機動駐在コジロウ




百害あってイマジナリーなし



 ヴォーズトゥフとは何者なのか。
 心底恐ろしくなった道子は、両親にこれまでの経緯を話し、ヴォーズトゥフから来た大量のメールを見せた。最初 は訝しげではあったが、ヴォーズトゥフからのメールを開いて読み進めるに連れて両親の顔色が変わっていった。 何百通にも及ぶメールを読み終えた両親は険しい顔をして、誰も知らない場所へ行きなさい、と言ってきた。過去の 道子を知る人間が一人もおらず、桑原れんげとしての道子も知らない場所の当てなどどこにあるのだろうか。桑原 れんげは今や世界規模で知れ渡っている、架空の人格だ。あの魔法少女のネットゲームをプレイした人間ならば、 一度は見聞きしているだろう。たとえプレイヤーでなくとも、桑原れんげというキャラクターは最早独立して一人歩き を始めており、道子の想像が及ばないジャンルで弄ばれている。
 だから、桑原れんげに固執するヴォーズトゥフは必ず現れる。たとえ道子が道子を知らない土地に引っ越して息を 潜めて暮らし始めたとしても、きっとすぐに見つけ出すだろう。なぜなら、道子が桑原れんげだからだ。ゲームの中 で桑原れんげを綺麗さっぱり殺したとしても誰かの中では桑原れんげは生き続け、イラストとなり、自作フィギュアと なり、動画となり、進化していく。そして、それを執拗に追い続けるのが、ヴォーズトゥフなのだ。
 どこに逃げても見つけられる。架空の人格を求められる。理想を押し付けられる。元はと言えば、道子が空想の 末に生み出した理想の自分だったはずなのに、いつのまにか道子は桑原れんげに食い尽くされそうになっていた。 その恐怖のせいで、ようやく立ち直りかけていた道子は再び心が折れかけていた。それでも両親が見つけてくれた 場所へは辿り着こうと、他人の視線に怯えながら電車に乗り、リニア新幹線に乗り、遠くへと向かった。
 一ヶ谷駅でリニア新幹線を降りた道子は、目当ての場所に向かうためのバスに乗ろうと時刻表を見たが、バスが 来るのは二時間後だった。しかも、そのバスは目的地から何キロも離れた停留所が終点だった。バスを降りたら、 その後は延々と歩くしかなさそうだ。日が暮れる前に到着できればいいなあ、と思いながら、道子は地元住民達が 行き交う駅前のロータリーから駅ビルに戻ろうとすると、路線バスのものとは懸け離れたエンジン音がした。
 道子が思わず振り返ると、そこには目の覚めるような鮮烈な真紅のフェラーリが停まっていた。駅前を行き交う 人々も足を止め、田舎の市街地には不釣り合いな車を凝視している。運転席のドアが開き、派手な車の主が下りて きたが、その姿を見た途端、道子は先程とは別の意味で面食らった。サングラスを掛けた僧侶だったからだ。

「ヒュー! 今日もいい音してるぜぇ、V型八気筒はよー! 相変わらずセクスィーだぜぃ!」

 この手の人種と関わり合いになるべきではない、と道子が顔を背けると、その僧侶が手招きしてきた。

「おーい、そこのお嬢ちゃん。さっさと乗れよ。そのために峠をぶっ飛ばしてきたんじゃねぇかよ」

「……人違いだと思います」

 道子が小声で言い返すと、僧侶はにやりとした。

「俺はそうは思わねぇがな。な、そうだろ、設楽さんちのみっちゃん?」

 道子の名前を知っているということは。道子は僧侶の正体を悟ったが、警戒心は緩められなかった。それが顔に 出ていたのか、僧侶は法衣を引っ掛けている肩を竦めた。

「あんまり怖がるなって。俺のストライクゾーンはな、成人済みであることが第一条件なんだよ」

「で、でも……」

 道子が逃げ腰になると、僧侶は包帯を巻いた右手の親指で助手席を示してきた。

「いいから乗れよ、俺の愛車に。御両親から話は聞いている。でないと、あいつから一生逃げられないぜ?」

 その言葉に、道子は顔を上げた。逃げるためにここまで来たのに、逃がしてくれる相手から逃げてどうする。そう 思い直した道子は、躊躇いながらもフェラーリ・458の助手席に乗り込んだ。だが、スポーツカーなど生まれてこの 方乗ったこともなければ近付いたこともなかったので、シートのスレンダーさと車高の低さに驚いた。身軽に運転席 に身を沈めた僧侶はシートベルトを締め、道子にも締めさせると、嬉々としてエンジンを掛けた。
 ジェットコースターのようなドライブの後、到着したのが、浄法寺だった。




 道子が僧侶に事の次第を説明出来たのは、夕食後になってからだった。
 慣れない長旅でリニア新幹線に少し乗り物酔いをしていたところにフェラーリで振り回された結果、道子の乗り物 酔いが著しく悪化したせいだった。さすがに車中では戻さなかったものの、車を出てすぐに限界が訪れた。僧侶は 気まずげに道子の背中をさすり、俺が悪かったよ、と平謝りしてきた。道子は荷物も解かずに寝込んでしまったが、 一眠りすると気分は大分落ち着いてきた。空腹と共に食欲も戻ってきたので、食べられる物だけを胃に入れた。
 それから、道子は僧侶と向かい合って話をした。最初から話した方が理由と経緯が解りやすいだろうと思い、両親 の性格の潔癖さから始めることにしたせいで、随分と長くなってしまった。おかげで、話が一段落した頃には夜中に なっていて、窓の外では虫が大合唱していた。根気よく道子の話を聞いてくれていた僧侶は、懐から出した右手で顎を さすっていた。しばらく考えた後、口を開いた。

「俺、ネトゲってやらねぇからなー……」

 あの辛い日々に対する感想がそれか、と道子は苛立ちそうになったが、ぐっと堪えた。

「俺の専門ってさ、本来はあれだよ、弐天逸流の信者と支部を叩きのめすことなんだ。だから、みっちゃんみたいな タイプが来るのは初めてなんだ。寺なのに正義の味方ごっこしてんのかよー、ダセェー、とか思っても言うなよ、俺も よくよくそう思うんだから。ふと我に返る瞬間もいくらでもあるんだから。でも、まあ、新興宗教よりも悪いことじゃねぇ から仏さんだって許してくれるだろ、っていう希望的観測な」

 僧侶は冷めた緑茶を飲み干してから、包帯を巻き付けた右手で禿頭を押さえたので、片肌が脱げかけた。

「だが、なんとなーく想像は付いてきたぞ。あの爺さん、まーたろくでもねぇことやらかしやがって」

「何がどうなっているのか、知っているんですか?」

「これっぱかしな」

 そう言って、僧侶は右手の親指と人差し指を曲げて一センチ程度の隙間を作った。

「でも、それだけでも知っていると知っていないとじゃ大きな差があるんだ。敵を知り己を知れば百戦危うからず」

 中国の故事、と僧侶は付け加えてから、胡座を掻いていた足を伸ばした。

「これは俺の主観に過ぎないが、みっちゃんが言うところのヴォーズトゥフっていうストーカー野郎は、みっちゃんが 桑原れんげとして振る舞っている時にだけ動いていることから察するに、桑原れんげが持っていた何かの力の影響 を受けて作動するシステムだろう。でないと、メルアドを変えた途端にメールが届く説明が付かねぇ。もしかすると、 みっちゃんの個人情報をネトゲの運営会社から引っこ抜いてきて、その情報を使ってみっちゃんのパソコンを監視 するコンピューターウィルスでも仕込んだのかもしれねぇしな。キーボードに打ち込んだ内容がリアルタイムで他の パソコンに転送される、っつーのがあるらしいし。キーロガー、つったかな」

「ネトゲはしないって言ったのに、なんでそんなに詳しいんですか」

「あー、こんなん受け売りだよ受け売り。あのろくでもねぇ爺さんを監視するために政府が派遣してきた公務員がな、 俺が言うのもなんだけどとんでもねぇ野郎でよー。だから、俺の情報を自衛するだけでも一苦労なんだよ。おかげで 集めに集めたAV動画を詰めた外付けHDDを持って行かれて、キャバ嬢のメルアドと口紅がべったり付いた名刺も ほとんど盗まれて、行きつけのソープのポイントカードも……」

「え……」

 僧侶らしからぬ生臭さに道子が身を引くと、僧侶はむくれた。

「いいじゃねぇかよ、俺だって生き物だ。人間だ。色々と溜まりもするんだよ。で、相手をしてくれるケバい姉ちゃん達 は金が欲しくてああいう仕事をしてんだ、当然の権利じゃねぇかよ」

「帰っていいですか。なんていうか、ヴォーズトゥフよりもそっちの方が嫌になってきました」

 道子が真顔で言うと、僧侶は苦笑した。

「貞操観念、しっかりしてんなぁ」

「御住職が緩すぎるんだと思います」

「それは桑原れんげの設定に入っているのか? 鉄のパンツを履いていそうなガチな処女、ってのは」

 不意に、僧侶が口調を改めた。道子はそう言われて気付き、考えてみた。

「え、ええ、はい。そうですけど、でも、それは私がそういう性格だからであって、桑原れんげはその延長上で」

「本当にそうか?」

 僧侶はやや前のめりになり、道子に近付いてくる。道子は臆し、身を引く。

「だって、私は引きこもりっぱなしのひどい生活をしていたから、余計にそうなっちゃって」

「じゃ、これはなんだ?」

 僧侶は部屋の隅に放置されていた道子のボストンバッグを開き、その中から衣装を引っ張り出した。白いフリル と淡いピンクのリボンが付いたチューブトップに、パニエで大きく膨らんだミニスカート、付属品と思しき白い翼、天使 の輪を思わせるデザインのカチューシャ、大量のメイク道具。どれもこれも、道子の身に覚えのない荷物ではあった が、それが何の衣装であるかは一目で解った。神聖天使、桑原れんげだ。
 道子は声を失って震え出した。僧侶は無造作に衣装を放り捨ててから道子の元に戻ってきた。すっかり温くなった ポットの湯で薄い茶を淹れ直し、道子の茶碗に注いでから、僧侶も自分の茶碗に注いだ。

「こりゃ、いよいよ深刻だな」

「もしかして、リニア新幹線の中で……?」

 道子が泣きそうになると、僧侶は頷く。

「だろうな。誰だってトイレに立つだろうし、そのタイミングでやられたんだろう。透けないビニール袋に詰めて丸めて おけば案外目立たないもんだし、押し込めてカバンの蓋を閉めちまえばいいだけのことだ。だが、ここで疑問が発生 しやがる。なんで他の乗客は、それを咎めなかったんだ? 視線誘導なんて出来るもんじゃ……」

 いや待てよ、と僧侶は考え込み、道子に尋ねてきた。

「あのネトゲの親会社はどこだ?」

「ゲームの運営会社ですか? それだったら、フィフスっていう会社で」

「違う、その親会社だよ。えー、と」

 僧侶は懐から携帯電話を取り出すと、ホログラフィーモニターを展開して検索した。ほんの数秒で検索結果が表示 されると、僧侶は顔を引きつらせた。

「ハルノネットかよ。なるほど、携帯と通信インフラとサイボーグの会社ね。だったら、顧客の携帯に適当なメールを 送って視線を動かすのも簡単だよな。それがサイボーグであれば尚更だ。根深いかもなぁ」

「そんなに?」

「まあでも、なんとかなるだろ。気を抜かなきゃな」

「だけど、具体的にどうするんですか?」

 不安に駆られた道子に、僧侶は遂に諸肌を脱いで意味もなく上半身を曝した。筋肉質だった。

「桑原れんげからは懸け離れた暮らしをすりゃいいってことだ!」

「そんなことでいいんですか?」

 道子がますます不安に駆られるが、僧侶は根拠もなく自信に溢れていた。

「大体よー、桑原れんげのキャラが成り立っているのはみっちゃんがそれらしい感じだからじゃん? だから、それ を根っこから引っこ抜いて引き千切ってひっくり返してこねくり回すのさ。そうすりゃ、キャラ萌えなストーカー野郎は 萎えること間違いなしよ。だ、か、ら」

 僧侶は意味もなく胸を張り、だらしない法衣に似合わぬ屈強な肉体を見せつけた。

「やりたいように生きてみやがれ、みっちゃん」

 やたらと気合いの入った僧侶の笑顔に、道子は釣られるように頬を持ち上げてみた。それで良し、と念を押されると、 ほんの少しだが恐怖が薄れてきた。とりあえず一眠りしてこいよ、と促され、道子は荷物を抱えて割り当てられた部屋に 向かった。いつのまにか空は白んでいて、眩しい夜明けが訪れていた。
 畳敷きの六畳間に布団を敷き、その中に潜り込んで眠った。携帯電話で両親に無事到着したことを連絡しようと 思ったが、それをヴォーズトゥフに気付かれては元も子もないので、電源を切ってボストンバッグの底に押し込めておく ことにした。それ以降、道子は自分の携帯電話に触ることはなかった。
 丸一日眠ってから目覚めた道子は、一念発起した。切り揃えてはいたが肩に当たる程度に伸びていた髪を自力 でベリーショートに切り揃え、あの衣装を枯れ葉と共に燃やした。僧侶、寺坂善太郎が買い集めているハイスペック なスポーツカーの機能を調べてみたりもした。寺坂の蔵書を手当たり次第に読み漁り、それまでのアニメとゲームと 漫画だけで成立していた薄っぺらい価値観を鍛え上げた。ほとんどしたことがなかった料理にも挑戦したが、結局、 上手くいったのは卵料理ぐらいなものだった。そのうちに寺坂の自堕落さと寺全体の小汚さが鼻に突くようになった ので、朝早く起きて一日中動き回り、至るところを掃除した。忙しく働いていると体も引き締まってきて、簡単な運動 だけでは絞れなかった部分も絞れた。目の前にやることがあると、やるべきことが見つかると、活力が湧いた。
 だから、街に出かけたいと思うのは、ごく自然なことだった。それまでは、必要な生活物資は配達で済ませて いたのだが、一度しか目にしたことのない一ヶ谷市内に行ってみたくなった。けれど、寺坂は渋った。

「この辺一体は、色んな事情と思惑と利権が絡み合った結果、監視衛星がスルーしてくれる場所なんだよ。だから、 ハルノネットだろうが何だろうが、みっちゃんを見つけられないんだ。だが、一ヶ谷市内となるとそうじゃねぇ。いかに 田舎であろうとも監視カメラはいくつかあるし、ハルノネットの顧客が使っている携帯のカメラを遠隔操作されて映像を 捉えられたんじゃ、手の打ちようがないんだ。悪いが、諦めてくれよ」

「だけど、私は随分変わったから、ヴォーズトゥフも私のことはすぐに解らないと思うんです」

 道子はベリーショートにした髪を撫で付け、庭仕事で日に焼けた頬を手のひらで包んだ。

「そりゃまあ、そうだが……」

 寺坂の返事は歯切れが悪かったが、仕方ねぇ、と顔を上げた。

「じゃ、俺も付き合ってやるよ。但し、絶対に俺の傍を離れるなよ」

「わぁい、ありがとうございます!」

 道子が喜ぶと、寺坂は困り気味ではあったが笑い返してくれた。この三ヶ月間の同居生活で、寺坂と道子の関係 は家族と友人の間とも言うべきものに変わりつつあった。同じ空間で寝起きしていると、道子も寺坂の男の本能の 固まりのような趣味にも慣れてきた。スポーツカーやバイクを手当たり次第に買う金遣いの荒さと底なしの女好きに はまだ少し辟易するものの、それもまた彼の個性なのだと思えてきた。男女として対等に付き合うには向かない男 ではあるが、身近に接している分には楽しい相手だった。
 だから、いつしか道子は、寺坂に対して年上の従兄弟に向けるような感情を抱いていた。恋愛感情よりは遙かに 冷ややかで、家族愛にしては淡泊だが、なくてはならない人間だと思うようになった。ヴォーズトゥフが桑原れんげに 飽きて他の美少女キャラクターに興味を移し、道子が完全な自由を取り戻せる日が来たら、寺坂とは別れて家族と 暮らす日々が戻ってくるのだろう。それを想像するとほんの少し寂しくなるが、人として地に足を着けて生きていける 自信を得る機会を与えてくれた寺坂との関係は、そう簡単には断ち切れないだろう。だから、東京に帰っても、また 一ヶ谷市に戻ってきて寺坂に会いに来よう。その時は、車を運転出来るように免許を取っておこう。あのフェラーリで 送迎されるのはごめんだからだ。そんな未来が来るものだと、道子は漠然と信じていた。
 信じすぎていた。





 


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