

「だども、夫婦になるっつうのはそういうこったろ? そういうことせんと、おらは水神様のお嫁になれんろ?」

 良く見ると、泥だらけだったチヨの体は隅々まで清められていた。顔を覆っている手を外して襟元を開き、中を少し 覗いてみるが、すぐさま両手で塞いで突っ伏した。額をムシロに擦り付け、悲痛な声を上げる。

「こんなぺったんこな体じゃ、御開帳なんて出来っこねぇよう! 八重姫様ぐれぇにどっばーんと出るもんが出てねぇ と、水神様だってその気になっちゃくれねぇよう! だから、昨日の夜中に出てってしもうたんだいや!」

 その言葉に叢雲はなんだか気まずくなり、身を伏せた。

「あー……考えたくねぇ、考えたくねぇよう。でも、やらんといかんろ? そういうことせんと、神様っちゅうもんは満足 してくれねぇって婆様が話してくれとったし。水神様だって爺様みたいな感じだども、お、男は男だいや。だすけんに、 おらがちゃーんと覚悟しとかんと、水神様を困らせっちまういや」

 チヨは余程恥ずかしいのか、普段は血の気が全くない顔に色味が差していた。羞恥心のやり場を失ったチヨは、 ムシロの上で何度かごろごろと転がった末に仰向けになり、左目のない眼窩を左手で覆った。

「だども、なんもしたくねぇってわけでも」

 その言葉に、叢雲は年甲斐もなく動揺した。契りを結んで夫婦になるのであれば、体を重ねるのは必然であると 知ってはいるのだが、これまでずっとチヨのことを娘か孫のように感じていたからである。よって、寝床を共にしても チヨに女を感じることはなく、寝顔を見守るだけで終わっていた。だが、これからはそうもいかない。きちんと手順を 踏んで夫婦となり、互いを支え合うために寄り添うようになったら、身も心も重ねることとなるのだ。
 憂いげにため息を零したチヨは、乱れた前髪を掻き上げて喉を反らした。そこに子供っぽさはなく、反らされた喉 はぎくりとするほど悩ましかった。無造作に投げ出された日に焼けた足は細いが、根本に向かうに連れて肉付きが 良くなっている。誰の目もないのを良いことに綻びかけている裾の奥は薄暗く、見えそうで見えない。
 叢雲はチヨの裾から目を逸らし、身を引こうとした。洞窟に戻るのは、チヨの気分が落ち着いてからの方が良いと 判断したからである。だが、そう上手くはいかなかった。叢雲の動揺が如実に川に伝わっていたらしく、泥混じりの 流水が前触れもなく波打って溢れ出し、洞窟の前まで流れ込んできた。チヨのいる場所には流れなかったものの、 当の本人である叢雲に被害が及んだ。雑草が薙ぎ払われると自分自身も流されてしまい、少し浮かんだかと思うと 引き波によって洞窟の前に引き摺り出された。釣り上げられた魚のように身悶えする叢雲を見た途端、チヨは言葉を 失って口を何度か開閉させた後、弾かれるように逃げ出した。

「これ、待たぬか!」

 なんとか上下を元に戻した叢雲が制止するが、チヨは悲鳴を上げながら走り去っていった。

「おら、もう生きてけねぇよーう! 死んどるけども!」

「忙しい娘だ……」

 その場に取り残された叢雲は、尻尾の先でツノの根元を引っ掻いた。怒ったかと思えば恥じらい、恥じらっていた かと思えば混乱し、挙げ句に逃げ出してしまうとは。追い掛けてやりたい気もするが、ほとぼりが冷めるまでチヨを 放っておくのも手であろう。しかし、それでは夫となる男に相応しくないのでは。だが、あまりしつこいのも。
 考え込みそうになった叢雲は、はたと気付いた。そういえば、昨日もそんな具合に考え込んだ末に、チヨの機嫌を 損ねてしまったではないか。また同じことを繰り返すつもりなのか。反応が面白いからと弄ぶつもりなのか。

「いや、そのようなつもりでは」

 と、自分で自分に言い訳してから、叢雲は歯噛みした。

「我は報いたいのだ」

 一つ目入道の丹厳に常軌を逸した情を寄せられ、絶望に身を浸されながらも、一抹の救いを求めて叢雲を頑なに 信じ抜いてくれたチヨに。平坦な時間を空虚にやり過ごしていただけの叢雲に、程良い刺激と楽しさを与えてくれる 娘に。濁龍と化しても尚叢雲を慕い続けてくれたばかりか、己の恐怖と戦って丹厳に立ち向かうほどに強い心根を 持つ、いずれ妻となる彼女に。だが、現実にはどうだ。報いるどころか、困らせてばかりいる。

「我が礎たる者共よ」

 決意を腹に据えた叢雲は鎌首を反らし、神通力を込めた言霊を発した。

「その身に宿りし水と御魂を、我に分け与えよ」

 束の間、通り雨が降る。だが、空には暗雲は立ち込めてはいない。木々の葉の裏や、根に溜まった朝露や、雑草 の根元にほんの少しだけ丸まっている水滴が浮かび、集い、山の主たる水神に注いだからである。それらは彼らが 生まれ持った僅かばかりの神通力を含んでおり、叢雲の矮小な体を隈無く潤しては満たしていった。全力とは到底 言い難かったが、何も出来ない状態からは一歩踏み出せそうである。ウロコの隙間から水滴を一粒残さず吸収した 叢雲は一対のヒゲを波打たせ、開眼した。妻となる娘の居所は、すぐに感じ取れた。
 氷室であった。





 


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