機動駐在コジロウ




佐々木家の一族



 翌朝。ホテルの駐車場には、図体のでかいピックアップトラックが停まっていた。
 圧迫感すら覚えるほど巨大で、隣に駐車されている美野里の軽自動車と比べると二回り以上も大きかった。ヘッド のGMCのロゴが眩しく、タイヤもとんでもなく太く、正にアメリカンサイズである。つばめが呆気に取られながら車を 見上げていると、美野里がキーによる遠隔操作でロックを開け、運転席に乗り込んだ。右ハンドルなのは日本仕様 だからだろう。イグニッションキーを差し込んで回すと、車体のサイズに相応しい猛々しい唸りが迸った。

「さ、乗って乗って」

 美野里はつばめを急かしてきたので、つばめはドアの下のステップに足を掛けてよじ登り、助手席のドアを開けて 乗り込んだ。座席もまた大きく、つばめの体格では半分以上持て余してしまうほどだった。荷物を後部座席に置き、 荷台が見える窓に目をやると、そこにはあの金属製の棺が横たわっていた。

「あれって何? 通夜の時からずーっと気になっていたんだけど」

「あれも長光さんの遺産の一部よ。だから、彼はつばめちゃんの所有物なのよ」

「彼?」

「箱を開けてみれば解るって。期待してくれちゃってもいいわよ、もうすっごいんだから!」

「吸血鬼とかゾンビじゃないよね?」

 つばめが渋い顔をすると、美野里はハンドルを回しながら笑った。

「当たらずも遠からずってところね」

 徐々に車通りが増え始めた大通りに出た漆黒のピックアップトラックは、早朝のビル街には馴染まない排気音を 撒き散らしながら太いタイヤをアスファルトに噛み付けた。良くも悪くも人目を惹く車体は通勤途中のサラリーマンや 中高生の視線を奪い、それを運転しているのが喪服姿の女性だと解ると彼らは揃って目を丸くしていた。つばめには 彼らの気持ちが痛いほど解ったが、敢えて何も言わなかった。恐らく、あの金属製の棺を運ぶために馬力のある 車が必要だったのだろう。後輪はかなり沈んでいるし、ハンドルを切るたびに車体後部が振られてしまうのだから、 相当な重量がある。ワイヤーロープと荷締機で固定されている金属製の棺は車体が揺れるたびに上下したものの、 余程頑丈に蓋が閉めてあるのか、蓋が外れることもなければ中身が零れそうな気配もなかった。
 金属製の棺がやけに気に掛かってしまい、道中、つばめは何度となく振り返ってしまった。異変が起きていないと 知るとほっとする一方で、中身が何なのかが気になってきた。いっそ途中で開けてしまおうか、とも思ったが、開けた ところで手に負えない代物だったらどうしよう、とも思ったので、納骨を終えるまで我慢することにした。
 どうせ、あれもつばめの所有物なのだから。




 走り続けること、三時間半。
 都心を出たピックアップトラックは関越道から信越道に入り、中部地方へと向かっていった。通夜と葬儀の疲れに 負け、その間、つばめは熟睡していた。慣れない大型車を懸命に運転していた美野里からは、ちょっとだけ嫌味を 言われたが、ずっと忙しかったんだから仕方ないわよね、と苦笑された。
 高速道路を下りて県道に入ってからも、更に一時間以上も走り続けた。目的地が一体どこなのか見当も付かず、 行けば行くほど山が深くなっていくので、つばめは僅かばかり不安に駆られた。当の美野里は目的地周辺の地理に 詳しいわけではないらしく、頻繁に車を止めては地図を広げていた。山奥に入りすぎてしまうとカーナビもあまり役に 立たないようで、見当違いの場所で次の進行方向を示してばかりだったので、途中で電源を切られた。
 数回道に迷った末、一旦引き返すことにした。何度となく通り過ぎたドライブインに入った二人は、心底疲れ果てて いた。よろけるように食堂に入って、心身を休めた。車に揺られすぎて頭の芯までぐらぐらしているつばめは無言で クリームソーダを啜り、長時間の運転で疲労が限界に達していた美野里は、シンプルで煮干しのダシがよく効いた ラーメンとおにぎりを食べるだけ食べたらテーブルに突っ伏し、そのまま爆睡した。

「どこまで行けばいいのさぁ……」

 これ以上車に乗りたくない、けれど辿り着かなければ日が暮れる。悲壮感さえ感じながら、つばめは氷の上に少し 残ったアイスクリームを細長いスプーンで削り取ると、頬張った。ドライブインの薄汚れた磨りガラスの引き戸越しに 見える景色は、ただひたすらに山、山、山、たまに鉄塔、山、山、だ。民家の密集した集落も離れているのか、田畑 も見えない。今朝方までいた都心とは大違いだ。別世界だ。ここだけ時間が止まっているかのようだ。
 都心では春真っ直中で、至るところの桜並木が開花しているのだが、この山間部には冬が長逗留していた。道路や 日向は地面が露わになっているのだが、少しでも日が陰っている場所には山盛りの雪が溶け残っている。遠くに 見える越後山脈も真っ白で、桜前線がこの土地に到達するのはまだまだ先のようだった。
 ドライブインの食堂にしても、古臭いったらなかった。十数年前に施行された地デジ化によって完全に駆逐された かとばかり思っていたブラウン管のテレビが、歪みかけたカラーボックスの上に鎮座しているし、そのカラーボックス から零れ落ちている週刊少年漫画雑誌は二三年前のもので、とっくの昔に打ち切られた漫画が表紙を飾っている。 食堂と同じレジで会計する売店の片隅に詰んである戦隊ヒーローものの安価なオモチャも四五年前のものだった。 その手のマニアには垂涎物だろうが、生憎、つばめにはそんな趣味嗜好はない。毛羽立った畳が敷き詰められた 座敷席に、赤いビニールカバーが破れかけてスポンジが露出している丸椅子、読み込まれてよれよれになっている 地元新聞、厨房でタバコを蒸かしている中年の女性店主、ドライブインの外ではためく擦り切れたノボリ。そのどれを 取っても、昭和後期で時間が止まっているとしか思えない。

「ねえねえ、お連れさん、大丈夫?」

 声を掛けられ、つばめが顔を上げると、そこには黒い本革のライダースジャケットにジーンズにライダースブーツを 履いた長身の男が立っていた。彼もまたここで休息を取るらしく、熱々のラーメンが載った盆を抱えていた。

「あー、たぶん大丈夫です。てか、寝ているだけなんで」

 つばめが曖昧に答えると、男はつばめの背後のテーブルに付き、箸立てから割り箸を抜いて割った。

「あ、そう。んで、これからどこに行くつもりなの?」

「それ、ナンパですか」

「だとしたら、どうするよ? ん?」

 男が楽しげににんまりしたので、つばめは少しむっとした。

「全力でお断りします。私もお姉ちゃんも、これから行くところがあるんで」

「そっかそっかぁー、そりゃ残念」

 男は箸の先を振って茶化してから、ネギが多めの醤油ラーメンを啜り、言った。

「一応忠告しておくよ、引き返すなら今しかない」

「はい?」

 あの青年にも似たようなことを言われたような。つばめが聞き返すと、男は麺の湯気を吹きつつ、続ける。

「最後の最後だ、後戻り出来るのは今だけだ。遺産を一切合切放棄してあらゆる権利を政府に譲渡すれば、君はずっと 普通の女の子でいられるってことさ。これまで通りの居心地はちょっと悪いけど平均よりは裕福な生活も続けられる し、なんだったら政府の方で遺産を分割して独立資金を工面してやってもいいし、全く別の人間になるための手続き だってしてやらなくもない。何もなかったことにする、何も起きなかったことにする、何も知らなかったことにする、って いうことさ。でも、それが嫌なら……」

 そう言いかけて、男はラーメンの麺を啜った。話を途中ではぐらかさないでくれ、と抗議するためにつばめが腰を 浮かせると、ドライブインの駐車場に大型トレーラーが滑り込んできた。細く曲がりくねった山道を通るには向かない であろう大きさで、通常の駐車スペースを四つ半塞いでしまった。怪獣が威嚇するような鋭い排気音と共に蒸気が 噴出し、辺りを僅かに白ませる。マイクロバス程度はあろうかというコンテナには、吉岡グループのロゴがあった。

「彼女達と戦うまでさ。事と次第によっちゃ、手伝ってやらないでもないけど?」

 男は割り箸を振り、大型トレーラーを示した。大型トレーラーのコンテナが開くと、その中から現れたのは、やはり 制服姿の吉岡りんねだった。その傍らには、案の定奇妙な人々が控えている。にこにこしているメイドにタラップを 下ろしてもらい、駐車場まで下りたりんねは、ドライブインの引き戸を開けて入ってきた。

「ご休憩中のところ、失礼いたします」

 りんねはつばめに一礼し、鬱陶しげに男を睨め付けた後、姿勢を正した。

「佐々木つばめさん。今一度申し上げます、あなたが相続した遺産を私に譲渡して頂けませんでしょうか?」

「だから、なんで?」

 座敷席から下りてローファーを履いたつばめが詰め寄るが、りんねは動じない。近くで見ても、やはり美少女だ。

「お解りにならないのでしたら、具体的に説明いたしましょう。私は物心付いた頃から、吉岡グループの跡継ぎとして 英才教育を施されてまいりました。通常の勉学だけでなく、帝王学、経営学、経済学、心理学、株取引、買収、護身 のための武術など、数え上げれば切りがありません」

「だから?」

「少々不躾な語彙ではありますが、あなたのような世間知らずの小娘が大金を手にしたところで食い潰すだけだ、と 最初から申し上げているのです。遺産の真価も知り得ぬまま、成金の真似事をして身を滅ぼした末に野垂れ死ぬ のが関の山です。身の丈に合わない資産を得た者の末路は、得てしてそういうものなのです。それが嫌だとお思いに なられましたら、どうぞ私にお譲り下さい」

「嫌だ嫌だ、って……」

 先程も似たような言葉を、あのライダースジャケットの男から聞かされた。つばめが頬を引きつらせるが、りんねは 眉一つ動かさずにつばめを見据えている。氷の刃の如く、こちらの内側に痛みを伴って切り込んでくる。澄み切った 鳶色の瞳は底知れぬ知性が満ちていて、未来の権力者に相応しい逆らいがたい威圧感が宿っている。
 だが、それがどうした。なぜ、誰も彼もつばめが嫌だという結論を先に出しているのだ。こっちはまだ何も言っては いないし、意見だって出していないし、愚痴だって零していない。それなのに、どいつもこいつもつばめの真意を聞く 前から頭から決めて掛かってくる。それこそ、猛烈に嫌だ。

「だぁれが嫌だなんて言うかぁっ!」

 つばめは一歩踏み出し、声を張る。こうなったら、自分の意志を示してやるしかない。

「恵まれすぎて脳みそ腐ってんじゃないの、御嬢様! 私がいつ、どこで、誰に、遺産を継ぐのが嫌だなんて言った んだよ! 私はね、あんたと違って欲しいモノを容易く手に入れられたことなんて一度もないんだよ! 遺産が私の ものになったのが面白くないのは解るけど、遺言書にきっちり書いてあるんだから今更曲げられるものでもないし、 私は遺産を相続するって決めたんだ! 解ったなら帰れ、二度とツラを見せるな!」

 これまでの鬱憤を晴らすべく、つばめは威勢良く捲し立てた。軽く呼吸を弾ませているつばめに、りんねは初めて 表情を変えた。眉根をかすかに顰めただけだったが、それでも充分だった。

「そうですか。でしたら、こちらにも考えがあります」

 りんねはそう言い残し、ドライブインを出た。勝った、とつばめが余韻に打ち震えていると、りんねが大型トレーラー に戻ると同時にコンテナが開き始めた。りんねが快適に過ごすために備え付けられたであろう豪奢な家財道具の前 に、りんねが何者かを伴って立っていた。それはあの奇妙な人々の誰でもない、人間大のアリだった。全身を隈無く 分厚い外骨格に覆われ、頭部からは二本の触角が生え、一対の巨大なあぎとが生えていた。すらりと長い両手足 の先には大鎌のような爪が備わっていて、殺傷能力があるのは間違いないだろう。毒々しささえある赤黒い外骨格 は、まるで返り血を浴びたかのようだ。背筋がぞわりと逆立ち、げ、とつばめは声を潰した。
 
「何よぉ、騒がしい。女の子が汚い言葉を使っちゃいけませーん」

 目を擦りながら顔を上げた美野里に、つばめは慌てた。

「お姉ちゃん、お姉ちゃん、あれっ!」

「え、あっ!? いっ、いいから早く車に行きなさい、ロック外してあるから!」

 人智を外れた存在を見て一発で目が覚めた美野里は、ハンドバッグを抱えてハイヒールを突っ掛けた。つばめは ショルダーバッグを抱えてからドライブインの引き戸を開け、駆け出すと、人間大のアリがけたけたと笑った。

「なーお嬢、あいつ殺してよくね? な?」

「それでは元も子もありません、伊織さん。生け捕りにして頂けませんでしょうか」

「うわ、超ダッセ」

 人間大のアリが舌打ち混じりに言い捨てた声色に、つばめは聞き覚えがあった。通夜の晩、金属製の棺の上に 横たわっていた青年の声だ。あんなのが手下だったのか、でも昆虫怪人なんて現代社会にいたっけか、とつばめは 頭の隅で考えながらピックアップトラックに駆け寄っていったが、伊織と呼ばれた人間大のアリが跳躍した。赤黒い 放物線がアスファルトに突き刺さり、進行方向を塞がれたつばめは立ち止まった。伊織は尖端が鋭利に尖った肩を ぎしぎしと揺すりながら、黒曜石じみた複眼につばめを映し込んでくる。頭を不自然な角度で逸らしているのと、甲冑の 如く盛り上がっている胸郭から漏れ聞こえる上擦った笑い声のせいで、つばめは恐怖よりも先に生理的な嫌悪感 が募ってきた。外見も異常極まりないが、中身も正気とは言い難い。

「だぁから言ったじゃねぇかぁあああああっ!」

 伊織は長身を折り曲げるや否や、つばめの懐に突っ込んできた。直後、つばめは襟首を掴まれて放り投げられ、 束の間、空中を漂った。二三メートルは浮かび上がっているのだろう、アスファルトが遠く、ドライブインの雨どいに 溜まって腐葉土に変化しつつある枯れ葉がよく見えた。無重力のように上昇していた血流が下降を始め、このまま 地面に叩き付けられる、とつばめが臆した瞬間、今度はセーラーを掴まれた。おかげで頭蓋骨が砕けるのは免れた ものの、今度はセーラーとスカーフが首に食い込んでくる。セーラーを握り締めている手の主は伊織で、ぎちぎちと あぎとを開閉させながら、つばめに顔を寄せてくる。

「逃げんなら今だ、ってな」

「誰が、あんたらの言うことなんか」

 息も絶え絶えにつばめが抗議すると、伊織は触角を片方曲げる。

「そうそう、それだよ。逆らえよ、抗えよ、その方が面白くなるってもんだぁ!」

 伊織の腕が伸びきると、つばめはまたも投げ飛ばされる。が、今度は落下時間が短く、背中が鉄板に激突した。 脳天を貫いた凄まじい衝撃に気を失いかけながらも目を開くと、そこはピックアップトラックの荷台だった。度重なる 浮遊と衝撃で食べたばかりのものが戻ってきそうだったが、なんとか堪え、つばめは上体を起こそうとする。だが、 それより早く、軽々と跳躍した伊織がピックアップトラックの屋根に飛び降りてきた。怪物じみた四つん這いになった 伊織は、棘の付いた鎌のようなあぎとを開き、その尖端をつばめの首筋に据えてくる。

「いきなり首を飛ばす、ってぇのはつまんねーなぁ。ひゃはははははははぁ」

「う……」

 悔しいどころの話じゃない。こんな連中に、なぜ命までも狙われる羽目になる。理不尽だ、不可解だ、不条理だ、 デタラメだ。だが、痛みで体が上手く動かない。つばめが血が滲むほど唇を噛み締めていると、伊織はつばめの ショルダーバッグからはみ出ているパンダのぬいぐるみに目を付けた。右足の爪先でショルダーバッグを切り裂くと、 乱暴にパンダのぬいぐるみを引き摺り出した。つばめは青ざめ、奪い返そうとする。

「それだけはやめてぇ!」

「ガキ臭ぇんだよ、ああウッゼ!」

 伊織はパンダのぬいぐるみを放り投げると、荒々しく爪を振るった。つぶらな瞳で穏やかな微笑みを浮かべていた パンダのぬいぐるみは縦に真っ二つに切り裂かれ、綿と共に無数の紙切れが飛び散った。それはつばめが一人で 生きていくためには不可欠であろう書類の数々と、預金通帳と、実印と、現金の束だった。

「私の全財産ーっ!」

 腹の底から叫んだつばめは、猛烈な憤怒に駆られた。あの金を掻き集めるために苦労したのに。小学生相手に 色目を使う酔いどれの中年男に媚を売り、クラスからハブられるのを覚悟で流行りモノすら買わず、部活帰りにパンも ジュースもファストフードも買わず、欲しい服も我慢し、ただひたすら貯め込んできた七十八万円が。預金通帳の分も 合わせると九十九万八千五百十二円が、全て水の泡だ。
 怒りは突き抜けすぎて震えを呼び、つばめは尚更立ち上がれなくなった。あの現金がなければ、今後、どうやって 生きていくのだろう。現金という心の拠り所があったからこそ、りんねにも張り合えたし、気丈に振る舞えていたが、 それがただの紙切れと化した今では、つばめは果てしなく無力だ。季節外れの枯れ葉のように舞い降りてきた紙幣を 掴んだ伊織は、無造作に握り潰し、ぞんざいに投げ捨てた。
 終わりだ。始まる前に、何もかも潰えてしまうのだ。つばめは長年堪えていた涙が滲みそうになり、唇に血が滲む ほど強く噛み締めたが、意志に反して目尻から熱いものが零れ落ちてきた。伊織は圧倒的優位に立っていることを 見せつけるためなのか、わざと悠長につばめに近付いてくる。ピックアップトラックのサスペンションが上下し、タイヤ が潰れる。震える足を突っ張って後退ったが、つばめの背は金属製の棺に阻まれた。

「さっきまでの威勢はどうしたんだよ、おい?」

 ひゃっひゃっひゃっひゃ、と伊織は高笑いしながら、つばめの顎を爪で押し上げる。その際に爪先が首筋の皮膚 に掠め、一筋の血が溢れた。悲鳴すらも出せないほど怯え切ったつばめは、金属製の棺に縋った。他に縋るものも なければ、頼れるものもないからだ。これも祖父の遺産の一部だというのなら、どうか力になってくれ。こんなところで 死ぬのは嫌だ、せっかくの幸運を取り逃がすのも嫌だ、情けなく震えている自分が一番嫌だ。だから、せめてこの 遺産だけでも。つばめは、金属製の棺の蓋に印されている佐々木家の家紋、隅立四つ目結紋に触れた。

「管理者権限、認証完了」

 突如、誰でもない声がした。金属製の棺を戒めていたワイヤーが弾け飛び、その一本が伊織の外骨格に激突して 仰け反った。金属製の棺が開くと熱い蒸気が噴出し、傷だらけのつばめの肌を舐め、汚れた制服を翻す。蒸気の 中から立ち上がり、つばめを見下ろしてきたのは、吸血鬼でもゾンビでも人間でもないロボットだった。
 一目でつばめは心を奪われた。警察車両を思わせる白と黒のカラーリング、武骨でありながらスレンダーな体形、 両側頭部の太いアンテナの先で光り輝く赤いパトライト、両足から伸びる銀色のエキゾーストパイプ、平行四辺形の 赤い瞳が鮮烈な純白のマスクフェイス、銀色の拳。息をするのも忘れて見入っていると、警官ロボットはつばめに 手を差し伸べてきた。つばめが恐る恐る彼の大きく角張った手に自分の手を重ねると、彼の瞳が強く輝いた。

「マスター、個体識別名称の設定を」

「え、ええっと」

 つばめがしどろもどろになると、姿勢を戻した伊織が飛び掛かってきた。

「てめぇがあの木偶の坊かぁ、再起動しきる前にバラしてやらぁああああっ!」

「緊急回避行動!」

 警官ロボットはつばめの手を握ったまま横抱きにすると、ピックアップトラックの荷台を蹴り付け、跳躍した。続いて 伊織も跳躍してきたが、警官ロボットはスラスターを内蔵した足を振り上げて伊織の脳天に叩き付けた。妙な悲鳴 を上げてアスファルトに転げるも、伊織も恐ろしく頑丈なのか、すぐさま立ち上がった。警官ロボットはつばめを横抱き にしたまま後退し、伊織のぞんざいな攻撃を避けていく。

「クソッ垂れが!」

 ぎぢっ、と伊織は両足の爪でアスファルトを砕き、脚力を最大限に発揮して砲弾のように自身を放った。つばめが 思わず目を閉じて首を縮めると、警官ロボットは伊織に背を向けてつばめを庇った。車両同士の衝突事故にも匹敵 する恐るべき衝撃が訪れるが、警官ロボットはつばめを軽く浮かせてダメージを最小限にしていた。だが、彼自身に 及んだダメージはかなりのもので、背面部の外装が大きく歪んだ。姿勢を崩した警官ロボットがたたらを踏むと、 伊織は頭部を鷲掴みにしてきた。黒い爪の下で、みしりっ、とマスクにヒビが走って機械油が一筋零れる。

「このクソガキは殺すなってお嬢は言うが、てめぇは殺すなとは言われてねぇ。抵抗もしねぇ奴で遊ぶのは面白くも なんともねぇけど、血もハラワタもねぇのもつまんねーけど、退屈凌ぎにはなるかもしれねぇな!」

 頭部を覆う装甲の損傷が増えていく。つばめの頭上へと落ちてくる破片も徐々に大きくなっていく。制服の胸元に 滴ってくる機械油も次第に多くなっていく。このままでは、彼が死んでしまう。どうすればいい、彼は名前を付けてくれ と言っていた、でもどんな名前を。焦りに焦ったつばめは、駐車場の片隅に紙片にまみれて転がっているパンダの ぬいぐるみの残骸を見つけた。密かに、あのパンダのぬいぐるみに付けていた名前は。

「コジロウ!」

 警官ロボットの手をきつく握り締めながら、祈る思いでつばめは叫んだ。

「……個体識別名称、設定完了。全システム復旧、全機能回復、全動作可能」

 コジロウと名を与えられた警官ロボットは平坦に述べながら、顔を鷲掴みにしている伊織の手首を掴んだ。

「これより本官は、マスターの護衛を開始する」

 伊織の手首がねじ曲げられていき、関節の繋ぎ目が裂け、赤黒い体液が溢れた。ぎぃっ、と醜悪に喚いた伊織は 飛び跳ねて後退するが、傷めていない左手を掲げて身構える。戦意は衰えていないらしい。警官ロボット、もとい、 コジロウはつばめを立たせてやってから、伊織と正面から向き合った。伊織の複眼にコジロウの赤い瞳とパトライト の光が跳ね、伊織の笑い混じりの喘ぎとコジロウの吸排気音が重なる。
 人間大の軍隊アリ、伊織が鞭のように舞う。白と黒の警官ロボット、コジロウが拳を固めて迎え撃つ。コジロウの 最も重篤な破損箇所を狙っているのだろう、伊織は空中で身を反転させてコジロウの背後に回り込んでくる。頭部を 破損しているからか、コジロウの反応は一瞬遅かった。伊織の爪が繰り出され、コジロウの背部装甲に出来た細い 隙間から内部配線にねじ込まれるかと思われた、その瞬間。

「任務、完了」

 コジロウは下半身を捻り切り、回し蹴りを放った姿勢で言い切った。胸部に鉄塊を叩き付けられた伊織は呆気なく 吹き飛ばされ、りんねが控えている大型トレーラーの目の前に落下した。アスファルトに頭から突っ込んだ末に数回 横転した伊織は、りんねが立っているタラップに脇腹が激突してようやく止まった。赤黒い外骨格に付いた無数の傷 が痛々しく、触角は二本とも折れ曲がり、ねじ切れかけた右手首から血液に似た体液が流れていた。

「うひぇひぇひぇひぇ……あーいってぇ、マジいってーんだけど、あーくっそー、やべー」

 背中を引きつらせながら笑い転げる伊織を、りんねは冷ややかに見下ろした。

「伊織さん、起きて下さい。別荘に参りましょう。あれが起動したとなれば、体勢を立て直さなければなりません」

「んだよ、まだ終わりじゃねーし、これから本番だし?」

「御夕食、抜いてしまいますよ」

「……しゃーねぇなーぁ、もう」

 伊織は舌打ちする代わりにあぎとを打ち鳴らしながらタラップを這い上がり、コンテナの中に戻った。りんねは満身 創痍の伊織を一瞥してから、コジロウの背に守られているつばめを睨んできた。

「それが、あの遺産なのですね。ですが、伊織さんを倒した程度で御安心なさらぬよう。私はこの程度で諦めたりは いたしませんので。それではつばめさん、ごきげんよう」

 りんねが深々と頭を下げると、コンテナのハッチが閉まっていった。つばめはコジロウの太い腕を握り締めて体を 半分隠し、様子を窺っていると、りんねらの乗った大型トレーラーは去っていった。後に残されたのは大型トレーラーの 濃い排気と、伊織の生臭い血溜まりだけだった。車体の大きさに見合ったエンジン音が遠のいていくと、安堵した つばめは脱力し、座り込みそうになった。コジロウがすかさず支えてきたので、つばめは赤面して飛び退いた。

「えっあっそのぉっ、大丈夫だからぁっ」 

「しかし、マスター。頭部の体温の著しい上昇と興奮が見受けられるが」

「どっ、どうってことない! だから、気にしないでぇ!」

「だが、マスター。負傷している」

 コジロウはつばめに歩み寄ってきたので、つばめは更に後退って出来る限り距離を開けた。そうでもしないと息が 詰まって死んでしまいそうだった。背中の痛みよりも手足の擦り傷よりも何よりも、心臓が痛くてたまらない。まるで 今にも爆発しそうな手榴弾を埋め込まれたかのように、異物となって内臓を圧迫している。血液も沸騰したばかりの 熱湯のように煮え滾り、脳の働きを著しく鈍らせてくる。肺一杯に吸った空気から酸素が一切吸収されず、今度こそ 本当の目眩が起きた。コジロウを視界に収めていると、一層目眩がひどくなった。
 山からの吹き下ろしが細切れの紙幣を巻き上げ、高価な紙吹雪が駐車場を巡っていった。唇の傷口から流れた 微量の血が舌を汚し、生臭い戦闘の味が喉に広がる。つばめは浅く息を吸い、吐き、真新しい血を拭った。
 この血が次なる戦いを呼ぶのだと、本能的に確信した。




 


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