機動駐在コジロウ




毒を喰らわばサラリーまで



 吉岡グループの給料日は、一律で毎月末日である。
 給料日当日が土日である場合や企業側の都合によっては、給料日が前後する時もあるが末日が基準であること にはなんら変わりはない。だが、佐々木つばめ攻略作戦に携わっている面々は、攻略対象である佐々木つばめが 吉岡りんねに直談判を行ったために勤務時間が大いに変更されてしまい、それによって給料の合計額にも影響が 出た。ここ最近、りんねが自室に籠もっていたのは、五人のややこしい給料を計算し直すためだった。それは本来 部下がやるべきでは、と道子が申し出たのだが、りんねは全員の背後組織が違うので条件も賃金も手当も微妙に 異なっていて、それを吉岡グループ側の賃金体系に摺り合わせて計算しなければならないので、全員の背後関係 を把握している立場にある自分でなければ出来ない、と言い返されてしまった。
 そういった込み入った事情と、吉岡グループがカレンダー通りの連休に入っていたので、吉岡りんねの部下達が それぞれの給料を手にすることが出来たのは、連休も明けた五月最初の平日からだった。
 朝食の席で、りんねは皆に給料明細の入った封書を手渡した。給料自体は各人の口座に振り込みではあるが、 明細書を作っておくに越したことはないからだ。月額五十万近くの給料からは襲撃の際の必要経費が差っ引かれて いるらしく、武蔵野と道子は渋い顔をしていた。高守は必要経費は別口で落としているのか、それとも弐天逸流から の給料が破格だから必要経費を差っ引かれても痛くも痒くもないのか、ノーリアクションで明細書を見回していた。 吉岡一味に加わったばかりの岩龍には給料はまだ出ていないらしく、リビングを覗き込んで羨んでいた。

「んー?」

 ささやかな期待を抱きながら、伊織は窓付きの封筒を破って明細書を引っ張り出して広げ、目を丸めた。伊織が 事前に聞かされていたフジワラ製薬の賃金の、およそ半額しか振り込まれていなかった。その原因は、半額が経費 として掠め取られていたからだ。一瞬にして怒りが湧いた伊織は明細書を握り潰し、りんねに詰め寄る。

「おい、クソお嬢!」

「何か御不満ですか、伊織さん」

 りんねが涼やかに聞き返すと、伊織は明細書をりんねの鼻先に突き付ける。

「なんで俺の給料が半分なくなってんだよ、殺すぞ!?」

「あーそれ、説明してなかったの? この僕のこと」

 伊織の荒い言葉に応えたのは、りんねではなく、吹き抜けに面した二階の廊下にいる青年だった。赤と紫が螺旋 を描いているような気色悪い柄のフェイクレザーのジャケットに、鮮やかすぎるグリーンのタイトなジーンズを履いて いて、毒虫のようだった。フジワラ製薬の研究員でありヘビ怪人の能力を持つ男、羽部鏡一である。

「うお」

 あまりの服の趣味の悪さに武蔵野が一瞬臆すると、道子は半笑いになり、高守は目を逸らし、りんねですらも眉間 にシワを刻んだ。こんな服を売って販売するメーカーもメーカーではあるが、買って着る方も大概である。だが、羽部 自身はたまらなく格好良いファッションだと思っているのか、この上なく自慢げな顔をしていた。

「あーやべ、強烈すぎて何が言いたかったのか忘れた。死ね」

 笑いが込み上がってきた伊織が肩を揺すると、羽部はむっとした。

「いいかいクソお坊っちゃん、この僕が来たからにはもう失策など有り得ないんだよ。それなのになんだ、その態度。 今日付でフジワラ製薬の本社からこの部署に転勤になったんだ、この僕と一緒に働けることを栄光に思ったら?」

「本当なのか、お嬢?」

 羽部の服装と性格にげんなりしながら、武蔵野がりんねに真偽を問うと、りんねは平坦に返した。

「事実です。先日、フジワラ製薬から羽部鏡一さんを一味に加えてくれとの打診もありましたし、それ相応の対価も 払って頂きましたし、鏡一さんの能力自体は私も評価しています。ですので、採用いたしました。つばめさんを攻略 すべく設立された我が部署は一企業につき一人しか採用枠を設けておりませんが、鏡一さんは逃してしまうのは 惜しい人材だと判断して採用いたしました。ですが、原則的な採用枠は変更出来ませんので、お二方で一人分の 給料を支給するように手を回したのです」

「だからってぇーん……」

 あれはない、と言いたげに眉を下げた道子に、りんねは顔を向けた。

「……ぬぅ」

 高守でさえも文句を言いたくなったらしく、太い喉の奥からくぐもった呻きを漏らした。

「ということですので伊織さん、今後、伊織さんに支給される賃金の半額は鏡一さんの所有物となります。事後承諾に なってしまいますが、よろしいでしょうか」

 りんねが伊織に念を押すと、伊織は笑いを収めてから言い返した。但し、怒気は失せていた。

「よくねーし。てか、それってどういう理屈だよ。マジ意味不明なんだけど。つか死ね」

「クソお坊っちゃんに理屈を考えるだけの頭があったなんて意外だなぁ。学術的価値があるね。じゃ、説明しよう」

 ミュージカルスターのような気取った足取りで階段を下りながら、羽部は両手を広げた。気色悪いジャケットの下に 着ているシャツもまた輪を掛けて趣味が悪く、蛍光イエローで若干透けていた。それを見た途端、武蔵野も伊織に 続いて笑ってしまった。羽部は大きな肩を縮めて笑いを堪える武蔵野を睨んだが、無視して話し出した。

「この僕は年収一千万に値する学歴と才能を持ち合わせているんだ、フジワラ製薬にいてもまだまだのし上がれた だろうけど、そんな狭い世界に収まっている器じゃないんだよ、この僕は。いいかい、遺産を扱うための管理者権限 と遺産をコントロールする知能はまた別なんだよ。エンジンを掛けただけで事が解決するなら、ペーパードライバー だってF1レーサーになれるさ。遺産を保有する個人の理性と知性を使えばある程度は扱えなくもないけど、所詮は 凡人の浅知恵だ。クソお坊っちゃんだって巨大化するのがやっとじゃないか、短絡的すぎて吐き気がする」

 羽部はリビングまで下りてくると、右手を挙げた。人間の形をしていた手が透き通り、液状化する。

「だけどこの僕は違う、こういうことも出来るんだ。この前、単身で佐々木の小娘のところに乗り込んだ時にコジロウ にフォールされたけど、体を液状化させて退避したのさ。ちょっとしたコツが解れば造作もない。何せ液体だからね、 我らがフジワラ製薬が所有している遺産は。他の遺産にしたって、扱い方によっては何者にも勝る武器になるのさ。 でも、遺産を操るための技術を扱うには。それ相応の優れた知性と腕がなければ不可能だ。たとえ、佐々木つばめの 生体組織を手中に入れていてもね」

 羽部はジャケットのポケットから密封式のビニール袋を出し、その中に入れた十数本の髪の毛を掲げた。

「実際のところ、御嬢様はこの僕の才覚じゃなく、この僕が入手した佐々木つばめの生体組織が欲しいんだろ?  だけどね、それはこの僕が許さないよ。いくら御嬢様が僕に次いで優れているとしても、宝の持ち腐れだよ」

 その言葉に、伊織を除いた全員が反応した。ジャスカでの小競り合いで、羽部がつばめのツインテールを掴んだ 際に引き千切った髪の毛だ、と伊織はすぐに思い当たった。あの時は頭に血が上っていたせいでそんなことにまで 気が回らなかったが、羽部は伊織に散々殴打されていても本分は忘れていなかったらしい。意外にタフだ。

「この髪の毛一本でも、数十億の利益が見込めるほどの価値がある。それなのに、クソお坊っちゃんの給料の半分を 僕に寄越すだけなのかい? 随分としみったれているね、天下の吉岡グループなのに。笑っちゃうね」

 羽部がビニール袋をこれ見よがしに振ると、りんねは椅子を引いて立ち上がり、羽部に歩み寄る。

「そこまで仰るのでしたら、こちらにも考えがあります」

「何? この僕と戦おうっていうの? 生憎だけどね、この僕に勝てると思ってんの?」

 へらへらと笑う羽部に、りんねは道子を示した。

「戦いは戦いですが、戦闘ではありません。これから丸一日、道子さんの御料理を頂いてもらいます。それでも尚、 私達に口答え出来るほどの余力があるというのなら、そちらの言い値で報酬を差し上げるように契約書を変更して 差し上げましょう。それが御出来にならないのでしたら、私の提示した条件で雇用契約を続行して頂きます。それで よろしいですか、鏡一さん」

「何それ、どうってことないじゃん。いいよ、別に。受けて立とうじゃないの」

 勝利を確信して笑っている羽部を、武蔵野は全力で制止してやりたくなった。いかに味覚が鈍っている改造人間で あろうと、道子の見た目だけは綺麗だが恐ろしく不味い料理は不味いのだ。同じ改造人間の伊織も完食した試しは なく、武蔵野も咀嚼する前に水分で流し込んでいるほどだ。りんねは表情を変えずに平らげてはいるが、本心では 不味いと思っているから、こんな方法を選んだのだろう。

「あらやだぁーん、御嬢様ったらぁーん」

 道子は侮辱されたと思ったのか、媚びた仕草で頬を膨らませる。りんねはメイドに向き、目を細める。

「道子さん。毎日作って頂いている御料理は個性的で、他では決して味わえないものばかりです。ですが、鏡一さんは この別荘にいらしてからは日が浅いですし、道子さんの御料理に慣れておりませんので、この機会に道子さんの お味に慣れて頂こうと思った次第です」

 意訳すれば、お前の料理は拷問器具にもなるから有効活用してやる、という意味である。けれど、道子はりんね の言葉を物凄く好意的に解釈したらしく、きゃあーん、と歓声を上げながらキッチンに入っていった。では、これらは 全て鏡一さんが頂いて下さいね、とりんねは食卓に並ぶ五人分の朝食を示し、足早にリビングを出ていった。
 逃げたな、と武蔵野が確信すると、伊織も似たような感想を抱いたのか口角を歪ませていた。高守は気付いた頃 には姿が失せていて、気配すらなくなっていた。道子と羽部に絡まれて巻き込まれてはたまらないので、武蔵野は 適当な言い訳を付けて別荘から脱し、伊織も厄介事に関わる前に逃げ出した。人型重機である岩龍がとばっちりを 食うとは思いがたいが、二人のどちらかに八つ当たりされて破壊されては後が面倒なので、武蔵野は歩哨をする との名目で岩龍も別荘から連れ出してやった。
 羽部鏡一の運命やいかに。




 その頃。つばめは、心底げんなりしていた。
 火の入っていない囲炉裏を挟んで向かい合う形で座っているのは、法衣姿の寺坂善太郎である。しかし、今一つ 締まりに欠けるのは、襟が整いきっていないばかりか背を丸めて胡座を掻いているからだろう。鋭角なサングラス の下の目は嬉々としていて、お年玉をもらう直前の子供のような顔付きだ。実際、寺坂はそんな心境かもしれない が、つばめの心中には猛烈な吹雪が吹き荒れていた。

「御布施くれよ! 一千万!」

 寺坂が浮かれた調子で法外な料金を提示してくるのは、これが五度目だった。つばめは居心地の悪さのせいで、 せっかくのだし巻き卵の味が良く解らなかった。分校に持っていくお弁当にも入れてあるので、昼休みにでもちゃん と味わおうと思いながら、機械的に咀嚼した。つばめはコジロウを窺うが、コジロウはつばめを見返してきただけで 意見もしなければ寺坂を制止することもなかった。ということはつまり、前例があるのか。

「お爺ちゃんって、この爛れた生臭坊主にそんなに御布施を払っていたの?」

 つばめが寺坂の態度に呆れながら尋ねると、コジロウは答えた。

「そうだ。過去の寄付金とその額は、寺坂住職が所有している台帳に記載されている」

「嫌だよ、そんなの。払いたくない」

 つばめが突っぱねると、寺坂は拗ねた。

「払えよぉー。俺がどれだけお前の爺さんに貢献してやったと思ってんだよー、これでも妥協した額なんだぞー」

 これでは住職ではなくタチの悪いチンピラである。寺坂の戯言を一切合切無視して朝食を食べ終えたつばめは、 汁椀と茶碗を重ね、皿と箸と共に盆に移して台所に運んでいった。すると、台所脇の勝手口が開き、一乗寺が 不躾に上がり込んできた。寝起きらしく髪が乱れていて、ジャージの襟も裾も曲がっていた。

「あのさーつばめちゃん、学費くれよ。五十万ぐらいでいいから。先月末に請求するの、忘れてたの」

「はあ!? どういう内訳なんですか、それ!?」

 私立校でもそんな額の学費はない。つばめが面食らうと、居間のふすまが開いて美野里が現れた。こちらもまた 例によって寝起きではあったが、髪は整っていて部屋着に着替えているのでまともではあった。

「つばめちゃーん、相続税のことなんだけどねー」

 美野里がにこやかに納税額を印した書類を見せてきたので、つばめは萎えた。

「お姉ちゃんまでぇ……」

「御布施をもらわねぇと生活出来ねぇもん」

 寺坂は囲炉裏の傍で寝そべり、頬杖を付いている。一乗寺も勝手に居間に上がると、茶箪笥から湯飲みを出して 冷めた茶を注いで一息に呷った。どちらも我が物顔で寛いでいる。

「学費を納めてもらわないと運営出来ないもん」

「納税してもらわないといけないんだもん。でないと、つばめちゃんの脱税の片棒担ぐ羽目になっちゃうしぃ」

 申し訳なさそうなのは美野里だけで、二人は遠慮するどころか当然の権利だと言わんばかりに法外な金額を請求 してきた。とりあえず食器を洗い、水切りカゴに伏せてから、つばめは居間に振り返った。頼れるのはコジロウだけか、 と一抹の希望を抱いてコジロウと目を合わせると、コジロウは抑揚なく言った。

「つばめ。いずれの請求にも違法性は見受けられない、よって直ちに支払うべきだ」

「あんたもかあっ!」

 最後の希望すら砕けてしまい、つばめは絶叫した。ううう、とへたり込んだつばめを、美野里が慰めた。

「大丈夫よつばめちゃん、相続税は一度納めちゃえば請求されないから! すぐに払わないとペナルティが掛かって 余分な税金も払わなきゃならなくなるから、早い方が良いわ! 二十億以上の遺産を相続した場合は七割も毟り 取られるけどね!」

「七割ぃ? ってことはつまりあれでしょ、百億を相続したら七十億は持って行かれるってことでしょ?」

 あまりの金額につばめが泣きそうになると、美野里は気まずげではあったが頷いた。

「そういうことね。でも、大したことないわよ。長光さんの遺産の資産価値は単純計算で五千億強だったから、その内の 七割なんて……七割なんて……三千五百億じゃないのよぉ……」

 美野里は徐々に笑顔が崩れ、涙目になると、打ちひしがれているつばめに縋り付いてきた。

「ああもう脱税させてあげたいっ! なんて可哀想なつばめちゃんっ!」

「何言ってんのさ、みのりん。犯罪を助長させないでよ、そんなことをしたら捜査で余計な税金を使っちゃうでしょ」

 一乗寺は呆れたが、寺坂は好色ににやけた。

「何言ってんだよ、美しい姉妹愛じゃねぇかよ。俺のみのりんは、寝起きだろうがノーメイクだろうが超絶可愛いぜ。 これまで散々世話になってきたんだ、脱税の一つや二つさせてやれよ、なあ一乗寺?」

「そんなことしたら、マルサが立ち入ってきて面倒になっちゃうだろ。はい却下ー」

「じゃ、どうすんだよ。三千五百億も政府に持って行かれちまったら、俺達の取り分も減るだろ?」

「それはそうかもしれないし、つばめちゃんの財産が減るのは俺もすんごぉーく残念だけど、税金なんだから普通に 払ってもらうっきゃないでしょ、それが道理。世の中のルール。国民の義務。正直、俺だって脱税したいんだけどね、 一応公務員だから。下手なことしてクビになっちゃったら、ドンパチ出来なくなっちゃうもーん」

 一乗寺は台所に踏み入ってきて冷蔵庫を開けると、昨日の夕食の残りである肉団子を取り出した。それは美野里の お弁当のおかずにもなるので食べられてしまうと困るので、つばめは一乗寺の魔の手から肉団子の入った器を 取り返し、冷蔵庫を閉めてから教師を睨み付けた。勝手口から入ってきたばかりか冷蔵庫を開け、家の主の許可も 得ずにおかずを食べようとする人間に社会の道理を説いてもらいたくはない。
 冷蔵庫にもたれかかり、つばめはしばらく考え込んだ。三人と一体はつばめを注視していて、御布施を、学費を、 税金を支払ってくれるのを今か今かと待っている。コジロウを見やるが、コジロウは無反応だった。小倉美月と友達 になったつばめの気持ちを重んじてくれたような言動は取ってくれないものか、と思わないでもないが、都合の良い ことが続かないのが世の常だ。だが、三千五百億円もの税金を払うのは躊躇してしまう。三千五百円でも大金だと 思えるような金銭感覚しか持ち合わせていない人間にとっては、身を切るような決断を迫られる話だ。
 考えに考えた末、つばめは勝手口から逃げ出した。





 


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